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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第四話 宿の娘
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 雲上渓谷、通称“首なし渓谷”。

 夕省の地を南北に裂いた巨大な幽谷であり、東大陸における神域のひとつに数えられたそこは、皇国領内にありながら別の秩序を持った社会が密やかに形成されている。伝統的で閉鎖的な生活を営む、土着の民“羊守”の集落が。

 “羊守”とはその名の通り、牧羊を生業とする人々である。実は、この東大陸に羊という生き物はほとんど存在しない。ゆえに雲上渓谷でつくられる毛織物は陽国貿易にはもちろん、皇国内においても希少な高級品だった。

 ところが、この渓谷には昔から不吉な言い伝えがある。雲上渓谷に足を踏み入れた人間は二度と帰らず、首のない死体となって見つかる、と──。

 羊を盗もうとした不届き者、肝試しに足を踏み入れた少年たち、道に迷った異郷の旅人。老若男女問わず首を失い、胴体に手足を残すのみとなった死体が年に幾つも下流の川底に流れつくのだという。

 そんな猟奇的事件が相次ぎ、ついたあだ名は“首なし渓谷”。毛織物の材料である羊毛を皇国民に提供しながらも未だ得体の知れない“羊守”は、かつて皇国との戦に破れて落ち延びた異民族だとか、或は霊的、神的な何かだとか、色んな噂に尾ひれ背びれがついて周辺都市民から畏れられている。


 無知を装い娘からそう聞きだしたとき、俺は内心で頭を抱えたかった。雲上渓谷が霊域であることは知っていたが、まさかそれほどまでに曰くつきの地だったとは。少なくとも「ちょっと近道」程度の軽さで立ち入っていい場所ではない。

 千伽はこのことを知っていたのだろうか、いや、間違いなく知っていただろう。その上で、そこへ行けと俺を唆したのだ。

 頭が痛い。

 宿での仕事もそこそこに切り上げた夜更け、俺は悶々と滞って休まらない体を納屋の隅に横たえていた。

 目を瞑れば、優しく屋根を撫でる雨音が暗闇に溶け込む。雨は夕刻から随分と小降りになっていた。明日には止むかもしれない。

 この先どうするべきか、俺は決めかねている。俺は比較的生への欲求が薄い方と自負してはいるが、もしこの先死に様を選ぶ自由があるというのなら首を捩じ切られるというのは出来れば避けたい。

 宿の娘の兄が行方不明という生々しい話を聞かされた後では尚更だ。


 雲上渓谷に行かないとなると、どうにか別の道筋を見出して七星(チーシィン)一行を先回りしなければならなかった。そして認めたくはないが、それはほとんど不可能である。

 雲上渓谷が近道になるのはそこが物理法則の狂った霊地ゆえ、現実を進むよりも遥かに短い時間で同じ距離を歩けるという仕組みのためである。渓谷沿いの山道を通れば、例え地図上の距離は等しくても冴省に入るのには少なくとも十日はかかるのだ。

 出発した段階で既に二日失している以上、領境を越えるのにそんな猶予はない。千伽が俺に示した道筋は様々な危険を計算に組み込んだうえでの提案だったのかと、腹立たしさすら込み上げる。

 それは俺自身の身の安全を考慮したというより、彼自身の勝算を突き詰めた結果のように思われた。つまり彼にとって俺は捨て駒のようなものに過ぎず、恐らくこちらの無知を知りながら危険極まりない首なし渓谷に放り込もうとしたのだ。まんまと引き受けた俺を今頃嘲り笑っている彼の顔が浮かぶ。

 否、勿論千伽の無理難題を突っぱねることの出来なかった俺の心の脆弱さこそ、最も憎むべきものに他ならないのだが。

 俺は言い訳が好きではなかったし、言い訳をする自分も好きではなかった。埃っぽい納屋の床に蹲って文句と不満を並べ立てるのもほどほどにして、今後どう動くべきか考えるのが今出来る最善だろう。


「──……?」


 そのとき、かたんと暗闇に微かな物音が空気を振動させる。薄く瞼を上げ、その方角を見やれば誰かの息遣いが部屋の外にあった。どうにか足音を忍ばせているが、気配の消し方は素人のそれ。俺は念のため枕元の剣に手を伸ばし、じっと目を凝らす。


「……」


 戸口の陰に隠れた気配はじっとこちらの様子を窺っているようだった。斬りかかってくるか、その前に剣を抜くべきか。息の詰まるような緊迫感の末、陰にいた人影が震える声で俺を呼ぶ。少女の声だった。

 ああ、と。俺は肩の力を緩めて剣の柄から手を離す。身体を起こせば、軋む戸を引いて宿屋の娘が顔を覗かせた。ひどく申し訳なさそうに眉を下げ、仄暗い陰影を顔に刻んで。


「……何か、用か?」


 相手があの娘と知り、俺は別の意味で緊張した。こんな夜更けに日雇いの男の寝床に来る意味が分からない歳でもあるまい。

 身構えるこちらの様子を伺いつつ、彼女は目線で入ってもいいか問いかけた。躊躇いがちに頷く。


「こ、こんな、遅くにごめんなさい」


 冷静さを装って娘に目を向ければ、彼女は再び謝った。何事も謝らなければ気が済まない性分らしかった。背後の影への怯えを隠しきれない小心さに、かつての妹の面影が重なる。


「その、あなたがきっと明け方に発つと思って、どうしても、い、今言わなければと思って」


 どもるように口をもごもごさせる娘を、俺はじっと見つめて先を促した。


「雲上渓谷へ行くのね」


「……」


 俺は答えられない。しかし心の中ではもう決まっているようなものだ。俺はきっと雲上渓谷に向かうだろう。白狐さんのため、羊守の棲むあの谷へ行くだろう。彼を見殺しにするなど今の俺には到底できないことだ。

