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前編

 足元に並ぶ小豆色のタイルが、暑さで歪んで見えた。

 遊歩道に降り注ぐ日光は、日焼け止め越しに私の肌をジリジリと焼いていく。

 去年買ってもらったピンクのプールバックも表面が熱されて、まるでフライパンかアイロンを肩に下げているみたいだ。

 この調子なら、家に着くまでの間に水着も乾いてしまうかもしれない。


「あつっ……」


 立ち並ぶ街路樹を日除けにしようかと考えたけれど、以前毛虫が落ちてきた経験があるので、木には極力近づかないようにしている。

 夏の木には、何がいるのか分からない。

 虫なんかに比べれば、こんな暑さはまだマシだ。

 とはいえ、このままでは熱中症になりかねないので、首から下げた水筒のキャップを外した。

 飲み口に唇を当て、勢いよく傾ける。


「……あれ?」


 しかし、水と然程変わらないスポーツドリンクが僅かに流れ込んだだけで、喉が潤う前に空になってしまった。

 水分が尽きたと分かった瞬間、余計に喉の渇きを感じてしまう。

 こんなことなら、男子みたいに校庭の水道水を入れてくれば良かった。

 はしたなく感じるけれど、倒れるよりは幾分マシでしょう。


「死んじゃう……」


 どこからともなく聞こえる蝉の合唱は、私を馬鹿にしているかのようで腹立たしい。

 せっかくの夏休みなのだから、クーラーの効いた自宅でアニメやMeTubeを一日中見ていたいのに、どうしてプールなんて物のために登校しなくてはならないのだろう。

 そもそも、この真夏日に無理やり外出させるなんて、幼児虐待……生徒虐待? とにかく、虐待行為だ。

 早く家に帰りたいのに頭がぼうっとして、足を早く動かす気にもなれない。

 プールに入ったばかりなのに全身汗だくで、日焼け止めも落ち始めているだろう。

 ノースリーブのワンピースを用意していたお母さんを恨みつつ、ふと、顔を上げた。

 どこまでも続く小豆色の遊歩道の向こうには、深緑に染まった山と、腹立たしいほど真っ青な空が広がっている。

 今すぐあの山の裏から巨大な入道雲が現れて、豪雨で私の体を冷やしてくれないだろうか。

 などと、叶わぬ空想はするだけ無駄で、風ひとつ吹かない灼熱の道を、ただひたすら進んでいく。


「……?」


 そこで、あることに気がついた。

 20メートルほど先の街路樹、その根元から少し上の部分に、赤い何かがはみ出ている。

 一瞬、旗の様な物だと思ったが、まじまじと見ているうちに、それがスカートだと気がついた。

 この暑さに耐えきれず、誰かが木陰で休んでいるのだろう。


 虫が落ちてこなければ良いけれど。


 木の幹にもたれ掛かる女の子を想像し、誰とも知らない彼女を相手に、余計な心配をしてしまう。

 今は何より自分のことだ。

 早く帰って、冷たい麦茶を飲みたい。

 それからシャワーを浴びて、タブレットで動画を見ながら漢字ドリルをしよう。

 そんなことを考えながら歩みを進めていたが、そこで思わず立ち止まった。


「……えっ」


 赤いスカートが覗いている幹の上部に、真っ白な手が添えられていた。

 その手は私の身長と同じくらいの高さにあるため、勝手に子供だと思っていた彼女の正体は大人だったらしい。


 しかし、そんな事はどうでも良かった。


 私が驚いたのは、彼女が木に背を預けているのではなく、体をこちらに向けていることを理解したからだ。

 かくれんぼを彷彿とさせる不自然な体勢に、不信感を抱かずにはいられない。

 それによく考えれば、もう少し進むと木陰の下に設置されたベンチがある。

 休むなら、木に寄りかかるよりそちらを選ぶだろう。


 じゃあ、あの人は何?

 

 その瞬間だった。

 木に添えられた手の更に上部から、ゆっくりと、長い黒髪を揺らす真っ白な顔がこちらを覗いたのだ。

 木陰であるためか女の表情は読み取れないが、目が合っていることだけは分かる。


 不審者……?


