苦悩の道のり
鎌智と奈良江は走り続ける。鎌智はこの先どうするか考えた。相手は多勢、囲まれるのも時間の問題だ。奈良江も息が切らして走るのが辛そうだ。この狭くて細い路地を進んでも意味が無いのか。足が力が入らなくなる。ネガティブになってはダメだ。まだ何かあるはずだ。路地を抜けて車が通る広い道に出た。車が来てない今のうちに、車線を渡って向こうの路地に入ろう。
鎌智が足を出した時、エンジン音が聞こえた。すぐに引き返して路地に隠れた。走ってくるのは一台の軽自動車。さっきの奴等ではなさそうだ。この車に見覚えがある。鎌智が車の前に飛び出すと、車はすぐにブレーキをかけた。
「危ないなって、鎌智さん? 何してるんですか?」
「やっぱり九同か! 助かった。乗せてくれ」
「え? あ、はいどうぞって、誰ですかその子は?」
「話は後だ。とにかく走らせろ!」
後部座席を開けて奈良江を乗せた後、鎌智は急いで助手席に乗り込む。九同が車を走らせると向こうから黒スーツの男達が載っていた車が走ってくる。鎌智は前に屈んで車が通り過ぎるのを待った。別の車の音が遠くなって行くのを確認し、姿勢を戻してシートベルトを付けた。先ほどから疑問のマークを見せる九同に、まず奈良江の事を話した。
「ええええええ! 本当に、あの、総理の娘さんなんですか!?」
「えが多い。顔はテレビに出てただろ。見てないのか?」
「ウチの家、昨日からテレビが壊れてて。いやそれより、何で鎌智さんは誘拐されたその子と一緒なんですか?」
まあ当たり前の反応だ。九同も昨夜の誘拐事件の事は知っている様だ。現に今、ラジオでも流れてる。鎌智は窓を開けて、外の景色をのんびりと眺めた。
「てか鎌智さん、昨日は俺と仕事してたじゃないですか! これアリバイでしょ?!」
「お前と一緒じゃ難しい。知人、友人だとアリバイが成立しないだろうな」
「と、とにかく、警察に連れて行きましょう。鎌智さんが犯人扱いされちゃいます」
「いや、事はそんな簡単じゃないんだ。警察には行けない」
「……なんかよく分かんないですけど、分かりました」
これは九同の口癖だ。分かったのかどうか分からない言い方だ。九同には奈良江の体の事は隠しておく。鎌智の勝手な判断だが、奈良江はあまり知られたくないだろう。それに自分はもう犯人扱いだ。警察には行けない。
「で、お前は今、どこに向かっているんだ?」
「この前出来た新築マンションです。検査の時に換気扇が動かなかったから、取替えて来るんです」
九同が後ろの方を親指で指差す。そこには換気扇が入ったダンボールがある。
「あれか……確かあそこ、まだ入居した人はいないよな」
「そうですけど……まさか、あそこに隠れる気ですか?」
「まさかの場所に行くんだよ。好都合だ」
「でもあそこは管理人がいますよ。それに入口にはセキュリティも付いて、全部屋オートロックです」
「そんなの知っている。誰が工事していたと思ってんだ。だから好都合だ」
鎌智は九同の顔を見て、ニヤリと笑った。九同にはそれが凄く怖かった。
五階建ての高級マンション、その駐車場に車を停めた。鎌智と九同は車から降りて後ろのトランクから、ダンボールを二つ降ろした。鎌智は一つを両手で持ち上げ、九同は右肩にダンボールを、左肩に脚立と工具箱を持って担いだ。大変そうだったので鎌智は手を貸そうかと言ったが、九同は大丈夫ですと断った。中に入るとフロントに管理人のおばちゃんが座っていた。管理人がこちらに気付いたので、九同は材料を置いて挨拶をした。
「おはようございます。換気扇の取替工事に来ました。鍵をお借りしてもよろしいですか?」
