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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第四話 宿の娘
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「何で付いてくるんだ?」


 東の彼方が仄かな紫色に明けつつある中、鬼市子から離れた路の脇で俺は振り返る。そこには何とも言えず戸惑ったような娘がいた。俺の口から吐き出された苛立ちに困惑しているようだった。

 よく見れば彼女は髪をひとつにまとめただけで、他はほとんど着の身着のままやって来たらしい。


「……」


 立ち止まって三度ほど大きく肩を揺らし、深呼吸をして落ち着きを取り戻す。明るくなってきた街並みが霧の中から徐々に浮かび、人の往来が見え始めた路に俺たちの影が向かい合った。


「どうして、あんな真似を……」声が掠れて続かない。右手に下げた三佰の銭が異様に重かった。


「き、気を悪くさせたならごめんなさい」彼女は肩を窄める。「あそこのおじさん、ちょっと、ひ、人をからかいすぎるところがあるから……」


 からかう? と俺は鸚鵡返しにする。どう見てもあれはからかいを通り越した揶揄だったし、ともすればよそ者に対する侮辱だった。商人たちの文化など知らないが、あれが客に対する態度なのかと、俺は脈絡なくぶつけられた悪意に驚き、苛立っていた。

 扇の価値の高さと俺の身なりの不一致が引き起こしたであろう嫌疑や嘲笑はある程度覚悟の上だったとはいえ──いや、俺が訊きたいのはそういうことではなく。


「どうして、俺を助けるような真似を?」


 じっと凝視すれば、彼女は意外にも怯むことなく俺の視線を受け止めた。そして俺はかなり無粋な問いをしたような気がしてやや後悔する。

 否、彼女の親切を男女間の好意と捉えるほど俺は自惚れてはいなかったが、何故彼女がわざわざ親切の度を越したような、俺の肩を持つ真似をした理由が分からないというのは事実だった。わざわざ朝早く起きて俺の行き先まで把握し、そこまで付いて来た、彼女の動機は何なのかと。

 娘は幾度か瞬きし、当惑した無垢な瞳をこちらに向ける。


「こ、困っているだれかを助けるのに、理由がいるの……?」


 実に純朴な疑問だった。あまりにそれが真っ直ぐ響いたために、途端に申し訳なくなって言葉を失う。彼女にそのような問いをさせたことでむしろ俺の疑心暗鬼が際立ち、たじろいでしまうほどだった。

 確かに俺は先程、彼女に助けられたのだが──いや、分からない。もし仮に彼女の介入が親切の空回りに終わったとしても、果たして俺は彼女を詰って無下にする権利があったのか。

 例えそこにどんな事情があれ、他人の好意を踏み躙ってもいい理由になるのか。


「──……」


 答えは、俺の口からは差し控えたかった。少なくとも今は。ただ今彼女に掛けるべき言葉は嫌疑ではないことだけは、疑いようのない事実だった。

 俺は改めて娘に向き直る。黒く濡れた瞳が、俺よりも頭ひとつ下の位置で瞬いていた。ずっしりと重量のあるはずの銭より、右腕の吉祥の紐の方がやけに重く感じる。


「あの、いや」唇を舐め、口籠る。「……さっきはありがとう。心底、助かった」


 低い声でぼそぼそ呟いた礼は、今度こそ彼女に届いたようだった。娘の顔がほっと安堵とともに明るくなるのを見て、複雑な心地になる。

 必ずしも好意に好意で返す必要はないが、悪意で返す必要もないのだ──。

 そんな当たり前のことを何故ここで明言するのかと言えば、この娘の言動がどこか光を彷彿とさせるからに他ならない。頼んでもいないのに助けようとする。時には度を越し、鬱陶しいほどの押しつけがましいその“親切”が。


 ふと、朝陽が昇ったのを告げる鐘楼の澄んだ音が、蒼天に響き渡った。何となしにそちらの方を振り仰ぎ、時間の経過を実感する。寒さで悴んだ身体が温かい食べ物を欲していた。

