8.純のいない日々
全く覇気の出ない一日は終わり、桐香は誰にも会おうともせずに帰宅をする。自宅にも弟の姿はなく、完全に純は世界から隔離されてしまったようだった。
その日は全てに身が入らず、桐香は入浴もせずに床に就いた。
そして相変わらず、目の前に立ち尽くす柱時計を眺める夢を見た。面白味も悲哀さも何一つ感じない――タイマーがゼロになるのをひたすら眺めているような感覚――
夢の中では真ん中の柱時計の、たった一本しかない針が六の所を指した。
「これってひょっとして、針が零を指すと誰かが世界から居なくなるの?」
夢の中で声にならない声を放っても、目の前の柱時計は返答などしてこない。歯車の音をたてながら、ただただ時を刻んでいるのみ。
桐香の目の前にある柱時計は三つ。そしてまだ零になっていない柱時計は中央と右の二つ。桐香の憶測が間違いでなければ、これから一週間ごとに消えていく人間はあと二人。
これから消える人間はいったい誰?
弟の純が消えたのだから、次に消えるのは父の幹也か母の美月——いや、それとももしかして、桐香自身――
★
やがて柱時計の空間は次第に歪んでいき、暗闇が上下に開かれて、真っ白な天井が現れた。
目を覚ました桐香は仰向けになったまま大きくため息を吐き、そのまま上体を起こそうとする。脳みそが鉛にでもなったかと思うほどに自分の頭が重いことに気づき、なかなか起き上がる事ができない。
「んっ、んあーっ!」
五分くらい経ってようやく上体を起き上がらせる事に成功し、間抜けな呻き声を上げた桐香は、ベッドを降りてパジャマ姿のまま一階へと向かう。
ダイニングもキッチンもリビングも、昨日の朝桐香が起きた時と寸分の違いも見受けられなかった。まるでこの空間だけ昨日から時が止まったかのように感じられて、桐香には寒気すら感じられた。
「純……どこに消えちゃったの……?」
俯き気味にダイニングのテーブルに座り、頬杖をつきながらテラスへと続くガラス扉から覗いている空を眺める。この場所からは大空を拝む事はできないが、断片的に切り取られた空の色を見れば、今日は快晴だという事は充分に分かる。
こうやってナイーブになっている時に限って空が青いだなんて、天は皮肉が得意だと桐香は心の中でぼやく。
一昨日の夜、夢の中で一番左の柱時計が零を指した次の朝、純は忽然と世界から姿を消し、存在がなかった事にされ、そして純に関する記憶そのものが抹消されていた。
そして純がいなくなっても手抜かりなくぐるぐる回っていく世界。なのに桐香だけ、純の存在は一切忘れていない。なぜなのか?
(もしかして、私自身が純を世界から消してしまった!?)
桐香の夢が現実に影響するとでもいうのなら、純を見えない世界へいざなってしまったのは自分としか考えられない。
「頭痛くなってきた――」
ため息交じりに呟いた桐香は、昨日の朝からダイニングのテーブルの上に置きっぱなしにしていたマグカップに、冷蔵庫から取り出した牛乳を注ぐ。
椅子に座ってテーブルの上にあるリモコンを手に取ると、テレビに向かって電源ボタンを押す。丁度CMをやっているところだった。そのテレビ画面を見た瞬間、桐香は顔をしかめる。
『藤森クロックは創立七十二年。藤森健三氏によって設立されて以来、日本の時計産業の発展に貢献をして参りました。七十二年のご愛顧に感謝をし、お客様に愛され続ける時計産業を目指し日夜努力して参ります。当社のルーツは街中のこじんまりとした砂時計店で――』
自分の親の企業がCMで流れているのを目にした桐香は、急にこそばゆい気持ちになり、焦ってテレビのチャンネルを変える。こうやって宣伝されているのを実際に見てみると、一人でいたとしても穴があったら入りたい気持ちになる……
それからしばらく朝のバラエティー番組を眺めていたが、学校へ行く準備をする気が起きなかった。体が重苦しく、椅子から立ち上がるのを無意識に否定しているみたいだった。ここ一週間、自身の身に起きている事は、桐香の意欲を鈍化させる。
「学校、休もうかな……」
頬杖を突きながらテレビを見ていると、突然インターホンが鳴ったので桐香は我に返る。椅子から立ち上がりおもむろに玄関に向かうと、扉の取っ手に手をかけて押し開いた。
「よっ、桐香」
「あっ……」
玄関の前に立ってたのは、桐香の親友、月尾理沙だった。気まずい顔をする桐香をしっかりと見据えており、スマートな体型に制服が似合っている。
