求めるもの
光平が、ひどく夢見の悪い顔をしてソファに座っていた。
「えらく調子悪そうだな」
陽二がシャツを着ながら、光平の前を横切る。
「光平、大丈夫?」
喜一がコーヒーを運んで来る。
しかし、光平は俯いたまま黙っていた。
「こら、兄貴に向かってシカトかよ」
陽二がそう言っても、光平はじっとしていた。
「起きてから、ずっとあんな感じ」
喜一が心配そうに見つめる。
「本当に病気にでもなったか?」
陽二がそう言った時、
「これだ…」
と、突然光平が口を開いた。
え?という顔で二人が光平の視線を辿る。
そこにテレビがあった。
流れていたのは、五歳の幼女が行方不明になっているニュースだった。
「残念ながら、亡くなっているでしょうね」
夜、家に訪ねて来た如月に向かって、喜一が言った。
「光平の夢にも出て来てるし、僕にも見えましたから」
喜一は、手にしていた人形を如月に返した。
それは、幼女が大切にしている物だった。
黙って見つめていた陽二が溜め息をつき、光平は両手で顔を覆った。
被害者は五歳。
まさに、弱い者を狙った犯罪だ。
以前、中学生が犠牲になった時も、ひどく不快な思いをした光平にとって、ダメージはかなりのものだった。
「実は…」
如月が重い口を開く。
「過去にも、幼い子供が行方不明になった未解決事件が、いくつかある。同一犯の仕業の可能性があるもの、そうでないものを入れると、かなりの件数だ」
「おいおい、まさかその全部を兄貴に調べさせようって訳じゃないだろうな?」
陽二が口を出す。
「まさか、そんな事はしないよ。ただ、今回喜一くんが見た光景をヒントに、他の事件と照合してみようとは思う。喜一くん、話してくれる?」
「解りました」
喜一は近くにあったメモを取ると、なにやら書き出し始める。
「…母親、父親…らしき人物と、保育園…あとは、タクシー。向かった先は…病院」
如月と陽二が、ペンの先を見つめる。
「それと…最期に見た景色…どこかに向かう途中、鳥居がありました。二つ並んで」
「神社か…」
如月が呟く。
光平は、まだ暗い顔で俯いたままだ。
「…如月さん、今朝からずっとあんな感じなんだよ、光平。なんとかしてくれ」
陽二の言葉に、如月は光平を見た。
子供や弱者を狙った犯罪が嫌いな理由を、如月だけが知っている。
だったら、理解してくれるでしょう?と言いたげに、光平は如月を見つめ返した。
「…その子、光平に助けを求めてる」
如月がそう言うと、慰めの言葉をかけられると思っていた光平は、少し驚いた。
「だったら、応えてやらなきゃ」
如月の力強い口調に、光平はしばらくの間の後、小さく頷いた。
「さすが如月パパ」
陽二の言葉に、喜一は思わずコーヒーを吹いた。
何を言い出すんだ、とでも言いたげに、光平が陽二を睨む。
「…続き、ですけど」
喜一は冷静にハンカチで口を拭うと、
「朱と白の鳥居で、それぞれが木造です」
「その近くが殺害現場?」
如月が尋ねる。
「罰当たりな犯人だな」
陽二がそう言うと、喜一は首を振って、
「通り道に神社があった、ってだけで、神社で殺された訳じゃないよ」
「でもさ、神社なんてどんだけあると思ってんだよ。ただの通り道だなんて、曖昧すぎる」
陽二がお手上げという感じに、両手を広げた。
「最後まで聞けよ」
喜一が半ば呆れた声で、
「山道に神社がある。そこに入る前の交差点、コンビニとペットショップがあった。その子は、ペットショップの看板を見てる…遺体が発見された場所は、近くに神社はありましたか?」
「遺体発見現場は、ランダムだから…決まってないようだ」
その光景を見ていた陽二が、如月の持って来た人形に目をとめると、
「…なあ、光平」
光平に近づいて囁いた。
「お前の親父さん、いつもあれこれ持って来るけど、中には証拠品とか遺留品で、持ち出し厳禁だったりするのがあるんじゃないの?」
その言葉に、光平も小さく頷いて、
「…陽二くん、世の中には深く追求しない方がいい事もあるんじゃないかな」
と言った。
「その通り」
突然如月が二人に振り向く。
「知らない方が幸せな事は、山ほどあるぞ」
如月はニッコリ微笑んだ。
「…如月さんって、兄貴タイプかもよ?実は裏がある、って感じ?」
「陽二」
喜一が冷たく制する。
「はい、すみません」
陽二は素直に頭を下げた。
「それから…」
喜一が思い出すように目を閉じて、
「手袋をした手…ゴムの薄い手袋です。医療用で使うような…」
「…ゴム手で犯行を?」
如月が尋ねると、喜一は頷いて、
「多分、男の手だと思います」
「ねぇ、医療用みたいな、って言ったよね?…さっき、兄貴に病院が見えたなら…」
光平が身を乗り出す。
「病院には、個人情報もあるだろうしな」
陽二も同意する。
「待て。先入観は持たない方がいい」
喜一が止める。
「でも、行くんでしょう?話を聞きに」
光平が如月を見る。
「まあ…そりゃあ行くつもりだけど」
