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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第五話 首なし渓谷
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「待て!」


 突然呼び止められたのは、そろそろ雲上渓谷の霊域の境界線に差し掛かろうというそのときだった。背後の、それも頭上から降ってきたその声に俺は驚き、足を止める。

 霞がかった谷間一帯は陽の光が届かず、昼間だというのにぼんやりと薄暗い。目を凝らしてみてすぐ、軽やかな羽ばたきとともに閃く影を捉えた。

 それは、らしくないほど慌てふためき、真横から伸びていた枝先に留まろうとして一度失敗し、小さな翼を目一杯動かして体勢を整える。

 黒くて長い飾り羽を躍らせるその小鳥には、見覚えがあった。


「あ、三光鳥(サンコウチョウ)……」


 思わず漏らした言葉に、彼は億劫そうに反応する。「そうだ、私が、三光鳥だ」

 ぜいぜい、と。今にも喘鳴が聞こえそうなほど疲れ切った小鳥は、その小さな爪で枝穂をしっかり掴み、どうにか重心を落ち着かせたようだった。危なっかしく揺れる小枝に寄り、俺は鼻の上に皺を寄せる。

 三光鳥とは、未来を予知すると信じられる東大陸の霊鳥である。天帝の遣いとも呼ばれ、人を導く占術や呪術とも縁が深いらしい。

 俺は一年間の異世界生活の中で、この“言葉を話す三光鳥”と幾度か出会ったことがある。未来予知よろしく俺の将来への忠告をするため──頼んでもいないのに──度々現れるこの鳥には、複雑な気持ちを抱いている。

 信用していいのか分からない。確かに彼の“予言”が行き詰った事態を転じさせることは過去にあった。しかし彼の目的が読めない以上、頭から信用するのはまだ躊躇いがある。鳥の姿をしたものが人の言葉を話すという現象ですら、俺には受け入れ難いというのに。

 それにしても、いつもは気品高くつんと澄ましたこの“予言者”がこんなにも取り乱すなんて、一体何があったのだろう。


「皓輝、はあ、久し振りだな」


 確かに、と頷く。この三光鳥と対面するのは、去年の夏至以来である。月日にしておよそ十か月ぶりといったところか。


「お前、今まで一体どこに……」


「それよりも」俺の言葉を強く遮り、三光鳥は珍しく声を張り上げた。「間に合って良かった。危うく、取り返しのつかない惨事になるところだったぞ」


 え、と困惑の声を漏らす。惨事とはまた穏やかではない。俺は横目で周囲を窺い、再び視線を三光鳥に戻した。寒さのためか、或いは恐怖のためか、彼の羽は丸く膨らんでいる。


「ああ、お前は本当に何も知らずに雲上渓谷に入ろうとしたのだな。その先に何が待ち受けるのかも知らずに──」


「待ち受けるって、羊守のことか? それなら」


「違う。いや、それもあるが」俺と三光鳥は互いの言葉を待たず、途切れ途切れに会話した。要領を得ない彼の様子に、俺は不審を覚える。そして、次に放たれた言葉はなかなか衝撃的だった。


「皓輝。お前は騙されている」


「は」


「お前は、千伽に、唆されている!」


 声の反響を残し、空気が止まった。聞こえるのは馬の浅い鼻息と、どこからか響く水流のみ。俺は目を見開き、その言葉を飲み込むのにしばらくかかる。意味は分かったのだが、何故この鳥が俺と密約を交わした男の名を把握しているのかということの方が疑問だった。

 その質問を先取りするかのよう、三光鳥は前のめりになる。


「私を誰だと思っている。この三光鳥に知らないことなどないわ」


 さすがと言うべきか。全知全能を前面に押し出す姿勢は以前と何ら変わりない。その自信には安心感すら覚える。気がかりなのは、“騙されている”という断定だろうか。


「お前は、千伽に唆されて、それで白狐たちを追っているのだろう? 一体何と言われたのだ? 見返りは? それとも脅迫でもされたか?」


「全知全能の癖に質問してくるなんて珍しいな」


「煩い! 今はそれどころではない」


 ぴしゃりと封じられ、俺はむっと唇を結ぶ。

 同時に、今までもやのように形のなかった疑念が確信に変わった瞬間でもあった。どうやらこの三光鳥、全知を謳いながらやはり全ての事柄を把握している訳ではないらしい。妙に焦って憔悴している彼の言動には、あるはずのない人間らしさすら滲んでいる。

