カナタの彼
学校から帰る途中わたしの頭上を一匹のツバメが飛んでいった。
わたしはそれに見惚れて足を止める。そして、思い出す。去年のことを。
わたしは去年一匹のツバメを飼っていた。カナタ、という名前だった。
今でもカナタがオスだったのかメスだったのか、というのはわからない。けど、わたしはカナタはオスだ、とそう思っている。
彼は今、どうしてるだろうか。元気にしているんだろうか。
そう思いながらわたしは彼との出会いを思い返していた。
わたしが彼と出会ったのは去年の五月。学校から家に帰る途中で彼を見つけた。
彼に何があったのかはわからない。この辺りではときどきカラスを見かけるから、それにやられたのかもしれない。
わたしはただ、彼が翼から血を流しているのを見て、いても立ってもいられなくなった。彼に近づきおそるおそる持ち上げると急いで家へと向かった。
けど、家についてからどうしていいのかわからなくなってしまった。どうやってケガの手当てをすればいいのかがわからなかった。
早く何とかしないと、という気持ちだけが先行して混乱していた。でも、とにかくなにかしないと、と思った。だから、人間にするのと同じように治療をした。
救急箱を取り出して傷口に消毒液をかけ、包帯を巻きつける。そんな簡単なことしかできなかった。正しいのかどうかさえもわからない。
それに、治療の間、彼が暴れてしまいとてもやりにくかった。だから、包帯の巻き方も雑なものとなってしまった。
でも、そこでとりあえずは一番大きな懸念は消え去った。鳥の傷の治療の仕方が人間と同じなら、だけど。
まあ、そんなことをうじうじと気にしていても意味がない。とにかく、大丈夫なんだ、とそう思っておく。
……けど、次の日になって死んでいる、っていうのは嫌だな。
彼の方を見てみると、彼は力なく鳴いている。本当に鳴いたのかさえも怪しい泣き声だった。
なんだか、すごく不安になってきた。本当にこんなので大丈夫なんだろうか。
結局、わたしはうじうじと悩んでしまう。と、そこに、また彼の力ない声が聞こえてきた。
そうだ、今は悩んでる場合じゃない。取りあえず、何か食べるものを持ってきてあげないと。それと、水も。
ツバメが食べるもの、と言えば虫、だよね。とりあえず、鳥、と言えば虫を食べる、っていうイメージがあるし。
……虫はちょっと抵抗があるなぁ。でも、捕まえてこないわけにはいかない。出来るだけ自然に近い状態にしてあげないとね。
わたしはそう思って虫を捕まえてくることを決意する。決意、なんて大袈裟かもしれない。けど、そうでもしないと心が折れてしまいそうだった。正直、虫はあまり好きではない。むしろ、嫌いな部類に入る。
でも、とりあえず何かやることが出来て不安も少し軽減される。まずは、彼に水を用意してあげよう、そう思って台所へと向かった。
虫取り網とビニールの袋を持ってわたしは近くにある空地へと来ていた。
ここは、ずっと放置されているらしく草が好き勝手に伸びている。これだけ、草が生えていれば少し探せばすぐに虫を捕まえられることはできるだろう。
素手で捕まえるのは無理だろう、と判断したわたしは虫取り網を用意した。この網はわたしが幼稚園に行ってた頃に両親に買ってもらったものだったと思う。でも、そのときから虫は苦手だったから使うことなんてなかった。今回のためにわざわざ倉庫から引っ張り出してきた。
虫に触れられるとか触れられないとか以前にわたしの運動能力・反射神経では捕まえられることさえできない、と思ったからだ。
体力測定の結果はほとんど標準以下だった。
人並みには動いてると思うんだけどなぁ。なんでなんだろ。
けど、わたし自身、特に悲観とかはしてない。うまく思った通りに動けない、っていうのは煩わしいところがあるけど日常生活に問題が出るほどではない。あくまで、運動をするときに標準以下なだけだ。
そんなことをぼんやりと考えていると草が風以外の何かで動いたように見えた。それを見てわたしは、虫を捕まえにきたんだ、ということを思い出した。今のは虫だったんだろうか。
わたしは、意を決して草むらの中へと突貫する。けど、わたしはそこで一つ間違いを犯してしまったことに気がつく。
