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ヤマダヒフミ自選評論集

カミュとカフカ ー「不条理」の根源ー


 カミュの「ペスト」を再読し、続けてカフカの「城」を読んだ。「城」に関しては退屈だったので半分くらいでやめてしまったが、未完でもあるし、大体わかったからまあいいだろうと思っている。


 カミュとカフカという二十世紀を代表する作家の偉大な作品を読みながら、ふと、(でもこの二人はそんなに良くないんじゃないか)と思った。今から記すのはその感慨についての注釈である。


 …と言ったものの、もちろん、カミュとカフカが優れた作家だという事を私も否定するつもりはない。ただ私の頭の中での比較対象は、シェイクスピアとかドストエフスキーとか、ブッダとかキリストとか、そういう大きいものなので、それに比較すると…という話だ。彼らが文豪だというのを否定する気はない。


 それでは感想を書いていこう。カミュもカフカも文学史的には「不条理」を描いた作家として知られている。「ペスト」においては、オランの街が急にペストに襲われ、街は封鎖され、街の人達はペストと闘わざるを得ない。この状況が「不条理」である。そこに人間的な闘いが現れてくる。ヒューマニズム的な作品だとも言えるだろう。


 カフカの場合、もう少し状況が複雑になっている。主人公のKは測量士で、仕事で城に呼ばれるのだが、お役所的なたらい回しの結果、いつまでも城に入れない。城下町に滞在している間に恋愛沙汰やら色々な事が起こるが、結局の所、城には入れない。ここでの不条理な状況は「城に呼ばれたにも関わらず入れない」というものだ。


 カフカもカミュも、それぞれに違った形で「不条理」な状況を描いている。何故、不条理な状況を二十世紀の優れた作家は描いたのか。端的に言えば、次のようなものだろう。世界における理不尽さというのは、いつの時代にもあったのだが、近代以前においては、その理不尽を埋め合わせてくれる理論的存在が存在した。それは「神」であって、現実の理不尽さは、彼岸の神が補償してくれると想定されていた。だから現実の理不尽は、あの世の論理によって是正される。ダンテが夢見た世界はそのようなものだった。


 しかし、そのような存在は近現代では消えてしまう。このあたりは色々な事が言えるが、現代においては特に神は完全に消えてしまっているので、現実の理不尽さはより際立つ事になった。例えば、ゲーテなどは近代の人物だが、彼は信仰に近いものを抱いていた。ゲーテは「対話」の中で、「自分の死後も、生きて働き続けるエンテレヒー(万物に働く魂のようなもの)は活動し続ける」と言っている。死とは、太陽が山の裏に回るような事であって、だからといって太陽が消えたわけではない。要するに、死は一時の休息である。そういう事を言っている。


 ここで、ゲーテは神の存在しない世界においても、信仰できる対象を摑んでいるのであり、近代の偉大な哲学も大抵はそのような構造になっている。神の変質、神の低落、そうした中で、偉大な近代人はそれでも信仰できる何かを掴もうとした。


 ゲーテやベートーヴェン、カントのような人々は、神を信じる信仰と、神のいない唯物論的な現代との狭間に合って、バランスの取れた偉大な思想を持つ事ができた。それは確かに素晴らしいものだったろうが、今から望んで求められるものではない。歴史家のマイネッケは「ドイツの悲劇」で、ナチスドイツを要約・批判した後、「ゲーテ時代に帰れ!」と絶望的に叫んだが、それはあまりにも不可能な話であった。しかし、その絶望の中にマイネッケの偉大さはあった。


 カフカやカミュにおいては、もはや信じられるものは全く消えている。ヘーゲルのように、近代国家を信じる事もできず、ゲーテのように汎神論に移行する事もできない。何も信じる事ができなくなっている。だから現実の悲惨、理不尽さが出てきた時、それを人間は「不条理」と感じる事となった。カフカやカミュはそうした世界を描いている。


