Ⅱ
「さっきはありがとう」
宿の厨は昼間だというのに薄暗い。竈の火が唯一の明かりで、狭い炊事場はぽかぽかと暖かかった。
乾いた古着に着替えてさっぱりした俺は、昼餉の用意をする娘がくるくる働くのを眺めながら、その背に礼を投げかける。彼女はちらりと俺に視線を送って「い、え」と小さく言ったようだった。
ジュワアと鍋で油の跳ねる音が響く。肉の焼ける香ばしい匂いが広がり、俺は自ずと胃のあたりを押さえた。彼女が何か言う前に俺は、「何か手伝うことはあるか」と申し出る。
娘は何も言わなかった。ただちらりと厨の入り口を気にする素振りを見せ、それから俺に視線を寄越す。恐らく、母親である女主人を気にしているのだろう。
年頃の若い娘が男と二人きりという状況は不道徳だ。男女差の厳しいこの国では、女が家族以外の男と視線を交わらせることすらマナー違反であると聞く。それは高尚な身分階級に限った話にしても、年頃の娘が得体の知らない男相手に居心地悪く思う心境は想像に難くない。
念のため俺はもう一度断りを入れ、彼女とともに調理台に立つことにした。
豚肉と青菜と木の実を炒め、汁物を火に掛け、炊いた米を碗に盛る。簡易な昼食だが、客の出入りの多い門近くの宿のこと、昼時の厨房は目が回るほど忙しい。隣の娘は手際よく厚揚げの煮物を掻き混ぜている。出汁の香りが食欲を誘った。
「……や、屋根の、修繕は」
いきなり脈絡なく、それも聞きとりにくい声で彼女が言うので、俺の手も一瞬止まる。横を見れば娘は居たたまれなさそうに顔を伏せていた。
しばらく思案した後、彼女なりに精一杯俺との会話の糸口を探した結果なのだろうかと首を捻る。内心で反省しつつ、俺は彼女の質問ともつかぬ質問に答えた。
「屋根の目立って古くなっていた箇所はだいたい直した。でも、内側の骨組みが湿気で腐りかけているから改築したほうがいいと思う」
「そう……」
不自然な沈黙があった。俺は彼女の顔色を窺いつつ、まな板の上で針菜を刻む。青い匂いが立ち、手元を誤らないよう視線を戻したとき、娘がどもった。
「ご、ご、ごめんなさい」
「え、何が?」
「……」
今度こそ手が止まる。謝られる心当たりはなかった。彼女はこちらを見ることなくただ次々と客用の食事を皿に盛り付けていく。
途中、それぞれの盆を客室へ運んでいく女主人が入ってきて、俺たちの背を細い目で睨んできたが、やましいことはしていない。少なくとも俺の意識しうる限りでは。
小太りの主人の足音が振動を響かせながら階段の先に消える。再び二人きりになった炊事場を見回し、俺は改めて首を傾げて見せた。
「何か俺は気に障ることを言ったか?」
「い、え。そうじゃ、ないの」
そうじゃなくて、とぎこちなく繰り返す娘は忙しなく瞬きをして、眉を八の字にする。その目線が先程からこちらの右手首に向けられていることに俺はなかなか気づかない。
「……」
青い陶器の皿に煮物を盛り付けた娘が、盆を両手に逃げるように炊事場を去っていくのを見送る。やがて階段を上る振動が薄い木の壁越しに伝わり、俺は煮え切らない気持ちを抱えながら後片付けをした。汲んだ水に鍋を漬け、海綿で擦る。
二階から男たちを相手に接客をする彼女の声が聞こえた。
娘が再び俺に口を開いてくれたのは、遅い昼餉のときである。薄暗い炊事場の隅に座り、賄いがてら余った汁物で作った雑炊と炒め物──ここ数日の俺にしては贅沢な食事である──を食べていた俺の前に、彼女がやってきた。
気まずさに何と切り出したらいいかわからない俺に、彼女はぺこりと頭を下げる。黒い髪が横に垂れた。
「さっきは、ごめんなさい」再び口に上った謝罪は、先ほどよりもしっかりと意志が伴っているようだった。「あの、私、人と話すのが苦手で」