 娘の瞳は黒々と濡れていた。昼間は気づかなかったが、綺麗な目だと思った。何の変哲もない、凡庸な人間の眼差し。それはとても俺には真似できない、か細い強さをたたえた光だ。

 何も訊かなかった。俺が何故雲上渓谷へ行くのか、彼女は一言も訊こうとしなかった。


「……兄さんが教えてくれた、お、おまじないを教えてあげる」


「おまじない?」


「そう、もし雲上渓谷に迷い込んでしまったとき、ひ、羊守様のお怒りを鎮めて、気慰みをする方法があるの」


 そう言って座り直し、彼女が教えてくれたのは民間信仰に近い、古くから言い伝えられる神域での礼儀作法だった。


「羊守さまと()()()するの」


 娘は根気強くそう繰り返した。


「絶対に振り返らないで、ま、前を向いたまま進むの」


「……」それは要するに、”羊守”が後ろを付いてくるということだろうか。不吉な妄想が過る。


「羊守さまに何か問われたら、必ず返事をして。何でもいいから答えるの。何でもいいから……。絶対に、だ、黙ってはいけない。沈黙したら殺されてしまう。谷の向こう側まで羊守さまのお顔を見ないまま歩きつけば……きっと、霧が晴れて神域から出られるわ」


 ふむ、と。俺は静かに納得する。

 神の顔を見るのは、天学において絶対にしてはいけないことだ。向こうから姿を顕したときは別にして、こちらから位の高い霊を視界に入れることは許されない。俺の経験上、確かに今まで目にしてきた霊たちは、例外なく俺に激しい怒りと殺意を向けた。


「何か問われる、というのは?」


「う、雲上渓谷で羊守さまに出会うと、必ず問いかけをされるの」


 彼女は自分が実際に羊守に遭遇した訳ではないのだろうが、それなりの現実味を帯びて眉を寄せる。つまり、羊守との問答を体験した上で生還した者がいたのだろう。


「どんな質問を?」


「分からない」彼女はそこで力なく首を振る。「神域で起こったことはほとんど記憶に残らないから、具体的なことまでは……ご、ごめんなさい」


 彼女がひどく申し訳なさそうにするので、俺は首を振って助かったと礼を言った。

 つまり、雲上渓谷では絶対に立ち止まらず、付いてくる羊守と話し続け、直進方向のまま歩き続ければ、きっと生きて向こう側へと辿り着けるのだ。

 聞いているだけで精神状態がおかしくなりそうな図だが、それで首なし死体になるという無様な死を避けられるというなら、俺は逆立ちしながら雲上渓谷を渡ってやってもいいと豪語できた。


「教えてくれてありがとう」俺は改めて彼女に両手を合わせる。


 いえ、と口ごもる彼女は泣くのを堪えるよう唇を結び、それからこう言った。「も、もし、兄さんに会ったら──」


「え?」


「もし、どこかの街で兄さんに会ったら……あ、あたしと(かか)が心配していたって、伝えてほしい。に、兄さんは翡翠の吉祥の紐をつけて、あたしに似ているから、きっと分かると思う」


 ああ、と。返事が遅れたのは、彼女の兄はもうこの世にはいないかもしれないという予感が喉までせり上がってきたためだ。

 彼女だって重々承知しているのだろうが、口に出すことはしなかった。それはほとんど流れ星に掛ける願いに近い。


「──」


 夜半の挨拶を交わし、彼女が納屋を立ち去った後、俺の心には自分の妹のことがあった。

 四歳の離れた妹の光が俺に残した吉祥の紐を薄明りに眺め、落ち葉に包まれるような郷愁と、胸を刺す棘の痛みに眉を顰める。


 何故だか光のことが頭をちらついて離れなかった。長らく直視して考えることを避け、それでも時折海波のように打ち寄せる追憶。あの無知ゆえの尊大と、自意識過剰な生意気さと、華奢すぎる心の脆さを表裏に併せ持った妹のことが。

 断言するが、光とあの娘は似ていない。年も違えば容姿も違う。光はあんなに殊勝な性格ではなかったし、俺に向かって気を遣うほど素直でも健気でもなかった。共通するものといえば妹というその立場だけだ。

 ……光がどのような心情で吉祥の紐を編んだのか、何故行方を晦ませたのか今となって知る由もない。ましてやあの宿の一人娘とその面影を重ねるなど、今更何の意味があるというのだ。

 俺はしばらくやり場のない感情を持て余した。苛立ちとも寂しさとも同情ともつかぬ、眠りを妨げるもやもやがしばらく燻った。


 やがて自分について思うことに飽き、俺の思考は徐々に現実のことへと傾いていく。つまり、雲上渓谷を渡るか否かという問題だ。

 深く考えても浅く考えても、きっと答えは変わらない。首なし渓谷と名高い神域に足を踏み入れることへの躊躇いはあれ、全く勝機が見えなかった先ほどとは違う。

 娘が俺に教えてくれたおまじないを疑う余地はなかった。雲上渓谷のおぞましい伝承は、そうやって運よく生還した者たちから伝えられてきたものなのだろう。羊毛をやりとりする以上は羊守と直接関わる機会もあるのだろうし、出会い頭に問答無用で首を捩じ切られるという訳ではないようだ。

 賭けてみる価値はあると思った。霊というのは独自の理性を有し、ときに人間よりも遥かに高度な知的生命体だ。正しい手順を踏み、礼節を尽くせば気まぐれに応えてくれることもある。


 屋根の廂から垂れる雨水の音が何となくうとうと眠気を誘う。

 都市の朝を知らせる鐘が鳴らされるまで、およそ数時間。俺は粗末な寝具に身を包み、じっと夜明けを待った。




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