5.非日常の前の日常 ★
桐香の目の前で立ち並ぶ三つの柱時計。一番左の柱時計の針が、一のところを指そうとしている。
日にちが経過する度に、針の指す数字が小さくなっていく。この針が零を指したら何が起こるのだろうと桐香は勘繰るのだが、その空間から身動きをとる事ができない。ただただ、一番左の柱時計から聞こえてくる歯車の音に耳を傾ける事しかできなかった……
★
やがて柱時計の空間に歪みが発生し、自分がベッドの上に仰向けになって眠っていた事に気づく。夢から覚めて目を開いた桐香は、十秒と経たないうちに上体を起こし、自分の部屋を見渡す。
フローリングの上に絨毯が敷かれたその床には、おととい理沙達と水遊びをして帰ってきたままの制服が脱ぎ捨ててある。
そして枕元には、テレビゲームのコントローラーが放り投げられていた。桐香がプレイしていたのは、たくさんのファイターが画面上で乱闘をして場外に吹っ飛ばす対戦型ゲームで、若者を中心にかなりの人気を誇り、全国からのオンライン対戦が殺到している。桐香も昨夜は夜通しプレイしていたため、いつの間にか眠りについてしまったらしく、テレビ画面はこちらが敗北したリザルトが表示されたまま停止している。
「何日続くんだよ……この夢……」
ベッドからゆっくりと立ち上がった桐香は、寝ぐせだらけの髪を掻きむしりながらぼやく。東向きの窓から差し込む朝日とは裏腹に、彼女の心は朝が来る度に陰りがさしてくる。
海沿いの国道で、紫色の落雷に打たれてから早六日。それからというもの、毎晩柱時計の前に佇む夢を見る事となった。
一日経過するごとに針が少しずつ動いていくという夢を、毎日のように繰り返している。この調子だと、針が零を指すのは今晩の夢。
この柱時計の夢にうんざりし始めた桐香は、今日はもう寝たいとも思わない。ゲーム本体の電源を切ると、パジャマのまま足早に階段をおりて一階へ。
「あっ、おはようお姉ちゃん。早起きだね」
キッチンでは純が朝食を作っている最中だった。ボールの中ではチャプチャプと卵がかき混ぜられている。今日は日曜日なので、純も寝間着のジャージ姿だ。
「珍しいじゃん、僕が起こさなくても起きるなんて」
「ん~、まぁ、たまにはね」
夢の事を話しても無駄だと悟った桐香は、ダイニングの椅子に腰かけて頬杖をつく。睡眠不足のせいか、一動作の度に体が重く感じる。
しばらくすると、桐香の目の前にオムレツが運ばれてくる。ふわっとした見た目のオムレツは綺麗な楕円を描いており、横にはパセリとトマトが丁寧に添えられている。
「はい、お姉ちゃん。先に食べていいよ」
「えっ? マジ?」
「これだけ早起きするって事は、それだけお腹がすいてたんでしょ?」
「わっ、ありがとう」
純の心遣いに感謝した桐香は目を輝かせ、上からケチャップかける。スプーンですくって口に運ぶと、とろりとした食感が口の中に広がる。食べる度に頬が緩む。
やがて純は自分の食べる分も調理して、ダイニングのテーブルに運んできた。
「じゃ、お姉ちゃん。それ食べたら出かける準備してね」
「了解!」
返事をした桐香は、急いでオムレツを口に流し込む。
今日は七月一日、桐香の住む凪市の海開きの日。自宅から徒歩二時間の場所にある、花崎ビーチに出かける事になっている。
海水浴には幼いころから毎年欠かさず行っており、それは純と二人暮らしを始めてからも変わらない。
朝食を平らげた桐香は急いで自室に戻り、出かける準備をする。服装はピンクのタンクトップに青のデニムのショートパンツ。ナップサックの中に去年買った黄色の水着を詰め込んで、ダイニングで待機。
「お待たせ」
しばらくすると純もやって来て、桐香に声をかける。黒のポロシャツにベージュのハーフパンツといった、ごく普通の男の子の服装。両手にはおとといの水遊びに使ったウォーターガンを掲げている。
「じゃ、行きますか!」
自宅を出た桐香と純は玄関の鍵をかけ、目的地を目指す。海沿いの国道に出て南に歩き、市街地を通過してひたすら南下していけば、花崎の海岸が見えてくる。そこはサマーシーズンになると、他県からも多くの観光客が訪れる人気の海水浴場。表の顔は賑やかな観光スポットではあるのだが、凪市民の間ではどこからともなく歌声が聞こえてくる場所としても知られている。その歌声は、日ごろの行いの悪い人間にだけ聞こえ、聞いた者は催眠術にかかり、そのまま海に飛び込んでいくという。
そんな物々しい噂を思い出しながら市街地を歩いていると、商店街で開店準備をしている人達から声をかけられる。