 俺たちが並び立つ通りでは人々が行き交い、朝の賑わいの様相を呈している。次々客を集める粥の屋台、肉や魚の惣菜を売る屋台──ここは海が遠いので川魚だろう。熱い饂飩を売る男が熱心に客引きをしている。蒸し籠から食欲をそそる匂いが漂ってきた。


「──じゃあ、俺はここで」


 ゆっくり息を吐き出し、俺は頷いてみせる。これ以上彼女を路上に留める理由はなかった。


「雲上渓谷へ行くの」


「ああ」


「……」


 娘は不安そうに胸の前で手を組み、しかし引き留めるための上手い理由が浮かばず別れを言いあぐねているようだった。昨晩の俺の切羽詰まった様子から、俺を止めるのは無理だと悟ったのかもしれない。

 彼女はやはり何も訊かなかった。何故俺が高名な書聖の扇を持っていたのか。何故雲上渓谷へと向かうのか。


「気を付けて」


 結局、彼女が俺に言ったのはたったそれだけだった。

 ああ、と遅れて応える。娘のささやかな一言に俺は何故だか元気づけられた。気遣ってくれる相手がいるというのは、それが誰であれ悪くないものだ。世捨て人の家を出たときからどうしようもない孤独と心細さに苛まれていただけに、俺は初めて緊張が緩んだ気分だった。

 そうして俺は名も知らぬ宿の娘と別れた。彼女との出会いはほんの偶然がもたらした、些細な出来事である。だから俺の胸に必要以上の感傷が残るはずもない。

 影を後ろに引いて去る俺の後ろ姿が見えなくなるまで、彼女はずっと路に立っていた。




 ***




 陽が昇る。山塑都の街並みは淡い朝陽の一筋に照らされ、地面にぼんやり影を傾けた。徐々に光の差してきた街路には活動を始めた人々が往来し、大きな通りでは朝市が立ち、その賑わいが風に乗って頬を撫でる。

 何の変哲もない都市の日常。日々繰り返される朝の光景。すれ違う子供たちが水蕗を売り歩き、家先に腰掛ける若い女が、古い歌を口ずさみながら小鳥に餌を撒く。黄土を固めた十字路をがらがらと馬車が横切った。


 娘は、喧騒を横目にとぼとぼと一人で歩いている。日雇いで働いていた若者を見送ったのはつい先ほどのこと。何となく憂鬱な気持ちで、母の待つ宿屋への帰路を辿る。

 帰ったらどんな大目玉を食らうことか。

 早朝こっそり男のために抜け出すなんてまるで駆け落ちのようだ、不道徳だと罵られるのは覚悟の上。非難されるのを分かって、頼まれてもいないのにあの若者に手を貸した。

 ただ、あの若者を放っておけなかった。それだけだ。お節介と言われようが身勝手と言われようが、どことなく行方知れずとなった兄に似たあの人の手助けになりたかった。あの人にとっては余計な世話だったかもしれないが。

 足取り重く街路を歩く娘は、後ろから迫る影に気付かない。数歩先に進んだところで、その何者かの違和感に薄ら寒いものを覚えるが、そのとき既に彼女は人気のない裏路地に引き摺りこまれた後だった。


「──!?」


 身動きが取れない。こちらの口元を覆う手は死人のように冷たく、悲鳴も出せなかった。目に見えるのは民家が壁を寄せ合う細い裏通りの景色だけ。薄汚れた灰色の路がやけに狭い。

 まるで生きた人ではないような──何者かが娘を背後から押さえ込んでいた。存外力が強く、呼吸もままならない。全ての力が足から抜けてしまいそうだった。


「動くな。殺すぞ」


 首筋のあたりに長い髪が垂れる。しかし、声から察するにそれは男らしい。噛みつくよう耳元に流し込まれた脅迫は、気弱な娘の抵抗を削ぐには充分すぎた。

 周囲に助けを求められそうな人はいない。裏路地の澱んだ空気が遠ざかっていく。


「あいつはどこへ行った?」


 あいつ? と、娘は怯えて見開いた瞳を辛うじて瞬かせる。心臓が潰れるように痛い。息ができない。顔の見えない声の主は異様に苛立っているようだった。


「皓輝だよ。あの蜥蜴目の餓鬼」


「……え、あ」


 恐ろしさで鈍った頭が、がくんと揺らされる。舌を噛みそうになる。男の指す名と先程の日雇い大工の若者が、かなり遅れて結びついた。確か、彼はそんな名前をしていたはずだ。


