001 - ある昼下がりの出来事
「どこに行っても、近所付き合いって大変よねぇ~」
会社のお昼休みに、明日香先輩から引っ越しの結果を聞かれ、昨晩あったことを掻い摘んで話したところ同情されてしまった。
「引っ越して最初の夜ですよ。まだ荷物も全部開いてないのに、どうしようかしら」
「うまく時間が合わないようにするか、苦情を入れるしかないかもね~。あ~後、苦情は大家さんに言うのよ。直接言うとトラブルになっちゃうからね~」
まぁあれだ、引っ越しの片づけを切り上げて寝ようと布団に倒れたところで、下の階からアレの声が聞こえてきたのだ。おかげで疲労と睡眠不足で午前中は散々だった。今も太陽の光が、寝不足の目に突き刺さる。
「そういえば聞いたわよ。結命ちゃん、あなた田豚課長にビンタしたんですって?」
明日香先輩が少しにやついた笑いを浮かべながら、痛いところを聞いてくる。
「耳の早いことで。痴情のもつれとかじゃないですからね」
「じゃ何があったのよぅ。おねいさんが聞いてあげるから詳しく話してごらんなさい」
明日香先輩が気持ち顔を近づけてくる。
周りに聞こえないようにする配慮だと思うが、少しドキドキしてしまう。
「いやー、それがですね、コピー機の横でかがんでいたら、あの課長がおしりを撫でてきたんですよ! 今時そんなセクハラしますかね?」
「それは……酷い目に合ったわね。まぁでも、結命ちゃんがそれだけ魅力的だったのかしら?」
少し口角を上げながら、そう言う明日香先輩の目は笑っていない。
そして、片手の拳を手のひらにぶつける格好をする。
「でも、今回ので味を占められても迷惑だし、ちょっと懲らしめてやりますか」
明日香先輩の横顔がカッコイイ。
「いや、でも私もビンタしちゃった手前あんまり事を大きくしても、大変なことになりそうだし……それに、こう、うまく言えないんですけど、触られたあと課長の顔見たら自分でも少し驚いていて、ちょっとしたアクシデントだったのかなって……」
「結命ちゃん、こういう事はちゃんとしとかないとダメよ。舐められると、男はとことん付け上がるんだから」
明日香先輩の表情が険しい。昔なにかあったのかな?
と、そこで何かに気が付いた表情になる。
「でも結命ちゃん、よくその表情の課長に、ビンタなんてできたわね」
「えぇ、実はその直後に、こう、ニヘラっとした表情になって、それを見たら手が勝手に……あ、普段なら絶対そこまでやらないですよ。たぶん昨日の夜の寝不足とイライラでついカッとなって……」
「それで、バチーンとやってしまったと。まぁ話を聞いた感じだと、結果オーライじゃないかな。あの課長も懲りたでしょう」
そう言って明日香先輩はパチンとウインクを決める。
すごく様になっていてまるで一枚絵の様だ。
こっちの気持ちもすっと楽になる。
「この件に関しては私もうまく根回しして置くわ、結命ちゃんももう気にしなくていいからね。それでいいでしょ?」
「えぇ」
「じゃ、午後もお仕事頑張りましょう」
そしてその声が合図だったかのように、午後の業務開始を告げるチャイムが鳴った。
午後一の会議は、先週の仕様書作成の進捗とプロトタイプシステムの進捗報告だ。透明に近い擦りガラスで仕切られたパテーションの中で課長がコーヒーを啜っているのが見える。
さっきの件もあり、少々気まずいがここは覚悟を決めて普段通り行こう。
「失礼します」
「あぁ、君か。先ほどはすまなかった」
「いえ、私も手を挙げてしまったのは軽はずみでした。申し訳ありません」
お互いに謝り、少し沈黙が落ちる。
「さて、それでは先週の報告を聞かせてもらおうか……な……」
語尾が不自然に揺らぐ。
その声に資料から目を上げると、課長が座っていたところには別の人がいた。
いや、顔は課長のままだが、明らかに ”知っている人” ではない。
そして、その人は言葉を続ける
「君にはやってもらいたいことがあるんだ」
「はぃ……?」
思わず返事をした瞬間、目の前が真っ白になり、足元の接地感がふわりと消え、体が宙に浮かび上がっていく。
「えっ、これって……神様に呼ばれたってこと? まさか変な病気で、気が付いたら病院のベッドの上じゃないよね……」
神無月 結命は、ぼんやりとつぶやきながら、状況を整理しようとしていた。
彼女はライトノベルや「なろう系」小説の愛読者であり、同時に女性向けハーレムものを書く「なろう系」作家でもある。
こんな非現実的な状況でも、新たな冒険の始まりを直感するのは、むしろ自然な反応と言えるかもしれない。
彼女の思考に呼応するかのように、目の前に光をまとった存在が静かに姿を現した。