ある目覚め
少女は静かに目を覚ました。
床に寝転がっていた少女は、無意識に周囲を見回す。雑然と並べられた本、あちこちに傷を作った机、その上に鎮座する物々しいコンピュータ。彼女はそのいずれにも見覚えがあった。しかしここまで近くで見たのは初めてだと、働かない頭でぼんやりと思う。
そして最後に目に入ったのは、謎めいた二つの機械だった。直径にして二、三メーターありそうな円形の装置と、それをカップ大の太さにしたような細長い物体。この部屋の主が日頃機械いじりばかりしているのは、当人に聞いてよく知っている。ただそれがどんなものであるかは、彼女は知らずにいた。
私はここで何をしていたのだっけ、と疑問を浮かべる。確かこの部屋は――
「……大丈夫かい?」
記憶を掘り起こそうとしたところで、いきなり声がした。この部屋の主だと、少女はすぐに気付く。
「ここには入んないでって、何度も言ったよね」
窘めるような口ぶりに対し、その顔には安堵の色が見受けられる。声の主は青年だ。すらりとした長身に、質素なシャツとジーンズを纏っている。笑みを浮かべた表情は柔らかく、同時に整っていた。
少女は起き上がり、気を取り直す様に頬を二度三度はたく。それから青年に向き直った。
「分かってるわよそんなの。ただ、日頃閉まってるドアが開いてたら覗きたくなるのが人間の性よ」
「気持ちは分からないでもないけどやめてよ。ホント焦るから」
沈黙から一転、反省の素振りなど一切見せずに弁解をする少女に対し、青年は苦笑する。
「夕食できてるから来なよ。今日は特製シチュー」
「それもう飽きた」
「そんなこと言わないでよ。自動調理よりかマシでしょ?」
青年の説得を受けて、少女は不平を漏らしながらもリビングのテーブルへと向かう。
その様を後ろから青年は見ていた。そして、彼女が去っていった後で――
「……あと少し。あと少しなんだ」
ほんの、一粒。目元から、小さな粒を零して、床に落とす。
「頑張らなくちゃ……」
潤んだ目に、手近にあったタオルを押し当てる。それから青年は、少女がしていたように頬を叩くと、彼女が待つリビングへと足を速めて向かった。
「シチューのみならずサラダも昨日と変わらないとか……何様よ」
「みーちゃんが作ってくれてもいいんだよ?」
「それは嫌だけど」
向かい合って二人で食卓を囲む。とろみのついたビーフシチューも彩り鮮やかなサラダも綺麗に作られてはいたが、『みーちゃん』と呼ばれた少女は依然不満げに呟く。
「食材も変わり映えしないし」
「探してみたけど、やっぱり天然の食材を作れるような土地はこの辺にはないよ。地球上にだってあるか分からない」
シチューの横に置いてあったチキンのハーブ焼きに少女は手を付ける。そのチキンもハーブも、本当の意味でのそれではない。
「あのオヤジに感謝しなきゃいけないってのが不服だわ」
「……またそんなこと言って」
少女の口ぶりを青年は窘める。
「あの偏屈オヤジに優しくする義理も無いし」
シチューの芋を口に放り込んで、少女はまた言った。
「ああ見えて優しい人だったよ? 博士は」
「助手のあんたは生活まで一緒にしてたわけじゃないでしょ? アレとの生活なんて息苦しいったらなかったわ」
芋を飲み込んでから、天井に視線を向けて昔を振り返る。
昔と言っても、彼女にとってはほんの数週間前の記憶だ。
少女の父親は稀代の科学者であり、発明家であり、他方変わり者でもあった。
止まる事を知らず科学が発展を続ける中、その牽引を期待された彼は突如として表舞台から姿を消す。とは言っても少女は生活を共にしていたのだが。他の科学者やマスコミとのしがらみを嫌っての隠遁、少女はそう聞いていた。
やがてその科学が戦争に用いられるようになると、彼は一層他者との関わりを減らして研究に没頭した。そして終戦直前、彼は完成未完成問わず多数の機械を残して世を去る。病死であるが、折からの戦乱で環境は平時より悪化しており、それが遠因となったことは容易に想像できた。
「変なガラクタばっかり作ってお金使って……役に立ったのはほんの一握りよ。努力家とか言うとそれらしく聞こえるけど、下手な鉄砲撃つたびに家は狭くなるし蓄えは減るしで付き合ってらんない」
「でも、そのガラクタのお蔭で今生きられてるんだよ?」
実の所、この研究所も博士の設計であった。広さで言えば一般的な家よりは大分広い。ただその何割かは研究・開発用の道具、及びその成果で埋められているのだが。
「んなこと言ってもさあ」
少女は嘆息する。
「こんな世界で生きててどうしようって言うのさ」
そして目を逸らす。
「……生きてりゃどうにかなるって」
「ならんね」
「僕がどうにかするよ」
「どうやって」
「愛と勇気と根性で」
「バッカじゃない」
不快そうに少女は吐き捨てる。
「まあ冗談だけども、僕が今作ってる機械が出来上がればあるいは……」
終戦以来、青年がひたすら発明に没頭していることを彼女はよく知っていた。得体の知れない器機に囲まれた姿が父と被って見えて、その都度彼女は苛立ちを募らせる。
「ちょっと散歩でもしてくるわ」
少女は夕飯をすぐに終えると、立ち上がって玄関へと歩いて行った。
「……やっぱり反抗期だなあ。今更博士に反抗してどうしようってんだろ。ま、懐かしいもんだけどさ」
一人きりになって、青年はごちる。
「どうにか、してみせるさ。僕が」
