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6.世界から消えた日

 柱時計の夢から覚めた桐香は、ベッドの上で上体だけを起こす。

 夕べの夢の中で、一番左の柱時計が零を指したから、自分の身に何かが起こるのではないか――そう身構えた桐香は、まず自分の両手を見つめる。裏表を見てみたが、血の通った色をしていた掌を見て、何の問題もないと分かる。

 続いてベッドから出て両手を天井に伸ばし、自身の身体を最大限に伸ばしてみる。それと同時に深呼吸をして大気中の酸素を体内に送り込む。酸素が血液中に駆け巡ったのを、生身の体で感じ取る事ができた。

 その後頬をつねったり額を拳で殴ったりしてみたが、己の身体が異変を来すなんて事は起きなかった。今の桐香は幽霊になったわけでもない、至って健康的な肉体なのだった。


「……何も起きて、ない」


 肩の力を抜いて窓の外に視線を向ける。眩しい朝日が部屋の中に照り付ける、青く晴れた空。けれどいつもは聞こえる小鳥のさえずりが、今日は聞こえてこない。快晴の空に似合わない、静寂に包まれた朝。まるでこの家だけが、外界から隔離されたかのよう……

 部屋の時計に目を向けると、現時刻は午前七時を過ぎたところだった。一週間前から時計の夢を見るようになって以来、桐香はすっきりと目覚める事ができなくなっていた。


(夢見るって事は眠りが浅いって聞いた事あるけど……)


 満足に眠れない自分の体を恨めしく思いながら、桐香はもう一度天井に向かって伸びをした後、大きなあくびを一つ放つ。


「さて、今日の純の朝ご飯は何かなー?」


 これから弟の朝食を食べられると思い、寝起きの不快感が少しだけ晴れた桐香は、パジャマのまま階段を下りてキッチンへ。


「あれ?」


 しかしそこには誰もおらず、蛇口から水が滴り落ちる音が聞こえてくるだけだった。流しの中には、昨日海水浴から帰ってきた後に食べたラーメンのどんぶりが置かれている。弟と二人で食べたはずなのにどんぶりが一つしかないのは、後で純が自分の分だけ片づけたのだろうと桐香は結論づける。

 当然ダイニングのテーブルには朝食はなく、キッチンも純が調理した形跡がない。

 そしてリビングの外のウッドデッキのあるテラスには、昨日海水浴で着た桐香の水着がハンガーから吊るされ、天日干しにされていた。


「まだ寝てるのかな?」

  

 朝食ができていなくて落胆した桐香は階段を上り、廊下の突き当りの純の部屋へと向かう。扉の前に立って軽くノックをすると、コンコンと小気味の良い音がする。


「純? 起きてる?」

  

 扉越しに部屋の中に向かって声を出したが、中からは返事は聞こえない。それどころか、人のいる気配すら桐香には感じ取る事ができなかった。


(もう学校に行ったのかな? いや、今はまだ朝の七時過ぎ……早すぎる)


 不審に思った桐香は首を傾げて、ドアノブに右手をかける。そのままドアノブを引くと、甲高い悲鳴のような音が鳴り扉が開かれる。

 開かれた部屋の中を見た桐香は、思わず目を大きく見開く。

 純の部屋の中は何もなかった。ベッドも、勉強机も、テレビも、洋服タンスも――弟と仲の良い桐香は、何度も純の部屋に入った事があった。親に内緒で夜食パーティをした時もあった。その時あった透明なガラステーブルも、ウールのじゅうたんもどこにも見当たらない。ただベージュのフローリングの床の上に、照明が一つポツンと設置されているだけだった。その光景は、まるで引っ越し先に初めて来た部屋のよう……


「なんで……どういう事?」


 焦った桐香は純に連絡しようと、自室にあったスマホを持ってくる。純の電話番号を探している間、桐香は一つの憶測をしてみる。


(ひょっとして純……家を出て行った?)


 しかし昨日までごく普通に生活をしていた純が、連絡も無しに家を出ていくだろうか? それ以前に、昨日は引っ越し業者なんて来ていない。そうすると純一人で、一晩で部屋の荷物を運び出した事になる。はたしてそんな事ができるだろうか?


