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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第四話 宿の娘
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 それから八日後。

 俺は西の省都、山塑都(サンソト)という夕省の大都市にいた。土地勘もないのにここまで徒歩と乗合馬車で辿り着けたのは、俺の気合と根性の賜物と言っていい。

 二羽の雌鶏を売った僅かな金を握り、土砂降りとも呼ぶべき豪雨に見舞われながら、へとへとになって一人でこの省都の門をくぐったのは二日前のことである。


 南の省都ならば一度夏至祭で訪れたことがあったが、貿易で栄える港街の安居(ヤスイ)とは打って変わって山塑都は北西に延びる山脈に沿って縦に長く、堅牢な外廓は立地と相まって街というより要塞を思わせた。

 それもそのはず、この辺りは皇国統一以前に月辰族と相容れなかった“異民族”が最後まで抵抗をした地であり、政治の中枢である清虚の都と最も離れた省ゆえに外敵との戦いが絶えなかった地域でもあった。

 天下が泰平となって既に数千年も経とうというのに、山塑都や周辺の邑には物々しい馬面と見張り台が今も尚その役目を果たしている。それは長年対立した“異民族”への拭えぬ敵愾心とも、皇国権力から離れた都市としての独立意識ともとれる。

 胡州とも称される辺鄙で急崚な山岳地帯は、稲作の盛んな農耕地域としての夕省のもうひとつの顔と言えよう。


 さて、俺がわざわざ時間と労苦をかけてこの省都を目指したのには無論、理由があった。千伽というあの男から譲り受けた“餞別”を、売って金に替えなければならない。それなりのまとまった金がなければ七星(チーシィン)一行を追いかけることも、この先生きていくことも出来ないのだ。

 あの男が俺に手渡した餞別は、一言で言えば美術品である。高額なものであれば目の利く美術商に見せなければならないし、その点では久と旦のように農夫でも買い取れるような鶏などとは違う。さしあたり近くて大きな省都を目指せと言われるまま、俺はこの要塞都市へ向かった。

 しかし半信半疑だ。俺は己の審美眼に一切信用がない。千伽が自信満々に渡してきた“餞別”に果たしてどれだけの値打ちが付けられるのか。考えれば考えるほど、己は詐欺に引っ掛かりやすいタイプなのかもしれないと落ち込んでしまう。

 何にせよ、彼の脅迫に屈した俺が頼れるのはこの餞別しかないのだが。


 そんな俺に追い打ちをかけるよう、更なる不運が降りかかった。

 広大な東大陸はその地域ごとに様々な性質がある。例えば北が険しい山岳、黄土大地、南が平野、荒地もあれば火山帯も広がり、同じ大陸でありながら地方ごとに風土も歴史も異なるのがこの東大陸だ。

 この胡州はといえば、茫々と広がる水田、散らばる人家。小都市とも呼ぶべき秣市が疎らにあり、あとは河川が多く水産資源に富む。お陰で雨が降れば版築で固めた路は崩れ、度々通行止めとなった。

 とどのつまり、この春先の悪天候のせいで俺はこの都市に足止めを食っていたのである。市は立たないし扇を売ることも出来ない。八方塞がりだ。雨の多い時期に胡州を訪れたのが運の尽きである。

 二日もの滞在ですっかり無一文になった俺は、仕方なく日雇いの若者よろしく宿の建物の修繕などをして食いつないでいる。何故そんな仕事を、と思われるかもしれないが、雨漏りの補強ならば世捨て人の家でもやったので、多少不器用でも難しくはない。それに、金を得るためには文句など言っていられないのだ。

 幸い、人が多く集まる都市には、俺のような得体のしれないみずぼらしい若者も珍しくない。仕事からあぶれた者、田舎から来た者。様々な理由で日単位の職を求める者が道に溢れ、彼らを必要とする職種も山ほどあった。だから、多少の技術があればこの大都市では仕事には困らないだろう。

 全く、住処を奪われた挙句いきなり就職活動を始めることになるとは思わなかった。俺は金づちを手に感慨深く耽る。こうしていると時折、自分が何をしているのか分からなくなる瞬間がくるが、それはそれ。生きることを最優先にすれば、俺の行動もさして不自然ではない。

 それにしても異世界で日雇い大工というのは、小学生の頃文集に将来の夢を書いたかつての己が聞けば引っくり返りそうな気もする。


 心配なのは白狐さん一向の進行速度であったが、ここ数日は天候が崩れ、人目を避けて山道を通るという彼らも足止めを食っていることは容易に想像できる。

 それに七星(チーシィン)たちは、太陽のある時間帯に馬を進めることはしないはずだ。強い紫外線は白狐さんの肌を蝕む。彼を無事に都へ送り届けるのが七星(チーシィン)の役割ならば、例え馬の進みが遅くなろうとも夜という暗がりに紛れて進むのが賢明だ。

 現在の時刻はおよそ正午。街の中央に位置する天院の鐘と人々の雑踏を聞きながら、俺は疲労の抜けない瞼を擦る。数日前から猛然と降り続ける雨が、安物の外套に染みて髪までずぶ濡れにしていた。

 今朝から二階建ての宿の屋根の上で、雨漏りした部分をあちこち手入れしていた。軒裏など傷んでいた部分に木板を重ね貼りする程度のことしか出来ないが、何もしないよりはましだ。

