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東京ラスト・スタンド

作者: 久遠 睦

第一章:瑠璃色の朝


朝の山手線は、人を運ぶための鉄の箱というより、人を圧縮するための機械に近かった。佐藤美希、23歳は、見知らぬ誰かの背中とドアのガラスに挟まれながら、窓の外を流れる灰色の景色をぼんやりと眺めていた。ガラスに映る自分の顔は、夢と現実の狭間で少しだけ疲れているように見えた。学生時代の楽観的な輝きと、くたびれたサラリーマンたちの無表情。そのちょうど中間に、今の自分がいる。

丸の内にオフィスを構える中堅商社に入社して、一年が経とうとしていた。テレビドラマで見たような、スーツを颯爽と着こなし、世界を股にかける華やかなキャリア。そんな夢を抱いて飛び込んだ世界は、実際にはExcelのセルを埋め、単価を計算し、鳴りやまない電話に対応する地味な毎日の連続だった。希望が失望に変わるには十分な時間だったが、美希の心にはまだ消えない炎があった。負けん気。それが彼女の取り柄であり、原動力だった。こんな地味な毎日こそ、乗り越えるべき最初の壁だ。カッコいい仕事にたどり着くための、長い助走なのだと信じていた。

「おはようございます!」

オフィスに足を踏み入れると、美希は誰よりも大きな声で挨拶をした。静かで、それでいて張り詰めた空気が漂うフロア。キーボードを叩く音だけが、規則正しく響いている。

「佐藤さん、おはよう。昨日の資料、助かったよ」

声をかけてくれたのは、教育係の鈴木先輩だった。20代後半の彼は、いつも穏やかで、美希の可能性を信じてくれる数少ない理解者だ。

「いえ、とんでもないです!」

「無理しすぎるなよ」

その優しい言葉に、美希は深く頭を下げた。デスクに目をやると、隣の席の田中さんが、すでにモニターの数字と格闘していた。30代前半の彼女は、部署のエース。その仕事ぶりは鋭く、一切の無駄がない。男性社員にも臆することなく意見を述べ、プロジェクトを牽引する姿は、美希の憧れであり、目標だった。

そして、その奥の部長席に座るのが、五十嵐部長だ。50代の彼は、口数が少なく、その視線は常に部署の業績という一点に注がれている。厳格だが、公正な評価を下す人だと誰もが言う。

この人たちを、がっかりさせたくない。美希の頑張りの根底には、その想いがあった。ここは、意地悪な人間がいるような職場ではない。ただひたすらに、結果が求められるプロフェッショナルの戦場だ。だからこそ、失敗は許されない。自分の価値を証明するには、結果を出すしかないのだ。

理想と現実のギャップは、彼女を苛むと同時に、彼女を奮い立たせる燃料でもあった。いつか、あの田中さんのように、部長を唸らせるような大きな契約を取ってみせる。その日のために、今はただ、目の前の地味な作業を完璧にこなすだけだ。瑠璃色の夜明け前の空のように、静かな闘志を胸に秘めて、美希はパソコンの電源を入れた。


第二章:運命の交差点


その日の朝礼は、いつもと空気が違っていた。五十嵐部長が、厳しい表情で全部署員を見渡す。

「今日の午後、A社との最終商談がある。この案件がどれほど重要か、言うまでもないだろう。我々の最大の競合である大手商社も、最後まで食らいついている。総力戦だ」

その言葉に、フロアの空気が一層引き締まる。A社は、業界の勢力図を塗り替えかねないほどの大口の新規クライアントだった。この契約を勝ち取れば、部署の、いや会社の大きな飛躍に繋がる。美希は、プレゼンテーションの補佐という小さな役割を与えられていた。それでも、チームの一員としてこの大一番に臨めることが、誇らしくてたまらなかった。信頼され始めた証だ。高揚感で、胸が熱くなる。これこそ、私が求めていた舞台だ。