見れば分かる。いやいや、と俺は手にしていた蓮華を置いて、首を振る。どうにも彼女は繊細で臆病で、口下手な性分らしい。そして俺自身、そういった少女と話すのは不慣れだった。
彼女は何も言わずに鍋から雑炊を掬い、温かな碗を手に俺の隣に座る。柔らかな湯気が彼女の頬を微かに紅潮させて見せた。
「その、わ、私には、年が離れた兄さんがいて……」
吃音なのか僅かに上擦り、何かに突っかかった喋り方で娘は打ち明けた。無機質に食器がぶつかる音。二人きりの昼餉にやや怪訝なものを覚えつつ、俺は彼女に目を向ける。その意図は読めなかったが、根気よく相槌を打つことにした。
「へえ」
「ひと月前までは、毛織物の行商と一緒に、その、で、出稼ぎに出ていたのだけれど」
「……」
彼女はそこで視線を惑わせ、口を噤んでしまう。それは話を続けることへの躊躇いにも、話の繋ぎの言葉に迷っているようにも見えた。何か言いたいことがあるのに上手く形にできない。娘の表情にはそんなもどかしさが見え隠れする。往々にして口下手な人間によくあることだ。
それで? と短く、できる限り優しく先を促す。彼女は細かく瞬きを繰り返し、少し息苦しそうな微笑みを浮かべた。
「……あなたが」
「うん」
「ひ、紐を……着けていたから」
「紐?」
俺は一瞬瞠目する。そうして彼女の遠慮がちな視線の先、すなわち己の右手首を顧みて、ああと平坦な声を漏らす。
吉祥の紐──そう呼ばれる赤い紐飾り。この国には昔から、女たちが兄弟に紐飾りを贈る習慣がある。赤い紐を編み、宝石などを通して飾った紐は兄弟姉妹の縁を繋ぐとしてよく好まれるお守りのひとつだ。
瑪瑙とともに編まれた紐に視線を落とし、俺はほんの一瞬、この紐の送り主──すなわち自身の妹について思いを馳せる。普段は思考に浮上させることすら億劫な、四歳下の妹のことを。
妹の光は丁度一年ほど前、俺とともにほぼ事故的な流れでこの世界へとやってきた。そしてひと月ほど経って、ひっそりと自ら姿を消した。兄である俺に吉祥の紐を押し付けて。
つまり兄弟姉妹の絆を象徴するはずのこの吉祥の紐は、俺にとっては妹との不和の象徴であり、未だ行方の知れない妹の存在を忘却することの許さない呪いのようなものである。
妹は今どこにいるのか──生きているのか死んでいるのかも判然としない。僅かな手掛かりと言えば、光は遥か西大陸にいるらしい。とある男の言葉を信用するなら、あいつは無事なのだと言う。
光との思い出はどれも苦々しいものばかりだった。俺と光は仲の良い兄妹には程遠かったし、何よりも俺自身が光を毛嫌いしていたのである。
知らずのうちに険しい表情をしていたらしい。おどおど戸惑う娘の浅い息遣いに気づき、慌てて眉間の皺を解く。そして、彼女が俺の着けている紐を指摘した脈絡を考えた。
大方、彼女も自身の兄に吉祥の紐を贈ったのだろうか。彼女の兄がどんな男なのかは知らないが、俺の紐を見て出稼ぎで不在の兄のことでも思い出したのだろう。
曖昧な反応をする俺をどう捉えたのか、娘は再度謝罪をする。
「ごめんなさい、み、見るつもりはなくて……ただ、さっき……その、納屋で脱いでいたとき目に留まってしまったものだから」
そこでようやく、脈絡ない娘の謝罪が、先ほどの納屋での遭遇のことを指していたのだと思い至り、合点がいった。気にしていないと首を振り、蓮華で掬った雑炊を豆腐ごとすする。
そして目線で──それほど興味はなかったが──彼女の兄とやらの話の続きを促した。自分の妹について突っ込まれるのを避けたかったというのが正直な心境である。
