Ⅵ
夜が明ける。
あれから俺は糸が切れ、瓦礫の間に蹲っては泥のように熟睡した。──ほんの数時間ほど。目が覚めたのは寒さのせいであったが、一睡もしないよりはましだった。
一日中屋外で過ごすというのは、存外体力を使う。俺は芯に残る疲労感と寝起きの気怠さに、しばし放心する。夢見は良くなかった。現実とおよそ区別がつかない程に。
身体に力が入らない。低血糖だろう。寒さで悴んだ手で懐を探り、野蒜の鱗茎を口に入れる。ほろ苦くて辛い。お陰で目が覚めてくる。ああ、もっと食べ物が欲しい。ほとんど空っぽの胃袋が、物欲しげに疼いた。その感覚が何とも惨めだ。
崩れかけた世捨て人の家は夜明けの薄紫の光を受け、なお一層無残な影を伸ばす。かつて居間だったところで身体を丸め、野良犬のように体温を守る俺はただただ翔の不在を嘆いていた。
翔がいたらどんなに良かったか。俺は幾度そう考えたか知れない。奴がいれば、今のこの危機的状況も少しは楽しいものになっただろう。
探しに行きたい気力はあった。そして、恐らくそれが無駄に終わるであろうという予感も。どこへ消えたとも知れない奴を見つけ出すのは、およそ白狐さん一行に追いつくよりも至難だ。
周辺にいるならとっくに俺がここにいることにも気付いているはず。会いに来ないということはもうこの辺りにはいないのか、或は考えたくないが──既に死んでいるか──のどちらかである。
白狐さんたちがここを発ってから丸二日。彼らは人目を避けて北上したと千伽は言った。具体的な道筋も、どうやって追うべきかも細かに教えられた。
“北へ向かえ”と。この長遐の山岳を抜け、夕省に南北の深い裂け目を刻む雲上渓谷を近道とし、西と北の境目にある霧深い湿地帯にて七星一行を待ち伏せよ、と。
確かに先回りして奇襲するのが、現状俺にとって最も勝機のある戦い方だ。無論、俺に戦意があるかどうかはともかく。
早く追わなければ彼らとの距離は離される一方だ。一体いつどこで、どうやって司旦が白狐さんを手に掛けるか分からない以上、急ぐに越したことはない。
あのたくあん王子がいれば、そんな判断も即座に下して、何をどうすべきか的確に教えてくれただろうに。
相棒がいない今、俺は自分に出来ることをやるしかなかった。俺は徐々に暖まってきた身体を起こし、身震いする。奮い立たねば。まだ死ぬわけにはいかない。
それから俺は、静かに差し込む朝陽を頼りに、燃え残った我が家の残骸から使えそうなものを探した。煤けた壁や崩れた屋根の一部を引っ繰り返し、瓦礫を避け、指先を真っ黒にしながら、まるで骨でも拾うかのように。
そして己の部屋だったあたり、神隠しされるより前から愛用していた腕時計の破片ばかりが見つかり、俺は泣く泣く諦める。またひとつ、あの世界と自分を繋ぐものを失ってしまった、と。
何か他に目ぼしいものはないだろうか。実用的なもの、金になりそうなもの。現金が見つかれば早いが、白狐さんがどこに金銭を保管していたか俺は知らない。
散々探し回った挙句、いつか凉省の都邑抄扇で買った豻の短角刀が縁の下から見つかった。手を伸ばして引っ張り出せば、泥まみれでも傷ひとつない。さすがは霊獣の角というべきか、懐に仕舞う。
それから壁に掛けてあった、白狐さんから譲り受けた短めの剣を一振り。どうせ使えないのだから飾りになろうが、ないよりは心強い。これは背に負う。
そして──。
「……」
ああ、と白い息を漏らす。何もかもが死んだように錯覚される朝、俺は自分の他に震えながら生きているものを見つけた。
縁側に面する庭、燃えずに残った鶏舎がある。大人ならば屈まなければ覗けない程狭い木製の小屋。よく翔が天井に頭をぶつけていたのを思い出す。
その隅に二羽の雌鶏が蹲っていた。
薄汚れた羽を丸く膨らませ、怯え、身を寄せ合い──それでも彼女たちは生きていた。火事のとき暴れたのか、辺りに羽毛が散らばっている。俺が覗き込めば鋭い眼光で威嚇をされた。
彼女たちの名は久と旦。世捨て人が卵のために昨年の夏から飼い始めた雌鶏である。
「……なあ、おい」
俺は扉を開け、恐る恐る低い入り口を潜る。鶏舎の中はまだ暗かった。薄闇に白い羽毛の塊が浮かび上がり、小刻みに震えているのが分かる。
