後編
遊歩道を分断する横断歩道の前で、美咲ちゃんと別れた。
私は左折して住宅地に入り、日陰を探しながら狭い道路の端を歩くが、真上から照らす太陽は道全体に照り付けている。
「はぁ……もうちょっと……」
あと5分も歩けば家に着く。
それだけが唯一のモチベーションであり、帰ってからのあれこれを考えると重かった足取りも多少軽やかになる。
美咲ちゃんから貰ったスポーツドリンクも、少なからず心に余裕をくれているかもしれない。
自分を鼓舞するように、首の裏を蒸していた長髪をヘアゴムで1本にまとめた。
多少涼しくなるかと思ったけど、直射日光で余計に暑さを感じてしまう。
いっそのこと走って帰ればこの地獄とも早々におさらばできるけど、道路を走ってはいけないとお母さんに言いつけられているのでもう少しだけ我慢しよう。
と、十字路を曲がったその時だった。
「……え?」
いつもと同じ帰り道。
なのに、1箇所だけ違うところがある。
左前方に立つ電信柱の裏から、赤いスカートがはみ出しているのだ。
それがさっきの不審者であることはすぐに気がついた。
息を殺し、足音を立てないようにゆっくりと後退る。
これは偶然? それとも先回りされた?
それ以前に、本当にさっきの不審者?
美咲ちゃんのイタズラじゃないの?
自分自身で混乱していることに気づきながらも、まともに考えることができない。
落ち着こう、大丈夫。
バレないように来た道を戻って、遠回りして家に帰ろう。
そう考えた瞬間だった。
「――!」
電信柱に巻かれた虎柄のようなカバーの上に、真っ白な手がゆっくりと現れた。
次にどうなるかは分かっている。
遊歩道で見た不気味な女の姿がフラッシュバックし、私は無意識のうちに踵を返して来た道を戻っていた。
なにあれ?
どうして?
不審者っておじさんじゃないの?
早歩きをしながら、恐る恐る背後を振り返る。
幸い……と言っていいのか、数十メートル進んでも、角から女は現れなかった。
「どうしよ……」
結局、私はまた遊歩道に戻っていた。
少なくともあの道には戻れないけど、遊歩道を歩くのも怖い。
なら、遊歩道を超えて大通りに出よう。
そうすればすぐ近くにコンビニがある。
学校帰りにコンビニに行くのは禁止されているけど、今は緊急事態だから仕方ない。
大人の人からお母さんに電話してもらえば、すぐに迎えに来てくれるはずだ。
しかし遊歩道を繋ぐ横断歩道に差し掛かったところで、私は再び気づいてしまった。
大通りに面した四角い建物の角から、赤い服の女がこちらを覗いている。
今までとは違い、最初から長い髪を垂らしてこちらを見ているのだ。
「こんなの変だよ……」
女の足がどんなに早くても、私に気づかれないように先回りをするにはもっと時間がかかるはずだ。
なんで?
どうして女はあそこにいるの?
