右の似るものぞなき2
「おや勇者さま、これからお伺いに参ろうと思ってました」
村の様相を見ようと、家から中央部に向けて歩いていると、馬車に乗った深皺の男に出会った。
「寝過ごしたようだ。太陽が高い、もう昼じゃないか」
「それだけ疲れていたのでしょう? 夜中に我が街に着いたのですから、その分遅く起きても仕方がないですよ」
「そうか? そうだな」
昨夜には気づかなかったが、彼は痩せこけていた。そうして体のあちこちに窪みやアザ、火傷の痕などを持っていて、彼がこれまで大変な思いをしてきたことを、胸の内に実感した。
「乗せてくれ。どこか食事のできる場所へ。それと……」
呪術師の娘について、訊いておくべきだろうか? なんとなく問題が起こりそうな気がして、空恐ろしいと思う。警戒するに越したことはないし、どうやって聞きだそうかと考えた。
「どうしました? それと?」
「いや、たいしたことじゃない。ここの特産品は何かと思っただけだ」
「そうですか?」
変に関わりたくないし、やめよう。聞くだけでも何かと関連付けられては困ると思ったからだ。
「ええ、そうですね。我が街の特産品は、なんといっても紙ですね。南にある山から材料を調達しまして、職人の手によって上質な紙を作っております」
「どの山なんだ?」
深皺の男は、揺れる馬車から緑山を指し示した。
「あれか? あの低い山か?」
「はい、その通りです」
ふむ。俺は腕を組んで、上まつげと下まつげを恋人のように近づけ、しばらく低山を眺めた。
さすがにこの男も心得ているようで、なにか? などと尋ねたりはせず、俺が目を離すのを待っていた。俺がふいと視線を、その深皺の男に向けると彼は喋りだした。
「なだらかな斜面ばかりなので、採集に苦労することはまずありません。それに危険な獣もでませんからねぇ、最近までは女子供が行っていたものですよ」
「獣、かい? だが全く出ないわけでもないだろう?」
「ええ、ですが出たとしてもせいぜい狐、いや、熊を見たと言う者もいますが、エサも充分にあって人を襲ったりはしませんね」
熊か。
「今はどうなのだ?」
男は、最近までと言っていた。すなわち今は違うのだろう。それもこれもおそらくは、あの悲報、魔族にとっては吉報が原因なのは明白だ。
「今ですか?」
男は再度山に目を向け、顔の皺を増やし、唸るように低い呼吸音を繰り返した。
嫌に踏み込んでしまったと、俺は後悔した。
いや、よしましょうよ、こんな話は。
そう言うだろうか? 俺はこの村に来てはじめて興味を持った。傷だらけの老体になりながら、なおも立つのか? それとも早々に逃げるのか? それがどうしようもないほどに気になってしまった。この名も知らぬ男に惹かれたのだ。
俺が3回ほど瞬きをした後に、ようやく男は口を開いた。
「今は、誰も近づこうとはしません」
「何故だ?」
彼は俺を見た! その双眸でまっすぐに俺を射抜いた。
「怖いんですよ、だれも、あの山には近づかない。みんなみんな、怖いんです。魔物がいるから、いや、いないかもしれない。だけど! 怖いんです」
俺も彼を見ていた。でも、どうにも俺には、子供が喚いてるように思えた。深皺男の絞り出すような声を聞きながら、俺は彼が続きを話すのを待った。
「3週間前に、そう、3週間前のことです。その日は空一面を雲が覆ってまして、風も強く吹いていました。そんな日に、子供がいなくなったんです」
土を焼くほどに晴ればれとして、草原の匂いを優しく運ぶ風がある、天候気候も、時には荒ぶることがある。
「今年やっと7つになったばかりの、好奇心の強い女の子です。ほら、先ほど通り過ぎた赤い屋根の家の子で、私も可愛がってあげました。その日私は、嵐が酷く殴りつけるから、住人や、飼っている牛達が驚かないようにと、駆け回っていました。そうしてあの家までいくと、主人が見えず、婦人は私の顔を見るなり、ことの顛末を咳き込むように口早に言ったのです」
俺は黙って聞いた。馬の尻を叩く鞭の音。車輪が石を蹴る音。そうした何もかもを無心に聞いたのだった。
「それから先は言わなくてもわかるでしょう? 手の空いているものを集め、捜索にあたりましたよ。そして見つからなかった」
彼は静かに吐き捨てた。思わぬ感情の発露を覚え、戸惑いを感じた。
「そうか」
ひとつ頷いて、沈黙が訪れる。
なにか言ってしまえば、この大男が泣き喚いてしまいそうな、切迫した沈黙だった。
ガタガタと揺られて、幾分かの時間が経つと「あれが私の家ですよ」と深皺の男が指差した。
そうして続けざまに「そのさらに向こうにある、噴水に隠れている赤い屋根の家が食事処です。夕方頃になると酒場にもなりますが、最近は客人もあまり見かけませんね」などと、とても落ち着いた口調で説明した。
「私の家にご案内しますよ。勇者が来るというので、妻が張り切っているのですよ」
子供については何も触れなかった。翌日になって天候がよくなった後にも探し、徒労に終わったのだと、言外に告げているようだった。
馬車輪が何度も踏んで、すっかりへこんでしまった石道に御者は停めた。
「ありがとう御者君。給仕に料理を持ってこさせよう」
「へぇえ、ありがとうございます旦那様」
深皺男に続いて馬車を降りると御者は頭を下げていて、彼の顔は見られなかったが、扉に向かって歩いている最中に振り返ると、一瞬だが見ることができた。
とても居た堪れないような顔だった。