最後にそれだけ呟いて、青年もまた席を立つ。食器を片付けて、『発明』を進めるために自室へと向かった。
季節は夏。雲の向こうからまだ薄く陽が届いている。ただ、その光の中で確かな形を持った物はろくに存在しない。
一面、土と瓦礫だらけだった。動くものも無ければ色彩も無く、ただずたずたにされた何物かが、所々に通路を残して大量に積み上げられているのみだ。
「本当、お変わりなく」
少女はフラフラと歩き出した。
今この世界で、昔のように忙しく変化を続けている地域は果たして存在するのだろうか。無いだろう。確証は無いが、ここまで何も起こらないとそうとしか考えられない。
闘いの終わりは最も盛大な、そして恐らく人々にとって、最も不本意な形となった。各地で蓄えられていた大量破壊兵器の拡散と暴発。絵に描いたような終末だった。研究所だって、地下シェルターという形をとっていなければ今頃このゴミ山の中に埋もれていたことだろう。兵器の破壊力は、少なくとも少女が以前聞いていたものより遥かに大規模だった。シェルターの類はここだけでなく世界中にあったが、その中でまともに任を果たせたのは一厘も無いだろうと少女は推測している。こんなことになってから、通信やインフラの類は一つの例外も無く機能を止めている。人の影すら青年のものしか見ていない。
そう考えると、自分が今生きていられるのは紛れも無くあの研究所――尋常でなく頑丈な上に、水・電気・食材その他諸々の生産設備も備わっているあの空間のお蔭である。引いてはそれを設計した父親のお蔭ということでもあり、父嫌いの少女はそのことを考える度に複雑な心境に陥るのだ。
父を嫌う理由に大したものは無い。ただ彼が無口で、年頃の少女には接しづらい人間で、それだけだった。それだけだからこそ、仲も良くないままで死別したという現実に思うことは有ったのだが――少女は、努めて考えないようにしていた。
「退屈で死ぬのと寿命で死ぬのと、どっちが先かしら」
誰も聞いていないと知っているから、意味も無い独り言を唱える。当然返事も無い。
人が滅んでいたって、空気は変わらず蒸しているし太陽は残る。結局十分ちょっとの散歩で、彼女の目を引くようなものは何も無かった。
「お帰り」
研究所に戻って、青年の声が聞こえた。部屋に閉じこもってまた何かの作業をしているのだろう。少女との生活において、家事をする時以外の彼はほぼそれしかしていない。少女は返事もせずに彼の部屋を通り過ぎて、自室へ向かう。
父の元助手を名乗る青年に初めて会ったのは、父が亡くなる直前のことだ。気付いたら研究所にいて、博士から世話を頼まれたと言って少女と共に暮らし始めた。少女は当初拒絶したが、何だかんだと言って機械に弱い少女にとっては必要不可欠な存在だった。博士の遺品の中には、何をしでかすかわからない発明も多数あったのだから。
その青年が作る発明のことを、少女は何も知らない。教えてくれなかった。父が作ったもの以外に、新しい発明もあったようだが――
(……そう言えば)
少女はふと、夕食前のことを思い出す。何故か、彼の部屋の中で倒れていた。
彼の部屋に入ったことは覚えている。日頃彼がいない時にはロックをされているのにたまたま開いていたので、好奇心で侵入した。予想以上に広い部屋で、数メーターもありそうな機械が納まっていたことなども覚えている。ただ、そこから倒れているところまでが繋がらない。足を滑らせるようなものは無かったし、どうして転げていたのか。
(まさか記憶喪失でも起きたっての? アホらし)
適当なことを考えて、結局答えも出さないままで自室のベッドに飛び込む。
現実逃避、というワードが何度か頭の中を巡った。
少女は夢を見た。
夢と言っても、その景色はいつもと変わりない。研究所の一室。青年の姿。ただ、違うことが一つ。
少女の身体は妙に重かった。全体が錆びついたような、言いようもない感触。不審に思った少女は、咄嗟に鏡を見る。
そこに映ったのは――
「あれ? みーちゃん起きてるの? さっき寝たはずぶっ」
起き上がって廊下で出くわした青年に、少女は右拳を繰り出していた。ほぼ反射である。
「何すんの!? 何かした僕!?」
「……御免、勢いで」
不服そうな顔つきのままで謝罪する。
「どうしたのさ一体。いきなり殴られちゃたまんないよ」
「すごく不愉快な夢を……私がこの研究所で婆になってる夢を見たの」
目覚める直前鏡に写っていたのは紛れも無い、年を取った自身の姿だった。身体はすっかり衰えており、動きづらかったのも納得である。
「急にそんなことになってたってのもあるけど……何より気に喰わないのは、そんな年になるまでこの家で暮らしてるってことよ。しかもあなたと。退屈で発狂するわ」
「いや、暇潰しできるゲームとかちょっと残ってるし……」
「数十年あったらRPG何周できるのかしらね?」
「千周くらい?」
「半分の半分もいかずに狂うわよ」
困ったと言わんばかりに、青年は苦笑する。少女関連で手を焼いた時の癖である。
「そんなことになるくらいなら自分から死んでやるわ」
「……そりゃ無理だよ」
言い放った少女に対し、青年はそう宥める。
「言い切れるの? 私は有言実行主義よ」
「じゃあ二度と言わせないさそんなこと」
青年が笑顔を崩さないまま伝えると、少女は顔を背けてその場を去っていく。
後に残された青年は、少し表情を曇らせた。
(……まさか、ね?)
ここにきて懸念が増えつつあることを、彼は密かに感じていた。