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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第五話 首なし渓谷
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 長旅には馬が必要だ。

 人の荷を負わせ、時には背に乗る。移動手段の乏しいこの文明世界で、馬は重要な動物だ。

 そのことは、かつて夏至祭のため涼省へ旅したときに思い知らされていた。特に野営するような過酷な旅で、人間が己で荷を背負って歩くのは無謀に等しい。無駄に体力を擦り減らすだけである。

 ひとつ問題があるとすれば、俺がスコノスという素性ゆえ動物に嫌われやすい体質であることだろうか。馬もその例外ではない。とはいえ、好き嫌いで判断できる状況でもなし、ここは動物嫌いを克服するため腹を括るほかないようだ。

 そうして千伽の扇を売った金を手にした俺は、さしあたり露店で腹を満たし、その足で山塑都に幾つもある馬方の中でも、それほど人目のつかない所を訪ねていた。

 以前翔と共に旅したときのよう、貸し馬に頼る手もあったが、それでは足がつく。悪意のある人間がどれだけいるかわからない地で、目立つのは極力避けたい。であれば、この旅に使う馬を一頭、己で購入するのが無難だろうと思った。

 思ったのだが。


「だから、あの馬は二佰六文だっつってるだろ!」


 赤ら顔の馬方が、覚束ない滑舌で怒鳴る。酒に酔っているのか、若い体つきの割に老けて見える。何故昼間から酔っぱらっているのだ、という疑問はさておき、俺たちの視線の先には、一頭の灰色の牝馬がいた。

 厩に繋がれたそれは、それほど毛並みが良くない。東大陸産の古い種らしく、走るのに適したしなやかな体躯というよりは、首が短くずんぐりむっくりといった愛嬌のある風貌だ。

 年老いているのだろう。ぼさぼさになった鬣には白いものが混じり、何やら疲れた顔つきでこちらを窺っていた。空っぽの飼い葉桶には雨水が溜まっている。


「そんな額、出せない」俺は両手を振る。


「てめえ、小僧。馬の相場も知らねえのか!」


 怒られても困る。俺が専ら気にしているのは、馬の市場価格よりも手持ちの金だ。

 それに、見るからに元気のなさそうな老馬である。千伽の扇を売った金、すなわち全財産のほとんどを今ここで使う訳にはいかない。

 俺はへどもどしながら適当に金のない旨を伝え、踵を返そうとする。すると、べらんべえ口調の馬方は途端に態度を変え、こちらの袖を掴んでは、じゃあ幾らなら買うんだとしつこく引き留めてきた。

 あの灰色の毛の馬は買い手がつかなくて特別安いのだとか、他のところはもっと高価だとか散々喚く馬方の若者を受け流しつつ、俺は薄々勘付いていた。

 恐らく、この男の言っていることは間違っていない。多少の誇張表現はあるのだろうが、あの馬がそれなりに安いのは事実。問題なのは、俺の手持ちである。

 馬を一頭買うのに三佰は少ない。要するに俺は、自分で思っていた以上に、鬼市子で安く吹っかけられていたのだ。ああ、あのとき短気を起こすのではなかった、と今更後悔しても遅い。“書聖の扇”はもう俺の手にはないのだから。


 結局、俺は灰色の老いた馬を買った。値切った末に二佰四文という金額で手を打ち、まるで売れ残った在庫を処分したかのようほくほくしている馬方に口止め料を払う気にもなれず、無言のまま馬方の厩を後にする。

 灰毛の老馬は疲れた足取りで俺の後をついてくる。その綱を引きつつ、またも詐欺に遭ったような屈辱を抱え、俺は旅支度を整えるため市へ向かう。

 着るもの、食べるもの、その他野宿に必要なもの。残りの金でどれだけ揃えられるだろうかと、後悔にも似た不安が俺の心をじわじわと翳らせた。




 ***




 山塑都を出たのは昼前だった。馬面の掲げられた門を抜け、人混みと雑踏の賑わいが背に遠ざかると、ようやく息を吸えたような心地になる。

 一年も山で過ごした世捨て人暮らしが染みついたのだろう。喧騒に満ちた都市は華やかで魅力的だが、人が多くて少し窮屈だ。俺は馬を引きつつ、外の空気を心地よく思った。

 体が軽いのは他でもない、地方都市の豊かさ、引いては物価の安さに助けられたためである。贅沢をしようと思えば幾らでも金が使えるし、節制しようと思えば幾らでもけちになれる。それが様々な身分の民が身を寄せ合う都市という空間なのだろう。それなりの食べ物と旅支度を整えた俺の手元には、まだ幾らか金が残っていた。

 頬を切るような風は冷たい。春一番とも呼ぶべき強い風が重たい雨雲を吹き飛ばし、空は抜けるように蒼かった。気温は低く、薄手の外套はまるで紙のように役に立ちそうもない。


 目指すは雲上渓谷。曰くありげな地へ赴く今日という日に、この晴天は吉か凶か。俺は首を窄め、老馬の蹄が傷つかないようゆっくり舗路を辿りつつ北へ向かった。

 山塑都の周辺は一面の水源に恵まれ、特に西や北を見回せば水田や豊かな湖沼が広がっている。ここ数日の雨で、花盛りの水芭蕉はすっかりずぶ濡れだ。白い花弁を露に濡らし、その陰には花神が潜んでいる。視線を投げかければ、ぱしゃんと水飛沫が散った。

 脇に伸びた小路に入り、人家も疎らな農村を横目にぬかるんだ坂道を下ってゆく。馬は大人しかったが、時折嫌がるように首を振って進行拒否するので、俺はその度に宥めようと四苦八苦しなければならなかった。

 どうやら、あまり調教されていない馬らしい。もしくはこの俺の共として歩くことに不満があるのか。何にせよ、かつて翔と涼省へ行った旅が遠く懐かしく、自分だけでは何一つ上手くいかないこの状況にやや疲労が募る。

 やはり馬は苦手だ──そんな思いが口を尽きそうになるのを堪え、代わりにため息をついた。


 うねるような泥の路を辿り、徐々に霧がかった渓流沿いの筋に足を踏み入れる。長い年月をかけて流水によって削られた地形は今や枯れかけ、以前は広かったであろう川幅は乾いた土が剥き出しになっている。

 辺りにそびえる険しい山々はむしろ切り立った崖と言った方が近い。段々になった棚上の岩場を滑り落ちる細滝が、冷たい水飛沫を跳ねさせていた。

 例の首なし渓谷がどこから始まるのか、俺には分からない。それが不安を募らせる。

 途中で幾度か路を失い、通りがかった人に雲上渓谷の行き方を尋ねたところ、怪訝そうな顔をする人や、無言のまま指差して立ち去る人がいた。

 後者は生きた人間ではなかったのかもしれないと、今更ながら思う。




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