 くしゃん、とくしゃみが飛び出る。冷えた身体に悪寒が走り、嘆息。そろそろ休憩したほうがいいかもしれない。俺はぶるぶる頭を振り、道具を手に梯子を下りる。

 木造二階建ての宿の一階は土間敷で、客の出入りする広い玄関のある棟に炊事場や物置が隣接している。上階へ向かう客の混雑を縫うようにして、俺は宿の太った女主人に目線で会釈し、逃げるように離れの納屋へと向かった。

 二日前までは俺も客間に寝泊まりしていたのだが、金がなくなったことでここに追い込まれ、今に至る。まあこの豪雨の中外に放り出されないだけましと思うべきだろう。それに納屋といっても住み込みの下働きが寝泊まりするような部屋だから、それほど不自由はしないのだ。


 埃っぽい物置は板張りで、窓からの薄暗い光がぼんやりと壁や天井の陰影を浮かび上がらせている。奥に一畳分の置き畳がある他、特に家具らしいものはない。床には藁が散らばっているから、昔は動物を飼っていたのだろう。

 己の境遇を嘆くよりもまず先に、水の滴る着物を脱ぐことにする。このままでは間違いなく風邪を引く。今体調を崩せば死活問題であることは言うまでもない。

 盛大なくしゃみをしてから皮膚に貼りつくほど濡れた着物を脱ぎ、窓辺に掛けて干す。ぽたぽたと小さな雫が床に染みをつくった。

 不意に入り口に人の気配を感じて、俺は飛び上がる。幸い全裸ではなかったが、動揺のあまり何故か胸元を隠して振り向いた。

 扉の細い隙間から、遠慮がちに覗き込んでいる目がある。ぱちぱちと反ったまつ毛が瞬きして、俺の奇妙な体勢を見ては戸惑っているようだ。それが誰であるか理解した俺は、尚のこと混乱した。


「……は、入っても?」


「ど、どうぞ」


 狼狽を隠しきれない俺の声を合図におずおずと納屋に足を踏み入れたのは、宿の主人の一人娘である。

 年齢はせいぜい俺と同じか、ひとつふたつ下くらい。くしゃりと渦を巻く黒髪は苦労して結ったようにあちこちはみ出し、くすんだ色の着物を着ている。

 いつも上遣いな黒目は不思議なものをじっと見るような調子で注意深く、かと思えば仕事となればてきぱきと大人のような顔つきになったり、ともかく彼女の生きる人生は俺のそれとは全然違っているのだろうと、そう思える市井の娘だった。

 彼女は両手に抱えた桶を納屋の床に下ろす。口の広い桶からは湯気が立ち、沸かしたての湯が縁際でちゃぷんと音を立てた。


「これは?」


 戸惑いがちに訊ねれば、彼女はちらりとこちらを一瞥し、さすがに赤面してそそくさ背を向ける。そ、そのままじゃ風邪引く、と消え入るような声が聞こえた。

 数秒経ってようやく目の前の湯は彼女が俺に気を遣って持ってきてくれたのだと理解するが、その気遣いそのものが俺の思考を鈍らせる。


「な、何故?」


「……」


 一息、沈黙があった。何とも言えない娘の表情を見て、俺ははっとする。

 飲み水でなくとも、人口の多い都市において生活用水はそれなりに貴重だ。わざわざ沸かしてここまで運んできた彼女にあまりに無粋な言葉をかけてしまった気がして口籠る。

 その、ええと、ありがとう。付け足したようなぎこちない礼。去り際の彼女の背に届いた手応えは薄い。戸が軋み、ばたんと音を立てて閉じられる。一人取り残された俺は、半裸のまま棒立ちしてしばし口を噤んだ。

 足元には湯浴みのための熱湯が白い湯気を立てている。桶の湯は熱く、掛けてある手拭いは清潔だった。


「……」


 この宿で働くあの無垢な娘の名を俺は未だに知らない。女主人の一人娘ということは知っているが、随分と引っ込み思案な性分らしい。二日間住み込んでいる俺の顔を見てもろくに挨拶もしないまま逃げていく彼女を相手に名など訊けるはずもなかった。

 いや、何となく気持ちは分かる。警戒しているのだ。あの娘は、というより母親である気の強そうな女主人は、いきなり転がり込んできた得体のしれぬ男を目の敵にしている節がある。年頃の娘を抱える母親としては至極まともな警戒心と言えよう。

 無論、今の俺は単なる日雇いで、雨が止むまでのほんのしばらくの間ここで働いているだけだから、町娘相手に道を踏み外すつもりもないのだが。

 何にせよ、俺は他人の──しかも若い娘からの気遣いに慣れている方ではなく、また無償の好意をそのまま受け取れるほど素直ではなく、今までろくに言葉を交わしたことのなかった彼女からのささやかな優しさをどう捉えるべきか思わず考え込んでしまうくらいには初心だった。

 考えているうちに体が冷え、寒さに歯もかちかち鳴り出す。胸に一抹の後悔を残しつつ、俺は湯浴みのために衣服を脱いだ。

 肌に貼りつく肌着を剥ぎ取り、仄暗い納屋の光を振り仰ぐ。ぼんやりと水底のように霞む視界。外の雨音は叩き付けるようにけたたましく響き、まだしばらく止みそうにないなと思った。




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