 福田恆存は「人間・この劇的なるもの」で、シェイクスピアの作品は宗教的な枠組みに支えられた、懲罰的な物語だったのではないかと書いている。私はこの推測は正しいと思っている。その事について若干書いておきたい。


 小野塚知二の「経済史」という本に依っているのだが、近代以前というのは大雑把に言えば「欲望抑制型」の社会だった。生産性が低かったので、人間の欲望を抑制して、集団でまとまるのが必要だった。それ故に持続可能な社会が築かれたのであって、日本で言えば徳川三百年の太平という事になろう。封建社会においては、欲望を抑制するのが善であり、その為の哲学が編み出された。だから、自己の欲望に駆られて運動する人間は最後には、社会的制裁や、死が待ち受けている。そういう運命が近代初期の文学作品では描かれている。


 (近代以前においては、欲望は完全に否定されていたので、それを批判する文学すらも出てこれなかったのだろう。欲望を批判する文学(「マノン・レスコー」のような)が現れ得たのは、欲望が社会の中で徐々に強い力を示し始めた為に、それを批判する必要があったからなのだろう)


 近代以前においては、そのように欲望は批判されなければならないものだった。欲望は恋愛のような形で特に強く現れてくる。恋愛は、制度としての結婚とは違うもの、つまり不倫として現れた。不倫はしかし社会の規範を乱すものであり、罰せられねばならない。


 不倫小説は、現代における欲望肯定の走りとも言える。怒られるかもしれないが、言いたい事を言ってしまえば、現代の恋愛とは全て不倫恋愛ではないかと私は考えている。つまり、妻不在の不倫、夫不在の不倫、そういう恋愛であり、それぞれが自分の身ばかり案じているので、相手が気に入らなくなれば別れて別の誰かと関係を持つ。それは制度としての妻、夫不在の果てしない不倫恋愛なのではないか。


 話を戻すと、近代以前においては欲望を批判するイデーが強かった。そうでなければ社会が維持できなかったからだ。過度の欲望は身を滅ぼす、これが普通のテーゼだった。だからそれを戒める論理が強かった。


 近代以降、特に現代においては、欲望はシステムに流し込まれて、その中で欲望を充足するのは「善」となった。人間性の肯定とは、人間の欲望を肯定する事だ。欲望は批判されるものから、肯定されるものへと変わった。というのは、人間が自然諸力を科学や労働、システムといったものによって支配したからだ。支配された自然は人工的なシステムへと変わり、人間の欲望はシステムを流れる血流の如きものとなった。社会が許す限りの欲望充足は善となる。


 こうした前置きを入れた上で、何を言いたいかと言えば、欲望を批判する視点が現代には失われたという事だ。そこから「不条理」の観念が浮き上がってくる。もう一度、カミュとカフカを振り返ってみよう。


 カミュの「ペスト」において、不条理の原因は、ペストの襲来の為だった。カミュもそう捉えていただろう。しかし、もっと根源的に考えていくと違うのではないか、と私は思う。要するに…カミュよりも、カミュ以前の偉大な作家、哲学者の方が真実に近い所にいたのではないか。今の私はそう考えている。


 それではその答えとは何か。答えとは、人々の生きようとする意志こそが、その意志を侵食するウイルスを「不条理」と感じさせた、というものだ。私はその方が真実であると思っている。答えは客体にあるのではなく、主体の方にある。主体の生きようとする意志が、その生を壊滅させようとする状況を「不条理」なものに感じさせたのだ。


 最近、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を読み返していたが、その中に、丁度この問題に答えている箇所がある。ショーペンハウアーはカルデロンの引用で答えている。カルデロンは次のように書いている。


 人間のもっとも大きな罪は

 彼が生まれたということにあるのだから。

  (カルデロン「人生は夢」 「意志と表象としての世界」Ⅱより引用)