「う、雲上渓谷へ……」


 声が震え、涙が滲みそうだった。早くこの拘束状態から解放されたい一心で、娘はその地の名を口にする。罪悪感がちくりと胸を刺すが、一介の町娘が誰かを庇えるほどの意志の強さを持っているはずもなく、見知らぬ男に背後から襲われた衝撃にそれ以上何かを考えることは出来なかった。

 男は娘の答えに無言になる。力は緩まない。ただ何かを考え込んでいるようにほんの束の間息を詰め、やがてゆっくり吐き出した。


「そう、か」


 それが娘の耳にした最後の一言となった。骨が折れるような嫌な音が響き──それきりだった。

 何とも言えない空白の後、男は黙って両手を離す。どさり、と。塵の地面に倒れた娘は首が妙な方向に曲がり、もう動かない。


「……」


 沈黙が続いた。それは彼女にとっては永遠の沈黙だった。頸椎の折れた娘の死体に注がれた興味はほんの一瞬、男はすぐに視線を逸らす。その横顔は、死の苦痛を己から逸らそうとしているかのようでもあった。

 雲上渓谷、と。彼の囁いた独り言はやがてじわりと胸の苛立ちを生む。ぶつぶつ聞いたばかりの地名を繰り返し、嘆息し、小声で悪態をついた。その姿を見るものはいない。

 人気のない路地に、男の影が伸びていた。綺麗に梳かれた長い髪は、彼が動く度に毛先を荒ぶらせる。

 彼の胸中には皓輝のことがあり、雲上渓谷のことがあった。それは確かに心配に近い感情ではあったが、それ以上に皓輝をそこへ行くよう唆した男への苛立ちの方が勝っていた。


 皓輝が自ら雲上渓谷へ行くとは到底思えない。だとすると、奴の行動に何らかの指図を与えた男がいるのだ。そしてそれが誰なのか、もうおおよそ見当がついている。

 ──門閥貴族、朧家の千伽。かつて朝廷で“清心”を謳った派閥の生き残りである。影家の狐が失墜したことで瓦解した清心派。その一人であったあの男が、此度の騒動で影家復権を目論んでいることは想像に易い。

 こんなに早く手を回せるのは、千伽をおいて他にいない──。


 男は眉を顰める。皓輝を操り人形の如くあの男が糸で手繰っていることは分かるが、何故皓輝を駒として選んだのか見当がつかなかったからだ。

 手駒にするならばもっと使い勝手のいい連中がいたはず。なのに何故、あの無力で冴えない世捨て人に大役を任せたのか。何故行き先を雲上渓谷に指定したのか。

 千伽は聡明な男だ。意味もなく行動することは絶対にない。何か意図がある。それが分からない。先手を打たれたことが癪で、あの男がほくそ笑んでいる様が今にも浮かぶようだ。

 しかし、ここで愚痴を言ったところで仕方がない。これはまさに詰将棋。皓輝は駒。相手は既に数手先を打っている。うかうかしている内に王将の首を獲られては堪ったものではない。道筋は読めなくとも、本人が自覚していなくとも、皓輝は確実に王手へと進んでいる。


 まずは皓輝が渓谷へ足を踏み入れることを止めなくてはならなかった。そもそも、奴が生きて雲上渓谷を渡り切る確証もないではないか──。皓輝に死なれれば困るのはこちらの方である。


 男は着物についた埃を手で払い、舌打ち。身を翻し、途端にその姿を小鳥に転じて飛び立った。衣の裾が長い尾羽となって風に靡き、袖が羽搏きとなって軽やかに閃く。

 三光鳥が朝空の彼方へ消えた後、薄暗い路地にはまだぬくもりの残る娘の死体が無造作に転がっているだけだった。




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