「佐藤、お前も頼んだぞ」

部長の言葉に、美希は「はい!」と力強く返事をした。

約束の時間の、一時間も前に、美希は商談先のビルの近くに着いていた。遅刻など、万が一にもあってはならない。逸る気持ちを落ち着かせるため、近くのコンビニで缶コーヒーを買い、小さな公園のベンチに腰を下ろした。高層ビル群の谷間にある、都会のオアシス。頭の中で、プレゼンの流れを何度もシミュレーションする。自分のパートは完璧だ。あとは、先輩たちのサポートに徹するだけ。

カシュッ、と小気味よい音を立ててコーヒーのプルタブを開ける。都会の喧騒が、心地よいBGMのように聞こえた。その時だった。

ドン、という鈍い音が、美希の耳に届いた。

視線を上げると、数メートル先で、上品なスーツを着こなした初老の男性が、アスファルトの上に崩れ落ちるところだった。鳩の群れが一斉に飛び立ち、男性の手から滑り落ちたブリーフケースが、カラン、と音を立てて地面を滑る。周囲の通行人が、一瞬足を止め、遠巻きに見ているだけだった。誰も、動かない。

美希の身体は、考えるより先に動いていた。ベンチを蹴って駆け寄り、男性のそばに膝をつく。

「大丈夫ですか!わかりますか!」

肩を揺さぶるが、反応はない。意識がない。呼吸は浅く、速い。大学時代に受けた救命講習の知識が、瞬時に頭の中で再構築される。気道を確保し、脈を確認する。弱い。バッグからスマートフォンを取り出し、震える指で119をタップした。

「救急です!男性が倒れました。意識がありません!」

場所、年齢、容態。矢継ぎ早に飛んでくる質問に、冷静に、的確に答えていく。その間も、バッグの奥で、自分の会社の着信を知らせるバイブレーションが、何度も、何度も、しつこく震え続けていた。五十嵐部長からの着信だ。頭の片隅では認識していたが、その鈍い振動は、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。

企業の時間は、 rigidで、冷徹だ。締め切り、納期、アポイントメント。一分一秒が、金銭的価値に換算される世界。しかし、今、美希の目の前にあるのは、人間の時間だった。刻一刻と失われていく、生命の時間。彼女の意識は、浅い呼吸を繰り返すこの男性の命に、完全に集中していた。どちらの時間を優先すべきか。そんな問いは、彼女の頭には浮かびすらしなかった。それは選択ではなく、人間としての本能だった。


第三章:沈黙の代償


救急車のドアが閉まり、けたたましいサイレンが東京のビル群に吸い込まれていく。アドレナリンの奔流が引き、代わりに氷のような不安が、美希の全身を駆け巡った。ようやく、自分のスマートフォンに目を落とす。不在着信、十数件。すべて五十嵐部長からだった。短いメッセージが、彼女の罪を告発していた。「どこにいる」「すぐに連絡しろ」「もう始まるぞ」。商談は、20分も前に始まっていた。

息を切らしてクライアントのオフィスのロビーに駆け込んだ時、すべては終わっていた。自社のチームが、重い沈黙の中で機材を片付けている。すれ違ったA社の担当者たちは、凍てつくような怒りを浮かべた表情で、美希を一瞥した。そのうちの一人が、聞こえよがしに吐き捨てる。

「時間も守れないとは、プロ意識を疑いますな」

その言葉が、鋭い刃物のように胸に突き刺さった。五十嵐部長と鈴木先輩が、怒りと困惑が入り混じった表情で、こちらを見ていた。

会社に戻るタクシーの中は、息が詰まるような沈黙に支配されていた。やがて、部長が重い口を開いた。

「佐藤。何があったんだ。電車の遅延はなかったはずだ」

説明すべきだった。すべてを話せば、理解してもらえたかもしれない。言葉が、喉まで出かかっていた。だが、部長と先輩たちの失望しきった顔を見た瞬間、美希の心の中で、あの「負けん気」が、歪んだプライドとなって鎌首をもたげた。倒れた人の命を、自分の失敗の言い訳に使うのか。それは、あまりに卑劣で、安っぽい行為に思えた。自分の責任を、見知らぬ誰かに押し付けることだ。それは、自分の時間管理の甘さ、社会人としての未熟さを認めることと同義だった。