桐香は昨日登校途中に、理沙に対して「夢を見ている」という発言をしてしまい、更にその後の学食で一緒に食事をする誘いも断ってしまった。その事をずっと負い目に感じており、夕べはスマホで謝罪の言葉をメッセージで送った。しかしあれから返信がなかったから、不貞腐れてしまったのかと不安で仕方がなかった。
「おはよう理沙……あの、昨日は——」
「メッセージ、送ってくれてたんだな。ごめん、バイトで気づかなくて、帰ったら寝ちゃって返信できなかった」
桐香が改めて謝ろうとすると、理沙はニヤリと頬を上げてほほ笑む。
「昨日の事は別に気にしてないって。ほら、早く準備しないと遅刻するぞ?」
理沙はそう言ってはやし立てる。桐香はうんと頷いて二階に上がると、急いで学校へ行く準備をする。理沙を待たせてはならないと思い、髪の手入れも化粧もかなり大雑把になってしまった。
「お待たせ」
準備が整った桐香は、玄関で待機していた理沙に声をかける。
「ん。んじゃ、行こうか」
二人で門を出ると、学校に向かって歩き出した。
「で、昨日より落ち着いた?」
学校へ向かう途中、理沙が心配そうに話しかける。
「うん……ありがとう。理沙、わざわざ迎えに来てくれたんだね」
「まあ、昨日の桐香、いつにも増して変だったからさ。何かあったんじゃないかと思ったけど――本当に大丈夫?」
何かあったかと聞かれて、何もなかったと言えば嘘になるが、ここは首を縦に振らざるをえなかった。今、桐香の身に起こっている事は、隣に居る理沙が分かる訳がないのだから。
桐香が首を縦に振ると、理沙は「そうか」と言って前を向く。それからは沈黙が訪れ、しばらくの間学校へ向かう二人の足音だけがこだました。
やがて二人は街路樹の植えられた市街地に差し掛かる。樹の下を通る度にジリジリとセミの鳴く音が聞こえてきた。
「ねぇ桐香」
突然静寂を破ったのが理沙だった。
「今週の日曜日、春宮雪乃のライブがあるんだけど、よかったら行く?」
「えっ?」
親友からの突然の誘いに、隣を歩いていた桐香は目を丸くして理沙の方を見る。
「人間ってのは息をして生活をしているだけで、何かに勝手に行き詰まっちゃう生き物なんだ。だからこういう時、同じ人間が作り出したものに触れて、人間同士で感動を共有するって事が大事なんだよ」
「えっ、何? 何が言いたいの?」
急に哲学的な物言いをした理沙に、桐香は苦笑いをしながら尋ねる。
「要するに、芸術を通しての気分転換が大切だって事」
「単に理沙が好きなアーティストのライブに誘いたいだけでしょ?」
「それもあるけどさ、ここ一週間の桐香を見てると、なんかいつもの元気が欠如してるようにしか見えないんだよね」
そうやって見られる原因は当然桐香も分かっているが、この事を理沙に話したところで信じてくれるはずがない。純をこの世界から消してしまった、なんて話したとしても、昨日のように首を傾げられるだけ。
「……でも、チケットとかって事前に購入しておかなくちゃダメなんでしょ?」
「大丈夫だよ。先行予約は既に終了してるけど、当日券を販売してる売り場があるから」
「……そっか」
「っと、もうこんな時間じゃん!」
理沙がふと、商店街の喫茶店の看板に取り付けてある時計を見ると、八時四十五分を指していた。桐香の学校の始業時間は九時。
「桐香、学校まで急ぐぞ!」
「えっ? ちょっと理沙!?」
「モタモタしてると、今度こそ遅刻扱いにされるぞ?」
「もう、理沙待ってよ~」
鞄を肩にかけて急ぐ理沙の背中を桐香が追いかける。カラフルなダイヤ型のタイルを踏みしめて走る二人の足音が、朝の商店街に鳴り響いていった。
★
体育の時間。桐香のクラスであるB組とお隣のA組は全員、校舎裏のテニスコートに移動をしていた。本日は受け持ちの体育教師が出張をしているため、生徒達はこのテニスコートで自習をしている。
六面のコートのあるこの場所は、部活動の時間になると激しい練習の風景となるのだが、今の時間は真剣に打ち合いをする者はまばらである。コートの隅っこでだべってなかなか打ち合いを始めない者、始めてはいるものの下手くそなラリーしか続かない者ばかりで、皆やる気がない。
しかしその中で、試合が行われているコートがあった。多くの女子達が見守る中、激しいラリーが続いている。コートの横で多くのクラスメイトが観戦をしており、桐香と理沙もその輪の中に入り、試合を眺めていた。
コートの中で試合をしているのは男子テニス部所属の逢坂弘貴と、先月女子テニス部の部長になったばかりの有須寛子だ。ラリーが続く中、観戦者達は黄色いボールを目まぐるしく目で追っている。
