第九十二話『船長』
【アンリ・ルーイエ視点】
甲板と船内を繋ぐ昇降部の扉が、ガタガタと音を鳴らし震える。クラーケンが発生させた嵐の影響で、昇降扉の留め具が壊れかけているのだろう。
扉の隙間からは大波による海水が漏れ出しており、そのせいで船内に引かれている赤いカーペットが見るも無惨な姿へと変わっていた。
私はその様子を見て、思わず顔を顰める。
「ちっ……お偉いさんに舐められないよう買った新品だってのに、すぐ駄目にしやがって」
「まぁまぁ、仕方ないでさぁ。扉が壊れてないだけマシでやすよ」
口から漏れた悪態に対して、共に状況を見ていた船員……"航海士のギル"が苦笑する。いつも軽薄そうな笑みを浮かべている、女癖の悪い男である。
こいつとは古い付き合いで、アタイが祖国を出た頃から一緒にいるから……たぶん、もう十年ほど一緒に船乗りとして活動している仲だな。
祖国を出て初めての外国で浮かれていたアタイに対し、酒に酔ったこいつがナンパを仕掛けてきたという、アタイ史上最低の出会いだったのだが。
───その後、こいつを素手でボコボコにし奢らせた酒場の席で、意外とウマが合うことが発覚し今に至るという不思議な間柄なのである。
「うーん。こうなるなら、このカーペット一番最初に片付けて置くべきでやしたねぇ……ははっ!」
ギルはその人あたりの良さそうな顔に笑みをたたえ、過度な手振りと共に軽口をたたく。
その口調は、傍目からはいつも通りのものだが……
しかし、長いこと一緒にいるアタイからすれば、どこか無理をしているような感じがしてならなかった。
なんというか、頑張ってひょうきん者を演じているような……
いや、普段からひょうきん者ではあるんだが、なんか今日はいつもより硬いというか。
───まぁ、こんな状況だから仕方ないのかもしれねぇが……
「いやぁーこんな嵐に見舞われちゃうなんて、とんだ災難でやすねー。
……でもこれは災害みたいなもんですし、あんまり気負わない方がいいッスよ!船長、どんまいっすよー?」
「あぁ……そういう事か。理解したわ」
「……えっと、何がっすか船長?」
こいつのこの様子……
大方アタイが緊張しているのを見抜いて、少しでも落ち着かせられれば!とでも思っているんだろう。
アタイの補佐役として、少しでも助けに───
……なんて考えているんだろうな。
困っている仲間がいたら、どんな時でも力になろうと動く。
追い詰められた状況になればなるほど、自分ではなく仲間のことに気をかける。
そういえばこいつは、昔からそういう奴だった。
どんな国に行っても、とりあえずナンパはするが……それでも根っこの部分はしっかりとしたやつなのだ。
その点において、アタイはこいつを信頼していると言って良い。
……だがな?
「……お前、アタイに気を使うのはやめろって言ってるだろうがぁッ!」
アタイにとって、それは余計なお世話だ。
隣でぺらぺらと御託を並べているギルの肩をこずく。
ギルはアタイの拳を受けて軽くよろめいたが、すぐに体勢を立て直し顔をこちらに向ける。
そして、不満そうな表情を浮かべ、不貞腐れたようにして口を開いた。
「いや、このぐらい言わせてくださいよ……こんな嵐じゃ平常心保つなんて無理ですって!」
「そんなに気ぃ使いたいなら貴族様の所にでも行ってきな!
アタイら船乗りにそんなもん必要ねぇ!」
「ですがねぇ、あっしにも譲れないもんが───」
「必要ねぇッ!」
「───ッ、ちょっとッ!?
わかった!分かったんでそんな叩かないでくださいよッ!」
ばんばんと叩いていたギルの背中が、軽い悲鳴と共に赤らんでいる。
アタイはそれを見て、スっと肩の力を抜いて息を整える。
まぁ、このぐらいにしておくか。
……全く、こいつはいつまで経っても気遣い癖が抜けねぇよ。
昔、獣王国へ商売しに行った時も、一人で大丈夫だっつってんのに着いてきやがるし……
アタイはそんじょそこらの奴に負ける程弱くねぇのに、何が「護衛役が必要でしょう?」だよ!要らんわそんなもん!
───ていうか、こいつがひょろひょろした身体してるせいで、獣王国のゴロツキ共に絡まれまくったし……あの時はむしろアタイの方が護衛役だったわ!
昔にあったそんな出来事を思い出して、軽くため息を吐く。
すると、そのため息に混じって、アタイの中にあった緊張がゆっくりと抜けていくを感じた。
いつもの心地好い海風を浴びているような、そんな感覚だ。
……結果として、こいつのおかげで緊張が解けたのかもしれないな。それだけは心の中で感謝しようと思う。
───しかし……
「うおっ!あぶね……!」
「……気をつけな。もう、すぐそばに来てるよ」
そんな、心地の良い心情を切り裂くように、突如として船体が大きく揺れた。
どうやら"海の怪物"は、そろそろ食事の時間にするつもりらしい。はぁ……海の底で永遠に眠っててくれて良かったんだがな?