早く、彼に食べるものを持って行ってあげないと、という気持ちが先行していたから着替えてなんかいない。だから、制服のままだ。
ということは、当然ながら今穿いているのはスカートだ。素足に当たる草がかなりくすぐったい。
くすぐられたりするのには弱いんだけど今更戻って着替えてくることも出来ない。彼を待たせるわけにはいかない。
だから、わたしはこの草むらから出ていきたい気持ちを頑張って抑える。くすぐったさも頑張って我慢する。
でも、さすがにしゃがむのは無理だ。絶対にしゃがめない自信がある。というか、絶対にしゃがみたくない。
だから、立ったまま目を凝らして草むらを見る。眼は悪くない方だという自信がある。この前の視力検査では両方とも1.2はあった。
じ〜っ、と草むらを見つめる。動くものは見えない。
風に揺られる草がふくらはぎのあたりを撫でる。くすぐったくってこの場から逃げ出したい、という気持ちがまた出てくる。
でも、家で彼が待ってるんだ、と思ってその場で踏みとどまる。いや、踏みとどまってるだけじゃダメだ。ちゃんと、彼の食べ物も見つけてあげないと。
そんな風に何度も逃げ出したくなり、その度に自分を抑えること十数分。視界の端で何かが動いた。
わたしはほとんど反射的にそちらに向けて虫取り網を振り下ろした。虫取り網が草を叩きバッタが数匹飛ぶ。
「わわっ」
わたしはそのことに驚いてそんな声をあげてしまう。驚きで少し速まった心音を宥めるようにわたしは胸に手を当てる。それから、深呼吸をし落ち着け〜、落ち着け〜、と念じる。
それが効いたのかはわからないが、少しして落ち着いてきた。
わたしは一度振り下ろした虫取り網の網の部分へと近づく。網の端っこを摘まんで網の中を見る。
網の中にいたのは本当に小さな、指の先くらいの大きさの虫だけだった。わたしの視界の端に映ったのはもっと大きかったはずだから逃がしてしまったようだ。やっぱり、わたしの反射神経は当てにならない。
だけど、さっき一回網を振り下ろしたことでわかったことがあった。どうやら、わざわざ探そうとしなくてもいいくらいたくさんのバッタがいるようだ。
それだけ分かれば十分だ。あとは適当に網を振り回してれば捕まえられる……はずだ。
あんまり捕まえられるような自信はないんだけど、地道に探すよりはいくらかましだろう。そう思って、適当に網を振り下ろして運に任せて捕まえることにした。
家を出てから四十分ほどしてわたしは家に戻ってきた。
彼はわたしが置いてあげた浅めのお皿に入っている水を飲んでいた。
と、わたしが帰ってきたのに気がついたのか、それとも単に水を飲み終わってこちらに顔を向けただけなのかはわからないがこちらを見てきた。
「ただいま。待たせちゃったね」
わたしは彼にそう声をかけた。それから、
「君の為に取ってきてあげたんだよ」
わたしはバッタが五匹入っているビニール袋を見せた。あんまり大きいと食べにくいかな、と思って小さめのやつだけを捕まえた。
結局二十分近く頑張ってそれだけしか捕まえることができなかった。はっきり言って、バッタを捕まえた数よりも切り傷の方が多い。
うん、草であんなに皮膚が切れるとは思ってなかった。地味に痛い。お風呂に入ったときに滲みるんだろうなぁ。
……いやいや、今はわたしのことはどうでもいい。先に彼にわたしの捕まえてきたバッタをあげよう。
わたしはビニール袋の口から手を突っ込んでバッタを一匹指で摘まむ。まあ、三十分近くバッタを捕まえようと頑張っていれば摘まむことくらいどうってことなくなる。
「どう?食べれる?」
ゆっくりと彼の嘴にバッタを近づける。
彼はわたしのことを警戒しているのか、じっ、とバッタを見つめている。
ちょっと緊張する。もし、ここで食べてくれなかったらどうすればいいんだろう。
そうやって心配をしていたが無意味だったみたいだ。彼はわたしが差し出したバッタをくわえた。
しかも、それが結構急だったのでわたしは驚きで手を放してしまった。
でも、嬉しい。彼がちゃんとわたしから食べ物を受け取ってくれた、ってことが。それは、少しはわたしのことを信頼してくれている、と思ってもいいのだろうか。
自然とわたしの頬が緩んできてしまう。彼はわたしのことなんて構わずバッタを一飲みにする。