 我々は死という運命を不条理なものと感じる。だが、死を不条理と感じるのは我々が生まれたからであり、生きているからであり、生きんとする意志(ショーペンハウアー)そのものだからである。この生きようとする意志そのものが罪である。この思想はキリスト教的なものだろうが、おそらく古代の賢者は、生そのものの中に、不条理なものを生み出す根源を認めていたのだろう。


 ブッダはそれに早い内に気づいていて、苦悩の根源は生誕にあると理解していた。この思想をカミュと比べた時、私は自己の内省という意味において、「生の根源が不条理(理不尽)を生み出す」という思想の方がより深いと思う。


 逆に言えば、世界が不条理に感じられる時、世界がよそよそしく、自分に冷淡なもの、自分を無意味に迫害してくるものとして感じられる時、その時、そう思っている主体は、自分の存在を振り返ってはいない。自分の存在が思索の影になっているからこそ、世界の不条理性が浮かび上がってくるのだが、そのように世界を見ているのはあくまで己である。己即世界、世界即己、という風に考えてみるなら、生きんとする意志と世界の在り方が協力しあってこの理不尽な、不条理な世界を作り上げているのである。


 …こんな風に書いていると、私がいかにも悟りきった人間のように読者には思われるかもしれないが、私も人並みに世界の理不尽さに腹を立ててきた人間だし、今も立てている。過去、私が書いた文章を見ればそういう感情は多く見受けられるだろう。ただ、私としても思想的に前進したいと思い、変化してきた、というのは一言言っておきたい。この文章だけを読んで「お前は世界の理不尽さに目を瞑るのか!」と怒る人がいたら、私もそのように感じてきた人間だし、今もそうであるのだが、思想としては変化してきて、こうなった、としか言えない。ただこうしたエッセイでは結論しか言えないので、他人から見ればあまりにも性急に結論が出されているように見えるかもしれない。


 さて、カフカについても見てみよう。カフカ「城」における不条理な世界を作り上げているのは、以上のような観点からすれば、K自身という事になる。Kが、城に呼ばれて、城に入りたいという欲望を持っているからこそ、自分は疎外されているという感情が生まれる。欲望が苦痛を生む。だが、自己に対する反省を欠いている以上、作品はどうしても憐憫の方に行かざるを得ない、と私には思える。


 カフカの作品は、自分の救われなさを誰かに訴えようとしているが、その誰かが不在である事も、聡いカフカは理解している。そこで作品の理不尽さは二重になる。カフカにおける、作品の最大の不条理性は、彼の作品内部の構造よりも、彼が自分の作品を廃棄しようとした事にある。カフカは自分が救われない事を知っていながらも、救いを求めて叫び続けたのだ。


 …だが、この叫びの意味は何か。私が考えたいのはそれである。叫びの主体は生きんとする意志だ。この意志そのものを理性が眺めた時、「原罪」とか「業」とかいう概念が生まれたのではないか。自己の存在そのものを知性が眺めた時、問題の発生源は外部にあるのではなく、内部、もっと正確に言えば内部と外部を通底する生きんとする意志によって形作られている。この、自己と他者を繋ぐ世界像を知性が眺めた時、世界の不条理性は消える。世界は不条理ではなく、我の苦しみは、我を発生させた因縁に依っているからだ。


 無論、理屈としては我々は生まれようとして生まれたわけではない。だから生誕そのものを理不尽と考える事もできるだろう。だが、我々は生き、生きようとしている。子供が大人になる過程においては、自分が意識して選択する以前に、様々な犠牲が払われている。犠牲というのは、他の生命を殺して自己の体内に摂取する「食事」のような基本的なものから、もっと社会的なものまで広く考えている。これらの事は意識的に選択して行われるのではなく、気づいたらそうなっている。


