右の似るものぞなき
次村の名前は、看板の文字が擦れていて読めなかった。それに陽の光がまだ差し込んでいないので、暗いことも読めない理由だった。
だが木板に彫られている長さから考えると、長名なのだと思う。
太陽が昇るまでの寸暇で、夜闇の敢行について思い出してみる。
眠れなかったのだ。
凪時の水で生命を繋いでからというものの、体が異様に張り切りだしたから、横になってはいられなかった。
寝具を持っていないことも要因だろうが、目をきっかりと見開き、暗闇の道を注意深く睨みつけた。
どうせ眠れないならと進むことに決めたが、道の途中に陥没があって擦り傷を作ったりした。足音に驚いた小動物が襲ってきて、体中のあらゆるところに、噛み傷や、ひっかき傷、大したことのない小さな傷跡をたくさんつくった。
魔物との遭遇はなく、無事にたどり着くことが出来たのはいいけれど、夜が明けるのが遅いのか、それとも俺が早く着いたのか、待ちぼうけを食らっているのである。
この村の入り口にある、門の下にメムロナンはいた。
他にすることもないので、夜の間に疲れた体を少し休めて、霞月を眺めているが、何か口をつくことはなかった。
暇だった。
この村の治安はどうなのだろうか?
悪くなければいいが、良すぎるのも考えものだ。
とにかく気をつけようと思って、持っている銀貨を一枚ずつ靴の中に隠した。
これなら音もしないし、暴漢に襲われても取られないだろう。追い剥ぎに合わないことを祈ろう。
爆発。
ずいぶんと道のそれたところにある廃屋が、突然火をあげた。
もうもうと煙をたて、ぱちぱちと木材の爆ぜる音が聞こえる。
メムロナンは暗闇の中にあらわれた光に、眩しくて目を細めて、燃え上がる廃屋を見つめた。
あるいは物置かもしれないが、あまりにも明るく燃え盛るから、目が光に順応できずに見えすぎて見えない。
そうしていると人がたくさん集まってきて、なにやら毒づきながら消化活動をはじめたようだった。
「おい! 火を消せ。お前とお前は、風上に壁を作れ!」
精悍な体つきの、皺の深い男が指図している。
命令された2人の男が、風上に布で作った、マストのようなものを立てかけた。
あれが壁だろうか?
風を受けなくなった廃屋の火の、勢いは弱まったので鎮火はすぐに終わるだろう。
俺は深皺の男に近づいて、挨拶をしようと思った。
「火が鎮まったら壁を片付けておけ。あの老人はどこだ! また火事を起こしやがって! 探し出して俺の家に連れてこい!」
苛立った様子で歩き去ろうとする。
「あの」と言って、聴かれてないことを確認し「おい!」と怒鳴った。
踵を返したかった。
でも帰るところもないので、深皺の男に声をかけた。
「誰だ?」
妙に疑わしそうな目で俺を見る。
腰に吊った剣を見つけると、一瞬驚いた顔をして、足早に近づいてくる。
話しかける前と比べると、足音がとても小さかった。
「どうやらお見苦しいところを見られてしまいましたね。失礼ですが貴方は?」
高身の、眼光鋭く、ずっしりした体つきの男が俺に訊いてきた。
顔のいたるところに皺が刻み込まれているが、肌は肥えていて、遠目に見た時よりも若い印象を受けた。
「私は遠来の勇者です。魔王討伐の責務を負い、道中ここに立ち寄りました」
失礼のないように、簡単に自己紹介をする。
深皺の男は、腕を伸ばせば届くような距離にいて、自分よりも背が高かったから、威圧的な態度をとっているように思える。
指導者としての立場から、自然とそう振舞うようになったのだろうか。
「これは、これは。勇者様でございましたか。見るとずいぶんとみすぼらしいご様子、さぞ大変な道中だったのでしょう。なに、心配なさられるな。こちらで充分な歓待を致しましょう」
深皺の男は言った。
もったいぶった口調で、こちらを卑下するような視線で、早口に言った。
俺には生来、人を疑う癖があるようだ。孤児として育ったからにはおかしくもないが、深皺の男と話していて、急に冷めるのを感じた。
彼が威圧的に近い距離で話しているというのに、一時昂ぶった心音も、恐ろしいくらいに静まっている。
「俺は疲れていてね、どこかで休みたいんだ。案内しろ」
勇者、責務に威勢を借りる。
どうぞこちらにと、古い屋根の家に連れられた。
「あなたが言っていた、老人というのは誰ですか?」
屋内にて、調度品の椅子に座った後、私は深皺の男に訊いてみた。
「この町に居座る、呪術師の生き残りですよ。日々夜々実験を繰り返すものですから、度々家屋を焼き、住人を困らせるのです」
深皺の男は、遠くを眺めるような目で言い足した。
「ああ、ご心配には及びませんよ。迷惑はかからないように配慮いたしますので」
「そうか」俺は頷いた。何も言うことがなかったので、彼を下がらせた。
月はまだ高く、火事はまだ消えていない頃だった。
一人、ランプの光に照らされて、椅子にもたれてウトウトしながら外を眺めていた。
残り火を消そうとしている何人かの若者が、寝不足の眼をこすっている。
月明かりなのか、残火の赤光なのか、判然としない明暗に俺は騙されている。
その廃屋は瞑くて輪郭が朧げにしか見えなかった。ただパチパチと爆ぜる火粉から、だいたいの形状を推測すると、小貴族の邸宅ぐらいはある、大きな屋敷のようだった。
ゴン、ゴン。扉に備えられた、金属輪のドアノッカーが音を立てる。
はい、誰ですか? と、俺は訊いたと思う。
その時はうつらうつらしていて、まともに返事ができたか分からない。
「あなた、おかしな格好ね」
少女の声がした。
残火が見えなくなっている。もう消火は終わったのだ。いつの間にか眠ってしまって、誰かが起こしに来たのだろうか?