おお、結構豪快に食べるんだぁ、なんて思って見てると彼はわたしの方を見て一度だけ鳴いた。もっとほしい、ということなんだろうか。
彼がわたしに何を伝えたいのか、ということはわからなかったけど一番可能性の高そうな要望を叶えることにした。
わたしはもう一度袋の中に手を突っ込んでバッタを摘まむ。そして、また彼の嘴へとバッタを近づけた。
そうすると、またくわえてくれた。やっぱりもっと食べ物が欲しかったんだ。
彼の考えていることを当てることが出来て嬉しい。単純なことなんだろうけどそれでも嬉しいものは嬉しい。
彼が一匹食べ終わるたびにわたしは一匹彼に差し出した。
合計で四匹のバッタを食べてくれた。これだけ食べられるなら大丈夫かもしれない。ケガさえ治してしまえばすぐに飛んでいっていきそうな気がする。
どれくらいでケガは治るんだろうか。でも、彼のケガが治るまでわたしは一緒にいてあげるつもりだ。
「そうだっ。君に名前を付けてあげるよ」
わたしはまるで妙案を思い付いたかのように声を弾ませる。実際にはそんなにすごいことでもなんでもない。大体の人はすぐに思いつくはずだ。
でも、その時のわたしは彼がわたしの手から食べ物を受け取ってくれたことで気分が高揚していた。だから、なんでもないことでもすごい事のように感じてしまった。
彼はわたしの言ってることがわかってるのかわかっていないのか首を傾げる。
「う〜ん、そうだね……」
わたしは彼をじっ、と見つめて考える。少し、彼の頭を撫でてみたりもする。それに対して彼はわたしの指を甘噛みする。なんだか、くすぐったさが心地よい。
いやいや、そうじゃない。彼の名前を考えないと。和んでる場合なんかじゃない。
「……そうだ、カナタ、なんてどうかな?空の彼方まで飛んで行ける、っていう感じで」
今の彼はそれをすることはできない。だけど、いつかきっとそうなってほしい、という願いを込めて。
「どう?」
彼にそう聞いてみるけど彼は首を傾げただけだった。
「やっぱり、わたしの言ってることがわかんないのかな?それとも、どう呼んでも良いってことなの?」
返ってきたのはわたしの指を嘴で軽くつつく、という行為。
「ごめん。わたしには君が何を言いたいのか、わかんないや。……じゃあ、とりあえず、君のことはカナタ、って呼ぶね。三日ぐらいしても反応しなかったらまた、考えなおしてあげるよ」
彼はわたしの指をまた甘噛みした。うーん、やっぱり何を考えてるのかよくわかんない。
彼を拾ってきてから三日が経った。
「カナタ、ただいま〜」
部屋に入ってそう言うとカナタが顔をあげてこちらへと寄ってくる。包帯はとれたがまだ完治はしていない。だからまだ、机の上しか移動することが出来なくて近づける距離なんてたかが知れてる。
それでも、わたしのつけた名前に反応してわたしに近づいてきてくれるのは正直とっても嬉しい。
しかもそれが、わたしが彼にカナタ、という名前を付けた次の日からとなればなおさらに嬉しい。
「今日はこういうのを捕まえてきたよ」
わたしが取り出したのはテントウムシ、蝶、バッタなどの昆虫が何匹も入ったビニール袋だ。今日から素手で捕まえることに挑戦してみたけど、うまくいった。最近では虫を触ることが嫌ではなくなってきていた。
むしろ、彼のためになるのだ、と思うと喜んで触ることができる。
彼はわたしの手に握られているビニール袋を見て嬉しそうな鳴き声を上げる。
「ちょっと待ってね。今、あげるから」
わたしはビニール袋からバッタを取り出して彼に与える。彼は二、三回バッタをつついてからくわえ、飲み込む。毎日見ててもやっぱり思ってしまう、豪快な食べ方だな、と。
彼が飲み込んだのを見計らって今度はテントウムシを与える。
彼はそれも一口で食べてしまう。だから、次を与える。
それを何度も繰り返して彼はわたしが捕まえてきた昆虫を全て食べてしまった。彼はわたしを少し見るけど、ビニール袋に何も入っていないのに気がつくと水の入ったお皿の方へと行ってしまった。まだ、物足りないみたいだ。
最初に会ったころよりも食欲が増してきている。しっかりと体力が回復してきてる、ってことだろうか。
鳴き声にも元気が出てきている。ケガさえ完治すればすぐに飛んで行ってしまいそうだ。