 私は慌てて背中に手を回し、防犯ブザーを鳴らそうとした。

 だが、その手は見事に空を切る。

 それもそのはず、防犯ブザーを付けたランドセルを今は背負っていなかった。


「あっ……あぅ……」


 大声を出そうにも体が言うことを聞かず、そうしている間も女はこちらを見続けている。

 蛇に睨まれた蛙とは、まさにこういう事なのだろう。


 逃げなきゃ。


 そう考えれば考えるほど身体は強張り、目を離せば彼女が襲いかかってくる気がして、瞬きをすることすらままならない。

 背中を垂れる汗がいつも以上に心地悪く、激しい痒みを感じる。

 どうしよう、怖い、痒い、気持ち悪い。


「た、たすけて、おかあさん……」


 やっとの思いで絞り出した蚊の鳴くような声は、蝉の合唱に溶けていく。


 私、殺されるのかな?


 最悪の結末が脳裏をよぎり、気づけば乾いた瞳から涙が溢れていた。

 だが唐突に、永遠にも感じた恐怖の時間は終わりを告げた。


「由依、なにしてんの?」


 その声に、思わず跳ね上がる。

 だが、私を覗き込む見慣れた顔に、安堵の息が漏れた。


「み、美咲ちゃん……」


 それはクラスメイトの美咲ちゃんだった。

 野球の帽子を被った彼女は、男子のようなTシャツと短パン姿で大人用の自転車に跨っている。

 お遣いの帰りなのか、そのカゴには大きなビニール袋が乗せられていた。


「なんで泣いてんの? 大丈夫?」

「ふ、不審者が、そこに……」

「マジぃ?」

 

 私が指差した方向に、美咲ちゃんは振り返る。

 目を離してしまった私は、怖くて再び目を向けることができずに、ただ顔を伏せていた。


「どこ? 誰も居ないけど」

「き、木の裏……赤い服の女の人」

「ちょっと見てくる」

「あっ」


 危ないよ。

 そう言う暇もなく、美咲ちゃんは自転車を漕ぎ出していた。

 赤い女に襲われる彼女を想像してしまい、言い表せないほどの不安に襲われたが、美咲ちゃんは数十メートル先まで自転車を走らせて、何食わぬ顔で戻ってきた。


「やっぱり誰も居ないよ」

「う、うそ……。さっきまでずっと、私のこと見てたんだよ?」

「本当だって。赤い服の女なんて見逃さないでしょ」

「それはそうだけど……」


 なら逃げた?

 遊歩道の両脇には、柵を挟んで片道通行の車道が通っている。

 更にその奥は住宅地になっている為、簡単に逃げることが出来るだろう。


「……逃げちゃったのかな」

「分かんないけど、とりあえずそれ飲んだら?」

「飲みたいけど、空っぽなの」

「ふーん。じゃあこれあげる」


 そう言って差し出されたのは、ペットボトルのスポーツドリンクだった。


「いいの?」

「いいよ。なんか由依ヤバそうだし」

「あ、ありがと」


 受け取ったペットボトルはとてもよく冷えていて、触れているだけで気持ち良い。

 力が入らない手でなんとかキャップを回してそれを喉に流し込むと、体の内側から冷却されているような心地いい感覚に包まれる。

 気づけば、ペットボトルの中身は半分無くなっていた。


「生き返る〜」

「良かった。途中まで一緒に帰ろ」

「うん」

「じゃあ乗って」

「え?」


 そう言って、美咲ちゃんは自転車の荷台を手で叩いた。

 どうやら二人乗りを提案しているらしい。


「それはダメだよ。危ないし、ルール違反だもん」

「えー? ちょっとくらい大丈夫でしょ」

「ダメなものはダメ。それに、本当はここ自転車禁止だからね」

「はいはい、由依は真面目だなぁ」


 態とらしく呆れたようなポーズをして、美咲ちゃんは自転車を降りた。

 面倒くさがりな彼女のことだから、歩くのを嫌って先に帰ってしまうかと思ったが、私に付き合ってくれるようだ。


「何してんの、行くよ」

「う、うん」


 改めて女が覗いていた木を見ると、美咲ちゃんの言う通り誰もいない。

 それでも木の裏に隠れている可能性もあるため、私は美咲ちゃんの後ろに隠れるように、一歩、また一歩と歩みを進めた。

 あの木が近づくにつれて、ズキズキと頭が痛んだ。

 そして遂に、その真横まで辿り着く。


「ほら、誰もいないでしょ?」

「ほ、本当だ……良かったぁ」


 私は胸を撫で下ろし、それと同時に強張っていた体が楽になった。

 それにしても、こんな真夏の真昼から不審者が現れるとは世も末だ。

 帰ったらお母さんに報告して、警察に然るべき対処をしてもらおう。


「っていうか、真剣に聞いて良い?」

「ん? なに?」

「その不審者って本当に居たの?」

「……え?」


 私は11年間という長い人生で一度も嘘をついたことがないし、それなりに真面目に生きてきたつもりだ。

 宿題をサボった事も、授業中に居眠りした事も、給食を残した事も無い。

 だからこそ、思いがけずに発せられた疑いの言葉に、少なからずショックを受けた。

 