 あの三光鳥がわざわざ俺を助けるために来たのならば、今ここで歩みを止める理由には充分だった。そう、かつての俺であればそう信じただろう。

 しかし、今は少し違っていた。度重なる理不尽な悪意、不遇。ただでさえ得体のしれない予言者相手に、俺は疑心暗鬼になっていたのである。また騙されるのではないか、と。

 そんな俺の心を知っているのかいないのか、三光鳥はきっとした表情で俺を見下ろした。


「皓輝よ、千伽を絶対に信用するな。あれはこの国で最も危険で残酷な男だ」


「……知り合いなのか?」


「さてな。ただ、あの男は六十二年前の儲君争いで影家の狐と共に中枢にいた。これはこの国の朝廷内部を揺るがす問題。お前のような部外者が首を突っ込んでもいい話ではない」


 俺は俯くようにして頷いた。それは分かっている。この俺に、彼らの謎を解き明かす権利などない。だが、素っ気ない別れを告げられて抛り出されたこの身、宙ぶらりんになったこの気持ちをどうにかしたいと思うのは悪いことだろうか。

 それに今は、彼の命が懸かっているかもしれない。司旦は白狐さんの暗殺を目論んでいる可能性があるのだ。時間がない。

 俺は千伽と交わした密約のことを詳しく語ろうと、逡巡した口を閉ざす。何となく、この鳥に情報提供するのは気が引けた。疑心暗鬼は続いている。


「とにかく、お前が奴らの動向を気にする必要はない。決着はいずれ、神明ノ儀で決するだろう」


 神明ノ儀? そう訊き返したとき、三光鳥が一瞬静止したように見えたが、すぐに元の澄まし顔に戻った。俺は眉を顰める。


「神明ノ儀とは?」


「皇帝が神の意を窺う儀式のことだ。──真偽、正邪を占う神明裁判と言えば分かりやすいか?」


「つまり……」俺は慎重に訊ねる。「当今皇上は白狐さんを神の前で裁くつもりなのか?」


 然り、と三光鳥は頷く。「影家の狐ほどの貴人を裁くのに、たかが人如きでは役不足だ。天の裁きは絶対。皇帝か白狐か、どちらが正しいのかは神明裁判で決する」


 だから、お前が命を懸ける必要はないのだ、と。その口調はまるで、それ以上の追及を逃れようとするような響きがあった。

 とにもかくにも、この三光鳥は俺がこの件にかかわることをどうにかして阻止したいらしい。それほどまでに危険なことなのだろう。事情に詳しくない部外者にも、それくらいは予想がつく。

 しかし、それだけでは歩みを止める理由にはならない。何せ白狐さんの命が懸かっている。俺を突き動かすのはそれだけだった。千伽が俺の心に植え付けた焦燥感が、今も尚激しく燻っている。

 きっと助ける方法があると信じたかった。白狐さんの運命を彼に任せるほど、俺は千伽のことを信用していない。

 同時に、この俺に何ができるのだという無力感があった。少なくとも、千伽が俺に委ねたのは神明ノ儀とやらの前段階であり、影家の狐が都へ入ってからのことは介入を許されていない。俺にとって都は縁のない遠方の地であり、自分がそこへ行くなど見当もつかなかった。

 せめて、司旦の暗殺計画を阻止したい。そんな切羽詰まった思いすら、三光鳥は良しとしないのだろうか。


「ああ、そうだ」といきなり三光鳥が声音を高くしたので、俺は逡巡から醒める。


 面を上げれば思いの外目の前に小鳥の顔が迫っていた。枝から目一杯に身を乗り出し、そのまま転げ落ちるのではないかと心配になるほどに。


「話は変わるがな。皓輝、お前はもしかして“あれ”を持っているか?」


「あれ?」


「皇帝が七星(チーシィン)に託した書簡だ。翰林の紋のついた箱に入っていただろう。どこを探しても見つからなかったが、お前なら所在を知っているのではないか?」


 ああ……と曖昧に漏らした声は肯定と捉えられたのだろうか。三光鳥は目を光らせ、「寄越せ」とせっつく。


「……」


 確かに一連の事件の発端となったあの書状は、あれから処分するのも躊躇われたため、居心地悪く俺の懐の中に仕舞われている。生憎、漆塗りの書簡箱は火事で焼けてしまったようだが、手紙そのものは無事だった。