「おおっ、桐香ちゃんに純君じゃないか」
「なになに、今日は海水浴? 相変わらず仲いいのねー」
「親御さんも共働きで大変だな! 頑張れよ!」
「将来はあの会社を背負って立つんでしょ。楽しみだわ」
最大手の企業ではないとはいえ、日本の時計ブランドの一角を担う藤森クロックの社長の娘息子ともなれば、様々なところから注目を浴びる。姉弟から見れば悪い気はしないが、同時に心地よいとも感じなかった。なぜなら桐香達の立場をよろしく思わない人間も居るに違いないのだから……
「何だか……照れくさいよね」
人気の多い市街地を抜けて、再び閑散とした国道に差し掛かると、純が歩きながら口を開く。
「分かる。あんなに話しかけられると……疲れる」
桐香が答えると、純は「うん」と返事をする。
太平洋から差し込む太陽の光が次第に強まっていく国道では、純と桐香のサンダルの足音に紛れて、走行する車のエンジン音が二人の鼓膜を刺激する。
「純は……将来はお父さんの会社に就職するの?」
「うん、そのつもりでいるよ。お姉ちゃんは?」
純の質問に桐香は二十秒ほど考え、「うーん」と反応を見せた後――
「分かんない」
のんびり屋の姉の答えに対して、純は「そっか」と返した。
海に沿った国道をひたすら歩くと、やがて日光で光り輝く砂浜が見えてきた。すでに親子連れやカップルで賑わっており、至る所から笑い声が聞こえてくる。
とりあえず二人は更衣室に行き、水着に着替える事にする。純はボーダー柄のダボっとした海パン、そして桐香は黄色のキャミソール型のビキニだ。
「うわっ、すごいジャリジャリするー」
裸足になって砂浜に足を踏み入れた桐香は、甲高い声を上げてはしゃぎだす。
ビーチの中央にシートを敷いて、お互いに日焼け止めクリームを塗り合うと、サンダルを脱いで仲良く海に飛び出した。
「やっぱ海っておっきーね!」
海水に足を浸した桐香は、改めて花崎のビーチを見渡してみる。
空は水平線の彼方が見渡せる程に晴れ渡っており、海の水面は太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。賑わう砂浜の奥の方には、黒ずんだ岩の断崖絶壁があり、あちらの方も観光客がたくさん訪れるといわれている。
のんびりと周囲を眺めていると、顔に水しぶきをかけられ、海水が口の中に入る。
「ぷえっ! しょっぱ!」
「ごめん、口に入った?」
「む~、姉に対してなんてわきまえのない弟なのかしら!」
桐香も負けずに純の顔に海水をふりかける。対して純は持っていたクォーターガンで桐香の急所を狙う。水辺ではしゃぐ他の男女に紛れるように、姉弟はしばらく水遊びを楽しんだ。
海の家で塩辛い焼きそばを堪能した後、二人はビーチから少し離れた水上で、浮き輪に乗ってプカプカと浮いていた。仰向けになって空を眺めていると、桐香の視界にカモメが何度か横切る。波の音が心地よい子守歌になり、睡魔が襲ってくる。うとうとしかけた桐香は、空に向かって大きなあくびをする。
「ねえ、お姉ちゃん」
横にいる純が不意に話しかけてきたので、頭だけを上げて答える。
「何?」
「あのさ……こういう時にしか言えなくて悪いんだけど……」
上体だけ起こした純は、桐香に対して少し口ごもった口調で話しかける。
「あの時はありがとう」
「えっ? 何の事?」
「ほら、去年お父さん達が東京に引っ越す事になった時――」
純の言葉に、桐香は「あー」と間の抜けた返事をする。
「四人で引っ越す予定だったから、僕もお姉ちゃんも転校しなくちゃいけない状況だったよね? 保育園から仲の良かった友達がいたから、転校の話を聞いた時、すごく悲しかった……」
「……」
「この話をお姉ちゃんに話した時、お姉ちゃんってば、お父さんに対して東京に行くのを断固として拒否してくれた。東京に行くくらいなら家出してやるって言って、僕を連れてこのビーチに来て野宿しかけた事もあったよね」
「あー、あったあった。懐かしいよね、たかだか一、二年前の話なのに」
桐香の言葉に純は小さく頷く。
「中学生だった僕に東京に行く勇気なんてなかった。でもあの時、お姉ちゃんが僕の味方をしてくれたから、僕はこの街の高校に行く事ができた。だからお姉ちゃんには……すごく感謝してる」
純の言葉に桐香は咄嗟に紡ぐ言葉が分からなくなる。たまらず純を見つめるのをやめ、再び大空を仰ぎ見る。
