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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第四話 宿の娘
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 都市の朝は早い。

 陽もまだ昇らぬ内に、街の目覚めを知らせる男が鉄の拍子を鳴らして練り歩き、人々を寝床から揺り起こす。カンカンと高く、細く、それでいて目覚まし時計のような執拗さで打ち鳴らされる拍子の音を聞くのも、これでもう三度目だ。

 空を見上げる。青みがかった灰色の雲が茫漠として広がり、都市の街並みに重たく垂れこめていた。太陽の気配はない。雨は数日ぶりに止んでいる。

 湿った空気を吸い、またいつ降り出してもおかしくない空模様の下、外套を羽織った俺はまだ人気のない街路を逃げるように歩いていた。吐き出す息は冷えていて、呼吸するたびに気管支が凍りつきそうである

 あの宿の娘と女主人に別れは告げなかった。告げる必要はないと思った。後ろ髪引かれるものはない。しかし何となく居心地の悪いものを覚え、俺の足は自然と早くなる。横町を曲がれば、宿の屋根はもう見えなくなった。


 俺がこんなにも早起きをしたのは、何も人目を避けるためだけではなかった。大きな都市では日の出前、街の十字路に衣服、書画、骨董などの市が立ち、これを鬼市子と呼ぶ。何だか不穏な呼び名だが、まだ暗いうちに市を開き、日の出とともにやめてしまうことに由来しているらしい。

 ようやくしつこい雨模様に僅かな隙が空いたこの日、山塑都では数日ぶりに鬼市子が立つ。例の餞別を売り払うのにはまたとない好機だ。

 いい加減日雇いの労働生活にも限界が見えつつあった俺としては、何としても千伽から受け取った扇を高値で売らねばならなかった。

 縦横に走る路には表通りに面して家々が軒を連ね、大きな街路を曲がれば横丁がある。道には民家が並び、水や粥などを商う早起きの振り売りが歩いていた。空の胃袋を宥めつつ、俺は都市の中央の市壁に近い東側、すなわち繁華街へと急ぐ。

 いわゆる銀行に相当する商売、高級な織物店、貴金属店、薬屋、香薬店、はたまた生活雑貨を売る露店。そんな様々な店が舗装路に沿って軒並み続いているのが東の繁華街だ。

 足を踏み入れれば、店開きの準備をする人々のざわめきでにわかに活気づいていた。日が昇れば街中が賑わいに埋め尽くされ、それが夜遅くまで続く。都市での喧騒に満ちた空気は情景こそ大きく違えども、かつての俺が暮らしていた人間の世界を彷彿とさせる雑多な好ましさがある。


 鬼市子は繁華街の先にあった。

 聞いていた通り交差する十字路の中央から道沿いに立った市は、店構えなど簡素なもので、各々が床几と机を地面に置いて商いをしている。扱うものの多くは美術品、骨董。いわば買回り品と呼ばれる比較的高価なものばかりだ。

 都市が栄えて人々が裕福になれば、上層階級に独占されていた様々な絵画、書画、そのほか芸術的価値のあるものも、彼らの手に届く身近な商品となる。このような市が不定期ながら立つのは、都市の民が豊かであるひとつの証であろう。


 俺は足の速度を緩め、夜明け前の静謐に霞む鬼市子を見回した。なるほど確かに幽霊という名を冠するだけあって、朝の光が届けばたちどころに消えてしまいそうな佇まいである。

 客の姿は疎らで、商品を並べる商人たちが、遠目で棒立ちする俺の姿をちらちらと気にしていた。彼らとの取引など全く自信がなかったが、やるしかない。俺は唇を結び、緊張を気取られないよう出来るだけ堂々と歩いた。

 敷物に整然と並べられた墨絵や彫刻、神像などを横目に、俺は書作品を多く揃えた店の前で足を止める。

 何故扇を売るのに書画の店を選ぶのか。それはこの二枚の扇は千伽自ら筆を執って書いた字に飾られているからだ。


「あの」


 渇いた喉から出した声は、思ったよりも掠れた。聞き取れなかったのか、店主は怪訝そうにこちらを見上げる。痩せて年を取り、大袈裟に言えば髑髏のように落ち窪んだ目をした男だった。