「ちょっと待って下さい。えっと…二台でしたっけ?」
「いえ。付いている換気扇を外したら、どこが悪かったか見る為に、ダンボールに入れて業者の方に持って行くんです」
もちろんこれは鎌智が考えた嘘だ。そんなの、持って来た新品のに入れ替えればいい話だ。ダンボールは別のを入れた。中身が空なら両手で持っておく必要はないが、何しろ子供一人の重さだ。
「そうですか。たしか五階の五号室でしたね。はい、お願いしま〜す」
九同は管理人から鍵を貰うと、ポケットに入れてエレベーターに向かう。五階に上がると街の景色が一望できる。九同は材料を一旦置いて、『505』と書かれた部屋の鍵を開けた。鎌智は先に通して、持ってきたダンボールを置いた。
「よし。出てきていいぞ」
ダンボールから奈良江が出てきた。奈良江は苦しい体型で息も殺していたので辛かっただろう。後から入って来た九同は、風呂場に脚立を置くと、すぐに取替え作業に取り掛かった。鎌智は奈良江を奥の部屋に連れて行くと、九同のところに戻った。
「九同。俺達を連れて来たの、誰にも言うなよ」
「はい。万が一バレたら、鎌智さんに脅されたと言っておきます」
「先輩に罪をなすりつけるとは、それでいい」
鎌智は笑いながらも、九同の対応に感心した。ふとその目に、九同の工具箱が映った。
「九同、それ借りていいか?」
「いやいや、これ持って行くと、仕事出来なくなるじゃないですか」
九同は苦笑いして断った。確かに九同の言う通りだ。鎌智は残念そうに頭をかきむしる。車から降ろしてくれば良かったと悔やんだ。九同は換気扇が入ったダンボールを開けて、中からもう一つの工具箱を取り出した。
「多分そう言うと思って、鎌智さんの工具箱を持って来てますよ」
「いつの間に入れていたんだ?」
「実は鎌智さんが来なかったから、この工具を使おうと。俺のより揃ってますから」
九同は苦笑いで、勝手に使おうとしたのを白状した。鎌智も助かったので許しておこう。
これ以上九同の邪魔するといけない。あまり仕事が長引くと疑われる。黙って九同から離れた。窓の近くに奈良江が床に座っていた。鎌智も近くに行き、外の景色を眺めた。
「ここならしばらく安全だろう」
自分で言うが、落ち着く事は全然出来ない。今はどうにか凌いだが、ここも警察にいずれ見つかるだろう。今のうちに次の行動を考えなければ。しかし相手は銃で撃ってきた。威嚇にしては撃ちすぎだし、これで確信した。奈良江も殺すつもりだ。しかも躊躇無いやり方だ。本当に助けられるだろうか。
「鎌智」
名前を呼ばれたのにしばらく気付かなかった。声の方に振り向くと、驚いたことに奈良江だった。奈良江が話してくるとは、その上名前まで呼ばれるとは。鎌智は年上の人に対しての言葉使いとかは、気にしない事にした。何も言わず、ただ奈良江の顔をジッと見つめた。
「……あの、一緒にいた女の人は?」
奈良江は恥ずかしくて視線を逸らして、聞いてきた。どうやら離れた音音を心配していた様だ。
「あ、ああ音音さんか。あいつなら無事さ。ああ見えて結構かくれんぼが上手いんだ」
「……あの人と仲良いの?」
鎌智は言葉に悩んで、ゆっくりと床に座った。
「あ〜……あんまり、ていうかこういう話はしないんだが、音音さんとは高校時代の友達でな。会った時には彼氏もいたが、一ヶ月位で別れたらしい。その後も何人かと付き合ったが、長く続かない恋愛ですぐに別れていった。もちろん俺にも告白してきた。だが俺は断った」
「……どうして?」
「あいつは俺を好きと言うより、誰かの側に居たいと思えた。だから断った。本気で好きでも無いのに告白するなってね」