如月が、光平の期待の眼差しに、少し困ったような顔をする。
「部外者なんだから、同席するのは無理じゃないか?」
喜一はそう言うと、じーっと光平を見つめて、
「いくら光平でも、もう受診は無理だろ。小児科だろうし」
「あ。今、地味に傷ついた」
光平ががっくり肩を落とす。
「病院について行くくらいは大丈夫だろ?」
陽二が諦め切れないように食い下がる。
「何なんだよ。特にお前は…ちゃんと自分の仕事しろよ」
喜一が、まるで遊びに行くかのような陽二に、言った。
「だって、俺、明日は休みだし」
陽二は如月に向いて、
「初美ちゃんにも会えるよね?」
「不謹慎っ」
光平が、いつもの調子を取り戻した様子で、陽二の襟足を掴んだ。
「あ、いっその事、我が家の玄関に第二捜査本部って看板付けちゃう?」
「陽二、遊びじゃないんだぞ」
喜一が少し厳しい口調で言うと、陽二は小さく息をついて、
「解ってるよ。だからこそ、俺達が前向きで元気でいなきゃダメだろ。深刻な顔してたら、正義のヒーローって雰囲気じゃねえし」
陽二はそう言うと、光平に向いた。
「お兄ちゃんに任せとけ」
光平は気付いた。
陽二の視線が、自分を通り越して、後ろに向けられている事に。
陽二は、行き交う人々の中に、いくつもの実体の無い人影を見ていた。
ここは病院だ。
ここで最期を迎えた人達がたくさんいるのだから、思い入れのある場所と言ってしまえば、確かにそうであろう。
人々の背後に影が憑いているのを見ると、患者の具合が悪いのは、これが憑いてるせいなんじゃないか、と思うほどだった。
院内にあるラウンジで時間をもて余していると、後ろのテーブルに人が座る気配がした。
「お忙しいのに申し訳ありません」
如月の声だ。
結局、陽二は聞き込みについて来たのだった。
「参考までにお伺いします。知っている事があれば話して下さい」
「お役に立てるか解りませんが」
そう答えたのは、恐らく小児科医であろう。
陽二は、何とか振り返らずに顔を見てやろうと、あちこちに目をやった。
丁度、奥に飾られた絵のガラスが、鏡のように店内を遠目に映していた。
陽二が目を凝らす。
医者は、そこそこ若く見えた。
喜一よりも少し年上だろうか。
三十代に差し掛かった頃という印象だ。
真面目そうな落ち着いた声で、医者は話し出した。
「由香里ちゃんは、よく風邪をひく子だったので、夜間診療にも何度か来た事があります」
「いつも母親が一緒でしたか?」
初美の声がする。
「母親が一緒の事が多かったですが、ご両親で来る事もありましたよ」
「最後に病院に来たのは?」
「行方不明になる一週間くらい前だと思います。カルテで確認しましたので、間違いないと思います」
「由香里ちゃんの担当は、いつも先生が?」
「はい。救急の場合は当直医ですが…普段はだいたい私が」
「では、先生にはなついていたでしょうね」
如月の言葉に、医者は少し間をおいて、
「どうでしょう…子供の目に白衣は怖いイメージに映る事も多いですから」
如月は、じっと医者を見つめて、
「先生、仕事上、手袋を使いますよね?」
「は?」
医者は不思議そうな顔をした。
「どんな手袋を使ってますか?」
「…それが、由香里ちゃんの件と何か関係あるんですか?」
医者は不審な目で如月を見た。
「いえ、ちょっと個人的に興味があって」
個人的な手袋の興味って何だよ。
陽二は後ろで、そう思った。
「半透明で薄い手袋です。よくある品物ですよ。病院中にあるんじゃないでしょうか」
医者はラウンジの奥に視線を向けて、
「ここの厨房にもあるかもしれませんよ?」
そう言って笑った。
「あの…」
初美が口を開く。
「先生は、なぜ小児科を?」
すると医者は、真剣な顔をして、
「…それは…私が子供好きだという事もありますけど…これから希望に満ちた人生が待ってるはずの小さな命を救いたいと思ったからです。未来を動かしてくれる、大切な命ですからね」
医者はそう言ってから、
「真面目すぎますかね?」
と、笑った。
「いえ、ご立派な考えですよ」
如月も微笑むと、続けて尋ねた。
「先生ご自身は、ご結婚やお子さんは?」
すると医者は、ふっと瞳を曇らせた。
「結婚はしていますが、子供はいません。妻は子供が産めない体なんです」
と、答えた。
「…あ、これは失礼」
如月が謝ると、医者は首を振った。
「いいんですよ。子供が産めなくても、元気に生きられる体なんですから。病院で助けられない命を目の当たりにしていると、そんな事を不幸だなんて言ってられませんから」
「…素晴らしいお考えですね、先生は」
如月が褒めると、医者は少しはにかんだように笑った。
少し雑談めいた会話をした後、医者はラウンジを出て行った。
陽二は振り返ると、その後ろ姿を見送った。
「どう思う?陽二くん」
如月も陽二の方を向いて尋ねる。
「…今の時点じゃ何とも。誠実そうなイメージだけど、疑えば全てが嘘っぽく見える」
陽二はそう言うと、如月の目を見て、