「……もしかして美咲ちゃん、私が嘘ついてると思ってる?」

「いや、そうじゃないよ。由依が嘘つかないのは知ってるし」

「じゃあどういうこと?」


 ムキになって聞き返すと、美咲ちゃんは「だからぁ」と、面倒臭そうに言った。


「見間違いだったんじゃない?」

「そ、そんなのじゃないよ! ハッキリ見たもん!」

「でも今日めっちゃ暑いし、さっきの由依、意識モーローって感じだったでしょ。だから幻覚かなーって」


 私だって、その方が安心できる。

 でも、あれだけハッキリ見えた物を見間違いだと言うのは無理がある。


「本当だもん。すごく怖かったんだから」

「っていうか、その不審者が本当にいたとして、さっきの一瞬でどこに逃げたの?」

「えっと、多分住宅地に逃げ込んだんだよ」

「いやぁ、無理じゃない?」

「無理じゃないよ。柵さえ超えちゃえばすぐだもん」

「じゃあ、ちょっとこれ支えてて」


 美咲ちゃんは私に自転車のハンドルを預けると、件の木の裏に移動した。


「や、やめなよ……虫が落ちてくるかもよ?」

「いいから見てて」


 そう言って、美咲ちゃんは胸の高さ程の柵を軽々乗り越える。

 そして脇目も振らず車道を走り出した。

 タンタンタンと小気味良い音が辺りに響き、10秒ほどで最初の曲がり角に辿り着くと、手を振ってからすぐに帰ってきた。


「ね?」

「え、何が?」


 得意げな美咲ちゃんには申し訳ないが、不審者が逃げきれない理由にはならないと思う。

 美咲ちゃんはクラスでも足が速い方だが、それはあくまでも小学生の中に限った話であり、脚の長い大人なら、もっと素早く、それこそ一瞬のうちに逃げる事も出来るだろう。


「美咲ちゃんより足が速い大人はいっぱい居ると思うよ?」

「そうじゃなくて、足音結構響くでしょ」

「あ、確かにそうかも」


 材質の違いなのか、遊歩道と車道では廊下と体育館ほどの違いがある。


「ウチの足音でもあれだもん。大人が全力で走ったりしたら、多分もっと凄いよ。気づかない訳ないって」

「そうかも……。えーでも……」


 美咲ちゃんの言い分は分かったが、それでも腑に落ちる事はない。

 不審な女は確実に居て、私はそれを見た。

 何がなんでも、それだけは譲れない。


「じゃあ幽霊じゃない?」

「ゆ、幽霊って……お昼なのに?」

「冗談だよ。暑いから早く行こ」

「もう、変な冗談やめてよぉ」


 私がオカルト嫌いだと知っていてそんなことを言うのだから、美咲ちゃんも中々意地が悪い。


「あ、そういえば美咲ちゃん、今日のプールサボったでしょ。ちゃんと来なきゃ駄目だよ」


 これはちょっとした仕返しだ。

 プールなんて、規則がなければ行かない方が正しいとすら思う。


「サボりじゃないよ。あの日だから休んだの」

「あの日……? あ、そうだったんだ」


 仕返しに意地悪なことを言ってやろうと軽い気持ちで突いたのに、思いの外生々しい返答をされて少し動揺してしまう。


「大丈夫?」

「うん。ウチはあんまり痛みとかないんだよね。由依はまだだっけ?」

「う、うん」

「そっか、まぁそのうちね」

「……そうだね」


 なんとなく、美咲ちゃんが羨ましかった。

 虫もオバケも苦手な私はまだ子どもで、彼女はもう大人なのだと、そう言われた気がしたから。

 握り締めていた飲みかけペットボトルは既にぬるく、蝉の鳴き声は次第にその勢いを増している。


 せっかくの夏休みなのに、今はとてもじゃないが楽しいとは言い難い。

 悩みがなかった昔の自分に思いを馳せながら、私は美咲ちゃんの背中を追うように、灼熱の中を進むのだった。


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