その鎌智の答えに、奈良江は黙ってしまった。子供にはよく分からない話だ。
「あんまり面白い話じゃ無いだろう?」
「……鎌智は、あの人嫌いなの?」
「あ…い、いや、あいつが本気で好きと思ったらその時だ」
「……答えになってない」
奈良江は顔をムッとさせた。鎌智は頭をかきむしって、自分を落ち着かせた。
「……なんで、俺はこんな話を?」
「母さんが言ってた。『辛くても、楽しいことを思い出せば乗り越えれる』それでお父さんの…耐えてきた」
奈良江には鎌智が辛そうに見えたのだ。こいつは俺を元気付けようとしたのか。奈良江の母親は優しい様だ。そうでもないと自分から親の事を話したりはしない。沈黙した部屋にノックの音が響く。ドアが開くと九同だった。
「鎌智さん。終わったんで俺は戻ります」
「おう、ありがとな。後は頼んだぞ」
「鎌智さんも、ご武運を」
九同は敬礼してドアを閉めた。そういえば奈良江が母親の話を言い出したのは初めてだ。父親の暴力を母親は知っているのか。いや、知らない訳が無い。
「母さんは今?」
「……いない。どこかに行った…お父さん…………元気無かった」
つまり総理は別れたのか。いや、そんな話を聞いてないから別居中か何かだろうか。母親もいないのは、父親の暴力に何か関係あるのか。鎌智は自分の親を思い浮かべるが、父親をよく知らない。
「俺の父親、俺がまだ赤ん坊の時、交通事故で亡くなったんだ。お袋に聞いた話だと、見ず知らずの子供を助けたらしい」
鎌智は奈良江に自分の親の事を話した。奈良江はただ黙って聞いている。鎌智も自分で自分を話した事が無いから、少々恥ずかしかい。
「あーでもな、その時お袋は『人を助けたかっこいい人だった』て、涙ぐんで語ってた。俺も誇りに思わないといけない」
鎌智は手を伸ばして、奈良江の頭を撫でた。
「俺は絶対お前を助ける。約束だ」
「……鎌智……あの」
鎌智は咄嗟に奈良江の口を手で押さえた。足音が聞こえる。誰かがこちらに来ているのか。ドアが開いた。
「いた! 探したよもう!」
音音が息を切らしながら入ってきた。鎌智はホッと一息吐いた。
「脅かすな。あと大声出すな」
「ごめんごめん。ここにいるって九同って人から聞いたから」
「お前、九同と面識あったか?」
鎌智の疑問に、音音は首を思いっきり横に振った。
「ううん。でも私の名前で鎌智と知り合いって、あの人分かったみたいよ」
変だ。鎌智は九同に音音の話をした事が無い。鎌智はハッと気付いた。
「あいつ……話を聞いてたな」
「ねえねえ、何の話をしてたの? 気になるね?」
「い、いや何でもない」
「何で顔が赤くなってるの?」
鎌智は自分の顔が赤くなっていると言われ、顔を隠して視線を逸らすと、その先には奈良江の顔が映った。笑っていやがる。
「何でもない!……それよりも、お前まさか、入口から入って来たのか?」
「大丈夫だよ。管理人に見つからない様にこっそり入ったから……マズイデスカ?」
音音は自信満々に言ったが、急に片言になった。鎌智が頭を抱えてしまったのを見たからだ。
「まずいな。ここはセキュリティシステムがあるから、バレてるな。警察が来るだろう。ていうかあいつ……誰にも言うなと言ったのに」
「ご、ごめん!」
「いや、別にいい。むしろ好都合だ。このままやられっぱなしも我慢できん。隠れてばかりだと意味が無い。ここらで反撃に出るぞ」
鎌智は立ち上がって、手を叩いた。音音は不思議に首を傾けた。
「反撃って、どうやって?」
「総理にご対面して、罪を償わせてやる」