アタイは倒れそうになったギルを支え、一瞬だけ無くなっていた緊張を血液のように全身へと巡らせる。
そして、そんなアタイにつられるように、ギルが険しげな面持ちでアタイに語りかけてきた。
「……こりゃ相手さん相当デカいですぜ?」
「あぁ、そうだな。おそらくBランクはくだらないだろうな」
通常のクラーケンであれば、冒険者ギルド指定の脅威度Bランクに至らない程度なのだが。
───しかし、相手は長いことシーアシラの緑海に潜み、此処ら一帯を荒らし回っている"海の怪物"である。
その噂はアシエーラのみに留まらず、グリム大陸全域に伝わるほど名の知れた魔物なのだ。
他のクラーケンと比べるべくもない、圧倒的高レベルだと思っていいだろう。
「厳しい戦いになるだろうな」
正直、対海洋魔物を想定した魔導船だとしても、耐えられるかどうか……そういうレベルの相手だ。
「……そうでやすね」
ギルとの間に、張り詰めたような沈黙が流れる。
長いこと旅してきたが、こいつが黙るなんて初めての経験だな。
そんなことを考えて、ガタガタと揺れている扉を眺める。
「……」
「……」
「───船長、ほんとうにひとりで行く気ですかい?」
「……あぁ、アタイ以外に適任がいるか?」
ギルの言葉に、淡々と答える。
クラーケンは獲物が居なければ海面に上がってくることは無い。となれば、魔導船の砲が届く範囲にくるように、クラーケンを引きずり出してくる役回りが必要になるのだ。
───そして、その役回り……
アタイ以上に適任なやつなんて、この船に一人もいないのだ。
荒れ狂う海の中を、自在とはいかないにしろある程度動き回れ、戦闘能力もそこそこある。
加えて、クラーケンについても熟知しているときた。
これだけの好条件が揃っているならば、アタイが戦いに出る他ないだろう。
「……でも、手助けぐらいだったら何とかなりますぜ!
あっしは……力になれそうもないですが……ッそうだ、例えば船長と模擬戦をしていたあの冒険者の方に力を……!」
「馬鹿か、お前。
客に迷惑をかけるなんて、それこそできる訳ねぇだろ?」
「それは……そうでやすが……」
ギルは呆れたようなアタイの声を聞いて、下を向き小さく呻いた。
心配する気持ちはありがたい。
それに、お嬢に手伝ってもらえれば、確かに少しは戦闘が楽になるだろう。
"アタイの力を最大限に発揮出来ない陸上で、アタイが本気を出せてなかった"にしろ、お嬢はアタイに勝てるほどの実力者だ。
……しかも、お嬢もきっと模擬戦で本気を出していなかったしな。
───だけど、助けを求めるのは駄目だ。
船乗りとして客に迷惑をかけるというのはやっちゃいけないこと。
これはアタイの矜持でしかないが、曲げることは出来ない。
「話は終わりだな。アタイはそろそろ行くよ」
───すまんなギル。
突き放すようで悪いが、こうでもしないと気持ちの整理がつかないんだよ。
口に出すつもりはねぇが、アタイだって怖いもんは怖いからな。
そんなことを考えながら、ゆっくりと扉へと向かって行く。
そして、今も限界とばかりに泣いている扉に手をかけ、思い切り開け放った。
「船長……」
背後から掛かるギルの言葉をかき消すように暴風が吹き荒れ、アタイの髪を大きく揺らす。
目の前に広がるのは、光すら見えない様な暗い雲に覆われた世界。
───アタイはそんな景色を眺め……
「まぁ、任せてくれや。
アタイだって"海の覇者"たる『Ψ.ꛃ︎︎︎︎︎︎'ӄ∡ਹʟ』と『ɦτզгΨ.єꛃ』より生まれし、魚人族の端くれだ。
……負けるつもりは無いよ」
そう言葉を残して、甲板へと歩き出す。
「船長───!」
肌に雨があたる。
さながら滝のようなそれは、服を、髪を湿らせて、甲板へと滴り落ちていく。
先程まで感じていた様々な"温もり"が、雨とともに流れていくのを感じた。
……それと同時に、アタイの手足が鱗におおわれていく。
雨は鱗に弾かれて、だらだらと地面に落ちていった。
「フゥ……」
───迫り来る大波が地面を揺らす。
陸上で生きるものにとって、それだけで大変なことである。
……お嬢は大丈夫だろうか?船酔いで苦しんでないとといいが。
そんなことを考えていると、アタイの首に三対のエラが現れた。
彼らは水中を求め、その小さな口を開閉させる。
暴風が、全てを喰らわんとばかりに吹き荒れ、アタイの身体を掴む。
アタイのように鍛えていなければ、きっと一瞬で体を持っていかれてしまうだろう。
徐々に視界がぼやけていく。
きっと今、目ん玉が黄色に変色しているんだろうな。たぶん気色悪ぃ外見になってんだろう。
アタイの体が人間体から変貌し、完全に水中へと適応した合図だ。
「……さてと───」
もう、声は聞こえない。
脳に響くあいつらの声も、そして、アタイの声も……
「……」
あいつらの前でこんなこと言ったら、きっと怒られてしまうだろうからな。
全く、船長って身分は大変だ。
体裁ってもんをいちばんに守らなきゃならねぇ。
「ほんと、面倒くさいなぁ。」
だけど、アタイはそんな魔導船船長の名に賭けて、戦おう。
───大切な、アタイの命よりも大切な仲間のために。
「アンリ・ルーイエの名に賭けて、あいつは刺し違えてでも殺してやるさ」
誰に言うでもなく、最後にそう呟き……
自らの肩に担いでいた錨と共に、アタイの身は冷たい海の底へと投げ出された。
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