確かに、両親に対して東京へ引っ越す事を反対したのは、弟を思っての事なのかもしれないと今になって思う。けれど、あの時の両親への抵抗はあくまで桐香自身の考えを強調したに過ぎない。桐香だって生まれ育ったこの凪市を捨てたくなかったし、何より親友の理沙と別れる事なんてしたくなかった。
「私だって、この街を出たくなかったもん」
「お姉ちゃんも?」
「うん。だからね、あの時純の味方をしたのも、どっちかと言えば私のわがままなんだ……」
身勝手な自分にわずかな罪悪感を抱きながら桐香が「ごめん」と呟くと、純は上体を起こして浮き輪に座ったまま足をばたつかせ水しぶきをあげる。水しぶきが顔にかかりそうになった桐香は、思わず目を閉じかける。
しんみりとした気持ちになっている自分の姉を気遣うかのように、純は口角を上げて笑顔を見せる。
「まあ、僕だって中三になったばかりで上京なんてしたくなかったもの。せめて高校生まではこの街で過ごしたいよね」
「……純は大学に行くつもりなの?」
「一応ね。東京にある大学で経営学を学ぼうと思ってる」
「……そ、そうなんだ」
今まで聞いた事もなかった弟の進路を聞いて、桐香は脳天に衝撃を走らせる。
「てっきり純もずっとこの街で過ごすものなのかと……」
「でも最終的にはお父さんの会社を僕が継がなくちゃね。いつまでもこの街にいるわけにもいかないし。だからこれから少しでも成績上げて、模試ではA判定取れるように勉強して――学費の為にバイトして、できるなら私立大学に行きたいけど、厳しければ国公立大学を目指す方向で――」
「あー、分かった分かった」
難しい話は分からないとでも言いたげに、桐香は両耳を塞ぐ振りをしてみる。
「本当に分かったの?」
「とりあえず、我が弟には強い決意を持ち合わせているって事は分かった」
「なにそれ? てかお姉ちゃんはこれからの進路どうすんの?」
呆れながら肩を竦めた後、純は自分の姉に問いただしてみる。桐香は再び仰向けになりながら「んー」と声を出した後――
「そのうち考える」
「ちょっと、しっかりしてよね! 僕の姉がそんなんじゃ、世間に示しがつかないんだけど?」
「そんな大げさだよ」
「大げさじゃないよもう! お姉ちゃんのいい加減っぷりと目に余る行動には結構うんざりしてるんだから――」
純は少し考えた後、再び口を開く。
「例えばお姉ちゃん、小学生の時お小遣いを十倍にしてみせるって豪語してたよね。で、お姉ちゃんの貯金……二十万近くあったよね? それを全額宝くじに賭けて、結局戻ってきたのが六千三百円。お父さん大目玉だったよね」
「……」
「後、時間が逆戻りする森の噂を勝手に信じ込んで、一人で歩いて行ったんだよね? それで迷子になって、泣いてるところを警察に保護されたんだよね?」
「んもう! 過去の苦い思い出を蒸し返すな!」
上体を起こした桐香は両手で海水をすくいあげ、純の顔にふりかけた。
「うえっ! しょっぱ!」
海水が口に入ったのか、口をタコみたいに細くして吐き出した。それを見た桐香は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
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夕刻になるまで花崎のビーチで過ごした二人は、再び更衣室で着替えを済ませて帰る支度をする。昼食をとってから結構な時間泳いだため、二人とも足腰にかなりの負担がかかり、歩くのにも一苦労な状態だった。
そこで桐香がスマホでタクシーを呼んで帰る事を提案する。純はお金がかかると言って最初こそ気が進まなかったが、あの長距離を徒歩で帰らなければと考えたら気を重くしたため、結局首を縦に振る事にした。
ビーチ付近の国道で待機していると、呼んだタクシーがやってくる。運転手は桐香と純の顔を見て、どこかで見た事があると言いたげに首を傾げるが、何も言及せずに行き先を聞いてきた。
「じゃあ、城ケ塚、二の二十九までお願いします」
純が行き先を告げると、二人は後部座席に乗る。運転手はタクシーを発進させ、国道を走って自宅へ向かう。
桐香はタクシーの窓越しに、外の景色を眺める。夕焼けでオレンジ色に染まりつつある海の景色はゆっくりと、国道に取り付けられたガードレールは飛ぶようなスピードで通り過ぎていく。
「私も……お父さんの会社の事、考えなくちゃいけないのかな?」
純の方を振り向かずに、海を眺めたまま桐香は口を開いた。
「純と違って私、何にも考えてないもんな」
「……」
