Ⅳ
これほどまでに傲慢不遜な男は、後にも先にも現れないかもしれない、と俺は思った。千伽という彼の名を噛み締める。およそ本名なのかそうではないのか判断つかない。そしてそれ以上に、いきなり暴力を振るうような輩が──例えどんな身分にあろうとも──信用に値するとは到底思えない。
疲労と緊張のため脳が鈍り、俺は譫言のようにその名を呟く。「せんか……」と。
「様を付けろ。無礼者」
再び暴力の気配を感じ、俺は身を縮める。幸い振り上げられた拳はそこで止まったが、機嫌を損ねればただでは済まないという感覚が骨まで染みていた。ずるずる身を引き摺るようにして、体勢を整える。
相手は俺を殺すことが目的ではない。しかし、逃げる準備はするに越したことはない。距離を取るこちらをつまらなそうに一瞥し、千伽は鼻を鳴らす。
「ふん、期待外れだな。私の名も知らぬとは、あの狐は多く話さなかったのか?」
「……」
「なら七星を遣わすまでもない。ハ、あの皇帝も余程の心配性と見える。この調子では白狐の首を斬るのも容易かろう」
聞き捨てならない言葉が、ぐるぐると脳裏を巡る。千伽の立場を計りかねた俺は、ただ理解した部分のみを飲み込む。
「白狐さんが、首を斬られる?」
「そうとも。影家の狐は、皇帝にとっちゃ目の上の瘤。後顧の憂いは払っておくのが為政者の責務よ」
彼の言葉を信用するならば──やはりあの書簡に書かれた「恩赦」という約束は大嘘だったという訳だ。
俺は切れた唇を結び、顔を上げる。こちらを見下ろす千伽の眼差しは相変わらず冷徹で、それでいてどこか試すような色を浮かべていた。あたかも皇国の朝廷の内情を知り尽くしたかのように語る男がこの何者なのか──。
惜しげもなく振るわれる尊大な態度は、きっとこの男は高貴な雲上人に違いないという確信を俺に持たせたが、腹を探れば腕ごと咬み千切られそうでもある。
千伽はふと口元を緩ませた。
「ふん。その様子、皇国の事情に相当疎いと見える。やはり白狐は何も言わなかったのだな」
「……」
その言い方は、まるでその信頼に足らなかったと俺を嘲ているかのようだった。
「よもや白狐がどれだけの身分のものだったのか、知らない訳ではあるまい」
眉を顰め、不服を示す。そんなことを言われたところで、俺は元々この世界の生まれではない。無論、そんなややこしい言い訳を口にするつもりはなかったが。代わりに、今自分が知る限りの情報をぶつける。
「影家の狐は、かつて朝廷に仕えていて……それで、六十二年前に、クーデターを企てたとかで時の皇帝に粛清されたと」
「そうだ。だが、それだけじゃない」千伽は尤もらしく頷き、やはりこちらの無知を蔑むようだった。
「ただの叛逆者なれば、これほどまでに大掛かりな茶番を仕込む必要はない。物取りにでも見せかけて暗殺する方が余程楽だ」
何故、と俺は内心で訝る。話の内容ではなく、男の言動に。何故この男は俺にそんな話をするのか意図が読めない。彼の言う茶番とは、皇帝の書簡に隠された嘘ということだろうということは大方予想がついた。しかしあの文の中身すら把握している彼は何者なのか?
