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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第三話 悪夢
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 陽が沈む。渓流を遡行し、草の奥深い山の獣道を辿りながら身を顰めていた俺は、夜になるまでに翔とばったり出くわすのではないか、という都合のいい想定を砕かれ、落胆していた。現実はどこまでも冷たい。

 夜を待つ間、近くに生えていた蓚の若い芽を千切り、少しずつ口に含む。食べ過ぎれば毒になるが、齧れば酸味があって空腹が紛れた。それから道すがら見つけた細々した山菜を、例えば野蒜の鱗茎などを採っておいて腹の足しにした。

 食べられるもの、食べられないもの。歩いていい場所、避けなければならない場所。山で生きる術を教えてくれた翔がいない。その事実が頭を過る度、否応なしに思考が悪い方へと傾く。ああ、と膝を抱え。陽の名残が完全に消えるのを見送る。全部夢だったらいいのに、と。


 低い笛にも似た、梟の鳴き声がする。静けさが鼓膜に染み、闇すらも蠢いているように錯覚された。頭上には暈けた朧月。雲は張り付いたようで、空気は冷え冷えとし、俺の頭も冴えてくる。

 木々の陰を踏み、道なき道を獣のように駆けた。

 日が暮れてから二時間は経っている。俺は昼間よりも細心の注意を払い、頭に描いた地図をもとにゆっくりと茂みの中を進んだ。目指すは世捨て人の家。しかし、直線で向かうにはあまりに危険すぎた。何より俺には勇気が欠けている。

 どこかに追手が潜んでいるかもしれない。そんな妄想が幾度過ったか知れなかった。結果としてあの家を移動の中心に据え、円を描くようにぐるぐる回り、誰もいないか確認しながら徐々に距離を縮めていくという慎重に慎重を重ねた進み方をして今に至る。


 丸一日ぶりに世捨て人の家の屋根を暗闇の中に見たのは、それから更に一時間も経とうという頃だった。

 瓦で葺いた屋根の形。遠目から覗いてほっとする。もう火の手は消えたらしい。

 しかし近付くにつれて焦げ臭い、嫌な匂いが風に乗り、あの家は焼けたのだという事実が染み込む。炎によって完膚なきまでに居場所を奪われたあのときの光景が蘇っては、俺は繰り返し陰鬱になるのだった。

 ここから見る限り、人の気配は感じられなかった。裏口に近い笹薮の茂みに伏し、しばらく耳を研ぎ澄ませてから、ようやく家の傍まで寄る気力を奮い立たせる。

 朧げな月明かりが、俺の影を後ろに長く引いた。聞こえるのは自分の足音と呼吸だけ。

 俺は眉を顰める。人の住む場所の焼けた匂いとは、何とも嫌なものだ。灰の埃っぽい残り香、燻る煙、無残に黒く焦げた柱や梁。そのひとつひとつに昨日までの思い出があるというのに。


「……」


 近づけば近づくほど、廃墟と化した家の様相が明らかになる。醜悪な焼死体のようだった。燃えやすかった障子は跡形もなく、木の骨組みだけが荒々しく剥き出しになった屋根を支えている。家全体が黒く見えるのは夜のせいではなく、煤けて焼け焦げたせいなのだと。そう気付いたときに胸に迫った遣り切れなさを、形容する言葉が見つからない。

 中に入るのは少し躊躇われる。万一崩落するようなことがあれば危ない。薄暗がりの中では柱や梁の損傷の程度も分からない。

 しばらく葛藤し、結局焼け落ちた木材の残骸を潜って、慎重に家の内部を探索することにした。松明を熾すのは我慢した。追手が近くにいたら洒落にならない。


「……翔?」


 声に出して呼んでみる。音霊が俺の声を拾い、闇の奥へと運んでいった。返事はない。俺の心臓は徐々に落ち着きを失くしていく。

 考えたくない。考えたくはないが、もしここに相棒の焼死体が転がっていたら、俺はどんな顔をしたらいいか分からない。そんなものがないことを願うので精一杯だ。これ以上、希望を失いたくない。俺は初めて神に祈った。

 廊下だった場所を進み、崩壊した床に足を取られて躓く。がたんと大きな音がして、俺の心臓は口から出そうだ。天井から刺客が襲い掛かって来やしないかと、いちいち怯えて足が止まる。

 煤と灰の匂いのためか呼吸が苦しい。巨大な生き物の死骸の内部を歩き回っているような気分だった。


「──……」


 不意に、である。焦げた異臭で麻痺しかけていた俺の鼻腔が何かを捉えた。新しい匂いがする。すん、と鼻を吸って、眉を顰めた。まだどこかで火が残っているのかと思ったが、違うらしい。