「扇を買いませんか。名筆の字が書いてある逸品なんです」


「ほお……」


 いきなり商談を持ちかけたことへの反応は、意外に薄い。店主はじろじろと俺の身なりを見て、それでも余計なことは言わず、俺が懐から取り出した二枚の扇を引っ手繰るようにして手元で広げた。たちまち、目を丸くする。

 正直、反応は予想以上だった。彼は驚愕の表情で二つの扇を交互に見比べ、顔色を青くしたり赤くしたりと忙しなく変え、やがては大声で周囲の商人を呼び集めては集団で目利きを始める騒ぎとなる。

 何だ何だ、と声がする。どこから寄ってきたのか、二つの扇を囲った人だかりは徐々に大きくなり、幽霊市と名高い鬼市子はその薄暗さに似合わない異様な興奮と熱気に包まれた。その注目の最中にいる俺は徐々に集まる周囲の野次馬に落ち着きのない気持ちになる。


 千伽の扇は竹の骨に白い無地の紙を貼っただけの簡素な安物で、それ自体に芸術的価値はない。

 ただ、そこに書かれた文字がすごかった。千伽自ら筆を執って滑らせた途端、まるで魔法のような鮮やかさで四つの漢字が浮かび、ただの墨汁で書かれたものとは思えない艶やかさと高貴さを扇に纏わせた。

 これが書の美しさなのかと俺は生まれて初めて芸術に対して感動を覚えたのだが、疑念が拭えなかったのも事実だ。千伽のあの魔性に誑かされ、俺にしか見えない幻術でもかけられたのではないか、と。

 そんな千伽へ抱いていた半信半疑は見事に塗り替えられた。俺は伏目がちに周囲を見回し、そう確信する。この拙い審美眼もたまにはまともに機能するらしい。

 鬼市子の商人たちが口々に言い合っているのが聞こえた。俺これ知ってるぞ、いやそんなまさか。興奮、驚愕、猜疑、混乱。慎重になろうと手を広げる者、贋作だと冷めた目を向ける者。彼らの反応も様々だ。

 誰かが輪を離れ、また誰かを連れてきて──そんな調子で喧々諤々交わされる議論とも口論ともつかない争いは、既にみずぼらしい格好をした若者のことなど忘れたかのように思われた。

 この騒ぎ、どう収拾つけてくれよう。思ったより大きくなった騒動に俺は内心で焦りと戸惑いを覚えながら、どうすることも出来ず棒立ちするほかない。

 そのとき、あの骸骨のように痩せて大きな目をした商人が、二枚の扇を手に人混みを掻き分けているのが視界に入る。俺が初めに声を掛けた男だ。


「この盗人め!」


 そう罵られた言葉が己に向けられたものと気づくのに随分かかった。どこぞの不届き者が万引きでも働いたのかと暢気に周囲を見回していた俺は、胸倉を掴まれてようやく自分の立場を悟る。

 骨のように細い腕が、信じられないほどの剛力を呈した。襟首の絞まった俺は息も絶え絶えに抵抗を試みる。目の前の男の輪郭が歪んでいた。


「よもやこれは稀代の名筆、書聖の字ではないか! 貴様──貴様、これをどこから盗んだ!?」


 怒りで顔を真っ赤にして叫ぶ男の目は本気だった。書聖という名を耳に残しつつ、その浅黒い手を振り払おうと必死になる。

 盗んだのではなく貰ったものだ、なんて馬鹿正直に言えば更なる混乱を生むことは間違いない。襟元を締め上げられた苦しみに涙を滲ませ、俺は「家の納屋で、見つけたんです……」と途切れ途切れに訴えた。

 その嘆願にどれほどの効力があったのかは分からないが、さすがに憐れに思われたか、はたまた相手にもされなかったか、俺は乱暴に地面に投げ捨てられる。

 襟元を正し、よろめきながら起き上がった。油断すれば蹴りのひとつでも飛んできそうな殺伐とした雰囲気である。突き刺さるような彼らの視線はどれも冷たい。

 頭上で響く、商人同士の揉める声。誤解と感情に流された集団など、到底俺の手には負えない。どうやらあの扇は俺の審美眼で捉えた以上の価値があるようだ。


「違うんです──本当に」


 ざわめきに掻き消されないよう、俺は精一杯声を張り上げる。振り向いたのは数人。俺は彼らに向かって懸命に訴える。これが書聖の書だったなんて知らなかった。そもそも、書聖なんてものの存在を知らなかった──と。