純もしばらく前を向いて押し黙っていたが、やがて桐香の方向を見て口を開く。
「しっかりしてとは言ったけどさ、お姉ちゃんはこの街でやりたい事やった方がいいと思うよ」
「でもそんなんじゃ、会社に何も貢献できないじゃん?」
「会社なら僕がそのうちなんとかするから大丈夫。お姉ちゃんはお姉ちゃんのまま、生きていけばいいと思う」
純の言葉に桐香は、少し腑に落ちない表情で口を閉じる。
「お姉ちゃんって優しいからね、将来は大都会の波にもまれるよりかは、この街でのんびりと働けばいいんじゃない?」
「なにそれ、おべっか?」
「おべっかじゃないよ。そっちの方がお姉ちゃんの性格に合ってる。僕としてはそんなあるがままに生きていくお姉ちゃんが好きだな」
今まで俯いていた桐香は純に褒めちぎられ、こそばゆい気持ちになる。しかし悪い気はせず、むしろ嬉しい感情が沸き上がってきて、口角がせり上がる。
隣に座る弟はいたずらばかりしてくるくせに、どうしてこうも時折可愛いらしい態度を見せたりするのだろう。
心の中で愛くるしい思いが渦巻いてきた桐香は、隣に座る純に抱き着いて、まだ乾いていない髪の毛を左手でクシャクシャに掻きたてる。
「んもう~ホントに愛らしい弟~」
「苦しいよねーちゃん……」
後部座席でじゃれ合う二人を、運転手がバックミラー越しに一瞥する。姉弟同士の微笑ましい光景に、運転手も思わず頬が緩む。
タクシーはそのまま国道を走り、桐香達の自宅へと向かった。
自宅に到着すると、運転手が五千二百円を請求してきた。ここで純が料金は割り勘と提案したのだが、桐香はそれを突っぱねて全額払う事にした。姉としての威厳を見せたつもりで感謝の言葉を期待していたのだが、耳にしたのは純の桐香に対する金遣いの荒さの指摘だった。
ようやく帰宅した桐香は、門扉を通り抜けると目の前の藤森邸をしばし眺める。
両親が東京に移住した関係で、二人だけで住む事になった自宅。6LDKで四十坪の二階建て。この家は藤森クロックの支社(この凪市にあったが、一年半前に倒産をして今は廃墟となっている)で働いていた幹也と美月が結婚記念として建てたものであり、ローンは既に清算済み。築二十年ほど経過しているが、鉄筋コンクリート造りで地震対策もバッチリなので、ちょっとやそっとの事では倒壊しないだろう。
そして桐香と純にとっては、ここで二人が生まれ育った事もあり、思い出深い場所でもある。
「ちょっとお姉ちゃん……何してんの?」
玄関から声をかけられた桐香は、我に返って純の元に歩み寄る。
「ごめんごめん」
「とりあえず水着はすぐに洗濯機の中に入れてね。カビ生えちゃうから」
「はーい」
「シャワーも浴びてきたけど、もう一度お風呂に入ってトリートメントした方がいい。そうすれば髪傷まないから」
「ハイハイ」
いい加減な姉にしっかり者の弟。傍から見れば本当に桐香が先に生まれたのかが疑わしいのだが、これがいい。毎回弟に口うるさい事を言われ、ヘラヘラして受け流す。この掛け合いが桐香自身が気に入っていたのだ。
(本当に、この街に生まれてよかった――本当に、この家族に生まれてよかった)
自宅に足を踏み入れた桐香は心の中でそう思った。
★
真夜中。これまで毎晩目にしてきた、三つの柱時計の夢。
桐香から見て一番左の時計の針が、いよいよ零を指した。
零を指した時計は、鈍く重い音を奏でる。まるで何かを伝えているみたい。桐香からはそれが悲鳴にも聞こえなくはなかった。
しばらくすると、今度は中央の時計がカチッと鳴って、長針がゆっくりと、ゆっくりと動き始める。
そして桐香がこの夢から覚めた時には、日常からの脱出を味わい、見た事もない現実をその目に焼き付かせる事となる――
★★★ 人物紹介 その2
◎藤森 純
●身長……164センチ ●体重……55キロ
●誕生日……3月9日 ●血液型……O型
●好きなもの……カルピス、ポテチのコンソメ味、肉類全般
●髪型……黒のマッシュボブ
●解説……桐香の弟で高校一年生。姉と凪市内の自宅に二人で同居をし、同じ高校に通っている。ガサツな姉と異なり、仕送りは毎月いくらかは貯金をするしっかりとした性格。刹那主義の桐香には度々手を焼いている。
父親の経営する時計会社、藤森クロックを継ぐ事を夢見て、東京の大学で経営学を学ぶ事を目標としている。
好きなゲームのジャンルはパズルゲーム。
誰にも公言はしていないが、顔立ちと穏やかな性格も相まって、結構モテる。彼のクラスには、片思いをしている女子が何人かいるんだとか……