 煙草の匂いだ。

 俺の心臓は再び暴れ出す。咄嗟に思い浮かんだのは、世捨て人の主のことだ。

 かの世捨て人の主は気管が弱いのに煙草を吸いたがる人だった。持病の気管支炎の発作を起こしているのも見たことがあるし、翔は幾度も心配してやめさせようとしていたが、それでも時折隠れて紫煙をゆくらせていた──。

 まさか、と思う。

 逸る気持ちを抑えきれず、俺の歩みは自然と早足になった。居間だ。いつも、世捨て人の主が縁側からの景色を眺めていた場所。瓦礫を避け、息を乱す。

 警戒を怠ったのは失敗だった。

 ばたん、と。勢いよく踏み入り、凍りつく。半壊した屋根から差し込む月光が、俺の背後に影を伸ばした。調度品や瓦の残骸が不格好な輪郭を描き、焼け残った床に散乱している。

 鼻先を刺す、匂い。俺にとって好ましくない煙草の煙が、ゆるりと中空に浮かぶ。咽喉を鳴らした。それが今の俺にできる精一杯の動作だった。

 俺の視線はただ一点にのみ釘付けされている。


 ──そう、男がいた。

 変わり果てた居間。その者はただひとり、辛うじて形を保っている寝椅子に身を委ねていた。背を向けているため表情は窺えない。我が物顔で悠然と煙管をくわえ、月を仰ぐ後ろ姿に、俺は意識を吸い込まれた。眩暈を覚えるほどに。

 ──白狐さんではない。

 落胆よりも恐怖の方が勝った。見たこともない男である。瓦礫の中、彼は全く突拍子もない唐突さでそこにいた。その輪郭線はいやに明瞭で、出来の悪い合成写真のようでもある。

 その男は棒立ちする俺には目もくれず、悠々と紫煙をゆくらせている。俺がいることに気付いていないのか、否、そんなはずはない。あんなにも派手な音を立てたのだ。まるで俺のことなどいないかのようにこちらを無視する背は、男の存在をより一層不気味にさせた。

 声を、声を出さねば。俺は喉仏を震わす。何か言わなければ。沈黙に耐えかね、はくはく息を吸い、言葉を上擦らせた。あの、と。半端に力んだ俺の声は、次の瞬間ぴしゃりと封じられる。


「うるせぇよ」


 ぴしり、と。空気が、音もなく凍ったようだ。決して大きな発声でないのに、頬を張られたような衝撃。息すら止まる。紛れもなく、目の前の男が発したものだった。彼は振り返らず、低く、しかしはっきりと続ける。


「用がないならとっとと出て行きやがれ」


 腹の底に響く、凄味のある声だった。俺は動けない。ただ唇を震わせた。

 出て行けとは随分な物言いである。むしろ、それはこちらの台詞なのではないか。この家は俺のものではないが、少なくとも男のものでもない。


「誰だ……お前」


 声を絞り出した直後、やってはいけないことをしたような、触れてはいけないものを壊したような、そんな手応えが走る。じっとりと嫌な汗が掌に滲んだ。男がゆっくりと意味ありげに振り向いたとき、俺は己の過ちを悟った。

 男の目はどこか楽しげであったが、その裏には計り知れない威圧が根を張っている。この私に声を掛けるなどいい度胸だな、と挑発している。もう一遍言ってみろ、とも。

 俺に、反駁する気概などなかった。口を噤むこちらを一瞥し、すうと笑みを消す。不意に、男は面前に転がっていた家具の残骸を蹴り飛ばした。そうして乱暴極まりない動作で立ち上がり、俺を見下ろす。俺よりも頭一つ上背が高い。


「……」


 彼はしばらく何も言わず、ただふたつの瞳に俺を閉じ込める。黒水晶のように冷たく、固く、奥に光を秘めている。目を逸らそうにも抗い難い磁力で惹きつけられる。まるで花神の魔性のように、彼の視線は人を虜にする狂気に満ち、同時に性的でもあった。

 刹那、いきなり殴りつけられた。全く、何の脈絡もなく。顔面に痛みを感じた頃には既に俺は床に転がっている。頬骨が激痛で痺れ、左の奥歯から血の味が滲んだ。呻く。いや、恐怖で声すら出ない。

 動物的に後退る俺の前に、男が容赦なく立ちはだかる。


「挨拶のひとつも出来ねえのか。あ?」


 吐き捨てられたのはそんな言葉だった。聞く人すべてを服従させる声。抵抗する気力すら根こそぎ奪うその振る舞いは、どこか拷問を思わせた。

 蹴り飛ばされるかと思ったが、それ以上の暴力はなかった。少なくとも物理的には。男は、どこで人の心が折れるのか的確に判断している。闇雲に拳を振るうより、心を玩具のように弄ぶかのようなこの男の態度が俺には恐ろしかった。