「でも、あの子、憑いてたよ」
「え!?由香里ちゃんですか?」
初美が驚いて尋ねると、今度は陽二が初美に向いて、
「ちなみに、由香里ちゃんじゃない子も」
「…他にもいたんですか?」
「うん。何人も子供が」
陽二はケロッとして言った。
「なんでですか!?」
初美は、多少興奮気味なようだ。
「…初美ちゃんの望みは全て叶えてあげたいけど…解らない事は答えられないな」
陽二は少し押されながら答えた。
初美はあれこれ考えを巡らせていた。
もし、あの医者が犯人だとしたら、他にも犠牲になった子供達がいて…それが…。
「はい、そこまで」
如月が、初美の思考を察したように言った。
「先入観は無し。根拠のない想像も無し」
「でも、推理ってのは、そういうもんだろ?」
陽二が反論する。
「いや、似て非なるもの。推理は根拠の上にある。そのためにヒントを得る。自分の考えより、まずヒントを拾い集めるんだ」
如月はそう言いながら、
「思考が先走ると、他のヒントを見逃す事もある。例えば、俺達とあの医者が話してる所を、興味深く見ていた人物とか」
と、ある方向へ視線を移した。
一人の男が、如月と目が合って、ハッと下を向いた。
そそくさと立ち上がると、ラウンジを出て行く。
もちろん如月達も、後に続いた。
「すみません」
如月がその男の肩に手を掛ける。
「す、すみませんっ」
男は振り返るなり、謝り返してきた。
「何か、悪い事してるの?」
陽二が思わずそう聞いた。
男はおどおどしながら、
「…さっき、甲田先生とお話してるのを、ずっと見ていてしまって…」
と、頭を下げた。
「別に、同じ店の中にいる客を見たからって、罪にはなんねえだろ」
陽二がフッと笑って、
「何かやましい事があるんだ?」
と、探るような目付きをした。
「いえ、あの…」
男は怯えたように、
「け、警察の方、なんですよね?もしかして、由香里ちゃんが行方不明になってる件で…甲田先生に会いにいらしたのかと…」
「だとしたら、何ですか?」
如月が聞くと、男は周りを気にしながら、
「甲田先生には、変な噂があって…」
と、小声で言った。
「噂?どんなです?」
如月が尋ねると、男は、
「僕が言った、って…内緒にしてて下さいよ?」
そう念を押すと、
「先生…不倫してるって…看護師と」
「不倫?」
「ええ。甲田先生、ご自分の奥様には子供が出来ないので、他の女性との間に子供を作ろうとしてる、って」
「本当ですか!?」
初美が、信じられないと言いたげな顔をして言った。
「いや、ですから…噂ですけど…でも、実際に不倫相手は妊娠したらしいのですが、結局は流産してしまって…」
「同じ病院内で、そんな危険な事…」
如月が呟くと、男はもっともだと言うように頷いて、
「だから、彼女はここを辞めて、別の病院に行ったんですよ」
陽二は男の様子を伺いながら、耳を傾けていた。
「だから先生は、子供という存在に執着はあると思うんです。由香里ちゃんはこの病院によく来ていたし、先生も可愛がっていましたから…ニュースを見た時に、先生を疑うような事を言っていた人もいたくらいで」
「あなたは、どう思います?」
如月の問い掛けに、男は数秒黙って、
「正直…無いと、自信を持って言えません」
と、呟いた。
「ありがとうございました。また何かありましたら、よろしく」
如月がそう言うと、男は少しホッとしたように頭を下げると、その場を立ち去った。
何か引っ掛かる気がする。
陽二は、その男の後ろ姿を見ながら、そう思った。
「なぁ、如月さん。今の男のネーム見た?」
「ん?ああ、見たよ」
「江藤。院内薬局の薬剤師だ。薬局にもあるよな?手袋」
「あるだろうな。彼が、何か?」
「何か、は解らないけど…あいつ、最後にちょっと笑ったんだよね」
「一応…調べてみるか…」
如月がそう言った時、初美の携帯が鳴った。
「あ、すみません!」
初美はそう言うと、近くの電話使用可能のエリアに駆け込んで行った。
「まだまだ初々しくていいよなぁ、初美ちゃんって」
陽二がその姿を見送りながら、しまりのない顔をして言った。
「警察官だから、どちらかというと、初々しくない方がありがたいんだが」
如月が苦笑する。
すると、初美が足早に戻って来た。
「由香里ちゃんの遺体が見つかりました」
陽二が初美を見る。
「俺も行く」
「しかし―」
「大丈夫、現場に着いたら野次馬の振りするから」
如月は、仕方ないという顔をすると、二人を促した。
現場はすでに物々しい雰囲気だった。
何が起きたか理解した野次馬が、悲痛な表情を浮かべている。
陽二は約束通り、その人だかりから一歩離れた場所に立って、様子を眺めていた。
すると、一台のタクシーが近付いて来て、警官の前で停車した。
運転手と何やら会話を交わした後、警官が無線で連絡を取るのが見える。
すぐにブルーシートで囲まれた場所から、如月が出て来た。
如月はタクシーに近付くと、後部座席に乗り込んだ。
