34.新しい日常
文化祭が終了して一週間が経過した学校の教室。資材の撤去も完了し、各教室内の装飾も完全に取り払われ、いつも通りの日常が戻ってきた。
終業後のホームルームで、担任が自身の担当する国語の中間試験の範囲を口を酸っぱくして生徒達に伝えている。桐香を含めた生徒が深くため息を吐き、一部の生徒は教壇に向かってブーイングを起こしている。担任がそれを「せいぜい精神を削って頑張るこった」と言って軽くあしらうと同時に、放課後を知らせるチャイムが鳴り響く。
担任が教室を後にするとクラスメイト達も散り散りに動きだしたので、桐香も鞄の取っ手を掴み教室を出る。
帰宅をしだす生徒達の間を縫って廊下を歩く桐香も、ようやく本当の日常を取り戻したと実感し、お腹の底から安堵の息を吐く。弟の純との二人暮らしが再開したし、理沙と学食でお昼のひと時を満喫する時間も戻ってきた。
そして下駄箱で靴を履き替え昇降口を抜けた時、桐香はここ三か月ほどの出来事を改めて頭の中で反芻し始めた。すると、その時の情景が映画のスクリーンに映し出されるかのように鮮明になってリプレイされる(今日伝えられた中間試験の範囲なんてすでに忘れかけているというのに……)。
海沿いの国道で紫色をした稲光に打たれ、それから奇妙な夢を見始めて、一週間おきに桐香の大切な人が世界から失われ、そして曾祖父に出会い人間の生きようとする強さを学んだ。
これほどの濃い三か月なんてこれからの人生どこにも存在しないだろうなと思いながら、校門を出る。一瞬得意げな表情をしたものの、こんな体験談、あの三人以外誰も信じてくれないんだろうなと思い、浮かれ気味の顔を元に戻す。
とはいえ、健三に魂の強さを説いてもらったおかげで、桐香は精神的にも成長したとは思う。クラスメイトとの交友も増えてきたというのがその証明だろう。
ちなみに、桐香に二度にわたって制裁を加えた有栖寛子率いる女子テニス部だが、理沙があの制裁の様子を見えない世界からスマホで撮影しており、神隠しの呪いが解かれてからすぐに、顧問に制裁の画像を見せて告発。顧問からの脅迫まがいの尋問を受けた女子テニス部員達は、桐香だけでなく他の裕福な家庭を持つ後輩達に対しても陰湿な嫌がらせをしていた事を洗いざらい語りだした。当然顧問は大目玉で、女子テニス部に六か月の部活動停止と大会出場禁止処分を受けたのだった。
不思議な時計の夢も見なくなり、ようやく平凡な日々が戻ってきたと言えるだろう。
交通量も多い国道を歩いていると、その中ほどに、海の反対側にある細い登り坂が目に留まる。十七年間この街に住んでいる桐香にとってはご存知、あのパワースポットに通じる坂道だ。
今は試験期間なので行くべきか一瞬迷ったのだが、桐香の足はその坂道に引き寄せられるかのように横断歩道を渡り、登り坂に踏み入れていった。
坂道の途中にある、桐香常連のパン屋「ロックチャイム」で好物のビーフカレーパンを購入すると、坂道には適さないローファーで丘の上を目指した。
★
たどり着いた先は時計塔以外何もない広場だった。
しかし今の桐香にとっては目の前にそびえる白い建造物がより神秘的に感じたらしく、しばらく時計塔の頂上を眺めていた。
(そういえば……ここに来るのって、あの日以来か……)
二時で止まった時計を見ながら桐香は心の中で呟く。自分の曾祖父が記憶の尊さを伝えたいがために建てた、記念碑である時計塔。本来音を鳴らす役割であったはずの鐘と、音を伝道させる役割であったはずのパイプは錆びて赤茶けている。白い塗装は雨風にさらされて、所々に灰色のコンクリートがむき出しになっている。
まともな人間から見ればこんな建造物など、青空を遮る石の塊でしかないのだが、今の桐香にとっては、先祖から引き継いだ魂そのものだと思った。なぜなら、曾祖父が存在していたと証明できるものが、もうこの時計塔しかないのだから……
時計塔を眺めながら感傷に浸っていた桐香は、鞄を持つ手を強く握りしめる。そして入り口の鎖を潜り抜け、塔の内部に入ると、ベニヤ板の階段を登って二階に行く。
二階を見渡して、鐘の備え付けられた窓に目が行くと、桐香は「あっ」と小さく声を漏らす。窓際に黒ずんだハンマーが立てかけられているのが分かった。頭部は釘を打つ時に使う程度の小さなもの、それに比べて柄が一メートルくらいあり、桐香の場合抱えなければ持ち上がらない物に見える。桐香は恐る恐るハンマーに近寄り、鞄を近くに下ろして、両手で柄を掴んでみる。重そうな見た目に反し、力のない桐香でも簡単に持ち上げる事ができた。
(こんなもの、前来た時にあったっけ?)
