Ⅴ
密約とは名ばかりの、半ば脅迫だった。俺は今になってそう気付く。
彼は、俺が容易く断れないことを知っていた。それは俺の心の弱さのせいであり、この境遇のせいでもある。
千伽はまず俺にこう言った。「先払いの報酬──いや、餞別として、当分一人で暮らして行けるだけの金をやろう」と。
その段階で一切心が動かなかったと言えば嘘になる。しかし同時に仕方のないことのようにも思えた。俺はこれまでにないほど人生に行き詰っていた。仮のものとは言え家も家族もいっぺんに失くしてしまい、じわじわ迫る飢餓やその他の恐怖に怯え、途方に暮れている。それが現実だ。
周囲を見回し、瓦礫の山と化した居間に嘆息する。既にこの家の外装は廃墟と呼ぶに相応しく、何もかも燃えてしまった今、建て直す必要があるのは言うまでもない。無論、もう一度ここに住むならばの話ではあるが──何にせよ、俺はこの先生きていくため、金銭面の困窮を認めなければならなかった。
言葉巧みに人の弱みに付け込み、瞳の魔性で判断を鈍らせる。やはりあの男はろくなものではない。そう気づいたところで、この過ちをどうすることも出来ないのだが。
俺は一人縁側だった場所に腰掛け、手の中に残された二枚の扇を持て余す。脳裏に反響するのは、消えてしまったあの千伽という男の残した言葉だ。
そう、俺は餞別の見返りとして、とんでもない密約を結んでしまったのである。
「司旦を殺せ」
聞き違えるはずもない。彼は明瞭に、そう告げた。手段は問わない、と。
司旦という名に、俺はしばし面食らう。それは唯一俺が顔と名前の認識を一致させている七星の名前であり、この一連の騒動に端を発したトリガーのような存在でもあった。
あの若者が俺にとって不吉運びの象徴のように思われるのは個人的な印象であるにしても、殺せとはまた随分穏やかでない。殺し屋か何かでもあるまいし、一介の俗人の域を出ない俺にそんな物騒なことを頼むなど筋違いだろう。
そんな思いが浮かぶより先に、俺は反射的にこう訊ねた。「何故?」
「あの餓鬼は七星に属しながら皇帝の意に反した策略を企てている。いや、策略というほど賢いものでもないか。奴は白狐を殺すつもりだ。自分の手でな」
「……な、何故?」俺は同じ質問を繰り返す。
皇帝の目的は影家の狐を公開処刑すること。道中で、それも人目につかぬよう暗殺しては意味がない。
「あの元奴隷は、過去の白狐と只ならぬ因縁がある」千伽の言葉は滞りない。「一行は恐らく人目を避けて北へ向かい、山道を抜けて都を目指す。その間、奴が護衛として付き従っている振りをすれば、隙を突いて私怨に走るのも容易い」
「……」
咄嗟に脳裏を過ったのは最後の晩に見た白狐さんのことだった。司旦、という名を聞いて、何とも曖昧な笑みを浮かべていたものだ。「七星の司旦は知らない」などとしらばっくれていたが、両者に何らかの因縁があるのなら多少は説明がつく。何か、俺には計り知れない複雑な間柄なのかもしれない。
千伽は片手を持ち上げ、長い指で宙を撫ぜる。まるでそこに何か生き物がいるかのように。
「あやつは昔から、何をしでかすか分からない危うさがある。──先日、私から窘めてはおいたが恐らく無駄だろう。司旦は、いずれ叛逆する」
俺は黙りこくって考える傍ら、目の前のこの男が何者なのかという推測を組み立てていく。白狐さんに並び立つ政治的身分にあることはほぼ間違いない。
「つまり貴方は、白狐さんを助けたい……と。そういうことですか」
話を逸らすつもりはなく、俺は出来る限り冷静を装ってそう訊ねる。すると千伽の双眸が不機嫌な紫色を帯び、再び失態を自覚した。ただ、俺は彼が何者で、何を目的としているのかよく分からない。そして仮にも取引をするならその程度の質問は許されるだろうとも思った。
しばらく睨まれた後、その意が汲まれたか千伽は尊大に顎をしゃくる。
「──ふん、いいだろう。許す。訊きたいことがあるなら言ってみろ」
