Ⅰ
梅の花が零れる頃、あと一息で春の季が来る。そんな三の月のこと。
孑宸皇国の政の中枢、朝廷では年の瀬からまことしやかに囁かれている、ある噂で持ちきりだった。
影家の狐が生きている。
発端は一体どこの誰であったのか。噂好きの官女から後宮たちの退屈しのぎ、やがては学士や官僚といった男どもの耳にも入り、今では都でそれを知らぬ者はいないと言う。
或る者は渋面をつくり、或る者は胸を膨らませ、下らない与太話だと一蹴する者もあれば、怨念につかれた亡霊だと畏れる者までいた。
真偽はともあれ、六十余年前に行方を晦ませた“影家の狐”というその人には、それぞれ思うところがあるのか、また時の皇帝の不甲斐ない政に辟易したか。
噂は、年が明けても尾を引いた。
そんな何かの予感に駆られた清虚の都の水面下にて。浮足立つ人々の目を掻い潜るよう、或る謀が動きだそうとしている。
***
夜明けを待つ刻。烏もまだ寝静まっていよう。やけに寒々しい薄暗がりの邸宅に、男がいた。
朝廷の門閥貴族というのは面子を重んじ、金にものを言わせて幾つもの離宮や庭を所有するのが常である。ここもそのひとつ。亡き先代が暇に飽かせて造らせた広大な庭園を、世継ぎであったこの男が譲り受けた。
道楽で建てたものだから、別邸はこぢんまりとして、僅かに反り上がった切妻の瓦屋根もどこか可愛らしい。
部屋の明かりは少なかった。──密会にはふさわしい闇である。
「首尾ようか」
男はどこか気怠く象牙の肘掛に身を委ねた。皇帝のそれには劣るものの、宮間の中央に据えられた玉座に悠々と凭れることが許されるのは貴人たる証である。
露わになった額は実に雄々しい。柳眉は優美で力強い弧を描き、猛禽の如き炯々とした黒目が、光の加減で気まぐれな紫に変じる。
魔性と畏れられるその双眸で、射貫く先には一人の軍人が跪いていた。
名は司旦。七星という隠密隊に属する軍人である。床の上に直に膝をつき、形ばかりではあるが恭しく平伏し、やや緊張気味に肩を強張らせていた。
常ならば奇抜で色彩鮮やかな着物ばかり好むこの派手者も、今日ばかりは白く簡素な宮廷服に甘んじ、奴隷生まれの屈辱の印を両耳に留め付けている。
「お陰様で」
どうにか頭をひとつ下げる。声が震えたのは決して寒さのためだけではないだろう。畏れか、或は高揚か。懐で温めていた書簡を差し出せば、目の前の男は満足げに口角を持ち上げた。
漆塗りに金箔の施された書簡箱。その右端には何千年と受け継がれてきた翰林院の正式な紋が彫り込まれている。皇帝のみが扱うことを許された判、国璽と同じそれが。
──正確には偽物なのだが、中身は正真正銘、皇帝のしたためた文が封じられていた。
司旦は面を上げ、男と目線を合わせて頷く。
宛て人は他でもない、専らの噂の渦中“影家の狐”その人だった。そしてこれを無事に送り届けるのが、此度、司旦及び七星に下された命であった。
寄越せ。魔性の双眸に威圧され、司旦は渋々手元の書簡を手渡す。その手紙には国家の礎を揺るがすほどの価値があるというのに、と内心では肝を潰しながら。
「何をするおつもりで?」
「しがない悪戯を」
享楽的に笑んだ男は冷や冷やする司旦には目もくれず、自身のスコノスを呼んだらしかった。
この書簡の封を解くことが出来るのは、宛て人である影家の狐をおいて他にいない。だから、箱そのものに細工をするのだ。それとなく控えめで、愉快で、誰が手を加えたのか一目で分かるような、そんな悪戯を。
そうして呆気なく、書簡箱は司旦に押し戻された。
「あとはてめえの本領。無事に長遐まで届けろ、司旦」
長遐──東大陸の西、夕省に連なる山岳一帯。この書簡の宛て人はそこにいると言う。
司旦は心得たよう、神妙な面持ちで頷いた。長遐の山岳には幾度となく足を運んだ覚えがあった。何を隠そう、司旦は例の噂が流れだすよりもずっと前に、影家の狐が長遐で生き延びていることを偶然にも知ったのである。
「夜が明けたら発ちます。長遐の山岳に着くのは早くても十四、五日後」
「ああ」男は背もたれに頭を預け、興味があるのかないのか冷めた目を向けた。「書簡を奴に渡してからは、計画通りに事を進めよ」
厳かにまつ毛を伏せ、司旦は「御心のままに」と一礼して見せる。
司旦は別段、この目の前の男に忠心を誓った覚えはなかった。高貴な方というのは何かと不便なようで、手足のように動かせる駒が欲しい、と。その男の願望を叶えることを建前に、司旦は今ここにいる。
ありていに言えば、捨て駒だった。
それで構わない。目的があるのだ。自分には自分の、この方にはこの方の。それが偶然一致したに過ぎない。
手の中の書簡に視線を落とす。これは罠だ。甘い言葉で誘い出し、目障りな影家の狐を今一度殺してしまおう、という。六十二年前に行方を晦ませたあの男を、今度こそ闇に葬ろうと──。
決意を固めたよう、司旦は折っていた膝を伸ばして立ち上がった。背筋をぴんと伸ばして顎を引いた姿は、下賤の身分に生まれたものにしてはそれなりに凛々しく、普段とはおよそかけ離れた真剣さに満ちていた。
「それでは、運が良ければまたお会いしましょう」
「健闘を祈る。その安い命、存分に振るえ」
男の嘲りのような励ましを背に、司旦は空笑いひとつでやり過ごす。踵を返し、「別に、あんたのためじゃないんですけどね」というぼやきは、夜明けの冷気にため息とともに吐き出された。