32.メモリア
メモリアの歌がこれから流れるはずの体育館は、観客の生徒達がざわつき始め、ピンと張りつめた空気が漂っている。
(どうしよう……開始の合図ができない……)
口元にマイクをスタンバイしているにも関わらず、演奏開始の一言が口に出せなくなった桐香は、ただステージの下を見下ろして唇をピクピクと痙攣させている。
背後からの雛子と結花の視線にも耐えかね、とうとう隣でスタンバイしているみのりに目配せをしてしまう。みのりは声に出さずに口元だけを動かす。桐香にはその口元が、「大丈夫だよ」と言っている事は理解できた。
桐香はどうにかマイクに向かって声を出そうとするが、思うように最初の一言が出てこない。
絶体絶命……と思っていると、桐香の目の前に健三が浮遊をしながら立ちはだかった。
「おい桐香、聞け」
「おじいちゃん……私……」
「いいから聞け!」
健三の強く促す声に、桐香は耳をそば立てる。
「どうやらお前は将来、会社を継がなければいけないという事が足枷になっているみたいだな」
健三の発言に桐香は図星と言わんばかりに「うっ」と腹の音が出る。
「口ではいくら肯定しても、無意識にそれを否定しているな?
いいか。会社の将来なんて今は考えるな」
「……」
「俺は何もお前に会社を継いでほしいなんて思っていない。ただお前が、正直に生きていてほしいだけなんだよ」
健三が訴えると、桐香は両目をしばたたかせる。
「この間のお前の抗いを見て思ったよ。こいつは俺がこれから見ていなくとも、力強く生きていけるって」
「えっ? それって……」
桐香が戸惑いながら尋ねると、健三は右手で自分の体を指さす。この時初めて、健三の体が半透明になり、キラキラと小さな光を放っている事が分かった。
「見ろ、俺の体を」
「どうして? 消えかけてる……」
「本来俺は、子孫たちの行く末が気になって成仏ができなかった生き霊だ。人間、何か頭に引っかかる事があると眠れなくなるのと一緒さ。我ながら厚かましい事だとは思う。けどな、桐香の孤独になった世界で一人でも生きていく姿を見て、俺も安心した。安心して成仏できそうだ。何しろ戦禍を生き抜き、ようやく拝めたひ孫なんだからな」
光と共に消えかける自身の身体を構う事なく、健三は淡々と弁を述べる。
「だからな、桐香。お前は自分の進みたい人生の道を進め。俺は人生のレールに従って走るひ孫よりも、自由奔放に大地を駆けまわるひ孫ってのを見てみたいんだ。好きな事して生きる桐香だって、神隠しの呪いを克服するのとはまた別の、魂の証明だろ?」
「おじいちゃん……」
健三の言の葉に、桐香の目が次第に潤んでくる。瞬きをすると、今にも涙があふれてきそうだ。
「ありがとう……本当に……」
「さあ、上の方で見守ってやるから、開始の合図をしな」
健三は普段の不愛想さに似合わない笑みを浮かべ、照れくさそうに両腕を組む。桐香はそれに反応し、安心と納得を含んだ表情で深く頷いた。
それを確認した健三は、光を放つ体のまま天井の方へと上昇していき、桐香の視界から消える。
桐香は天井を仰ぐ事もなく右手で涙を拭い、目の前のマイクに向き合った。そしてそれに向かって、喉の奥から声を発する。
「ええっと、失礼しました。ちょっと緊張しちゃって、凍り付いちゃいました」
桐香が照れくさそうにマイクに向かって話すと、どことなく安堵したかのような吐息が所々から聞こえてきた。
「これから歌う歌は生きています。作曲した親友の魂に、私と、そして私に生きる指標を示してくれた曾祖父の魂を乗せて歌います。私を支えてくれた全ての人へ――」
頭の中にフッと思い浮かんだ文章を迷わずに吐き出す。そして予め指示されていた言葉を、マイクに向かって静かに放った。
「それでは聞いてください。メモリア!」
★
キーボードによる物悲し気なイントロに、ゆっくりめのテンポで楽曲が展開していく。最初は穏やかに、やがてドラムのリズムが速くなってくると、激しい曲調へと変化するのがこの楽曲の特徴だった。
桐香は目の前のマイクに向かって、お腹の底から歌詞に沿って歌い続けた。行き場と居場所を失ったメモリアの少女と自分を照らし合わせて、愛する人に対する思いを込め続ける。
少女が記憶を完全に取り戻したシーンに突入すると、喉の奥に激しい刺激が走る。声がかすれかけても、桐香はメロディに魂を込めて歌った――
歌い終わった桐香は、観客に向かって深く頭を下げる。
激しい拍手が轟く最中、桐香は下げた頭を戻して天井を仰いでみる。しかしそこには、桐香の曾祖父の姿はなかった……
「おじいちゃん……?」
体育館を一周見まわしても、藤森健三の姿はどこにも見当たらなかった。