桃太郎 三
桃太郎が鬼退治へ出立して一夜が過ぎないうちに、彼は出身の慶祥国を抜け、二つの山を越え、隣の松陵国まで到達した。その距離、並の人間が一週間かけても歩みきれないほどである。松陵国は、土地柄東西南北の文化の交錯する多人種の集う商業の栄える国であった。しかし、鬼という異形の人種が鬼ヶ島から各地に流入してきてからというもの、彼らの暴行、略奪、村人の拉致などといった横暴によって国々は荒れ果てていった。松陵国もその内の一つであり、被害は土地が土地であるために甚大であった。
松陵国西の道は森である。道中、桃太郎は茶屋があるのを発見した。四六時中何かを食っていた桃太郎であったから、腹が減っていたのは自明であった。桃太郎は茶屋へ猛進した。驚いたのは茶屋の娘である。娘は早朝の店支度をしていた折に、こちらへ獣のように走り寄ってくる体躯は七尺はあろうかという大男である、驚かないはずがない。
「娘さん、あるだけ食い物をくだされ」
桃太郎は森中にこだまするような大声で言った。娘はあまりの大音量に反射的に耳をふさいだ。娘は対峙しているこの大男がもしや鬼ではないかと思った。鬼と遭ったからには鬼の言うとおりしないととって食われると常日頃から母親に言われていた娘は冷や汗をかき、すぐさま茶屋にあるだけの食べ物をとりに奥へ入っていった。
桃太郎は店前の座れる長椅子に腰をかけた。森は遠くでかすかに水の流れる音が聞こえる以外は静寂である。うとうと、桃太郎は眠った。突如、森の静寂は破られた。地鳴りが近づいてくるのであるのを桃太郎は察知した。桃太郎は動物的感覚で飛び起き、刀に手をかけたまま、道の中央に仁王立ちで陣取った。
それは鬼、であった。普通の人間と鬼を見極める最良の試金石は頭頂部を見ることである。鬼の頭には普通の人間にはあるはずのない角が生えている。角は皮膚の固まったものであると言われている。また、鬼は男女ともに筋骨隆々であり、自分の身体の三倍の大きさの岩を軽々と粉々にしてしまう。そして、鬼には感情の種類が少ないとも言われている。
「なんだお前」
灰の体色をしている、桃太郎よりも巨大な鬼が、目を細めて桃太郎を睨みつけた。桃太郎は、自らの使命に燃えている最中であった。鬼を駆逐すると言ってでてきた身である、桃太郎。ここで練習がてら鬼と手合わせしようと思い立ったのである。桃太郎は負けじと鬼をにらみかえした。
「やる気か」
灰の鬼は言った。桃太郎は刀に手をかけガチャと威嚇の音を立てた。一瞬の出来事であった。灰の鬼は体中に生えている剛毛を一気に逆立たせ、周囲の空気を一変させるほどの妖気を放ったかと思うと羽織りが千々になる勢いで腕を桃太郎の方へ突き出し、強靭な爪で一突きしようとした。が、桃太郎はそれを剣で防いだ。それはあまりに瞬間的なことであった。
「ふむ、天下の鬼に対して意気がるほどの力はあるようだな。名はなんと言う」
刀と爪の競り合いの最中、鬼は桃太郎に尋ねた。
「桃太郎だ」桃太郎はぶしつけに唾を吐くように言い捨てた。二人は競り合いを無意味と感じ、距離をとった。桃太郎は中段に刀を構えて期を見計らった。鬼は爪を刀ほどに伸ばし、増して妖気を放出させた。先に動いたのは鬼であった。鬼は背を屈め、頭から桃太郎に突進したかと思うと、桃太郎の一太刀を凄まじい跳躍力で上に避け、天空から桃太郎を切り裂こうとした。桃太郎は一太刀目のリーチをスナップを効かせて極力抑え、空からの爪をただちに対処した。冷たい金属音が一帯に響き渡った。両者はまた距離をとった。
「やるな」灰の鬼は、ぜいぜい息を切らして言った。
二人の緊張の息遣いは、彼らにとっての全てとなっていた。切らせば衝突の合図。二人の息遣いが同時に聞こえなくなる。鬼は桃太郎の刀を落とそうと回転をつけて斬りかかった。しかし、桃太郎は驚異の動体視力でそれを見切り、刀を裏返し下段にし、体制を崩した鬼の下顎から額に向かって一刀両断した。鬼は痛みにひるんだ。
「ぐぬわ」
間髪入れずに桃太郎は鬼の心臓を一突きした。鬼は引きぬかれた刀とは逆に地面へ崩落した。
「鬼を…倒しなすった…」娘は山のようにつまれた団子の乗ったお盆を両手に持ったまま立ちすくしていた。
「おお、団子か、大好物だ。いただこう」
何事もなかったように、無表情で刀をさやに戻した桃太郎は、娘から盆を受け取ると、団子を頬張り始めた。