第一章 黄金の額縁
小章① マルサの眼
十月、雨の降る木曜日。 東京・霞が関。財政省ビルの一角にある首都圏国税局、査察部。通称「マルサ」。 窓のない資料室で、特別国税査察官の加賀美 遼は、一枚の確定申告書の写しを虫眼鏡で覗き込んでいた。 四十二歳。白髪混じりの短髪に、無精髭。安物のスーツはくたびれているが、その眼光だけは剃刀のように鋭い。彼は「地取り(内偵調査)」の鬼と呼ばれ、一度食らいついた獲物は骨までしゃぶり尽くす執念の男だった。
「……臭うな」
加賀美が呟いた。 手元にあるのは、IT関連企業『ニブス・テック』の創業者兼CEO、九条 蓮の個人の申告書だ。 三十代前半で資産数百億円を築いた時代の寵児。メディアにも頻繁に登場し、「アート思考の経営者」として知られている。
「どうしました、先輩。また九条ですか?」
部下の若手査察官、牧村がコーヒーを持ってきた。
「ああ。こいつの申告は綺麗すぎる。完璧な節税対策だ。だが、完璧すぎるものには必ず裏がある」
加賀美は、申告書の「寄附金控除」の欄を指差した。
「見てみろ。ここ三年で、個人資産から十億円以上の寄附を行っている。寄附先は、彼が設立した『九条現代美術館』だ」
「自分の美術館に寄附して、税金を安くする。よくある手口じゃないですか? 租税特別措置法でも認められていますし」
「問題は、寄附の中身だ」
加賀美は別の資料を広げた。美術館の収蔵品リストだ。 そこには、聞き慣れない画家の名前が並んでいた。
『画家:SAKURA 作品名:虚無の青 評価額:3億円』 『画家:SAKURA 作品名:混沌の赤 評価額:2億5千万円』
「SAKURA? 聞いたことありませんね」
「俺もだ。美術年鑑にも載っていない。オークションの実績もない。ネットで検索しても、九条が買ったという記事しか出てこない」
加賀美は目を細めた。
「無名の新人の絵に、三億の値段がつくか? ピカソやゴッホじゃあるまいし」
「でも、アートの価格なんて水物でしょう。買う人が三億だと言えば、それが相場になる」
「その通りだ。アート市場は、価格決定のプロセスが不透明なブラックボックスだ。だからこそ、マネーロンダリングや脱税の温床になる」
加賀美は立ち上がった。
「現物を見るぞ。この『三億円のゴミ』がどんな顔をしているのかな」
小章② 美の聖域
翌日。 加賀美と牧村は、客を装って南青山にある『九条現代美術館』を訪れた。 コンクリート打ちっ放しのスタイリッシュな建物。入館料は二千円。 館内は静まり返っており、客の姿はまばらだ。
メインギャラリーの中央に、その絵はあった。 『虚無の青』。 高さ二メートルはある巨大なキャンバスが、ただ青一色で塗りつぶされている。近くで見ると、絵具の凹凸すらない、のっぺりとした平面だ。
「……これが、三億?」
牧村が絶句した。
「俺の甥っ子でも描けそうですね」
「しっ。声が大きい」
加賀美は絵に近づき、じっくりと観察した。 筆致がない。 人の手で描かれた痕跡が、極端に希薄なのだ。まるで、巨大なプリンターで印刷されたかのような。
「作者のSAKURAという人物、経歴が一切ないな」
壁のキャプションには、作品名と制作年しか書かれていない。 加賀美は、監視員の目を盗んで、額縁の裏側を覗き込もうとしたが、固定されていて動かない。
「おい、牧村。この美術館の運営母体を洗え。理事長は誰だ?」
「えっと……登記簿だと、九条の母親になっていますね。実質的な支配者は九条本人でしょう」
「そうだな。自分の金で、謎の画家の絵を高値で買い、自分の美術館に寄附する。金は自分のポケットから、自分の別のポケットに移動しただけだ。だが、その過程で『購入費』は経費になり、『寄附金』は控除対象になる」
加賀美は冷ややかに笑った。
「錬金術だよ。価値のないゴミに値段をつけることで、税金を消し去る魔法だ」
その時、美術館の奥から、男女の話し声が聞こえてきた。 スーツ姿の男と、華やかなドレスを着た女性だ。 男の方は、雑誌でよく見る顔だった。 ターゲットの九条蓮だ。三十五歳。長身で、モデルのような容姿をしている。 隣にいる女性は、この美術館のキュレーター(学芸員)だろうか。
「……次のオークション、仕込みは万全か?」
九条の声だ。
「ええ。香港のバイヤーには話を通してあります。『SAKURA』の新作、最低でも五億はつくでしょう」
女性が答える。
「いいな。五億の評価額がつけば、また節税枠が増える。……アートは素晴らしいよ。金が色を持って踊るんだからな」
二人は笑いながら、バックヤードへと消えていった。 加賀美は、その背中をじっと見つめていた。 今、確かに言った。「仕込み」と。 これは単なる過大評価ではない。組織的な価格操作(相場操縦)だ。
「牧村、内偵開始だ。SAKURAの正体を暴く。この絵がどこから来て、金がどこへ流れているのか、徹底的に洗うぞ」
加賀美の狩猟本能に火がついた。