「嘘……ちょっとまって?」


 桐香はスマホの画面内の電話帳を開いて、純の連絡先の項目を探すが、見当たらない。無料でメッセージのやりとりや通話ができるアプリにも、純の項目が存在しなかった。


「どうして……なんで消えちゃったの?」


 スマホの中から登録した連絡先がひとりでに消えるなんて聞いた事がない。 

 想像だにしなかった状況に、桐香は思わず眉間に皺を寄せ、廊下を何度も行ったり来たりする。しかしいつまでもこんな事をしていても埒があかない。考えあぐねた桐香は、気を落ち着かせようと階段を下りて一階のリビングに向かう。

 冷蔵庫からパックに入った牛乳を取り出し、マグカップも取り出そうと食器棚の扉を開いた桐香は、再び言葉を失いそうになる。棚の中はがらんとしており、よくよく見ると桐香が使う物しか置いていなかった。


「もう訳わかんない」


 今の状況に辟易しながらマグカップに牛乳を注ぎ、ダイニングのテーブルに持っていく。椅子に腰かけてリモコンを手に取り、テレビの電源をつける。

 丁度ニュースをやっている所で、画面の中では眼鏡をかけたキャスターが視聴者に淡々と事実を伝えている。若手女優の電撃結婚や政治家の政務活動費の横領騒動、東京オリンピックに向けてトレーニングをする選手達へのインタビュー等、テレビの中では現在の日本での旬の話題が目まぐるしく報道されている。桐香は牛乳を飲みながら、その様子をぼんやり眺めている。

 やがてニュースを見るのも堪えられなくなった桐香は、リモコンの電源ボタンを押す。そして時計を一瞥した後、学校へ行く準備をするために二階へ上がる。

 制服に着替え、メイクも完了すると、鞄を肩にかけ玄関の扉の鍵を閉める。

 一つため息を吐きながら学校に向かって歩く桐香の足取りは重い……



 海に沿った国道を歩き市街地に差し掛かると、学校に向かう生徒たちが散見されるようになる。しばらく歩いていた桐香は、目の前に見慣れた後ろ姿を見かけた。


「理沙」


 声をかけられた理沙は振り向いて桐香を見つめてから「おはよ」と言う。桐香もつられるようにして挨拶で返す。


「今日は早いじゃん桐香」


「私だってたまには早起きするよ……」


「そうかそうか……」


 会話はそこで途切れ、二人は街路樹の下を潜り抜けて学校を目指す。やがて桐香は確認をしたいがために口を開いた。


「金曜日のあれ、楽しかったよね」


「? あれって何だ?」


「ほら、あの時計塔でやった水遊び」


「あーあれか」


 理沙は思い出したのか、納得したように首を縦に振る。


「水鉄砲で桐香をびっくりさせるって逢坂が言った時は、子供の遊びかって思ったけど――ハマったら結構遊んじゃったよな……」

 