両手でハンマーを持ちながら、桐香は首を傾げる。
以前、この部屋で桐香は健三から彼の素性を聞いた際、こんなハンマーは目には留まらなかった。健三の話に夢中で桐香の目に入ってこなかったか、それとも――
「誰!?」
突然背後に気配を感じて、桐香は声を出しながら振り向く。しかし視線の先には板張りの床と、積み上げられた木材があるだけ。
確かに、彼は成仏したはずなのに、桐香の近くにいるような気がしてならない。
「……」
再び窓の方を向き、手にしたハンマーに視線を落とす。もしも……もしも彼がこのハンマーを持ってきたのだとしたなら――
桐香は目の前に並んだ鐘を一瞥した後、握りしめたハンマーを適当な鐘に向かって叩きつける。ハンマーが鐘に衝突した瞬間、その衝撃が柄を伝わって手に伝道する。それと同時に叩きつけた鈍い音が、パイプを伝わって頂上へと到達し、そこから鐘の音となって拡散する。その音は、錆びていたにも関わらず妙に澄んでおり、広場全体に響き渡る。
拡散した音が妙に子気味良かったため、桐香はもう二回、鐘を鳴らした。
響き渡った鐘の音を耳に焼き付けた桐香は、ハンマーを窓際に立てかけてしばらく窓の外を眺める。ここからでも夕焼けの空と海を望む事ができ、風が入り込むと誰かの叫び声のような独特な音を聞く事ができた。
これでこの鐘の音を誰かが聞いてくれたら、あの人も満足かな――桐香はそう思いながら時計塔から外に出る。そして展望台に備え付けられたベンチに腰を下ろし、ビニール袋からビーフカレーパンを取り出す。
柵の先に見える海を眺めながら、桐香はパンを頬張り、唇に付いたカレーをペロッと舐める。季節は本格的に秋に入り、日照時間も短くなってきた。東の方角の水平線の空は、オレンジ色の雲の中に紫がかった暗雲が立ち込めており、夜の訪れを告げている。視線の先にある灯台は、サーチライトが点灯し始めた。
桐香は手元のカレーパンをあっという間に平らげ、柵越しに夕焼けで光る海原を眺めていた。
どこにでもありそうな丘の、どこにでもありそうな広場だというのに、今の桐香はこれまで以上にこの場所を、そしてこの街を大切にしたいという気持ちが高まっていた。眼下に広がる様々な顔を持つ海はもちろん、物静かながら確かに人々が営んでいる素朴な街並みの風景、そして見上げれば桐香の曾祖父が遺した不思議な雰囲気を醸し出す時計塔。そんな場所を優しく通過する、海からの冷たい夜の潮風。
健三はあの時「自分の進みたい人生の道を進め」と言っていたが……もし彼が自分の背後にいて、「この街にずっと居たい」と言ったら何て返すだろうか? 怒るだろうか? 笑って小馬鹿にするだろうか?