 俺は懐に手を突っ込み、しばらく探ってようやくあの書状を引っ張り出した。菊色の厚い紙は、今や俺の体温と湿気で少しよれている。それを目にした途端、三光鳥はますます丸い身体を前のめりにした。

 千伽め、ぬかったなとその碧色の嘴が呟くのを聞いた。


「それを寄越せ」


「何故だ」


 意味もなく渋れば、彼は刺々しい苛立ちを押し隠した声で凄んだ。「それは、お前のようなものが持っていて良いものではない」


 俺は口を開きかけ、しかしその違和感の正体を掴めずそのまま唇を結ぶ。いつになく気が立った様子の予言者を相手にどう振る舞うべきか分からない。以前の俺ならばそのまま差し出しただろうが、今はこの世の理不尽に揉まれ、慎重さの方が勝っている。

 一方で、手の平に乗るほどのサイズの小鳥がこの仰々しい書状をどうやって受け取るのだ、というのほほんとした疑問もあった。

 何にせよ、この書状を三光鳥に渡すことには気が進まない──あの冷静沈着な三光鳥が珍しく感情を露わにしていることが、俺の不信感を燻らせる。

 皇帝から影家の狐へ認められた、そしてその役割を果たしたはずの書状に一体どんな価値があるのか、これを手に入れることに予言者が熱を入れる理由は何なのか。見当もつかなかったが、今これを渡せばきっと何かが音を立てて崩れるような予感だけははっきりとあった。

 無言のまま、微かに首を左右に振る。俺はまるで大事なおもちゃを守る子供のような体勢で、菊色の紙を手元に寄せた。

 その瞬間に鋭くなった三光鳥の眼光を見て、俺は悟る。この鳥は力尽くでもこの書状を奪うだろう、と。彼の小さな黒い瞳は奥底に光を宿し、ともすれば殺気と言っても差し支えのない明確な敵意がちらりと垣間見えたのだ。


「皓輝、大人しくそれを寄越せ」


「い、嫌だ」声が上擦ったのは、自分の握り拳ほどの小柄な鳥に気圧されたからだ。「お前がこれを欲しがる理由を話せよ」


 僅かに、不自然な間があった。その後に「……白狐を助けるためだ」と付け加えられた彼の言葉を、俺はどうしても信じることが出来なかった。

 いや、きっと今の三光鳥の言葉を聞いた者は誰であれ嘘だと見抜けただろうだろう。それほど、彼の言動にはかつてない違和感があったのだ。俺はほとんど初めて、この三光鳥にはっきりと恐怖心を抱いた。


「嫌だ、断る」


「強情め、私に寄越せ。痛い目に遭いたくなければ──!?」


 押し問答は突然途切れた。俺は思わず一歩下がる。小枝の先に留まっていた三光鳥の姿を一瞬見失ったように思えたのだ。ただ目の前を掠めた残像は、俺の勘違いでなければ、こちらへ伸ばされた人の右手だった。

 ひ、と引き攣った声が出る。俺の代わりとばかりに、灰色の老馬が浅い息遣いを吐いて後方に逃げようとした。手綱がぐいっと引っ張られ、俺もよろめく。しかし視線は、自分の足元に釘付けだった。

 俺の靴先数センチ先、触れるほどの距離に人が倒れている。

 そう、それは確かに人だった。四肢があり、胴体があり、頭がある。まるで手品のように突如現れた──俯せになって、まさに正面から転倒した人間の如き体勢で「いてて」などと呻いている、その男。

 全く、見覚えがない。混乱する。その背には妖精の魔法の粉のようにきらきらとした光が舞い、徐々に薄れていく。俺ははくはくと酸素を求めて口を動かした。

 ──今、目の前で起こったことを簡単に説明するなら、こんなところだ。小鳥が人に変わった。そう、まるで魔法が解けたよう、あの胡散臭げな三光鳥が姿を転じた。

 翼は両腕に、嘴は唇に、夜空のような羽色は豊かな髪に変わり、その神秘的な現象にしては随分と無防備な体勢で湿った地面に這い蹲っている。


「お、おい」ほぼ脊髄反射で声をかける。大丈夫か? と。


 何か意図があったというよりは、彼の落下がかなり派手だったので思わず心配になったという方が近い。三光鳥──だった何者かは土に伏せ、悪態をつくばかりで応えない。

 恐らく、と俺は一周回って冷静に分析する。身体を目一杯前のめりにしたために、バランスを崩して枝から転げ落ちたのだろう。微笑ましくなるくらいの間抜けである。


「くそ、痛い……」


 その口から漏れた声は、間違いなくあの三光鳥のものだ。ようやく腕を使って上体を起こす。

 ちらり、垣間見えた顔立ちは思っていたよりも若かった。いや、若いというよりむしろ、その目鼻立ちは幼いといってもいい。か細く、儚く、まるで──そう、幽霊のような。

 鳥肌が立つ。彼の顔を見た途端、奇妙な感覚に襲われた。その幼気な面立ちに吸い込まれるような悪寒。彼の顔がぐにゃりと歪み、白く塗り潰されたかと思えば、再び元に戻った。