ああ…母親が来たのか。
陽二は、取り乱した様子の女性を、如月がなだめている様子を見て、やるせない気分になった。
あの心情は、決して理解など出来ないだろう。
そう思うと、警察も大変だな、と思った。
人間の感情が極限の状態まで上り詰めるのを、冷静に受け止めなければならないのだから。
現場ギリギリまで誘導されながら入って行ったタクシーは、如月と母親を降ろすと、ゆっくり戻って来た。
俺も一旦、家に戻ろう。
陽二はタクシーに手を上げた。
「乗ってもいい?」
「あ、はい、どうぞ」
若い運転手は、緊張した様子で返事をした。
陽二は後ろを振り返って、遠ざかる現場を見つめながら、
「…大変でしたね」
と、呟いた。
「え?」
運転手がミラー越しに陽二を見る。
「だって、お母さん乗せて来たんでしょ?」
すると運転手も、陽二が全ての事情を知っていると解り安心したのか、大きく息を吐くと、
「はい…ひどく、動揺していました」
「だろうね。自分の娘が……何か、喋ってた?」
「いいえ。とてもそんな状態ではありませんでした。電話して来たのはご主人だったらしいです。たまたま近くにいた僕が、無線で指示されて…事情を聞きながら迎えに行きました」
「そうなんだ…じゃあ、父親もあの現場を見に向かってんのかもな…」
「…だと思いますが…一瞬、僕も行くのを躊躇いました…事件もニュースで見て知っていたので…」
「…ねぇ、運転手さんは、あの親子乗せた事ある?」
陽二の問い掛けに、運転手はうーんと考えて、
「あるかもしれませんけど…」
「よく病院に行ってたみたいだから」
「…たくさんの病院に、たくさんの親子連れを乗せて行くので…」
「だよね」
陽二は少し間を空けて、
「病院の先生も、乗せる事あるよね?」
「え?…は、はい」
「甲田先生って知ってる?城北医大の」
すると、運転手が黙った。
「あれ?言えない?」
「…その先生は知っていますが、プライベートは知りません」
あまり突っ込んで聞いてもらいたくないという事か。
不倫相手と一緒に乗せた事があるのか?
まあ、タクシーの運転手なら、尚更情報など簡単には教えてくれないだろうが。
「あ、そこで降ろして」
陽二が告げたのは、光平の美容室の近くだった。
店に入ると、にこやかに一人のスタッフが寄って来た。
「こんにちは、陽二くん」
それは、母が生きている頃から働いてくれている、一番古株の女性スタッフだ。
母亡き後、光平が店を継げるようになるまでの数年、店を守ってくれた大事なスタッフの一人。
「お疲れ様です。光平いる?」
「店長は奥にいますよ、どうぞ」
陽二は奥にある部屋のドアをノックした。
「店長ぉー、入っていいですかぁ?」
ふざけた陽二の声に、すぐ内側から扉が開いた。
「何なの?」
迷惑そうな顔をした光平だったが、声とは裏腹に陽二が真顔で立っているのを見て、その雰囲気を察した。
「…今日、病院行ってたんだよね?」
「うん」
陽二は中に入ると、後ろ手に扉を閉めて、
「見つかった。遺体」
と、呟いた。
その瞬間、光平もやりきれない顔をして、唇を噛んだ。
「だから、一緒に帰って」
すると光平は、少しだけ微笑んだ。
「で、一緒だった訳?」
帰宅すると、事情を聞いた喜一が言った。
二人がコクンと頷くと、喜一は続けて、
「まあ、すぐ女のところに走らなくなっただけましか」
「おい、俺だってちょっとは気を落とす時があるんだから、もっと違う言い方があるだろ」
陽二がふくれて文句を言う。
「こういう方が、お前には効くだろ」
喜一はそう言って、コーヒーに口をつけた。
「で、陽二くんもその甲田先生が怪しいと思うの?」
光平が陽二に付き合って、ビールを飲みながら尋ねる。
「んー…確かに、裏はありそうなんだけど…どうかな?あの薬剤師の江藤ってのも、曲者な空気漂わせてたし」
「先入観はダメだぞ」
喜一が釘をさす。
「じゃあ、もう一回考えよう。兄貴に見えた物って、必ず意味があるはずだからね」
光平がそう言って、以前書いたメモを眺める。
しばらくじっとしていたが、パッと顔を上げると、
「鳥居…神主が犯人かも」
喜一と陽二が、光平を見る。
「だって、先入観は持っちゃダメなんでしょう?可能性あるよね?」
「お前ね」
陽二が呆れたように、
「そういうのは、適当って言うの」
「適当って、そんなに悪い意味じゃないよ?適度に当たるって書くんだし」
「正確には、あてずっぽう、だな」
喜一が冷静に言う。
「じゃあ、兄貴は誰が犯人だと思う?」
喜一は少し間をおいて、
「神主だとは思ってない」
その答えに、光平が思いきりふてくされた顔をした。
「でも、無くはない。もし、神主が由香里ちゃんと面識があったとしたら」
二人は同時に喜一を見た。
「…犯人と由香里ちゃんは知り合いなの?」
光平が驚いて聞いた。
「多分ね」
喜一はメガネを直すと、
「僕が見た景色は、車の中から由香里ちゃんが見たものだ。恐らく犯人に連れ去られている途中の」