「とぼけるつもりか、小僧!」


 まあまあ。怒声を宥める声がする。それでも俺に味方する者は少ない。俺は頭を素早く回転させた。

 この状況を打破する方法を考えなければ──あの扇の価値が認められ、どう売却されるかによって今後の俺の命が懸かっているのだ。


「あ、ま、待って……!」


 そのとき、集団の間に割り込むようなか細い声が人々を振り向かせた。俺も眉を上げる。

 輪の中心に転がり込んできたのは、何とあの宿の娘だった。

 髪も息も乱し、それでも目には強い光をたたえ、彼女は商人たちの視線を真っ向から受け止める。一瞬怯んだその背を押すよう、どこからか「臥天亭の嬢ちゃんじゃねえか」と親しみと怪訝の入り混じった声が飛んできた。彼女はその方向に向かってひとつ頷く。


「あの、この人、悪い人じゃないです」


 拙い言葉遣いで懸命に訴えるいたいけな少女の姿は、不本意ながら俺のものよりも遥かに説得力があった。商人たちが戸惑って顔を見合わせている。いや、一番困惑しているのは俺だ。

 何故彼女がここに。そして、何故俺を擁護するようなことを──その華奢な背に己が庇われていると気付いた俺は、ひとまず体勢を立て直す。

 そして彼女が、俺が自分の宿で働いていた日雇い大工であることと、盗みをするような人じゃないという説明をするのを見つめた。

 必死に紡がれる説得は、感情に流されつつあった大勢の心を確かに揺り動かしたようだった。何も言えない俺は口を閉ざしたまま、動向を見守る。宿の娘が商人たちにとって周知の一般人だっただけに、微妙な後味を残しつつも俺の盗みの疑いは晴れつつあった。

 腑に落ちないような、不服そうな顔をした痩せた商人は、改めてちらちらこちらを見やりながら目利きを始める。それは取引の持ちかけ方も知らない若者から如何に安くこの扇を買い叩くか算段している目線にほかならず、俺の胸を焦がす苛立ちは吐き気に変わっていった。

 その場に残る者も複数いたが、多くの野次馬は白けたようにばらばらと解けてどこかへと散っていく。信じてもらえたというより、興味が失せたと言った方が近い。娘は寄り添うよう俺の隣に立っている。


「二つ合わせて三佰ってとこだ。それ以上は出せん」


 店主が吐き捨てた金額は、俺にとって耳慣れない単位だった。つまり、日常で使うものとは遥かに桁が違う単位──具体的には日雇いの仕事で貰える賃金のおよそ二百倍といったところか。旅支度するにはまあまあの額である。

 無論、俺は書聖の真筆の相場がどの程度のものなのか知らない。恐らく軽蔑や冷笑を含んだ周囲の反応を見る限り、相手はかなり安くこちらに吹っかけてきたのだろう。落ち窪んだ彼の目がどろりと澱んだ色をこちらに向ける。


「何か文句でもあるのかね、野良犬」


「犬?」眉を顰める自分の声は低い。


「いや、すまない。口が滑った。つい」


 手を振って笑う商人。神経を逆撫でされるような屈辱を奥歯で押し殺す俺に、周りの見物人もくすくす嘲笑を零す。俺は何か言おうとして、やめた。

 ほんの一瞬だけ失いかけた理性をすぐに取り戻し、顔色を変えずに彼の提示した額を粛々と承諾する。正直なところ金の大きさなどもうどうでもよくなり、一秒でも早くこの場から立ち去りたかった。

 そもそも、俺とてこの扇を正当な手段で手に入れたとは言い難い。深く事情を突っ込まれると立場がまずくなるのはこちらの方で、ここは大人しく引き下がっておくのが賢明だろう。

 あの書が本物だったのか否かなんて最早俺には関係のないことだ。

 俺は周囲の“商いの作法に疎いカモ”へのせせら笑いに身を晒し、何も言わずに商人が提示したとおりの銭を受け取り、とっとと踵を返した。宿のあの娘も俺の後ろに続く。

 こちらを見送る鬼市子の気配を背に受け、俺は鳥肌が立つような心地だった。ひどく屈辱的な余韻が俺の足跡に点々と刻まれていくようだった。




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