得体のしれぬこの男からまともに話を聞いてはいけないと理性が囁いた。同時に、足が動かないのも事実だった。頭が徐々に男に惹かれ、支配されていく。それが彼の能力だと知ったのは随分先の話だ。
千伽は手の中の煙管を弄び、そんな俺を嘲るように一瞥した。その瞳を見て、俺は彼から逃れる術はないのだと知る。心にかけられた拘束は、時に肉体を縛るそれよりも強固なのだ。「白狐のこと、知りたくないのか?」と微笑混じりに問われ、俺はただただ無言で頷くほかない。
千伽は実に楽しそうだった。自身の力で人を屈服させるのが楽しくてしょうがないらしかった。そして、さして勿体ぶるつもりもないのかさらりと口ずさむ。
「あの狐はかつて儲君と呼ばれていた」
「……儲、君……」
聞き慣れない単語に俺は瞬いた。否、意味を全く知らない訳ではなかったが、あまりに自分とかけ離れた言葉であったため、反応が遅れる。
儲君とは皇帝の世継ぎを指す言葉だ。すなわち、皇太子。次の皇帝になる資格を持った男──。
「そうだ──あれは、皇帝になるはずだったんだ」
口を開くのも忘れてしまう。薄い反応をひとつ寄越し、二秒ほど経ってようやく衝撃がやってきた。ええ、と間抜けな声が漏れるのを押さえ、しかし目線が右往左往する。
それはあまりに縁遠く、教科書の記述の如き現実味のない身分である。
まさかこの一年共に暮らしてきたあの人が、あの夜、奴隷狩りから気まぐれに俺を救ってくれた世捨て人が、かつて帝冠を戴く立場にあったのかと。彼の浮世離れした立ち居振る舞いに仙人のようなものを想像したことがなかった訳ではないが、まさかそれほどまでの身分の人だったとは。
数日前、暢気に彼と日向ぼっこしていた俺は、隣に皇帝の世継ぎがいたなどと考えもしなかったのである。
顔を青ざめさせる俺を見ても、千伽はさして訝るでもない。「この国の皇帝がどうやって選ばれるか、お前は知っているか」と。
俺は戸惑いながらも頷いた。
孑宸皇国の中枢、政と軍事。その全てを掌る唯一無二の皇帝は、国の創始者たる〈月天子〉の子孫として祀られ、地上で最も尊いものとされる。ただの支配者という枠を超えた、人々から崇められる神として。ゆえに歴代の皇帝は清き血統を重んじ、その位をごく狭い血縁で継いでいった。
とはいえ──これが最も重要な点なのだが──帝の座は厳密には世襲ではない。
孑宸皇国の為政者たちは長い歴史を刻む中で、一家の独裁が続けば政治が腐ることを知っていた。世界史を見ても、血縁によって紡がれる統治には必ずと言っていいほど継承戦争がつきものである。
血塗られた内輪揉めと堕落した腐敗王朝を経て、朝廷は改革を余儀なくされた。そして皇帝選出は複数の貴族家による“指名制”とし、更にその位に期間を設けたのである。
要するに独裁を防ぐため、八家の門閥貴族の中から血と才、統治者に最も相応しい器の男子を審査し、候補者からただ一人を選ぶのだ。厳しく、そして公平に。その候補は儲君と呼ばれ、いわば皇太子と同等の扱いを受ける。皇帝候補が複数いる場合は儲君も複数いることになるので、結局泥沼の継承争いになるには違いないのだが。
「月天子、孑宸皇国の始祖たる天の御子。その正しき血を継いだ八家の門閥貴族のひとつが影家だ。朝廷の内部に深く根差し、至四家の一つとしても数えられる」
千伽が片眉を持ち上げる。白狐さんは六十二年前、皇帝に選ばれる寸前まで上り詰めた大貴族の嫡子だったのである。しかし、皇帝にはなれなかった。それは何故か。
「六十二年前の政変……ですね」俺は小さな声で確認する。「影家の狐が、クーデターを起こしたと」
「まあ、未遂だった上に蜂起した訳でもないから、その表現は正しくないが」
目の前の男はどう説明すべきか、目線を泳がせて考えている。躊躇っているというより、この俺にどこまで話すか算段を付けているらしかった。