「私やおじいちゃんと同じ紫の雷に打たれた人に、手を差し伸べてあげたい」と言ったら、彼は何て反応をするだろうか? 意味が分からないと首を傾げるだろうか? それとも――
「……」
桐香は再び背後に気配を感じる。しかし今回は動転する事なく、振り返りもしないで久しぶりに深いため息を零す。
「イタズラが過ぎませんかね? お三方?」
海を見ながら放った桐香の言葉に、背後から近寄った三人は彼女に忍び寄る足を静かに止めた。
「……す、鋭い」
小さく呟いたのは理沙だった。その言葉に反応して桐香が振り向くと、弘貴と純の間で、理沙が巨大なウォーターガンを担いで銃口をこちらに向けている。心なしかこの前見た時に比べてタンクの部分がアップデートされているような気がした。
桐香は振り返ったまま、理沙が抱える兵器と三人を睨みつける。三人は気まずい表情で顔を見合わせた。
「あんた達ねえっ! 十月に女の子の背後から水ぶっかけようだなんて正気の沙汰じゃないよ!?」
「ち……違うんだよ桐香!」
理沙がそう言って首を左右に振って否定する。
「下の国道を歩いてたら丘の上から鐘の鳴る音が聞こえてきたから、ひょっとして桐香がいるんじゃないかって思ってちょっくら三人で立ち寄っただけだよ」
「じゃあその手に持ってる水鉄砲は?」
「こ、これは単におもちゃ屋で売ってたのを桐香に見せびらかしたかったから……」
理沙は必死に弁解をしながら、両端の弘貴と純に目配せをする。二人は少しだけ気まずそうに首を縦に振った。それを見た桐香はベンチから立ち上がって栗色の髪の少しいじった後、両手を腰にあてがう。
「分かった分かった。とりあえずその水鉄砲、ちょっと見せてよ」
桐香がそう言って理沙に接近をする。理沙は桐香にそっとウォーターガンを手渡す。三人はこの前のお返しという事で、顔に噴射される事を覚悟したのだが、桐香はしばらくそれを手に取ったまま何もしないでいる。
そして突然銃口を自分の顔に向け、引き金を引くと、ありったけの水を自身の顔に吹きかける。当然顔はビショビショになり、髪もぐしゃぐしゃに乱れてしまう。
桐香の奇行に三人はただ口を開けてそれを眺めているだけだった。
「お……お姉ちゃん?」
「ああ、もう何でもいいや!」
純は怪訝な顔をして自分の姉に話しかけるが、彼女は何かが吹っ切れたかのように濡れた髪を左右に分ける。
健三はかつて何も持たない者であったのだが、唯一手にしていたものはあった。それが自由というものだ。彼は呪いを克服した後、自身の思いを伝えるべく、己の自由を使って会社を立ち上げてこの時計塔を建てた。彼は本当に自由だったはずだ。そうでもなければ、「自由に大地を駆けまわるお前が見たい」なんて言葉は出てこないはず。
だったら自分も好きなように生きる事こそが、彼への最高の弔いなのではないか――そしてしがらみに囚われない生き方こそが、彼への敬意なのではないか――
「まさか……ここ数か月の事で、頭いかれちゃったのか?」
弘貴が心配そうに桐香の顔を伺うが、彼女はウォーターガンを地面に置き、大きく伸びをして深呼吸をする。
「大丈夫大丈夫! ねえ、せっかく四人そろったんだからさ、もう一回記念撮影でもしていこうよ!」
桐香がそう口走ると、理沙達は思わず首を傾げてしまう。それを見た桐香は、「どうしたの?」と言葉を放つ。
「いや……桐香からそんなセリフが出てくるとは思えなかったから」
「まあ、記念撮影なんてこの間やったんだけどさ……」
桐香は少し口ごもったものの、再び理沙達の目をしっかりと見つめる。
「でもさ、以前逢坂君が言ってたように、次に私達いつ四人になれるか分からないし」
「あんな体験をした藤森だからこそ言える言葉だな」
桐香の言葉に、弘貴は深く頷きながら答える。
「前までは四人でいる事に無頓着だった藤森が、いつの間にか四人でいる事を大切に思うようになってる。これってスゴイ進歩だよな」
「体は小さいままだけど、お姉ちゃんも精神的に少しずつ大きくなってきてるんだね」
「……そ、そうかな?」
さりげなく弟に小馬鹿にされた気がしたが、桐香は少し照れくさい気持ちになって頬が赤くなってしまう。
「よーし、じゃあ時計塔を背景に撮るとしますか! 今だと西からの夕日が丁度いい角度で入って来てるぞ」
理沙が仕切ると、三人は桐香と同じベンチに座る。
「じゃ、今度は私が撮るね」
桐香がそう言うと、スカートのポケットからスマホを取り出し、カメラの自撮りモードを起動する。四人はその画面に収まるようにギュウギュウ詰めになりながらピースを作る。背後にはランドマークの白い時計塔。そして夕日と化した太陽がキラキラと輝き、時計塔と四人を金色に照らしている。以前よりも美麗な画像が出来上がりそうだ。
「はい、チーズ!」
桐香が撮影ボタンを押すと、四人は咄嗟に笑顔を作り、スマホの画面に注目する。画面は音を立てて静画を表示する。そこには四人の少年少女の青春の刹那が、力強く映し出されていたのだった。
映像と化したそのひと時は生涯忘れる事などないと、桐香は胸に強く刻み込んだ。