そんなふうに思いながらわたしは彼が乗っている机の前の椅子に座る。そうすると、彼はお皿から顔をあげてわたしのほうに近づいてきた。跳ねながら近づいてくるその姿がとっても可愛い。
自然と彼の方に手が伸びて指で彼の体を撫でてしまっている。彼は気持ちよさそうに目を細めてくれる。
手のひらを出せばその上に乗ってくれたりもする。そうやって、彼と一緒に散歩に出かけたりもした。
基本的にはわたしがいつも虫を捕まえている空地に行くか、住宅街の中を適当にぶらぶら歩いたりした。
空き地に行くとわたしは彼を草むらの近くに下ろしてあげる。
この先に虫がいるのがわかっているのかうずうずし始める。けど、決して中に入ろうとはしなかった。やっぱり、まだ体力が回復しきってないんだと思う。
「カナタ、君のケガがちゃんと治るまではちゃんと、わたしが代わりに捕まえてあげるからね」
毎回、そう言いながら彼をわたしの手のひらに再び乗せてあげる。そうして、散歩を再開する。
住宅街の中を歩いているときは時々別のツバメの姿を見かけた。そのたびに彼はツバメたちをじっ、と見つめていた。羨ましさか、はたまた懐かしさか。そういった感情が見え隠れしているようなそんな気がした。
「早くケガを治して皆と一緒に空を飛べるようになればいいね」
慰めるように頭を撫でて言った。彼がそれだけで満足できるとは思わないけどそれくらいしかわたしはしてあげることができなかった。
そんなふうにして、更に五日が経った。
この頃になってくると彼の傷も治り体力も回復した。名前を呼べばわたしの方まで飛んできて肩に止まってくれるようにもなった。
だから、わたしは彼の寝床として用意してあげているタオルの入った箱の近くの窓を開けっ放しにしている。
けど、彼が自分から出ていくことは決してなかった。彼が外に出るのはわたしと一緒に散歩をするときだけだった。
彼がわたしの歩く速度に合わせて進んだり戻ったりする。疲れたらわたしの肩に止まって羽を休める。そんな感じの散歩だった。
あの空き地に行くと彼はわたしの肩から離れていった。それは彼が自分で食べ物を取るためだ。
わたしは空き地の入り口に立って彼が虫を捕まえる様子を見ていたり、わたしも一緒に虫を捕まえたりした。
わたしが虫を捕まえているとき、彼はときどきわたしの方へと戻ってきた。そのときにわたしが捕まえた虫を受け取った。
そんなふうにして毎日を過ごしていた。
本当に本当に彼のことが可愛かった。
学校に行っている時以外はほとんど彼と一緒にいた。
なんだか、楽しかった。すごく楽しい、というわけではないけど、胸の中にこう、何かがたまっていくような感じがあるのだ。それがなんなのか、今でもよくわからない。けど、悪いものじゃなかった。とても心地の良いものだった。
そういえば、いつか友達にこう言われたことがあった。
彼氏でも出来たのか、と。
わたしは、そんなことないよ。でも、どうして、そんなことを聞くの?、と答えた。
友達いわく、なんだか幸せそうに見えたそうだ。まるで好きな人と一緒にいるかのように。
その言葉を聞いてわたしはカナタのことが好きなんだ、と気づいた。助けてあげよう、という気持ちばかりが先行してそんな気持ちに気付かなかった。
と言っても、友達が言ったような恋愛の好きではない。でも、ならどんな好きなのだ、と聞かれても答えられない。ただ、好き、なのだ。
まあ、考えても仕方のないことだ。わたしは彼のことが好き。彼もそう思ってくれたらいい。それだけでいいのだ。
けど、結局人間であるわたしが彼の気持ちを聞くことなんてできない。そして、ずっと一緒にいることも。
セミが元気よく鳴く七月の下旬。わたしが彼を拾ってきてからそろそろ三カ月ほどになるだろうというときだった。
彼が珍しく開け放したままの窓の桟の上に立っていた。
空は澄んでいて太陽の光も強かった。とても天気のいい日だったとおぼえている。
わたしは彼の後姿を見た瞬間についに来たんだな、と思った。
彼はわたしの方を向くこともせずに空を見つめている。
「カナタ、行っちゃうんだね」
少し泣きそうな声になっていた。
なんで、泣きそうになってるんだわたし。これは、嬉しいことなんだから、泣いてちゃダメだ!