「儲君同士で揉めたのさ。よくある話だ。当時、次期皇帝と噂された儲君は三人いてな」当時を振り返るよう、千伽の眼差しがふと遠くなる。「潰し合いをするために、影家が謀ったと」
「具体的には?」
「毒を盛った。他の儲君にな」
「あの人が、皇帝の座を奪うために実力行使を……?」
口ではそう言いながら、俺は信じられなかった。世捨て人の主は己よりも他人を優先し、あらゆるものに敬意を払える優しい人である。そんな人が権力を求めて不正を行うなど想像つかない。
「はてさて。その評価がどの程度正しいのか、私は知らんがね」人を食ったよう唇を歪める彼は、一体何を知っているというのか。
「結局、その企みは失敗に終わった。当時の皇帝が禁軍を動かす大騒ぎになってな、影家は丸ごと綱紀粛清に処され、儲君だった白狐は叛逆者の烙印を押されて逃亡した。それが六十二年前の事件だ」
「……」
俺は黙る。脳が理解を拒んでいた。今まで俺が共に暮らしてきた白狐さんは、目先の欲に釣られて狼藉を働く人ではなかった。それともそれは仮初の姿で、実際には毒を盛ってまで他人を貶めようとする野心家だったのだろうか。都を追われ、落ち延びて気が変わったのならまだいいが、俺はあの人について知らないことが多すぎる。
「困っている人は放っておけない」と誰にでも手を差し伸べ、慎ましく天を敬い、日々の平穏にささやかな喜びを見出す世捨て人。そんな彼を一年も慕ってきた身の上、信じられないという一言に尽きる。いや、信じたくないというのが本音か。
そんな俺の様子を舐め回すように眺め、千伽は煙を吐いて口端を釣り上げる。その笑い方が癪だった。
「ひとつ良い言葉を教えてやろう。“歴史は勝者のみが語る”ということをな」
「勝者にとって都合の悪い歴史は語られない、と。そういうことですか」
「然り。分かっているではないか」
──六十二年前の大粛清。敗者は白狐さんだ。つまり、裏があるのだろう。現皇帝が隠さなければならないような、不都合な内情が。
俺はすぐに納得した。その方が辻褄も合う。
「これより白狐は都で裁かれ、首を落とされる」千伽は自身の爪を眺め、そう呟いた。
「……」
それは予言というより、確信に近い。彼の言葉を信じていいのか、俺は迷う。彼のふたつの瞳がじっと虚空を睨んでいる。盤を俯瞰する棋士のように。
「今の皇帝にとって、白狐は取り逃した過去の政敵。軍も持たない落ちぶれた元儲君など今更畏れるに値しないが──奴は曲がりなりにも月天子の末裔。皇帝は、白狐の髪が宿す神性を畏れている」
神性。それは白狐さんの容貌でも一際目を引く、雪のような頭髪。生まれながらにして白い髪をした子は、瑞兆であると信じられる。飽くまで信仰の話だが、確かにあの白髪は否応なしに人を惹きつけ、そこに何らかの神秘が見出されたとしてもおかしくはない。千伽はあたかも目の前にその人がいるかのようにそう語る。
白狐さんは、天子と呼ばれるに相応しい天性をもって生まれてきた。彼への崇拝は今なお根強く残り、現皇帝の臣下でさえ、影家の狐を裁くことで威信が傷つくことを恐れているのだという。
「だからこそ影家の狐は朝廷で裁かれ、処刑されなければならない。奴を公で殺して初めて、皇帝は己こそが唯一無二の正当な天子であると証明できる」
「……」
茶番。なるほど確かに、そう呼ぶに相応しい悪趣味な政治劇の一幕らしい。朝廷の権力争いなど興味はないが、如何にも胸の悪い話である。
そして、胸糞悪いのはこの目の前の男も同じだった。千伽は一体どんな意図があってこんな話をするのか。俺を焚きつけて何かしたいのかと勘ぐったとき、彼の形のいい唇が下品に歪み、俺は己の予感があながち間違っていなかったことを悟る。
「そこでだ。単刀直入に、お前とは密約を結びたい」
何だって? 俺の声は裏返る。千伽は掌に乗せた駒を転がすよう、艶のある声で笑った。