「それは解るけど…」
光平が悩んだような顔をする。
喜一は光平に向いて、
「普通の角度から、普通に見えた。僕自身が車から見てるように。だから、由香里ちゃんは、目隠しされていた訳でもないし、縛って寝かされていた訳でもない。自然に後部座席に座っていたんだと思う」
「…無理矢理連れ去られた訳じゃない」
光平が呟いた時、如月から陽二に着信があった。
「あ、如月さんだ。呼んでみる?」
「どうぞ」
喜一がそう言うと、陽二は電話を受けた。
日向家にやって来た如月も、少し疲れた様子だった。
喜一はすでに全員分の夕食を用意していて、ビーフシチューの匂いに、如月は少しだけ癒された気分になった。
食事をしながら、陽二が尋ねる。
「調べたんでしょ?あの薬剤師の事」
「ああ。甲田とは全く無関係…という訳ではなさそうだ」
その言葉に、一瞬全員が動きを止める。
「江藤と甲田は、同級生だ。江藤も医者を志していた時期があったらしい」
「そうなの?…で、今は薬剤師?」
光平がパンを頬張りながら聞いた。
「江藤は、大学を中退してる。酔っ払って傷害事件を…まあ、よくある客同士の喧嘩だったんだが」
「そんな事で?」
「医者を目指してる奴が、相手を殴って怪我を負わせるのは、ちょっとまずいだろう」
如月はシチューのおかわりに口をつけて、
「共に同じ道を目指した同志だったのに、自分は道を踏み外し、相手は立派に医者の道を歩いている…妬みはあるかもしれないな」
「そんなの、甲田先生のせいじゃないのにね」
光平がすっかり如月と話す事に慣れた様子で、
「でもさ、それで悪い評判を陽二くん達に喋るのは解るけど、由香里ちゃんを殺して罪をなすりつけようとまで、するかなぁ?」
そこは、陽二くん達ではなく、如月パパ達と言えよ。
と、陽二は思った。
呼び方はまだ模索中なのか。
「それから、甲田の方だけど…」
如月は陽二に向かって、
「現在、行方が解らない子供達を何人か調べたら、あの病院で甲田に診察してもらってる子供達が結構いたよ」
「ふぅーん…」
陽二は、あの時甲田に憑いていた複数の子供の影を思い返していた。
「小児科医ですからね」
喜一がポツリと言った。
「兄貴は甲田先生の事、疑ってないの?」
光平が尋ねる。
「んー…だって、子供を作ろうと思えば、その不倫相手との間で実現出来る事だろ?他人の子供を誘拐したり、殺害したりするリスクより、そっちの方がいいと思って」
喜一はそう言うと如月を見て、
「両親は容疑者ではないんですよね?」
と聞いた。
「ああ。両親には由香里ちゃんが失踪した時のアリバイがあるし、隣人の証言もある」
「そもそも、どうやっていなくなったの?」
光平が聞くと、如月は腕組みをして、
「たまたま夫も休日で、家族全員が家にいた。庭で遊んでいる時に隣人と会って話し込んでるうちに、いつの間にか由香里ちゃんがいなくなった。隣人も、途中まで由香里ちゃんがいたのを見ている」
「…家から誘拐されたのか」
陽二が驚いた顔をする。
「同じように、自宅から忽然と姿を消した子供は他にもいる。それに、今回と同様に発見された子供も…」
「同様というのは?」
喜一が興味深い様子で尋ねる。
「全員、暴行は受けていない。死因は絞殺。遺体は、胸の上で手を組んだポーズで発見された」
如月は、少し嫌な顔をした。
それらを実際に目にした時の気分は、言葉で表現しきれないほど複雑なものだ。
「犯人は、どうやって子供を選んでいるのでしょう?」
「同じように発見されたのは、全員が四、五歳の女の子だ」
「じゃあ、由香里ちゃんも無差別じゃなく、目をつけられていたのかな…」
光平が切なそうに呟いた。
「動機って、何だと思う?」
陽二が口を開く。
「暴行されてないって事は、悪戯目的じゃない。死体を遺棄するって事は、傍に置いておきたい訳でも戦利品が欲しい訳でもない。手を組んだポーズは、単に自分がやったって目印なのか、弔ってるつもりなのか…」
陽二の言葉に、全員が黙り込む。
しばらく沈黙が続いていたが、喜一がそれを破った。
「如月さん、もう一度だけ由香里ちゃんの遺品に触らせてもらえませんか?」
「…大丈夫かい?」
如月は、不安そうに聞いた。
「はい。不思議と、何か思い付いてからだと、また違う光景が見えたりするので」
喜一は冷静に続けた。
「由香里ちゃんは、犯人を恐れずについて行った。だとしたら、必ず犯人の姿を見ているはずですから」
「解った。明日にでも、すぐ準備するよ」
如月の返事を聞いて、喜一は、
「じゃあ、食後のコーヒーでもいれようか」
と、立ち上がった。
警察署のとある一室で待っていると、如月と初美が入って来た。
「お久しぶりです」
初美が少し緊張したような面持ちで、頭を下げた。
「どうも」
喜一が静かに会釈を返す。
「喜一くん、頼むよ」
如月が、あの時の人形を差し出した。
「ちょうど良かった。もうすぐ遺族に返すところだったんだ」