桐香の通う高校のテニス部は、特に男子は全国有数の強豪として数えられており、多くの高校生テニスプレイヤー達にその名を知らしめている。
加えて弘貴自身が一年前の地区大会で優勝、更にインターハイで準優勝に進出するという、全国でもトップクラスの好成績を残しており、彼の知名度も高い。並み以上のルックスも相まって女子高生のファンも多く、テニスの腕のみならずカリスマ性も兼ね備えてる。
そんな著名な彼なのだが――
「「「きゃーっ! 逢坂くーん!」」」
猛烈なラリーの末、弘貴が試合でポイントを取ると、観戦していた女子達が甲高い声を上げてはしゃぎだす。
「逢坂君ナイススマッシュ!」
「スマッシュの時の逢坂君の腕、すごくしなやかだよね!」
「そうそう、しなるウィップって感じ!」
「剣の達人の鋭い居合い斬りって感じ!」
「獲物を追い詰めて最後の止めを刺すときの、獣の豪快な前足って感じ!」
女子の何人かが顔を見せ合い、前衛的な語彙力を用いりながら悦に入ったように話し始める。
(うるせー……)
女子達の隣で立って観戦していた桐香は、金切り声のような声援に思わず両耳を塞ぐ。声のボリュームの下げ方を知らないのかと心の中で愚痴をこぼしながら、弘貴と寛子の試合をしばし見つめていた。
試合の合間、不意に弘貴が桐香の方を見て、ウインクしながら手を振った。それを見た桐香が反射的に一歩後ずさると同時に、女子達は顔を見合わせて再びだべり始める。
「今、逢坂君あたしの方を見たよね?」
「えー違うよ! 私の方を見たんだって!」
「ちがう! あたしだって!」
隣の女子達がくだらないいざこざをしている中、桐香は静かにため息を吐く。また一つ、何か幸せが逃げそうだと心の中で悟りながら……
「あいつ、テニスよりも桐香に夢中みたいだね」
右隣に立っていた理沙が、他の女子にバレないようにひそひそと耳打ちする。それを聞いた桐香は更なるため息を吐きたくなったが、自身で不幸を呼び寄せたくないと感じ、やめた。
一セット六ゲームの三セットマッチ。デュース無しのノーアドバンテージのルール。両者との激しい攻防が続き、お互いに一セットを取った状況。
試合が佳境に入るにつれて、弘貴と寛子の表情が真剣味を帯びたものへと変化していく。桐香と理沙も行き来する黄色いボールに見入っていたが、ギャラリーは弘貴にポイントが入ると相変わらずキャーキャー騒ぎ出す。最新型のゲーム機を買ってもらった子供のように……
隣でこれだけ騒がれると、観戦への意欲が削がれて仕方がない。
汗が顔から滴り落ちているにも関わらず、弘貴が再び桐香の方を見てにっこりと笑みを浮かべる。隣の女子達は、各々自分を見つめたのかと思い込み、ますますヒートアップ。
桐香は耐え切れず、また、ため息を零した。
(試合中にギャラリーに媚売る逢坂君も逢坂君だけど……)
動物園の猿のようにキーキー騒ぎ立てるギャラリーもギャラリーだと桐香は思う。
桐香は「神と信者」の二者の関係が好きになれなかった。
世間で脚光を浴びる者(一例としてはアイドルや俳優、ミュージシャン等)は、支持され尊敬され、時として神として崇拝される事すらある。そしてそれらを、崇め敬い持てはやす人間は正に信者の如し。
有名になる事は決して罪な事ではないが、それにあやかり神だの栄誉だのと騒ぎ立てるその様が、桐香にとっては面白くないのだった。
称える側も称えられる側も同じ人間だというのに、どうしてこうも人間としての扱いがそれぞれ異なるのだろう……
そんな事を考えているうちに、試合は三セットの六ゲーム目にもつれ込む。このゲームで四ポイントを先取した方の勝利となる。
弘貴を奮い立たせるべく、応援に躍起になるギャラリー陣。そしてそれをつまらなさそうな表情で腕を組んで睨む桐香。
しばらくして、やかましいギャラリー横での観戦にとうとう痺れを切らし、右隣の理沙に声をかける。
「理沙ごめん……先、教室戻ってるわ」
「えっ、桐香? 今いいとこだってのに!?」
「こうやって白熱するのって、好きじゃないんだ」
桐香がそっけなく答えると同時に、弘貴がサーブを放ち最終ゲームが始まる。そんな事もお構いなしに、騒ぎながら声援を送っている女子達の背後を通過し、ラリーをしているコートの寛子がプレイしている側へ。そのままコートの後ろを通って教室に戻ろうとする。
プレイしている弘貴の目には、ネットの向こう、寛子のいるコートの後ろを横切ろうとしている桐香の姿が映る。
(えっ? 藤森……行っちまうのかよ!?)
