9.七光り
保健室の先生によると桐香の右目は、網膜を少し刺激したものの、傷つけるまでには至っていなかったらしい。目の下の傷も深いものではなく、一か月ほどで完治するそうだ。けれど刺激した右目を休ませるために、しばらくは眼帯をするようにと指示をされた。
「ありがとうございました」
桐香達が先生にお礼を言って保健室を出る。それから三人で教室に向かう途中、理沙が口を開く。
「良かったな。大事には至らなくて」
「うん、ありがとね理沙」
桐香が理沙に対して放つ謝意の表明は、心がこもっており温かみのあるものだった。親友としてお互いに信頼し合っているからこそ、言い合える事なのだろう。
(あれ……オレへのお礼は……)
二人の後ろを歩く弘貴は、いつ感謝の言葉を述べられるのかと期待感を抱きながら、桐香の栗色の髪を見つめていた。しかしどれだけ待っても言葉を投げかけられる事はなかったので、弘貴の方から口を開く事にした。
「眼帯した藤森、似合ってんぞ。独眼竜、桐香——」
弘貴が口走った瞬間、前を歩いていた桐香が振り向いて、心底呆れたと思っていそうな視線を送ってきた。漫画的に言えば、ジト目というやつだ。
「……なに?」
眼帯をしていない左目から放たれる視線に、弘貴は微かながら寒気を感じた。
「な、なんだよー! そんな目で見る事ないじゃん!」
「あー……めんどくさい」
視線に怯む弘貴を他所に、桐香は大きくため息を吐く。しかし次の瞬間、お腹を両手で押さえて苦しい表情を見せる。
「ごめん理沙、ちょっとトイレ行ってくるから、もう教室戻っていいよ」
「お、おう。一日に何回も大変だね……」
「うん……夕べ、スイカバー三本も食べちゃったから……」
「うわ……あんた本当に食べるものに気を付けないと、最悪入院する羽目になるんだからね!」
ヘラヘラしながら「はーい」と答えた桐香は、目的のトイレまで走る。階段の踊り場にある女子トイレの扉を勢いよく開くと、全ての扉に鍵がかかってない事を確認する。五つある個室のうち、一番奥の個室を選んで扉を閉め、履いているジャージと下着を脱ぐと、洋式の便座に腰を掛ける。
「はぁ~……幸せ」
便座に座ったまま、桐香はお尻に伝わってくる温もりを直に感じ取っていた。そのままトイレの天井を眺めていると、心地よさのあまり閉じていた口が開いてくる。その理解されがたい快楽を噛み締めている桐香は、今の自分自身の表情が焼かれたししゃものように口が真ん丸になっているに違いないと思ったのだった。
桐香の学校内で一番のお気に入りの場所は、トイレの個室だという事を自負している。誰にも干渉される事なく、薄汚い天井を眺めながら、自分の物思いに耽る事ができる。
ドーナツはなぜ輪っかな物が多いのか、とか、もしも地球が真っ二つになったら地底深くの溶岩がハチミツみたいにあふれ出てくるのか、とか、地球上に存在する原子の数はいくつなのか、とか、東京スカイツリーに使われているネジの数は何本なのか、とか――とにかく様々な疑問を浮かべ、そして将来絶対にクソの役にも立たないであろう考察を延々と繰り返すのも、桐香のちょっとした楽しみの一つだ。実はこの性癖は、理沙と友達になる前、独りぼっちだった時に学校のトイレで行っていた事だ。自分自身でも、滑稽な性癖だとは思う……
「さてと、行きますか……」
用を済ませた桐香が水を流し、個室の扉を開けるために鍵のロックを解除しようとしたその時だった。
「いやぁ、マジ信じらんない!」
トイレの扉が勢いよく開かれる音がしたと同時に、女子の愚痴が聞こえてきた。同時に何人かがぞろぞろとトイレに入ってくる足音が聞こえてくる。
「勝手に試合中断して、逢坂君の手を煩わせるなんて!」
「寛子もそう思うでしょ?」
女子達の中に、さっきの試合の弘貴の対戦相手である寛子がいると分かり、桐香はドアノブからさっと手を離した。そして扉越しに耳をそば立てて女子達の会話を聞いていた。
「ええ、藤森さんはわたし達の試合の邪魔をして中断をさせた。試合への妨害行為はテニス及びスポーツに対する冒涜よ」
寛子と思われる声の中で自分の名前が出てきた瞬間、桐香は顔を引きつらせる。
「そしてこの学校のテニス部が男女で分かれている以上、わたしが男子である逢坂君と試合ができる事なんて、今日の体育の授業が先生のいない自習だったからこそ実現できた事。先生がいる時の授業なんて、男女合同なんていつできるか分からないもの」
「そうだよね寛子。逢坂君と試合ができる絶好のチャンスだって、前々から楽しみにしてたのにね」
「それなのにあの藤森桐香ってやつ、ひとが試合している時に後ろに割り込んで、寛子を負かせるために横やりを入れるなんて!」
寛子のクラスメイトの言葉に、桐香はドアノブを握ろうとしていた手をガクガクと震わせる。
(違う……私は邪魔をしようとしたわけじゃない!)
心の中で必死に否定をするものの、その声は寛子達に聞こえるはずがない。このままトイレの個室を飛び出て、寛子達に言い寄りたくても、桐香にはそんな度胸は持ち合わせていなかった。己の意気地の無さを恨みつつ、寛子の話を聞いていた。
「ねえ知ってる?」
有須寛子が声を発したのが分かった。
「藤森さんの父親が、そこそこ有名な時計企業の社長だって事」
「知ってる知ってる」
「なんか戦後の日本の時計産業の礎を築いたとか宣っている会社でしょ。聞いた事ある!」
扉の向こうで、桐香の父親の経営する会社に関する会話が繰り広げられている。心臓がキューッと締め付けられ、血液がドクドクと鼓動を鳴らしているのが、桐香自身で分かる。
「自分の親の会社が有名だからって、ちょっとお高くとまっているんじゃないかしら?」
「だからあんな姑息なマネができるんだわ」
「で、寛子に屈辱を浴びせかけて、逢坂君を奪い取るつもりだったんじゃないの?」
女子達のクスクスといった笑い声が聞こえる。
「藤森さんは単なる親の七光り。あんな不遜な性格の娘じゃ、将来会社を継がせる親も可哀そうって話よ。本人が会社を継ぐ気があるのかなんて分からないけど。とにかく、両親が娘の出来の悪さに失望する前に、一度わたしが喝を入れてあげる必要がありそうね」
「うわっ! 出るよ寛子の制裁! あの子かわいそー」
「あんな性格なのよ? 一回くらい痛い目見ておいた方が、社会勉強にもなるでしょ」
女子達の嘲け笑う声が聞こえる。そして次の瞬間、桐香の入っている個室の扉がガタガタと揺さぶりをかけられる。桐香の呼吸が浅くなり、背中にひんやりと冷たい汗が滲む。
「あれ? 誰かいるの?」
咄嗟に咳払いをして、入っているのが桐香だと悟られないようにアピールをする。
しばらくすると女子達は別の個室で用を済ませ、談笑をしながらトイレを出ていくのが分かった。桐香は怖さと悔しさの感情のあまり、しばらくトイレの個室から出る事ができなかった。歯を食いしばり、両手の拳を握っているのが精一杯だった。