「待ってたんですかね?喜一さんを」
初美が呟く。
喜一は、色々と不可解な経験をしていても、そんなふうに考える事はしなかった。
たとえ、この人形が返却されていたとしても、如月はきっと何かを借りてくるはずだから。
喜一は、そんな現実的な事を思いながら、非現実的な世界を覗き始めた。
初美が喜一の姿に見いっているのを、如月は横目でチラリと確認すると、
ちょっと見とれすぎだな。
と、思った。
その時、喜一が目を開けた。
「ウサギ」
二人が、え?という顔をする。
「ウサギのぬいぐるみ。由香里ちゃんは、それに釣られて犯人の傍に行ったんです」
「…犯人が用意していた物か」
「でも…両親が傍にいても、そちらに向かって行くでしょうか?」
喜一がそう言うと、初美が、
「女の子は、可愛いものが好きですから」
と、答えた。
喜一は初美に近付くと、
「ねぇねぇ、お母さん、見て。ウサギさん」
そう言って、初美の袖を軽く引っ張った。
初美は、意表をついた喜一の幼児言葉に、ドギマギした。
「…って、言ったりしませんか?」
喜一が如月を見る。
「こうなら、どうだ?」
如月は指を口元に持って行くと、
「しー…」
と言って、手招きした。
「犯人が知り合いなら、有り得るかもしれませんね」
初美が同意して頷いた。
「ウサギを持っていたのは、男です」
喜一がそう言うと、如月が驚いて、
「見えたのかい!?犯人の顔」
「ええ。でも僕は、江藤も甲田も、顔を知りません…」
「これから病院へ行ってみよう」
「私、車を出してきます!」
初美が慌ただしく部屋を出て行った。
病院に到着すると、そこに意外な人物を見つけて、三人は足を止めた。
入口でぼんやりと壁にもたれているのは、陽二だった。
「…お前、何してるんだ?」
喜一の声に、陽二がハッと顔を上げた。
「兄貴…あれ?如月さんと初美ちゃんも。運命を感じるね、この偶然に」
陽二がいつもの調子で、初美に笑顔を向ける。
初美は、ぎこちない笑顔で応えた。
「で、何しに来たんだ?お前」
「ああ…」
再び陽二の表情が、少し曇る。
「今、仕入れに行った帰りなんだけど…あの甲田って医者に憑いてた子供達が気になってさ。あのまま、ずっと貼り付いてんのかなぁって思うと…」
「それで、祓いに来たのか?」
「うーん…悩んでたとこ」
陽二がそう言うと、如月が、
「俺達も、甲田先生の様子を見に来たんだ。一緒に入ろう」
と、歩き出した。
「様子って?」
ロビーに入ると、陽二がキョロキョロしながら、喜一に聞いた。
「顔を見に来た。甲田と江藤を僕は知らないから」
「へぇ。あ、あれが江藤だ」
陽二が薬局のカウンターにいる男を指さした。
喜一が、じっと見つめる。
「こっちだよ」
如月が二人に声を掛ける。
喜一は、フッと視線を戻すと、如月の後について、ロビーを進んだ。
小児科の前まで来ると、如月は受付に言って、何かを話し始める。
少し離れて、喜一と陽二、初美が様子を伺う。
しばらくすると、中から一人の医者が出てきた。
「あれが甲田」
陽二が呟く。
喜一は、如月と甲田が言葉を交わす姿を見つめた。
その間に、陽二が歩き出す。
そして甲田に近付くと、すれ違い様、肩をぶつけた。
「あ、すみません!」
陽二はそう言うと、
「大丈夫ですか?すみませんでした」
と、甲田の肩に触れた。
「大丈夫ですよ」
何事かと戸惑った甲田が答えると、陽二はニッと笑って、別の方向へ姿を消した。
やっぱり、祓わずにはいられなかったのか。
喜一はそう思いながら、再び甲田を見つめた。
やがて甲田が診察室へ戻ると、どこからともなく姿を現した陽二が、如月と共にこちらへ戻って来た。
「どうだった?」
如月が尋ねる。
「違います」
と、喜一は答えた。
「え?兄貴、もしかして犯人の顔解ったの?」
陽二の言葉に、如月は周りを気にして、
「外へ出よう」
と、促した。
病院から出ると、喜一が言った。
「あの二人じゃありませんでした」
「…そうか」
如月は、少し残念そうな顔をした。
「僕は、これから仕事なので、行きますね」
「お、お送りしますよ?」
喜一の言葉に、初美が即座に反応する。
「いえ、陽二も戻るでしょうから、二人で行きます」
「俺は初美ちゃんに送って貰っても構わないけど?」
そう言った陽二を無視して、喜一は如月に向き直ると、
「お役にたてず、申し訳ありません」
「いや、そんな事はない。おかげで二人はシロだと解ったんだから」
如月は、笑顔で言った。
名残惜しそうに初美を見送っていた陽二の腕を軽く叩くと、喜一は歩き出した。
「なぁ、兄貴」
「なに?」
「如月さん、あの二人がシロって言ってたけど、共犯者って可能性もあるよな?」
「なくはないけど…」
でも、自分が見た由香里の光景の中に、犯人は複数だという気配は感じなかった。
喜一は、ふと足を止めた。
陽二もつられて立ち止まる。
「陽二」
「ん?」