『じゃあ幽霊じゃない?』
美咲ちゃんの言葉が脳裏をよぎる。
もしもあれがただの不審者じゃなくて、幽霊なのだとしたら……いや、幽霊なんていない。そうじゃなくても、こんな昼間から幽霊なんて出るはずがない。
でももし幽霊だとしたら、私はどうなるんだろう。
こんなに暑いのに足が震えて、全身に鳥肌が立った。
どうしよう。
どうするのが最善なんだろう。
「だ、誰か……」
小さく呟いて、私はハッとした。
逃げられないのなら、助けを呼べば良い。
防犯ブザーはなくても、頑張れば声を出せる。
「た、助けて……誰か助けてっ!」
少し掠れながらも、私の大声は響き渡った。
「不審者がいます! 助けてくださいっ!」
町内全体に響き渡るような大声で、私は何度も叫んだ。
「助けて! 助けてっ!」
しかし蝉たちの鳴き声が聞こえるだけで、誰かが助けに来てくれる気配はない。
それでも諦めるわけにはいかず、私はひたすら叫んだ。
「助け――」
だが、思わず口をつぐむ。
今まで覗いていただけの女が、角から完全に出てきていたのだ。
女は真っ赤な長袖のワンピースを身に纏い、沸騰しそうなコンクリートの上に裸足で立っていた。
私は走り出していた。
戻るわけでも進むわけでもなく、美咲ちゃんの家の方角に向かって遊歩道を必死に走った。
ここから私の家に帰るより、美咲ちゃんちに行く方がずっと早い。
酷い喉の渇きを感じて、走りながらスポーツドリンクを少し飲むが、生温さが気持ち悪くて吐き出してしまった。
正面に見える深緑の山を見つめ、ただただ必死に走り続けると、歪む景色がどんどん流れていく。
まるで夢を見ているようで、これっぽっちも現実味がない。
なのに、全身にまとわりつく気持ち悪さで、否応なくこれが現実だと分かってしまう。
「なんでこんな……」
呟いてみても、現状は好転しない。
それどころか、さっきからたびたび、視界の隅に赤い何かがちらついている。
それは木の裏だったり、車道の隅だったり、その存在を私に見せつけるかのように、あるはずのない赤が私の視界に割り込んでくる。
正面を見つめて、何にも気づくことなく、ひたすらに走るしかない。
「はぁ……はぁ……」
もう少し、あと少しで美咲ちゃんの家だ。
そこに駆け込んでしまえば、もう怖いものなんてない。
たとえ女が幽霊だとしても……。
え? あれ? 幽霊だったら、どうなるんだろう。
もしも幽霊なら、家の中まで入ってくる?
このままだと美咲ちゃんの家や私の家が女にバレる?
そうなったら、どうなるの?
私が寝ている間も、ご飯を食べている時も、お風呂に入っている時も、ずっとずっと、女はどこからか私を覗いてくるの?
嫌にハッキリとその状況をイメージしてしまい、途端に吐き気が込み上げる。
「おぇええ」
思わず立ち止まった瞬間に、消化しきれていない朝食を吐き出して、頭の奥がぎゅっと縮むような感覚に襲われる。
これ、なんなの?
どうすれば終わるの?
こうしている今も、視界の隅に赤い何かが見える。
首を少しでも横に向ければ、あの女と目が合ってしまうのだろう。
しかも、赤い何かとの距離はそんなに離れていない。
今横を向けば、今度こそ女の顔をハッキリと見てしまう。
「なんにも悪いこと……してないのに……」
頬を伝った水滴が涙なのか、それとも汗なのか、それすらも分からない。
「あっ……」
その時、ふと1つの考えが浮かび上がった。
「神様なら……」
神頼み。
正面にある山の麓、遊歩道をまっすぐ進んだところに小さな神社がある。
そこに行けばきっと、悪い幽霊を神様が追い返してくれるはずだ。
生温いスポーツドリンクを全て飲み干し、私はまた走り出した。
視界に映り込む赤を見ないように、できるだけ足元に視線を落として、力の限り足を動かす。
サウナのような蒸し暑さも、燦然と輝く太陽も、喧しい蝉の声も、もはやどうでもいい。
「助けて……神様……」
何度も祈りながら、ただひたすらに走る。
だんだんと足が思ったように動かなくなり、口の中に不快な粘り気がこびりつく。
それでも今は走るしかない。
そうしているうちに、次第に蝉の声が大きくなり、遊歩道の終わりが見えてきた。
遊歩道の先にある横断歩道を渡れば公園があり、その奥の石段を登れば神社はある。
「助けてください……助けて……」