ははあ、有難き幸せ。棒読みし、俺はじっとその面を窺った。着物や恰好、口ぶりから察するに、貴族だろう。それも一地方の領主などではなく、もっと大きな権力と財力を恣にするような。
おおよそ見当をつけてから、差しあたって最も気になっていたことから直截的に訊ねる。くどい言葉回しや心理戦は、この人には通用しないと思った。
「千伽様は、中央に仕える──門閥貴族ですか」
そうして返ってきた答えは、存外素っ気なく、呆気ない。
「それに近い」
「……何故、こんな辺境に?」
「言っただろう。あの狐が生きていると聞きつけてやって来た。本来この霊域は外からは入れないようになっているがな」
それは、まるでここに訪れたことがあるかのような口ぶりである。「七星が書簡を届けたお陰で結界が消えた」
なるほど、と俺は尤もらしく頷き──内心では都からここまで遠路はるばるやって来たのかと驚愕しながら──確信的に最後の問いをぶつけた。
「貴方は、白狐さんを助けたいんですよね」
「……」
千伽の目がこちらを射抜く。また殴られるかと思ったが、彼は鼻をひとつ鳴らしただけだった。
「……ふん。その物言いは癪だが、そうだな。結果的に、そういうことになる」
一体、何が彼の機嫌を損ねたというのだろう。俺は内心で首を捻る。気のせいでなければ、千伽の口調は照れ隠しをしている人のそれだった。いや、まさか。
ともあれ、目先の目的が一致していることは分かった。分かったが、さてどうしたものか。視線をうろつかせる俺を一睨みして、千伽は柳のような眉をゆっくりと持ち上げる。
「で。──この話、乗るか?」
その一言で、俺は崖っぷちに立たされていることを自覚する。承諾するメリットがあり、断るべき理由もあった。天秤がぐらぐらと左右に揺れ、そのどちらにも傾き難いことは明らかである。
目の前の男が味方であるかどうかはともかく、やりたいことは一致しているらしい。白狐さんを助けたい、と。俺はさしあたり、彼のその言葉を信用することにする。
とはいえ気が進まないのも事実だった。例えどんな建前があれ、金のために人を殺せるほど俺は冷淡でもなく、潔くもなく、狂っている訳でもない。司旦に対して個人的な恨みがある訳でもない。理屈ではなく倫理の問題だ。
千伽はまごつく俺に苛立っているようだった。せめてもの時間稼ぎとばかりに、俺は疑問をぶつける。
「どうして、自分では行かれないんですか」と。
そう、我ながら真っ当な疑問である。それだけ事情が分かっているのなら、こんな回りくどい手段を取らず、直接司旦を手に掛ければいいのではないか。もしも人殺しの罪を被りたくないという理由ならば、俺は今すぐ突っぱねたかった。
逆に言えば、俺は自分が関わっていないところであれば、運悪く司旦が死んだところで特に異論もなかった。数少ない奴との思い出はあまり楽しいものではないし、多少居心地が悪いだけで、奴が誰に殺されようが俺の知ったことではない。
ところが彼は涼しげな顔で、それでいてどこか芝居がかった風に眉を下げる。
「そうしたいのは山々だが、私は今、ここにいないからな」
「ここにいない?」本当に意味が分からず、俺はそのまま繰り返す。
「そう。それに私は他のことで忙しい。いいか、お前が上手く司旦を仕留めたところで、白狐が朝廷で極刑になることに変わりはない。私はそちらを止めることに尽力する」
だから小物の始末はお前に任せる、と。そう言って、あたかも手駒を並べた盤を垣間見せるよう、千伽はその計画の一端を俺に明かしたが、どちらかというとそれは俺を宥めるための飴に過ぎず、余計な情報は一切与えないという頑なさの方が心に残った。
ただ少なくとも、計画を語る千伽の表情は真剣で、この男は白狐さんを助けるという点においてはほぼ間違いなく本気であるということだけは分かった。
ただの人間がここまでの合理主義に徹するのは難しい。一体彼を動かす根底は何なのか、邪推したくもなる。
***
結論から言えば、俺は“餞別”を受け取った。いや、無理矢理押し付けられたという方が正しいが。