もうこの世捨て人の家に住む人はいないのだから、彼女たちをこのままにしておく訳にはいかないだろう。放したところでいつまで生きていられるか。
俺はじりじり鶏との距離を縮めながら考える。以前の俺ならばこのまま放置してかもしれない。しかし、未だに動物は苦手と称しながらも、冬の間も絶えず世話して飼ってきたこの雌鶏にはそれなりの愛着があった。
せめて、どこかに譲ろう。そう思った。今は春だし、いつも人里に降りるとき田畑を横切る農夫の家ならばきっと貰ってくれる。そうと決まれば、今のうちに彼女たちを捕まえなければならない。暴れられると面倒くさいということは既に実体験済みで、鳥の目が利かない今が好機。俺は身をかがめ、一羽一羽逃げられないように両手で羽を掴んで確保する。
──意外にもあっさりと捕まる。しかし弱っているのかと油断した瞬間、けたたましい悲鳴とともにばたばた暴れ出したので、結局俺は逃げた雌鶏としばらく庭で追いかけっこをする羽目になった。早朝から、というかこの状況で一体何をしているのか。ああ、やはり最後まで和解は出来ないままだった。
どうにか捕まえた二羽を、鶏舎の寝床代わりに使っていた木箱に詰め、背負う。既に息が切れていた。鶏の全力ダッシュは意外と速い。この事実を伝える相手がいないのは残念だ。
***
山の上を越した朝陽が金色の光を浴びせる。寒々しい朝とともに、俺は薄っすら霧の漂う苔森を後にした。もうここに戻ってくることはないのかもしれない。そんな言い知れぬ予感を胸に、どこか後ろ髪引かれながら。
ふと振り返ってみれば、もうあの家は影になっている。このまま雨風に晒されれば、完全に崩れ去るのも時間の問題だろう。呆気ないものだ。少し前の俺は予想していただろうか。あの家が物理的に消滅するなど。
胸にこみ上げたのは、例えようのない切なさと無力感。肺に空洞が空いたような、やり場のない虚しさが、今なお俺の中に尾を引いていた。
「──……」
去り際になって俺は今更、あの世捨て人の家が一体“何だった”のか思いを馳せる。
霊域に守られしあの空間──尤も今は、七星に蹴散らされて既にその結界の意味を失っているが。影家の狐はずっとこの安全地帯に住んでいた。それは単なる偶然か。
白狐さんがここで過ごしたであろう六十二年という歳月は、あの家の老朽の程度と合致するように思えた。彼は、独りでここに落ち延びたのだろうか。地を拓き、住まいを誂えたのは、本当に彼一人だったのだろうか。
分からない。ただ気になるのは、六十二年間行方を晦ましていたはずの白狐さんが、何故今回に限ってあんなにも簡単に、七星に見つけられたのかということ。そして、何故白狐さんが抵抗のひとつもせず彼らとの同行に従ったのかということである。
世捨て人の主は今までこの家から進んで出ることを好まなかった。まるでこの土地に縛られているかのように。それが何故、あんなにもあっさり二つ返事で、それも皇帝の陰謀の影を見ながら、都へ向かったのか、と。
──俺には、いつか七星が迎えに来るのを、白狐さんが待っていたのではないかとすら思えたのだ。
答えは出ない。自分の目で確かめない限りは。あれから俺の頭は、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。相も変わらず、司旦を殺せという話には懐疑的だ。それでいい。
しかし俺は、やはり七星と白狐さん一行を追おうと決めた。直接訊いて確かめたい。素っ気ない書面で別れを告げた白狐さんの本心を、暗殺を目論むという司旦の目的を、そして、六十二年前の儲君同士の諍いの真相を。
俺と白狐さんは出会って一年、所詮俺は彼らにとって部外者に過ぎない。万一七星と刃を交える事態になれば洗いざらい情報を吐き出し、許される限りは平和的に切り抜ける心積もりだ。
無為な流血沙汰は避けたい。そんな甘い考えが通用するかはさておき、そういうことにしておく。
あの千伽によって脅迫──もとい巻き込まれてしまった以上、最善の道はそれしかなかった。
そうして俺はこの地に別れを告げる。この密約に込められた真意も、己が歩む先に何が待ち受けるのかも知らぬまま。