弘貴が桐香に意識が向いている数秒の間に、寛子が白線に乗ったボールをギリギリでキャッチ。そして何とか弘貴の頭上に送り込む事に成功。
「ボール! 来てる!」
「えっ? あっ!」
ギャラリーからの声に、弘貴は咄嗟に意識をボールに戻し、スマッシュを打とうとラケットを振りかぶり、ボールを勢いよく叩きつける。しかしラケットから放たれたボールは軌道のコントロールを失い、ネットの上を曲線を描くように通過。
そしてコートの中に入らずに、勢いを失わないまま白線を超え、そのまま寛子の後ろを歩いていた桐香の顔面に激突した。
「ぎゃっ!」
顔面にボールをぶつけられた桐香は悲鳴と共にその場にうずくまり、右目を手で押さえている。同時にギャラリーがざわつき、近くにいる者同士で顔を見合わせる。
寛子は桐香の方を振り向いて、ナイフのように鋭くした視線を浴びせかける。
「ちょっとあなた! 試合中に選手の後ろ横切るってどういう事かしら!? 一度観戦を始めたら最後まで声援を送るのがスポーツのマナーっていうのをご存知ないのかしら?」
寛子が右手に持つラケットのガットのずれを修正しながら、うずくまる桐香に対して言い放つ。試合を観戦していた生徒全員に聞こえるような大きな声で……
そして寛子の視線が鋭いものから、他者を見下す冷ややかなものに変化する。
「そんな生半可な気持ちで観戦なんてするから、そんな目に遭うんだわ……」
「桐香! 大丈夫!?」
「藤森!」
寛子が軽蔑の眼差しを桐香に送っていると、ギャラリーから理沙が焦った表情で走ってくる。同時に弘貴もダッシュで桐香に近づいてきた。理沙は咄嗟にダンゴムシのように体を丸めている桐香に詰め寄り、しゃがんで介抱をする。
「桐香! どこ? どこにぶつかったの? 見せてみな」
「右目の少し下の辺り……眼球にも当たったかも……」
「今痛む?」
「痛みも結構あるけど……それ以前に、右目だけが、全然見えない」
桐香が伏せていた顔を上げ、理沙に見せる。桐香の言うとおり右目の下からは少し血が噴き出ており、眼球自体も充血している。
「よし桐香、保健室行こ!」
「うん……」
理沙が促すと桐香も右目を抑えながら立ち上がる。
「じゃあ月尾さん、よろしく頼むわね。お金持ちで友達が少ない藤森さんの唯一の友達がいてくれて良かったわ」
「そりゃどうも……!」
寛子を一瞥しながら嫌味をさらりと流した理沙は、桐香と手をつないだまま保健室へと向かおうとする。
「待ってくれ!」
弘貴が理沙に声をかけた。
「ボールを藤森に当てたのはオレだ。オレにも責任がある。だから保健室に同伴していいか?」
弘貴が理沙に頼み込むと、寛子がそれを遮る。
「ちょっと逢坂君? 今は試合の最中よ。あなた、ここで放棄するつもりなのかしら? 終業まであと十五分。保健室に行ってたら、この時間の試合はもうできないわよ」
「試合よりも怪我の方が大事だろ?」
弘貴が意思を述べると、寛子は苦虫を噛み潰したかのような表情を見せ、それと同時にギャラリーから「えーっ!」と批判するような声が轟く。
「逢坂君が責任感じる事ないって!」
「そうだよ! 大体藤森さんが試合中にコートの後ろ横切ったのが悪いんだって!」
「有須さんだってそう言ってるじゃん!」
ギャラリーの女子生徒達が反論をする中、弘貴は首を縦に振る事はなかった。
「藤森に同伴させてもらう。悪いけど今回は中止って事で。試合なんていつだってできるだろ?」
弘貴が意見を述べると、女子達は反論する言葉が見当たらなくなったのか、急に押し黙ってしまう。
しかし寛子はラケットを右手に握ったまま、弘貴に詰め寄る。
「ちょっと! 納得いかないわ! 途中放棄なんて認められない!」
「有須……お前は仮に試合中に死人が出たとしても、それに目もくれず試合を続行するのかよ」
「……」
「そういう安いプライド、いい加減捨てた方がいいぜ?」
弘貴が真剣な表情で寛子に言い聞かせると、そのまま言葉を失ってしまった。
そしてそのまま桐香に近づき、表情を伺いながら優しく声をかける。
「藤森……ごめんな」
「……」
弘貴の言葉に、桐香は頷くこともしない。二人は桐香を介抱しながら保健室へと向かっていった。