美希は、深く、深く頭を下げた。

「申し訳ありません。すべて、私の自己管理不足です」

その一言が、すべての可能性を断ち切った。タクシーの中の沈黙は、もはや誰にも破れないほど重くなっていた。

オフィスに戻ると、すぐに部長室に呼び出された。五十嵐部長は、怒鳴らなかった。それが、かえって恐ろしかった。静かに、だが、突き放すような冷たい声で告げた。

「A社との契約は、破談だ。そして、たった今、競合の手に渡ったと連絡があった。今回の損失は、計り知れない」

彼の声には、深い、深い失望が滲んでいた。

「お前を、信頼していたんだがな」

その言葉が、美希の心を抉った。彼女にできたのは、ただひたすらに頭を下げ、「申し訳ありませんでした」と繰り返すことだけだった。弁解も、釈明も、一切しなかった。すべての責任という名の重い十字架を、彼女は黙って背負うことを選んだ。企業というシステムは、利益と損失という二元論で動いている。そこに、人命救助という変数を差し込む余地はない。美希はそれを、本能的に理解していた。彼女の沈黙は、そのシステムに対する、唯一にして最大の抵抗だったのかもしれない。


第四章:追放と決意


処分は、迅速かつ静かに行われた。美希は、すべてのクライアント担当業務から外された。彼女に与えられた新しい仕事は、「雑用」だった。過去の書類のコピー、古いデータの入力、備品庫の整理。同じデスクに座ってはいるが、そこはもう、以前とはまったく違う世界だった。「大型契約を飛ばした新人」。オフィスでは、そんな噂が囁かれ、何人かの同僚は、彼女と目を合わせようとしなかった。彼女は、プロとしての死を宣告されたのだ。

だが、鈴木先輩と田中さんは、彼女を見捨てなかった。そっとコーヒーを差し入れてくれたり、「大丈夫か」と声をかけてくれたり。昼食にも、さりげなく誘ってくれた。彼らは、美希の沈黙を尊重し、詳しい事情を尋ねようとはしなかった。その優しさが、かえって彼女の罪悪感を増幅させた。こんなに素晴らしい先輩たちを、私は裏切ってしまったのだ、と。

コピー機が単調な音を立てて紙を吐き出す。その長い、空虚な時間の中で、美希は何度もあの日の出来事を反芻した。会社に与えた損害の大きさは、想像を絶する。その重圧に、押し潰されそうになる。しかし、アスファルトに倒れていた男性の顔、遠ざかっていくサイレンの音を思い出すたび、心の奥底から、揺るぎない確信が湧き上がってきた。

「自分は、間違っていない」

社会が、会社が、それを「失敗」と呼ぶのなら、それでいい。でも、あの瞬間、私にはあの選択肢しかなかった。プロとしての罪悪感と、一人の人間としての確信。その二つの感情の狭間で、彼女の心は激しく揺れ動いた。

そして、その確信は、やがて静かな決意へと変わっていった。今の自分の存在は、この部署にとって、会社にとって、もはや負債でしかない。失敗の象徴として、ここに居続けることは、誰のためにもならない。このまま飼い殺しにされるのは、ごめんだ。去ること。それが、自分の選択を肯定し、自分の物語の主導権を取り戻す唯一の方法だった。

来週の月曜日、退職届を出そう。

そう決めた瞬間、不思議なことに、悲しみはなかった。ただ、静かで、澄み切った安らぎが、彼女の心を支配していた。それは敗北ではなく、彼女に残された最後の、そして最も気高い、自己主張の形だった。


第五章:さよならを巡る週末


最後の週末、美希は部屋に閉じこもらなかった。代わりに、この一年で自分の足跡が刻まれた場所を、ひとつひとつ巡ることにした。それは、失われた未来への、ささやかな巡礼だった。

まず向かったのは、新宿のクライアントのオフィスビル。初めて一人でプレゼンに臨んだ場所だ。膝は震えていたが、声は上ずらなかった。やり遂げた後の、あの誇らしい気持ちを思い出す。

次に、会社の近くの小さな公園へ。入社して間もない頃、初歩的なミスをして、悔しくて一人で泣いていた場所だ。そこに鈴木先輩が偶然通りかかり、何も言わずに自動販売機で温かいお茶を買ってくれた。人の優しさが、身に染みた。