「犯人が手袋をしてるのは、指紋を残さないためだよな?」
「だいたい、そういう理由だと思うけど?」
不思議そうな顔をしている陽二は、次の質問で、益々意味が解らなくなった。
「いつから?」
「はぁ?」
「犯人は、いつから手袋をしていたと思う?」
「…そりゃあ、殺すタイミングの前からじゃねぇの?」
「そのタイミング、必ず思い通りに来るとは限らないよな」
先程から、喜一は全く陽二の方を見ていなかった。
「兄貴、解りやすく言ってくんない?」
陽二は、それに気付いて、喜一の目線を辿ろうとした。
「あの薄いゴム手袋って、意外と履くのに時間かかるだろ。最初からしていたのかもしれない」
「最初からって…それで歩いてたら、見た人は変に思うだろ」
「変じゃない場合もある」
そう言った喜一の先にあるもの。
陽二の視線も、それを捕らえた。
病院の駐車場に警備員の姿がある。
「…手袋の下に、また手袋」
陽二が、警備員に注目する。
白い手袋をした手が、車を誘導している。
「まさか…」
陽二は、信じられないと言いたげに呟いた。
なぜなら、喜一が、
「いた。僕が見た犯人」
と、数秒前に言ったからだった。
数日後。
如月と初美は、とあるマンションに向かっていた。
あの後、喜一からメールが届いた。
ある男の素性を調べろ、と。
それが誘拐殺人の犯人だ、と。
「もし、本当にその男が犯人だとしたら…素直に認めるでしょうか?」
初美が問い掛ける。
「もし、逃げようとしたら、藤野が投げ飛ばして捕まえてくれ」
如月は少し微笑みながら、そう言った。
マンションの前に、喜一達の車が見えた。
如月の到着を確認すると、喜一が降りて来る。
「今日はたまたま休みなんです」
喜一が車に視線を向ける。
「三人とも」
車の中に陽二と光平の姿があり、呑気に手を振っている。
「部屋の前までは、僕だけが行きますから、安心して下さい」
喜一はそう言うと、メガネを直した。
マンションへ入り、二階へ上がると、ある部屋の前で如月が立ち止まった。
そして、初美と位置を入れ替わると、小さく頷いた。
初美は深呼吸すると、チャイムを鳴らす。
「……はい」
インターホンから、男の小さな声がした。
「あの…引越のご挨拶に参りました」
初美が告げる。
しばらくの間があって、鍵を開ける音がした。
ゆっくり開いたドアに、如月が手を掛けて、顔を覗かせる。
男はびっくりして、如月と初美を見た。
後ろから男を確認した喜一が頷く。
「間違いないです」
すると如月が警察手帳を取り出して、
「幼女誘拐事件について、お話を聞かせて貰えますか?」
と、言った。
男はハッとすると、慌てて部屋の中へ戻ろうとした。
すかさず初美が、その腕を掴むと、あっという間に捩じ上げて組伏せた。
「逃げようとするって事は、心当たりがあるって事でいいかな?」
如月が尋ねると、男は唇を噛み締めた。
喜一は、部屋の奥にある、それを見た。
ウサギのぬいぐるみ。
その傍らには、幼い少女の古い写真が飾られている。
「失礼」
喜一は如月の横をすり抜けて、そのぬいぐるみを手に取った。
「…さ、触るな」
男が、体の自由を奪われたまま、苦しそうに呟く。
喜一はそっとぬいぐるみを戻すと、
「…この子は、誰ですか?」
と尋ねた。
「…い、妹、です…ずっと行方不明で…」
と、男は言った。
喜一は如月を見て、小さく首を振った。
彼女は、もうこの世にはいない。
「…とにかく、詳しい事は署で聞くよ」
如月の言葉に、男は抵抗するのを止めた。
マンションにパトカーが到着して、男が連れ出されて行くのを、陽二と光平は車の脇に立って見ていた。
すれ違い様、陽二が言った。
「嘘つき」
男が陽二を見る。
「あんた、嘘ついたろ。由香里ちゃん親子を乗せた事、覚えてないって」
男は、陽二があの時の客だと解ると、ハッとした。
「なあ、あの日、母親を乗せたのは偶然か?それとも、自らすすんで母親を迎えに行ったのか?」
陽二の問い掛けに、男は目を伏せると、
「…そんな事、どっちだっていいだろ」
「いや、良くない」
陽二は少し強い口調で言った。
「もし、あんたが後者なら、人間じゃねぇよ」
男は黙った。
パトカーが男を乗せて走り去ると、車に乗り込もうとする如月に、光平が声を掛ける。
「如月さん…あの人が本当に犯人なら…動機が知りたい」
「…これから聴取すれば解るだろう。報告するよ」
如月は光平の肩をポンと叩いた。
「なんでそんな事知りたいんだよ」
如月達を見送りながら、陽二が言った。
「だって…」
光平は少し暗い目をして、
「あの人…陽二くんの言葉に、すごく悲しそうな顔したんだもん。なんだか…あの人も救いを求めてるのかな、って気がしたから…」
「理由がどうであれ…」
喜一が口を挟む。
「許される事じゃない。子供達は、自分が死ぬという事すら解らないまま殺されたんだ」
光平がしゅんとする。
「お前が傷付くなよ」
陽二が光平に向き直る。