 はっと我に返る。俺は文字通りぽかんと口を開けたまま、彼が億劫そうに立ち上がるのを眺めていた。

 今のは、何だ。霧が見せた幻覚か……?

 二足直立してみれば小柄で、俺よりもずっと背丈が低い。何より不気味なことに彼の年齢が幾つなのか分からなかった。

 まるで長い年月を雨風に晒され、遂には顔が潰れた銅像のような──人間の発達段階のどこにも属さない不自然さ。色褪せた思い出の中の住民が、写真の中から抜け出てきたような唐突さが彼にはあった。


「お前……」何と声をかけてよいか分からず、俺は喉に突っかかった言葉を押し出す。「三光鳥か……?」


 我ながら、この問いかけは正しくないように思えた。彼は確かに先ほどまで三光鳥の姿を借りていたのだろうが、今は違う。今は、ただの人間だ。或いはネクロ・エグロか?


「畜生、最悪だ。霊域のせいで変化が解けたか」


「変化……?」己の声帯を震わせた声は、畏怖のようなものが籠っている。


 かつて目を離した隙に仔猫が青年になったのを見たことがあった。これも類似の現象なのか、俺には確証が持てない。

 ただ、彼は何らかの力で未来予知する鳥に化けていたらしい、という憶測だけが俺の脳裏で確信を帯びつつあった。

 そのときだった。俺が追及の声をかけようとした寸前、左腕がぐいと宙に浮く。何かと疑問に思う暇もなかった。身体が斜め後ろに傾き、倒れかける。咄嗟によろめいた足でバランスを取り──しかし、左腕に走る激痛でそれどころではない。


「うわっ!?」


 悲鳴が上擦る。目の前の三光鳥が大きく眼を見開いた、その表情が残像となって瞼に焼き付く。待て、と彼の口が慌てたように思えた。俺には応える余裕もないが。

 意識の向こうで、馬の荒い鼻息が聞こえる。四つの蹄が土を蹴り、左腕に手綱が食い込んだ。

 いきなり走り出した灰色の老馬を止める術が俺にはない。小柄とはいえ、荷を引くのに適した東大陸産の馬。下手に力を込めれば、冗談抜きでこちらの腕が引き千切れそうだった。


「待て……!」


 それは俺ではなく馬に言って欲しい。三光鳥の叫びを背後に聞きながら、俺は手首に絡まった手綱を解こうと必死である。身体は地面に引き摺られ、物凄いスピードで景色が視界の端に通り過ぎていった。

 馬の暴走に気取られている俺は、あの三光鳥が如何にも運動が苦手そうな足取りで追いかけてきて、こちらに手を伸ばしていることに気づかない。はっと顔をそちらに向けたとき、彼の手は菊色の手紙を掴んだところだった。

 寄越せ、と彼は言ったようだった。そこまで必死に、この書状を追い求める理由は何なのか──俺の脊髄は奇跡的な反応を見せる。咄嗟に紙を握り締めたことで、少なくとも全てを奪われる最悪の事態だけは避けたのだ。


 びり、と嫌な感触が指先に伝わる。破れた。しかし、それはほんの僅かな紙端だけ。書状の大半は俺の手に残ったまま、三光鳥だった男の姿が遠のいていく。

 後はもう分からなかった。俺は自身の左腕が千切れそうな痛みに思考を掻き乱され、靴先を凸凹の地面に取られ、信じられない速度で駆け出した馬に引き摺られていった。

 奇しくもあの男から逃げ出す格好になった偶然を心の隅に留めつつ、もう背後を振り返ることも出来ない。

 更に、脚を踏ん張って無理矢理止めようとしたのが災いした。足首を攣ったような酷い痛み。一瞬、足元の地面を失う。まずい、と思う間もなく勢いのままに通りすがりの岩にしこたま額をぶつけ──頭蓋が割れるような衝撃を最後に、目の前が真っ暗になった。




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