夜は、有楽町のガード下の居酒屋へ。チームで勝ち取った小さな契約を祝って、みんなで騒いだ。その時、普段は厳しい五十嵐部長が、珍しく笑顔で乾杯の音頭をとった。「よくやった」。あの言葉が、どれほど嬉しかったことか。チームの一員になれたと、心から思えた夜だった。

そして最後に、彼女はあの運命の交差点に立った。何事もなかったかのように、人々が行き交い、車が走り抜けていく。東京という街は、個人の小さなドラマなど、いとも簡単に飲み込んでしまう。ここに立つと、後悔の念は不思議と湧いてこなかった。ただ、すべてが必然だったのだという、静かな諦観だけがあった。この場所が、彼女の社会人としてのキャリアの終着点であり、同時に、新しい人生の出発点になるのだ。

この旅は、彼女にとってのセラピーだった。夢の喪失を悼み、不甲斐ない自分を責め、悔し涙を流した記憶の場所を訪れることで、彼女は過去を清算していた。痛みと正面から向き合うことで、その痛みから解放されていく。

週末の終わり、隅田川にかかる橋の上で、彼女は東京の夜景を眺めていた。無数の光の粒が、彼女の短い社会人生活の思い出のように瞬いている。もう、迷いはなかった。涙は枯れ、心は凪いでいた。彼女は、自分の足で立つ準備ができていた。


第六章:最後の金曜日


月曜日の朝。まだ誰も出社していないオフィスに、美希は一番乗りでやってきた。白い封筒を手に、まっすぐ五十嵐部長のデスクへ向かう。

「部長、おはようございます。お話があります」

退職届を差し出すと、部長は驚いた顔もせず、静かにそれを受け取った。そして、疲れたような、深い溜息をついた。

「……そうか」

短い沈黙の後、部長は意外な言葉を口にした。

「すまなかったな。今回の件、俺の力不足でお前を守ってやることができなかった」

それは、管理者としての彼の、静かな敗北宣言だった。悪意のない、しかし巨大なシステムの中で、彼もまた無力だったのだ。その言葉に、美希の目から涙が溢れた。彼女は何も言わず、ただ深く、深く、頭を下げた。

最後の一週間は、引き継ぎ業務に追われ、あっという間に過ぎていった。同僚たちには「一身上の都合」とだけ説明した。誰もが、彼女の退職を惜しんでくれた。

そして、金曜日。最後の日。美希は、誰よりも早く出社した。お世話になったデスクを綺麗に拭き、私物を小さな段ボール箱に詰める。朝日が差し込む静かなオフィスで、彼女は短い会社員生活に別れを告げていた。

朝礼が始まった。最後に、恒例の退職の挨拶を求められる。

「短い間でしたが、皆様には大変お世話に…」

彼女がそう言いかけた、その時だった。オフィスのドアが開き、見慣れない役員が立っていた。その役員は、フロアを見渡し、まっすぐ美希を指差した。

「佐藤美希さん、だね。社長がお呼びだ」

しん、とオフィスが静まり返る。すべての視線が、美希に突き刺さった。血の気が、さっと引いていく。頭の中を、最悪の可能性が駆け巡った。会社に与えた損害の賠償請求。懲戒解雇。最後の最後に、全社員の前で、公開処刑にされるのか。

震える足で立ち上がり、役員の後について歩き出す。同僚たちの心配そうな視線が、背中に痛い。社長室までの長い廊下が、まるで断頭台へと続く道のように思えた。


第七章:真実の部屋


社長室は、美希が今まで足を踏み入れたことのない、異空間だった。ふかふかの絨毯、重厚なマホガニーの調度品、そして窓の外には、東京の街並みがジオラマのように広がっている。大きなデスクの向こうに、式典でしか見たことのない社長が座っていた。そして、その手前の来客用のソファに、一人の男性が、こちらに背を向けて座っていた。

「失礼します。佐藤美希です」

か細い声でそう言うと、ソファの男性が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

息を呑んだ。あの交差点で倒れていた、初老の男性だった。以前より血色は良いが、まだ少しやつれているように見える。彼は、ゆっくりと立ち上がると、美希に向かって、深々と頭を下げた。