「おきてるの? それとも、ねてるのかしら」
ああ、起きてるよ。
「おかしいわね〜。勇者様が泊まってるはずなのだけれど、見あたらないわ」
俺が、その勇者様さ。
「疲れた召使をおいて、どこに行ってしまわれたの?」
「ここだ」声がでた。
「俺が、その勇者だ」
はっ、と少女は息をのんだ。
後ずさり。窓枠にぶつかった。
「なんだ、寝てなかったのか」少女ではなく、俺がつぶやいた。
少女が視界を防いでできた暗闇に、どうやら騙されてしまったようだ。
「ところで、お前は誰だ?」
「あなたこそだれよ!」
「俺か? 知っているだろうが勇者だ」
「いや、嘘よ」
そうかもしれない。
「名前はメムロナン。正真正銘、れっきとした勇者だ」
腰の剣が、その証拠だ。そう言おうと思ったが、休むのに邪魔なのでどこかに置いたのを思い出した。
確かテーブルの上に置いたはずなのだが見あたらなく、ゆったりと探すとテーブルの下、床の上に見つけた。
「そこにある、床に落ちている剣が、その証拠だ」
「じゃあ、やっぱり、なの?」
そうだ。と言う代わりに、ひとつ頷いた。
「それで? こちらの質問にも答えてもらおうか。お前は誰だ?」
少女は十分に迷った後、答えなかった。
「おい!」
俺は立った。少女よりも高身な体で近づき、声を低めてもう一度訊いた。
「お前は、誰だ?」
「わ、たしは! この辺境の村に住まう、呪術師の末裔よ!」
「……ふん! あの火事を起こしたという呪術師か? いや、まて。あの深皺は、たしか老人と言っていた」
少女は威々高々と胸を張っていた。だがメムロナンの視線に気づくと、恥ずかしくなったのか、縮こまるように手を前側に組んだ。
「なによぉ?」
「いや? ずいぶんと可愛らしい老人だと思っただけだ。偉そうな男が言っていたよ。迷惑な呪術師がいるって」
少女は目を丸くして、一瞬、キョトンとした表情になった。
「わたしじゃないわ。きっとおじいさまよ」
「やっぱりか。つまりお前は、その子孫なんだな?」
「そうよ! あなたのほうこそ、ずいぶんと偉そうね。勇者さまが聞いてあきれるわ」
ああ、不毛だ。だけど、でも、きがいない少女との対話は、俺には心地よかった。凛と張るような声が、和らいで、静かに溶け込んでいく。
「ちょっと、どうしたのよ?」
「なにが?」
不安そうな顔をする。
「だって、さ。ううん。まだ会ったばかりだけど、あなたってそんな年寄りみたいな目をするのね。なんだか変だわ」
「そんなことはない」
確かに、妙に深い声かもしれない。勇者になってから、時々胸騒ぎがして、それでも表面だけは、ひどく落ち着いていることがよくあった。
怖いのだろう。
未知の恐怖に漠然とした不安を感じて、心の中が渦巻いている。反対に具体的な未来がわからないから、体は何事もないように平静で、心を内包して隠してしまう。
「そう、なの?」
……
窓の外、徐々に消えゆく火の命を眺めながら、俺はささやいた。
「自分でもわからないんだ。大人になると、たまにあるよ」
「あなただってまだ、私と同じくらいじゃない」
わからないんだ。
「さあ、帰ったほうがいい。日の明ける前に、空が暗いうちに」
俺は急かすように少女を押し出した。
少女は、なおも名残惜しそうな顔をしていたが、俺にはそれが耐えられない。
「なにするのよ! 話は終わってないわよ」
風が弱く吹いていた。
少女の抗議の声に、起きている何人かが集まってきた。
「この子を連れてってくれないか? 騒がしくて休めないんだ」
「まってよ」
冷たい声。心細そうな声。
「はい! 失礼いたしました、勇者様。どうぞおくつろぎください」
「ちょっと、ねえ!」
ごめんよ。夜が明けそうなんだ。
「おい! 勇者様に迷惑をかけるな。聞いているのか?」
引きずられていく少女を見送ることもなく、俺は屋根の下に引き返した。
足元が見えなくて、落ちている剣につまづいた。
どこかに立て掛けておきたいが、面倒なのでテーブルの上に置きなおした。
もしかして俺が聴いたのは、ドアノッカーの音じゃなくて、こいつが落ちた音かな。きっとそうだろう。
椅子に座って、風で運ばれた木材の焦げる匂いを嗅ぎながら、落ちていく月を眺めてる。
少女の声がまだ聴こえる。
それが心残りだった。