全く反論する隙も与えられず、やはり断るべきだったと今更良心が咎めても遅い。密約は成立したのである。少なくとも、あの男の中では──。
縁側だった場所に一人へたり込む。俺は、千伽がいた場所を目でなぞっては己の心の弱さを嘆いていた。
手の中には、餞別と称して渡された扇子が二つある。どれほど美術的価値があるのか論じるのは後にしても、受け取るべきではなかったのだ。何故こんなことになってしまったのか、不可解な疑念と後悔がせめぎ合う。
恐らく、初めから仕組まれていた。あの男が姿を消してから、俺はようやくそのことに気づく。あの男はこの家に俺が戻ってくる時を待っていた。使える人材ならば、誰でも構わなかったのかもしれない。
千伽は「私はここにいない」という意味不明な弁明を口にしたが、それは文字通りの意味だった。確かに彼は“いなかった”のだ。己に最も有利な状況を作り、獲物が罠にかかるのを待っていた。
そう、幻覚を見せるスコノスである。あたかも目の前にいるかのように見えた千伽のあの姿は実体を伴わないまやかしだった。道理で俺の仕掛けた攻撃が通用しなかった訳である。果たして千伽という人間がこの世に実在するのか、それすらも曖昧になってしまった。
俺に餞別を押し付けた千伽は、俺が留める間もなく輪郭線を揺らがせ、にやりと不吉に歪んだ口角の残像を残してたちまち掻き消えた。文字通り、跡形もなく。
夢の残滓にも似た余韻がまだ漂っている。俺は、眠りから覚めた人のように何度も目を擦る。
同じ光景を見たことがあった。それも、つい先日。幻覚を見せるスコノス。
単なる偶然か、或は完全なる予定調和か。きっと考えるだけ無駄だ。彼は一体どの段階から俺たちに関わっていたのか、などと──。
「──……」
時間が経つにつれ、俺は自分が立たされている窮地に実感が湧く。あの男がほとんど一方的に成立させた密約はただの口約束に過ぎないが、それ以上に俺の心に重枷を掛けたのだ。朝廷の薄暗い陰謀、六十二年前の事件の裏を匂わせ、俺の胸に焦りと恐怖を植え付けた。
あの男の話を無視してこの餞別を持ち逃げしたとしても、埋め込まれた焦燥感と危機感はどこまでも俺につき纏うだろう。司旦の話もそうだ。真偽はともあれ、七星一行の動向は確かに気になる。白狐さんの命がかかっているのだ。
千伽の目的が何であれ、俺はきっと彼らを追うだろう。そして彼の“密約”に従うのであれば、司旦を──。
寒々とした気持ちになる。自分の内から人間らしさが流れて消えていくようだった。元々人間でないのだから、人殺し程度で狼狽える玉でもなかろうと、去り際に馬鹿にされたのは癪だった。
それはスコノスという精霊一般に通ずる嗜虐性を指しているだけであって、俺にはまだ人間としての心が残っている。そして、それを気安く手放すつもりもない。
これは孑宸皇国全体を揺るがす政治的な揉め事である。俺が結ばされた例の密約はあの男の計画の一端に過ぎない。彼らの本当の敵は中央に蔓延る貴族層であり、朝廷を統べる皇帝であり、軽率に首を突っ込んでいい問題でないことは俺でも分かった。幾ら白狐さんに助けられた身とはいえ、その恩に報いるため人の命を手に掛ける道理はない。
はっきりと言おう。俺は司旦を殺すつもりはない。それはささやかな良心の呵責であり、千伽の計画に乗ることへの恐怖であり、未だ判然としないこの状況への懐疑でもある。そも、俺に七星を暗殺できるだけの技量もないのだが。
同時に、頭に刷り込まれた予言が占い師の不吉なそれのようにこびり付いていた。「司旦は、七星と皇帝を裏切るだろう」と。それが本当なのか確かめる術はない。ただのはったりと跳ねつけるには少々不吉で、もし事実だとすれば取り返しのつかないことになる。
「……」
──迷っている時間はなかった。いずれにせよ、このままではいられない。立ち止まっていれば、死ぬだけだ。ならば、前に進むしかない。