遂に遊歩道の終わりに辿り着いた私は、信号が青になるのを待たずに横断歩道を渡り、公園へ足を踏み入れた。
その瞬間、あることに気づく。
「いなく……なった?」
常に視界のどこかにあった赤が、綺麗さっぱり消えている。
「あっ、神社公園だから……?」
神社公園と呼ばれるこの公園は、きっと神社の一部なのだろう。
だから悪い幽霊は入ってこれず、姿を消したのだ。
安心するのと同時に、どっと疲れが全身を襲う。
「水……」
私は公園の隅にある水飲み場に駆け寄り、蛇口を捻って噴水のように飛び出す水を啜るように飲み込んだ。
味のしないただの水なのに、今まで飲んだどんな飲み物よりも美味しく感じる。
次に私は、蛇口をさらに強く捻り、その水を全身で浴びた。
熱くなっていた髪の毛が冷却されていく感覚がとても気持ち良い。
「ふぅ……」
身体中からポタポタと水滴を垂らしながら、やっと一息つくことができた。
もう少しここにいれば、あの女も諦めてくれるだろうか。
「あっ……」
なんて。
そんな考えは甘かった。
振り返った私の瞳に映ったのは、公園唯一の入り口前に立ち尽くす、赤い女の姿だった。
「や、やめてよ……」
女はどこまでも追ってくる。
高いフェンスを乗り越えて、なんとか公園を抜け出せたとしても、きっとあの女は家までついてくる。
「なんなのっ!?」
私は1人きりの公園を駆け抜けて、木々に囲まれた石段に足を踏み入れる。
再び背後を振り返ると、依然として女は公園の入り口に立っていた。
「神様っ!」
決して長くない石段を、一歩一歩踏みしめるように登っていく。
石段を登るにつれて空気は冷たくなり、蝉の声は小さくなる。
「はぁ……はぁ……」
最後の石段を蹴り、遂に私は朱色の鳥居を潜り抜けた。
石畳の境内は木々に囲まれ、涼しい風が吹いている。
正面に見える古びた社が、私にとって最後の頼みの綱だ。
「助けてください! 神様! 助けてください!」
お母さんが教えてくれた神社の作法を無視して、鈴尾を強く振り回しながら、私は何度も何度も叫んだ。
カラカラと鳴る鈴の音と私の叫び声だけがあたりに木霊し、まるで世界に私しかいないような、不思議な感覚に包まれる。
「助けて……」
最悪の場合、私は二度とこの神社から出れないのかな?
そもそも、あの女は何が目的なんだろ?
陰からこっそり私を覗いたり、かと思えばはっきりと姿を現したり、いつまでも私についてくるのに、その癖なにもしてこなかったり……。
「何か、伝えたいのかな……?」
悪い幽霊だと思っていたけど、あの人は何か悪さをしたわけじゃない。
それに私だって、なにも悪いことはしていない。
例えば心霊スポットに行ったり、お墓で悪ふざけをして恨まれたのならまだ納得できる。
でも私はそんなことを一切していないし、友達が怖い話をしていても聞かないようにしている。
そんな私に悪霊が付いてくる理由なんて無いはずだ。
なら怖くても話を聞いて、助けてあげるべきなのかな?
困っている人は助けてあげなさい。
お母さんはいつもそう言っている。
そうすれば回り回って、いつか自分が助けてもらえるらしい。
「でも、やっぱり怖いよ……」
理屈では分かっていても、怖いものは怖い。
あの幽霊には申し訳ないけれど、話しかけるなんて無理だ。
神様、どうかあの幽霊を助けてあげてください。
両手を合わせ、神様にお願いする。
静寂に包まれた境内は、不思議と私の心を落ち着かせてくれた。
さっきまでの出来事が白昼夢だったかのようだ。
きっと今石段を降りれば幽霊はいなくなっていて、私は何事もなく家に帰って、お母さんが作ったお昼ご飯を食べるんだ。
「神様、どうか私をお家に帰らせてください」
私が、そう願った瞬間だった。
「はぁい」
女性の声がして、思わず目を開けた私は見てしまった。
社の扉についた格子状の窓の中、真っ暗闇からこちらを覗く、真っ白な顔を悍ましい笑みで歪ませた、赤い服の女。
「あっ……あっ……」
早く逃げたいのに、合わせた目を離せない。
太腿に熱い液体が流れて行き、それと同時に意識が遠のいていく。
どうしてこんなことになってしまったのか、赤い女は何なのか、私には分からない。
やっぱり、プールなんて行くんじゃなかった。
記憶が途切れる寸前に思い浮かべたのは、お母さんでも、美咲ちゃんでもなく、プールで泳ぐ自分自身の姿だった。