ところが、どうにも話題選びを間違えた感が否めなかった。年が離れているというその兄についてたどたどしく話す彼女はどこか息がしづらそうで、拒絶こそしなかったものの苦渋の色が見え隠れする。
どうやら彼女の兄は毛織物行商の下働きとして山塑都から各地を行き来し、交易をしているらしい。夕省特産の織物に使われる羊毛は、雲上渓谷という谷地でのみ採れるため、雲上の毛織物と言えば庶民には到底手の届かない希少な高級品である。
そんな話は前々から翔に聞いたことがあった。何せ長遐の山岳とその北上した先にある雲上渓谷は、田舎と名高い夕省の中でもいっとう鄙びた辺境の代名詞なのだ。毛織物行商は胡州の商いにおける花形。その下男として付き添う彼女の兄は、この辺りではではよくある職に就いていると考えられる。
兄さんは休みが貰えるとここに帰ってきては力仕事をするの、だからあなたを見て兄のことを思い出した、とはにかむように語る娘は、ただの寂しさ以上の苦痛を押し殺しているようだった。
俺はふうんと語尾を間延びさせる。若くて可愛い娘と話すことに悪い気はしなかったが、話題は平凡だった。
「そうか、お兄さんは雲上渓谷の毛織物を商っているのか」昼餉を終え、退屈しのぎの相槌のつもりがうっかり口を滑らせる。「実は俺も雲上渓谷へ行くつもりなんだ」
「え?」
やや声音を高くした彼女を見て、俺は遅れて自身の失態に気付いた。仮にも司旦暗殺、つまり国家への叛逆行為ともとれる密約を結ばされた身、己の行き先を軽々しく告げるべきではない。下手をすれば彼女までも巻き込まれる可能性がある。
しかし、娘はそのあたりとは別のところに言葉を失ったらしい。丸い目を大きくしてこちらを凝視する彼女が、次の瞬間ぽろぽろと涙をこぼしたので、俺は慌てた。
「え、一体、どうしたんだ」慰めようと、勢いが余って天井からぶら下がっていて鍋に頭をぶつける。間抜けな金属音が響く中、俺は泡を食っておろおろした。
まるで堰を切ったような、堪えていたものが溢れ出したような泣き方だった。彼女はまだあどけなさの残る可憐な顔をくしゃくしゃにして、しばらく息を詰まらせる。
どうしてそんなに泣くのか。彼女が落ち着くのを待ち、どうにか訊ねれば「に、兄さんのいた旅商がひと月前にいなくなった」と途切れ途切れに言う。
「いなくなった……?」
「そう、け、渓谷に沿った東の山脈を越えてこの都市に戻ってくるはずだったのに、行方が分からなくなって、ひ、ひと月も経つの──」
ひと月。娘の言葉を脳内で反芻する。そして、泣くほど悲観するほどのことではないと慰めの言葉を探した。
確かに待つ身からすればひと月は長いが、徒歩や馬で移動する旅には想定外の出来事が付きものだ。気まぐれな商人のこと、春先の悪天候もあるし、街道が通れずどこかの秣市で足止めを食っているのではないか──。
そんな陳腐な励ましが次々と脳裏を過ぎていく。上手く言葉にできなかったのは、目の前の娘にいきなり泣き出されたことへの動揺と、その泣き方が俺にとって妙に嫌な胸騒ぎを掻き立てるものだったからだ。
「きっと、み、道に迷って、雲上渓谷に入って、“羊守”様から、お怒りを買ったんだわ。兄さんたちは禁忌を破ったの。あの渓谷には、絶対に、あ、足を踏み入れてはいけないのに……」
「……」
俺は口をパクパクさせるだけで、何も言えない。黒く濡れた瞳がじっとこちらを凝視する。そうして彼女は、何かに憑かれたような、熱に浮かされたような口調で、その割にはしっかりとした声で繰り返した。
「雲上渓谷には“羊守”様がいるの……“羊守”様からお怒りを買えば、首を捩じ切られて捨てられるの。だから、あの“首なし渓谷”には絶対に行ってはいけない──」




