31.道しるべ
秋の最中の涼しい風の吹く街に、優しい太陽の光が降り注ぐ朝。
窓から差し込む朝日で目を覚ました少女は、大きく伸びをしてベッドから動き出す。彼女の体は、砂時計の夢から覚めたとは思えないほど軽やかだった。
「ついに来たか……」
窓の外に広がる青空を見ながら、桐香は一人呟く。
今日は文化祭当日、即ち、桐香にとって決戦の日。これまでの先輩たちとのボーカルの練習の成果を見せる日が来たのだった。
不気味なくらい清々しくて静かな朝の風景を見ていた桐香は、このままじゃ遅刻すると思い、学校に行く準備を始める。
冷蔵庫にある牛乳をパックに口をつけて飲み干した後、洗顔とメイクを済ませて制服に着替える。ワイシャツの上にブレザーを羽織ると、理沙から貰ったメモリアのバンドスコアをクリアファイルに挟み、鞄の中に入れる。そして勉強机の上に置かれている弘貴から貰った桐香を模した編み人形を右手に添える。
「お願い……力を貸して……」
誰もいない自室の中で、桐香は誰かに話すわけでもなく小さく言葉を放つ。そしてその編み人形を右手で小さく握りしめて力を込めると、鞄の取っ手に取り付ける。
玄関の鍵を閉めて門の外に出ると、健三が腕を組んで待機をしていた。
桐香は嫌悪する事もいぶかしむ事もなく、自分の曾祖父を迎え入れ、そのまま学校へと足を向かわせる。
幼いころから歩き慣れた海沿いの国道。
積み上げられたテトラポットの山の先に見えるのは、絨毯を一面におっ広げたかのような真っ青な大海原。地平線の上の空は、朝日の光により少し黄色みがかかっている。
左の沖の方に見える白い灯台、上空を飛び回る白いカモメ、海に浮かぶ白い漁船――海一面の青と点々とした白の絶妙なコントラスト。そして水面に波を立てながら桐香の髪を優しくなびかせる優しい潮風。
歩きながら海を眺める桐香とっては、こんな何千回も見た光景でもついつい目を奪われてしまう。
「この街が、名残惜しくなったかい?」
景色に見とれる桐香に、後方を歩く健三が話しかけてくる。
「お前が藤森クロックに就職するって事になったら、いや、大学に行く事になったらどっちにしろ東京とかに行かなくちゃいけなくなる。やっぱり生まれ故郷を離れるのは嫌か?」
健三の質問に桐香はしばらく海を見つめた後、静かに首を縦に振る。
「離れるのが嫌じゃないかって聞かれたら、本当は離れたくありません……だけど、もしも今日私が歌っても純が世界に戻ってこなかったら、本当に覚悟を決めなくちゃいけないですね……」
桐香の瞳は海に魅了される一方で、もの悲しさに満ち溢れていた。
海の見える国道を通り過ぎると、やがて市街地にやってくる。
凪中央駅を中心にメインストリートが市街地を貫くように東西に通っており、道の両端にはいくつもの商店街が立ち並んでいる。駅前にはこじんまりとしたショッピングモールやフードコートもあり、以前は理沙と一緒に学校帰りによく立ち寄ったりしていた。
学校へと向かう桐香は、市街地の街並みを眺めながら、親友と過ごしていた日々を思い出し感傷に浸ったのだった。
街路樹には金木犀が健気に咲いており、近くを通ると淡い香りが漂ってくる。桐香はそれに誘われそうになったが、健三に「遅刻するぞ」と促されたので、名残惜しそうに学校に足を向かわせる事にした。
★
校門には文化祭の開催を告げる巨大なゲートがこしらえられ、煌びやかな装飾が施されている。校内ではクラス発表や屋台の準備をしている事が容易に想像ができた。
桐香がそのゲートをくぐり、校舎内に入ると、右側から声をかけられる。
「あっ、来た来た!」
声の主は柳葉みのりだった。隣には同じ軽音部の黒川結花と竹村雛子もいる。
桐香は先輩たちに急ぎ足で近づいていく。
「おはようございます、先輩」
桐香が軽く会釈をすると、みのりは笑顔で「おはよう」と言い、結花と雛子はそれぞれ「やっ!」「よっ」と桐香に声をかけた。
「いよいよ今日が本番だね~」
みのりは陽気な声で桐香に話しかける。表情に不安を浮かべていない桐香を見て、みのりも少し安心したようだった。
「はい!」
「今日は遅刻しなかったんだな。えらいぞ」
「きょうもですよ竹村先輩! 勝手に常習犯にしないで下さい!」
ニヤニヤと笑みを浮かべた雛子に対して、桐香は右手で払いのけるようにあしらう。