「あの時は、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、命が助かりました」

美希は、何が起きているのか理解できず、ただ立ち尽くすしかなかった。男性は顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。

「自己紹介が遅れました。私は、御社の競合である、東西物産の会長、高林と申します」

東西物産。あの契約を、自社から奪っていった、最大のライバル企業。その会長。

高林会長は、ゆっくりと語り始めた。病院で意識を取り戻した後、自分を助けてくれた若い女性を必死で探したこと。しかし、何の手がかりもなく、途方に暮れていたこと。そんな時、部下がA社との契約成立を報告に来た。その席で、商談の日に、相手方の新入社員が理由もなく現れず、破談になったという話を聞いた。その瞬間、すべてが繋がったのだという。

「私は、すぐに調査させました。そして、あなたが、あの時の状況を一切言い訳にせず、すべての責任を自分で被ったと知りました。私は…深く、深く感動しました」

会長の目が、真っ直ぐに美希を見つめる。

「時間厳守は、ビジネスの基本です。しかし、それ以上に大切なものがある。あなたのその誠実さ、その気高い自己犠牲の精神は、金銭では測れない価値がある。私は、あなたのような人間がいる会社とこそ、仕事をしたい」

彼は、美希の会社の社長に向き直った。

「先日、社長にご提案させていただきました。御社が失った契約の、倍の規模の取引を、我が社と結んでいただきたい。ただし、条件が二つあります。一つ、このプロジェクトの担当責任者は、佐藤美希さんにしていただくこと。そしてもう一つ、彼女の退職を、撤回させていただきたい」

それは、懲罰ではなかった。それは、彼女の「誠実さ」という人格そのものに対する、最高の評価であり、最大の投資だった。

恐怖と絶望が、驚きと安堵に変わり、そして、込み上げてくる熱いもので視界が滲んだ。会長が心配そうに「大丈夫かね?」と声をかける。美希は、彼を権威ある会長としてではなく、あの路上で苦しんでいた一人の人間として見た。そして、心からの笑顔で答えた。

「…はい。高林さんが、お元気になられて、本当に良かったです」

その言葉に、ビジネスの駆け引きは一切なかった。ただ、純粋な安堵があった。その瞬間、彼女の人間としての価値が、ビジネスの価値を完全に凌駕したのだ。


エピローグ:一年後、光の中へ


一年後。高層ビルの会議室で、佐藤美希はチームを率いて、クライアントへのプレゼンテーションを行っていた。24歳になった彼女の姿は、かつての新人のおぼつかなさなど微塵も感じさせない。自信に満ちた声、的確な分析、そして堂々とした立ち居振る舞い。彼女は、東西物産との巨大プロジェクトを見事に牽引し、社内でも若手のホープとして一目置かれる存在になっていた。

会議が終わり、一人になった美希は、大きな窓のそばに立ち、眼下に広がる東京の街を眺めた。遠くに、あの運命の交差点が見えるような気がした。

あの日、すべてを失ったと思った。だが、実際には、何一つ失ってはいなかった。あの一週間、会社を追放され、自分の無力さに打ちひしがれた日々こそが、彼女を鍛え、成長させた。苦しみの中で見出した「自分は間違っていない」という確信が、今の彼女の揺るぎない芯となっている。

見返りを求めず、ただ正しいと信じることをする。

そうすれば、いつか、必ず、何らかの形で自分に返ってくる。

それは、都合の良いおとぎ話などではない。誠実さは、信頼を産む。そして、信頼こそが、何物にも代えがたい財産になるのだ。彼女は、あの一件を通して、そのことを身をもって学んだ。

かつて夢見た、ドラマのヒロインのような「カッコいい」自分。今の彼女は、まさにその姿になっていた。だが、それは誰かに与えられた役柄ではない。彼女自身の選択と、譲れない信念で勝ち取った、本物の輝きだった。

美希は窓から離れ、次の仕事に向かう。その足取りは、光の中へと続く道を歩むように、力強く、迷いがなかった。


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