「次に出るかもしれなかった犠牲者は出さずに済んだ…由香里ちゃんのおかげで」
そう言うと、陽二はそっと光平の肩に手を置いた。
男の名は、石上といった。
年は陽二と一緒の二十六歳だった。
石上には妹がいた。
幼い頃、石上と妹は家からそう遠くない裏山へ遊びに行き、夢中になっているうちに、はぐれてしまった。
石上は何とか山から出て、自宅に戻り、両親に伝えると、夜になる頃には、警察や近所の住人も巻き込んで、大騒ぎになっていた。
数日それは続いたが、結局妹は見つからなかった。
「近くには川も流れているし、そこに落ちたとしたら、なかなか見つけるのは難しい。前日が雨だったせいで増水して流れも早かったそうだ」
如月は日向家のリビングで、出された紅茶に口をつけると、続けた。
「石上は、妹が行方不明になったのは自分のせいだと、ひどく自分を責めて生きて来た。でも、遺体が発見された訳じゃないし、心のどこかで妹は生きてるんじゃないかと、期待もした」
「ちょっと待った。その妹がいなくなったのが五歳の時だろ?」
陽二が言う。
「それから何年経ってると思ってんだよ。生きてるとしたら、立派な大人だぜ?五歳の子供を連れ去る理由が解んねぇよ」
「そこが、俺達に理解出来ない犯人の領域だ」
如月が溜め息をついて、
「石上は、自分でも五歳の妹を見つけようとする事が間違いだって気付けないくらい、どうにかなっていたんだろう」
「それが…妹じゃないと解ると、殺してしまうの?」
光平が、やりきれない顔をする。
「間違えてごめんなさい、と泣きながらね」
全員が、なんとも言えない空気に包まれた。
「石上は、取り調べの最中も度々そう言って泣くんだ。だから…罪の意識が無い訳じゃないらしい」
「結局、石上は由香里ちゃんと顔見知りだったの?」
光平が尋ねる。
「ああ。母親に確認した。病院の行き帰りに、よく乗ったって。由香里ちゃんの機嫌が悪いと、ウサギのぬいぐるみで構ってくれたりして、由香里ちゃんも、ウサギのお兄ちゃんと呼んでいたそうだ。」
「…そんな人が相手なら、警戒しないかもね」
「石上も不幸だが、卑劣な犯罪は許せん…それにしても」
如月が喜一を見る。
「よく石上を見つけたね」
「あの時、病院で…警備員が誘導している車の中に、石上のタクシーがいたんです。タクシー運転手なら、日頃から手袋をしていても怪しまれないですしね」
「遺体発見現場に母親を乗せて来てた。帰りは俺が乗ったけど」
陽二は冷蔵庫にビールを取りに行きながら、思い出していた。
気が弱そうで、とても人殺しには見えなかった。
真の悪人になりきれず、自分でも止められない衝動と後悔、懺悔を繰り返し重ねてきた石上。
もしかしたら、今の奴は、一番安らげてるのかもしれないな。
陽二はそう思いながら、ビールを大きく一口飲み込んだ。
しばらくすると、初美が車で如月を迎えに来た。
見送るために玄関を出ると、思い付いたように光平が言った。
「そう言えば、あの甲田先生の不倫話とか薬剤師との不仲説って、どうなるんだろ」
すると陽二が大きく伸びをして、
「知らねぇよ、人殺さないだけ、ましなんじゃねぇの?」
「確かにそうだけど…」
三人の姿を見て、初美が車から降りると頭を下げた。
喜一が、ふと初美の顔を見る。
…見られてる?
初美は少しドキドキした。
「藤野さん」
「は、はいっ」
何を言われるのかと、初美は身構えた。
「…犯人を捕まえた時の技、すごかったです」
…見られた。
あんな勇ましい姿を。
初美が複雑な表情をしていると、
「兄貴も見たの?初美ちゃんの華麗な投げ技」
と、陽二が羨ましげに言った。
「正確には捻り技だったけど」
「し、失礼します」
初美がそそくさと車に戻ると、如月も後に続いた。
二人を見送ると、陽二が
「さて。家族会議でもするか」
と、言った。
「会議?何について?」
光平がきょとんとする。
「そりゃ、お前の事に決まってんだろ」
「俺?」
リビングに戻ると、陽二が光平をソファの真ん中に座らせて、
「光平、まだ如月さんの事、如月さんって呼んでるだろ?あっちは光平って呼んでんだから、そろそろ変えた方がいいだろ」
「えー?…いいよ、別に如月さんで」
「バカ。きっと寂しがってるぞ」
「でも…なかなか…」
光平がぶつぶつと呟く。
「ダディは、どう?」
そう言った喜一の顔を、陽二と光平が見る。
しばらくの沈黙の後、喜一が、
「…冗談だけど?」
二人はホッとしたように息をついた。
「びっくりした。兄貴まで壊れちゃったかと思った」
光平が安心したように言う。
「兄貴まで、って、他に誰の事だよ」
陽二が光平の髪を掻き乱し始める。
やれやれ、またじゃれ合いが始まったか。
喜一はキッチンへ食器を下げに向かった。
大丈夫、進歩はしてる。
その証拠に、光平は如月に敬語を使わなくなった。
あれ?単に陽二の影響か?
喜一は振り返ると、まだ遊んでいる二人を見て、
「ま、いっか」
と、呟いた。
《第五話・完》