 この意識以前の自己にまで視野を広げ、知性の目で眺めてみると、死を生み出す暗い原動力が、明るい(とされる)生そのものだという事実が見えてくる。古代の賢者はそうした事をよくわかっていた。彼らは苦悩の根底を探り、真実にたどり着いた。世界は決して不条理なものではない。世界の不条理さは、自己と世界との共同の織物なのだ。


 この見地に立つ時、「不条理」という思想はまだ進歩の余地があるのではないか。…もっとも、ルネ・ジラールのカミュ論に依れば、どうやらカミュは晩年にそういう事に気づいていたらしい。その問題はここでは扱えないので保留にしておくが。


 「不条理」にはまだ先がある。この不条理は、主体が自己の欲望を自然なものとみなした為に、それを阻害する世界そのものが暗く見えた、そうした光景に他ならない。だが、元々、人間の欲望を相対化する視点が可能だったのは、「神」という絶対他者がいた為ではなかったか。神という人間を超える存在が想定されていたからこそ、人間の存在が相対化される文学作品が可能になっていた。今はそうした視点が消えてしまったので、必然的に人間を絶対化する方向に傾く。現代人の中でもっとも誠実な文学者、カミュとカフカの二人も不条理という思想に留まった。


 カミュやカフカよりももっと低い、現在のメディアなどについてはもはや言うまでもない、ひどい状況となっている。彼らは生を絶対化し、生きる事は素晴らしいと言うが、それによってかえって死の恐怖、死の「理不尽さ」を増しているのに気づかない。偽善的な大衆社会は、死を疎外し、死を社会の外に送り出し続けているが、死は生と一体なので必ず、死は我々に復讐を果たすだろう。我々の死は、高潮した生の分、その落下の恐ろしさもスピードも、前代未聞のものになるに違いない。


 生を相対化する視点がなくなっても、人が神性を求める運動そのものは続行される。そこでカミュやカフカの不条理な作品は自然と、神(ないし神のようなもの)に跪拝する形を取らざるを得ない。不条理性を描き出す事は結局は、その不条理を「誰か」に訴える事になる。その誰かが同類の人間であるなら、意味はない。彼らは同じ不条理にはまって抜け出せない同種の人々に過ぎないのだから。


 こうして、人間が打ち捨てた神は我々の元に戻ってくる。その時に我々は自分達が思ったよりも進歩していない事、古代の人が受け入れた運命を自分達が免れるわけはいかないのだと、やっと知るのかもしれない。しかし大抵の場合は知るよりも先に肉体の壊滅=死が訪れ、我々は自己を知る前に自己を失うだろう。それは我々が自己について考える事を放棄した結果であり、誰の咎でもない。


 世界は不条理ではない。世界は我と共にある。知性がその探索を深くしていけば、あらゆる理不尽は消える。理不尽が消える事は希望を見出す事を意味するのではない。ただ絶望の根拠がわかるに過ぎない。絶望の根拠がわかったなら、人は「諦め」られる。こうして我々は思想的進歩を辿ると共に一種の仮死状態に入っていく。賢者はいつも死者に近い。


 しかし現実に生きる身としては、悟り済ました人間として生きるのは許されないから、我々は相変わらず真実に覆いをかけて、偽善や嘘や、明日があるなどといった体の良い言葉で自分達を糊塗していく。これまでもずっとそうしてきたように、この先もずっとそうしていくのだろうと思う。これからもそうした未来は続いていくだろう。


 ただ、私がこの文章で言いたかったのは、知性が存在を把握しようとする時、自己の全体像を捉えなければならない、という事だ。世界の在り方は、自己の在り方と深い部分で一致しており、その箇所を抑えた時、世界の不条理は消える。不条理という思想は決定的な最後の言葉ではない。その先にはまだ、探索すべき場所が控えている。


 

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[良い点] 先生のおっしゃることは、大変勉強になります。 大変勉強に…… ………………… ………長生きしてください。 僕も長生きするつもりです。 いつか、お会いできる気がします。 …
2022/07/09 20:33 退会済み
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