 桐香は理沙の発言に違和感を持つ。確かにあの時桐香に水をぶっかけたのは理沙と弘貴だが、ウォーターガンでびっくりさせようと発案、指示したのは純だ。


「しっかし逢坂も酔狂だね。自堕落な生活を送っている桐香に喝を入れたいがために、ウチをおもちゃ屋まで連れてってウォーターガン選びにつき合わせるなんてなー」


 やれやれ、あの時は疲れたよと言いつつ、理沙は笑いながら肩をすくめる。

 桐香は再び違和感を抱き、理沙に向かって眉をひそめる。


「いや……ウォーターガンを買ったのは逢坂君じゃなくて純――」


「藤森ー。月尾ー」


 理沙の発言に対して指摘をしようとすると、背後から二人に向かって声がかけられた。振り向けば、弘貴が陽気に手を振りながらこちらに向かってきた。


「おはよう二人とも」


「おう逢坂おはよ! あれ、あんた部活は」


「テスト期間に入ったから、ここ二週間、平日は部活無しにしてもらった」


「二週間前で? 早いね。強豪校なのに、土日しか部活やってないとなまらない?」


「顧問と相談して休み貰ったんだ。部活も大事だけど、将来もちったぁ見据えないとな。オレ、東京にある体育大に行きたいから、今のうちに学力上げとかないと」


 大変だなと弘貴に労いの言葉をかける理沙を、桐香は訝しみながら見つめる。


「そうそう月尾。昨日の『ミュージックステラ』見たか?」


「見た見た! 春宮(はるみや)(ゆき)()チョーカッコよかった!」


「あの力強いベースさばき!」


「四本の弦を巧みに操る精密な演奏技術! たまんないよね。いやーあの人のファンになって良かった!」


 理沙と弘貴の間では、興奮と情熱が入り混じった会話が繰り広げられる。



 春宮雪乃は今から三年前にメジャーデビューしたシンガーソングライターだ。出身はこの凪市で、今桐香達が通っている学校が春宮雪乃の母校である。

 主流で演奏している楽器はベースだが、時として弦楽器のみならずキーボードやドラムを演奏したりもする。

 ファンの数は年々増加傾向にあり、この凪市民の間のみならず、全国に浸食をする形で支持者の輪が広がっているのだ。

 理沙も彼女の熱烈なファンで、毎年開催される全国ツアーのライブには何度も足を運んで、生の演奏をその目に焼き付けてきた。


「でさ、その春宮雪乃、今度の日曜日にこの街でライブするんだろ?」


「そうそう! その日の為にライブTシャツ買って、一か月前からチケットも取ったんだ~」


「いいよなー。オレも行けるもんなら行きたかったよ。日曜練習試合入っちゃってるし……」


「あとでたっぷり、土産話聞かせてあげるって……」


「あのー、お二人さん?」


 二人が好きなアーティストの話題で盛り上がっている所を、桐香がわざと低い声を出して遮った。


「? どうした桐香?」


 桐香の焦った表情を見た二人は、何も分からないまま首を傾げる。

 それを尻目に、桐香は弘貴に向き直る。


「ねえ逢坂君。金曜日、時計塔のある丘の広場で四人で水遊びをしたの覚えてるよね?」


「そりゃお前、三日前の出来事なんだから覚えてるに決ま――って待て、四人ってもう一人誰だよ。水遊びをしたのは、オレと、月尾と、藤森の三人だろ?」


「……えっ?」


 弘貴の発言に、桐香は思わず右手を口元に当てて一歩後ずさってしまう。弘貴がためらいもなく理沙に同意を求めると、「そうそう」と返答をした。


「純は……純がいた事、覚えてないの?」


「純?」


「純って……誰それ?」


「私の弟だよっ!」


 二人があまりにも知らない素振りを見せたため、桐香はイラっとして思わず大声を張り上げてしまった。

 先ほど理沙の発言から感じた違和感は、気のせいではなかった。目の前の二人の記憶の中から、弟の純がまるごと抜き取られている。単に二人に小突かれている可能性も考えてみるが、残念ながらそんな事はなさそうだ。なぜならこの二人は嘘や隠し事が下手くそで、おちょくっているのならば必ず二人の表情に笑みがこぼれるはず。

 しかし今の理沙と弘貴は表情を変化する事なく、桐香をただただ見据えている。


「知らないの? 私のたった一人の弟。私達と同じ高校に通ってる一年生! この間水遊びしてた時、一緒にはしゃいで、一緒に夕日を眺めていたの覚えてない!?」


「弟なんて聞いてないって。だって桐香って一人っ子じゃん?」


「えっ? ちょっと、理沙……何言ってんの?」


「だよな月尾。藤森お前、私には兄弟はいないから将来は藤森クロックを背負っていかなきゃいけないって嘆いてたじゃん」


「そんな事言ってない! ってか二人とも、私をバカにしてる!?」


 桐香がムキになって二人に言い寄ると、理沙と弘貴の表情から笑みが消え、お互いに顔を見合わす。二人の表情がいたずらをしている感じではないのが、桐香の不安をより一層煽る。


「バカになんてしてねぇよ藤森。お前が寝言みたいな事言うから、オレ達は真っ当な事言ってるんじゃん?」


 弘貴は表情に陰りを見せ、桐香の顔に自らの頭を近づける。


「寝言なんて言ってない。だって、三日前まで遊んでいた人間の顔って普通忘れる?」


 三日に一度のペースで学校に忘れ物をする桐香だとしても、自分の弟の顔など一生忘れない自信がある。

 桐香は拳を握りしめ、唇をぎゅっと力強く噛みしめた。十秒くらい弘貴に視線を送っていたが、やがて痺れを切らした桐香はおもむろに口を開く。


「夢見てたのは……あなたたちなんじゃないの?」


 それだけ言葉を紡いで弘貴から視線を逸らし、続いて理沙を一瞥する。理沙は弘貴と異なり、落ち着いた表情で腕を組んでいた。

 二人から背を向けた桐香は、そのまま走って学校へと向かっていった。

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