「あれだけ練習したからね! 桐香ちゃんだったらできるよ!」
結花も桐香に向かって両手の拳を握ってエールを贈る。桐香は再び首を深く縦に振って反応をする。そして改まったかのように、三人に向き直る。
「私、先輩たちがいなかったら、ここまで成長できなかったかもしれない。だから、すっごく感謝してるんです。先輩と……居なくなった私の親友は、かけがえのない存在だから……だから本当に、ありがとうございました!」
深々と頭を下げた桐香の栗色のショートヘアーが垂れ下がる。感慨深くなり、目頭が熱くなる。
「私たちを変えたのは、桐香ちゃんのおかげでもあるんだよ」
みのりの声を聞いた桐香はおもむろに頭を上げる。
「桐香ちゃんが嫌がらせを受けていた時、テニス部の子たちにしっかりと立ち向かったよね。あれって、私たちが夢を目指す事の後押しになったんだよ」
「えっ? 先輩たちはもともと音楽のプロを目指すって……」
桐香の発言を聞いたみのりは肩を竦めながら雛子の方を見つめる。結花も同じく雛子を一瞥した。
「いや、あの時は本当にプロを目指すかどうか迷ってた時に、雛子がつい口走っちゃったんだよね」
みのりは雛子を見ながら話す。雛子は気まずそうに唾をゴクリと飲んだ。
「だけどそんな時、桐香ちゃんは果敢に立ち向かった。それって桐香ちゃんの信じるべき道だったんだよね。それを見て私たちも信じるべき道を進んでいきたいって思ったんだ――だからこちらこそ、ありがとう」
感傷に浸りながら謝意の表明をしたみのりを見て、桐香は恥ずかしさのあまり、頬を赤らめてしまう。
「そうだったんですね……」
「桐香ちゃんが私らの道しるべになってくれたんだよ」
結花が桐香に向かって屈託のない笑みを見せる。それに合わせてみのりと雛子も首を縦に振って頷く。
「私が……道しるべに……」
桐香が小さく呟くと、軽音部の三人は再び深く頷いた。
世界から友を失い、残したものを頼りに答えを探し求めた結果、自分は知らず知らずのうちに人を光へと導いている――そんな事実に気が付いた桐香は、右手を左胸にあてがい、唇をぎゅっと噛み締める。
「私、この発表会で歌って、必ず答えにたどりついてみせます!」
右手に拳を作りだし、先輩に向かって意気込みを入れる。
「私達も、応援するよ!」
みのりは満面の笑みで、桐香に向かって言葉を返したのだった。
★
教室内での簡単なホームルームが終了すると、生徒達は各々の準備に取り掛かるために散り散りになる。一般の公開は朝の十時からなので、教室内の内装を施す生徒は急ピッチで作業を始めた。
桐香も教室を出て急ぎ足で軽音部の部室へと向かう。健三も桐香の後ろをゆっくりと付き添っていく。教室の隣を横切る度に聞こえる喧騒を耳にしながら、桐香達は小走りで廊下を突っ切った。
部室にたどりついた桐香は、先輩の指示で楽器や機材を分担して体育館に運ぶ事になった。ギターやベースは軽量なため一人で持ち運べるが、それ以外の機材は女子の力で運ぶには骨が折れる。特にドラムセットは一度解体して、ドラムケースに入れて運ばなければいけないため、運搬に手間がかかる。
大きなバスドラムを桐香が運ぼうとすると、あまりの重量に腰が音を上げる。雛子は笑いながらそれを制してきたので、結局桐香は軽いスタンドの部分を持ち運ぶ事となった。
運んできた楽器は、体育館のステージの奥の方へ配置。軽音部の出番が回ってきたら、直前にステージの中央に移動させる予定だ。
機材を全て運び終えた四人は、近くの自販機で飲み物を買ってくる。軽音部の発表は最初から三番目。順番が回ってくるまで、舞台の袖で待機をする事にした。部隊の袖ではチューナーが設置されており、二人の生徒が操作を担っている。
やがて、一番目のと二番目の発表者が舞台袖に入ってくる。
両者とも漫才を行うコンビで、一組目は制服を着たごく普通の生徒だが、二組目は色鮮やかな羽の装飾が施されたサーカス団のような衣装を身に纏っている。
二組とも何のトラブルもなく漫才を行い、会場を笑いの渦に巻き込んだ。
「さあ……いよいよだよ!」
二組目の漫才が終わり、反対側の舞台袖に去っていくのをのぞき見したみのりは、待機していた三人に向かって語り掛ける。