 黒髪を無造作に掻き上げる。力強い目元が印象的な男だった。同性の俺でも美しいと思えた。


「何だ、言葉も知らんのか。つまらん」


「……」


 挑発、というより心からそう思っているらしい。男は踵を返す。真っ黒な着物の裾がひらりと翻った。無造作な着こなしだが、一目で高じきな品だと分かる。

 床にへたり込んでいた俺は、彼の背を見上げる。涙が滲み、景色がぼやけていた。悔しさとも激情ともつかぬ衝動が喉を接付く。俺は男が何者なのか知らなかった。そして、何者かも分からぬ男にいきなり殴りつけられ、罵倒される意味も分からなかった。

 勢いよく立ち上がる。ふつふつと熱いものが湧き、握った拳を握りしめた。

 この数日分の、一方的に俺を叩き落とす理不尽への腹立たしさ、混乱が遂に限界を突破し、あたり構わず喚き散らしたくなる。頭が白く塗り潰され、目の前の標的へと集中した。


「──……厳つ霊」


 掌に爪が食い込む。白熱した光が強まり、全身が熱くなる。そう、怒りこそが力。激昂すればするほど雷の霊はいや増し、制御が利かなくなる。構うものか。半分くらいは八つ当たりだが、と頭の隅に浮かんだ自虐は、あっという間に押し潰される。

 男が異変を察知して振り向くのと、俺が咆哮するのはほぼ同時だった。

 激しい地鳴りとともに、嵐のような風が吹き荒れる。いや、正確に言えば稲妻を帯びた音の霊である。衝動を力の限りにぶちまけた俺は、反動で床に倒れ込み、息を切らした。ただでさえ焼けて半壊した家にとどめを刺してしまったような気がしないでもなかったが、考えないことにする。


「所詮は獣か」


 不意に、近いところから声が降ってきた。俺ははっとなる。いつしか目の前に仁王立ちする男は、驚いたことに傷ひとつなく、いっそ現実味がないほど綺麗なままでそこにいた。

 俺は目を凝らす。スコノスの力が、この男に届いた手応えがない。この男、生きたネクロ・エグロだろうか?


「行儀の悪い犬だな。白狐の奴、躾を怠ったか」


 吹き荒れる厳つ霊の余韻に髪を荒ぶらせ、男は軽々と鼻で笑った。


「い、今、何と……」息も絶え絶えで俺は譫言のように繰り返す。「白狐?」


 思わぬ人の名だった。この得体のしれぬ男は、世捨て人の主の何を知っているというのか──。

 苦しくて喉が上擦る。俺は床に手をついた。


「お前は……何故、白狐さんの名前を? 一体、何者なんだ?」


 ひとつ、間。そして、思い切り腹を蹴り飛ばされた。油断していた俺は、壁にぶつかって咳き込む。本気で蹴られた。こちらの骨が折れようが気絶しようが構わないという、容赦ない一撃だった。


「口の利き方には気をつけろ」


「げほっ……」


「この私を、先に名乗らせるつもりか?」


 男の目が、紫を帯びて爛々と光る。暴君、という単語が浮かんだ。何者かも弁えず迂闊に訊ねたのは俺の失態かもしれないが、蹴られる道理はない。

 突然顎を掴まれる。上を向かされ、俺は渋々口を動かす。ぬるりと苦い血の味がした。


「……皓、輝」


「それが本当の名か?」


 間髪入れずに返され、心臓がぎくりと音を立てる。

 何もかもを見透かしたかのような目が間近にある。俺はそこから目を離せない。視線を剥がすのに、尋常でない労力を要する。

 一体何なのか。まさか、この男、一目で俺の正体を見抜いたというのか。

 しかし、だ。正体を悟られたからこそ、俺は己の真の名を明かす訳にはいかない。それは自然界の掟でもある。スコノスにとって、主からもらった名というのは主の命の次に大事にすべきもの。半ば意地もあったが、俺はどんなに虐げられようが名乗るつもりはなかった。

 俺は呻くように声を絞る。「本当の名は、教えられない」と。


「ほお、生意気な。それでは私も、お前に全ての名を教える訳にはいかないな」


 怒りを買うかと思ったが、彼は意外にもあっさりと引き下がった。その意地悪い笑い方を見て、きっと彼は俺がそう答えることを分かっていたのだと知る。

 悔しさ混じりに半身を起こすと、男は身を翻し、月の見える縁側まで足を向ける。そしてついでのように、しかし重みのある口調を続けた。


「私の名は千伽(センカ)。ああ、気安く呼ぶなよ。名に泥が付くゆえ」




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