そう思ってわたしは無理やり笑顔を浮かべた。
「カナタ。君とずっといられて楽しかったよ」
ちょっとだけ声が震える。
と、不意に彼がわたしの方を向いた。何度かわたしに向かって鳴き声をあげる。
彼が何を言っているのかはわからない。だけど、感謝の言葉を告げてくれているんだと思う。
わたしは何と答えていいかわからないから頷くだけだ。これで彼がわかってくれればいい、と思う。鈍いわたしに代わってわたしの思いも一緒に持って行ってくれればいい。
彼はまた青空を見上げる。
窓の外からさぁーっ、と風が吹き込んでくる。
セミの鳴き声が一瞬、ぴたっ、と止まる。
その直後。彼が飛び立つ。まるで、その瞬間を待ち構えていたかのように。
羽音は聞こえなった。だけど、彼の力強い羽ばたきはしっかりとこの眼に焼き付けた。
ううん、これだけじゃ足りない。彼に言わないといけないことがある。
「ばいばい、カナターっ!気を付けて、またケガ、しないようにしてねーっ!」
窓に駆け寄って彼の後姿へと向けて叫んだ。たぶん、今まで生きてきた中で一番大きな声だ。
それから、わたしは大きく手を振る。これだけやっても物足りない。だけど、これ以上どうしていいかわからない。だから、ただただ、大きく、おっきく手を、振る。彼の無事を祈って、彼にわたしの思いが届くことを祈って。
「行っちゃった、か……」
わたしは手を下ろして小さく呟く。わたしの視線の先にはタオルの入った空っぽの箱。そう、空っぽだ。彼がいなくなってしまえばもう、この箱は空っぽなのと同じだ。
と、箱の中に何かが落ちた。それがタオルを濡らす。
頬に触れてみるとそこに濡れた跡が残っていた。
「泣かない、って決めてたのに、結局、泣いちゃった、なぁ」
わたしはそのまま俯いて床に座り込んでしまう。
もう、彼は帰ってこない。いや、彼がわたしのことを覚えていてくれたら帰ってくるかもしれない。だけど、そんなことはほとんどないんだと思う。
「また、会えたら、いいな……」
雫が一滴、床に落ちる。わたしは目元を乱暴に拭って立ち上がる。
泣いちゃダメだ。彼との別れはまだ永遠ではないのだから、またいつか会えるかもしれないじゃないか。それに、会えなかったとしてもこれは彼にとっていい事なのだ。だから、悲しむのではなく喜ぶべきなのだ。
だから、立ちあがった。だから、泣くのはやめた。
またいつか彼に出会えたらいいそんな思いを胸に込めて。
「あれから一年、かぁ」
わたしは自分の部屋の椅子に座ってぼんやりと呟く。わたしの視線の先にあるのは彼が寝床としていた箱とタオルだ。一年前のままこうして残している。
お母さんは片付けろ、と言っていたけど彼との思い出がある物をそう簡単に片付けることはできない。
お母さんもわたしがずっとそんなことを言うものだから今では諦めてしまっている。
わたしはおもむろに窓を開ける。さわやかな風が吹き込んできて部屋の中のものを煽る。
ちょっとした予感があるのだ。それは言葉にしたら掻き消えてしまいそうなものだけど、確信だけは持てる。
そして、窓の桟の部分に一匹のツバメが止まった。まるで、あの別れの日のように。
わたしは自分の心音が速まってきているのに気がつく。でも、それは仕方のないことだ。これ以上、気持が高揚するようなことなんてあるだろうか。
わたしは期待に胸を膨らませ、呟くような声で、しかしはっきりと言った。
「……おかえり、カナタ」
わたしがそう言った瞬間、彼はわたしの肩まで飛んできた。
一度、遠く彼方へと飛んでいった彼。
けど、彼は彼方向こうから帰ってきてくれた。わたしのことを覚えていてくれた。
どうせ、すぐにまた別れてしまう。だから、今だけは彼との再会を素直に喜んでいたかった。
おわり
途中で戻ったりせずここまでお読みいただきありがとうございます。
恋愛もファンタジーも絡まない作品はこれが初めてでしたが、結構、楽しかったです。
ご感想などありましたら、よろしくお願いします。