「じゃあ三人とも、手を出して!」
みのりが右手の甲を三人の前に差し出す。桐香たちはそれに合わせるように右手を重ね合わせる。
「可能性を信じて、演奏するぞ!」
周囲に聞こえないように、みのりは小声で喝を入れる。三人もそれに呼応する感じで声を発し、右手の掌を力強く押したのだった。
★
ステージの上で軽音部の三人が演奏をする。
楽譜通りに従順にメロディを奏でながら、ビブラートのかかった声を生み出すみのり。軽快なビートを刻み、リズムで演奏をサポートする雛子。複雑な音域を両手で巧みに操り、独特のハーモニーを奏でる結花。三人のコンビネーションは、体育館の中にいる全ての人間を魅了させたように桐香には思えた。
観客である生徒も、隅っこで腕を組んでいる教師も、広告を見て来た外来者も、桐香の背後に立っている健三も、この建物にいる人間の視線はそろって彼女たちに集中していた。
(理沙が居れば……ベーシストとして入れてくれたのかな……)
ベースのいない軽音部の演奏を見ながら、桐香は親友に対して思いを巡らせていた。
軽音部の演奏が全て終了すると、体育館内に空気を震わせるほどの激しい拍手が轟く。その拍手に合わせて、生徒達からのアンコールの要求が大津波のようにステージに押し寄せてくる。
みのりはその声をなだめるかのようにマイク越しに声を発する。
「ええっと。今日は、特別ゲストを招いております!」
みのりがそう言って、桐香の立つ舞台袖の入り口に向かって目配せをする。視線を向けられた桐香の心臓の鼓動は急激に速くなり、体全体にブルっと震えが走る。
「さあ、死ぬ覚悟で行ってこい。ここで見守ってやるから」
後ろに立つ健三が声をかけると、桐香はゆっくりと振り向く。健三の顔を一瞥した桐香は唾液をゴクリと飲んで首を縦に振った。そして若干おぼつかない足取りでステージを歩き、みのりの隣に立つ。
すると、ステージ上に立った桐香を見た生徒達の間でざわざわと喧騒が起こる。
「えー、皆さん。本日はスペシャルゲストとして、二年二組の藤森桐香さんをお呼びしました! 私達軽音部が予め文化祭でボーカルをする生徒を募集していたんですが、なんとこの子が自ら名乗り出て、ゲストとして歌ってくれる事になりました!」
みのりがマイクで今回の件を話しても、観客の生徒たちは顔を見合わせるばかり。それは、壇上に立つ桐香が場違いだという事を暗に示していた。
「そして私達が最後に演奏する曲は、藤森さんの友人が作ってくれたものなんです。藤森さんは、今はいない友人にこの歌を捧げたくて、ゲストボーカルになる事を選びました。この歌は、いなくなった愛する人を思う歌になっています!」
みのりはそう言うと、マイクの前を桐香に譲る。
マイクの前に立つと、軽音部の三人と、ステージを仰ぎ見る観客たちの視線が一斉に桐香に集中する。両足の膝がガタガタと震え、全身から冷たい汗が噴き出るのが分かる。
おもむろに背後を振り向くと、結花と雛子が静かに首を縦に振っていた。そして右隣を見ると、ギターを担いだみのりが小さく頷いて、「がんばれ」と小声を発したのが分かった。後は予めみのりから言われたある言葉を口にすれば演奏が始まる――のだが、その一言が喉の奥から出てこない。
マイクの前に立った桐香は何もできず、体育館の中では静寂が訪れると共に、時間が刻々と過ぎていくばかり……
――あれ……なんで声も何も出てこないの? 人前で歌うって、こんなに緊張するの? あれ……そもそも私ってなんでこれから歌おうとしてるの? そうだ、消えた三人を世界に取り戻すためか! でも、歌ったところで戻ってくる確証はあるの? 戻ってこなかったら、私が藤森クロックを継ぐことになるの? 尊大な態度でおじいちゃんに宣言しちゃったけど、そんな覚悟でやっていけるの? 口から出たでまかせなんじゃないの? そんな、結局私って、未来が見えてないじゃん。こんな事やって、希望が見えてきた気になって、結局人生の道しるべなんて見えてきてないじゃん! 何やってるんだ! 何やってんだ私――
桐香の脳内で、負を象った思考が渦巻いている。桐香の体は最早、全身の血液すらも凝固したかのように感じられた。
やがて軽音部の三人も顔を見合わせ始めて、観客の何人かは桐香の噂を口々に話し始めたのだった。