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3.桐香の好きな物

 汗だくになって登校してきた桐香はその後、授業をまともに受ける気なんてさらさら起きず、頬杖をつきながら窓の外、国道と線路の向こうに見える海をボケーッと眺めていた。

 自称進学校と称されるこの学校で、まだギリギリ六月だからクーラーを入れてもらえない教室で必死こいて勉強するなんて正気の沙汰じゃないというのが、本日の桐香の持論だった。桐香以外の生徒もこの暑さの中では、黒板に書かれた事を書き写す気力さえ沸かないらしく、白い天井をじっと眺めている者が大半だった。



 終業後のホームルームの時間。担任は出席簿を団扇代わりにして自分の顔をパタパタと扇いでいる。


「来月の半ばには期末試験があるからな~。今度の試験は範囲広いから、皆熱心に勉強するように! 赤点のやつは夏休みに補習だからな~」


 担任が警告を告げると、教室中の至るところからため息が聞こえてきた。この溜め息で教室の二酸化炭素の濃度が確実に一パーセントくらい上昇したのかな? なんて考えているうちにホームルームは終了し、クラスメイト達は教室を出る準備をし始める。


「よっ、今日もお疲れさん!」


 廊下に出た桐香が昇降口に向かおうとすると、背後から声をかけられた。振り向くと黒髪ロングの少女が桐香に向かって手を振っている。


「理沙」


 名前を呼ばれた少女は、少し疲れ顔の桐香を労うかのように、口角を上げてはにかむ。

 少女の本名は(つき)()理沙(りさ)。桐香の中学校からの同級生であり、幼馴染でもある。彼女のクラスは桐香の隣、A組だ。理沙との仲は時折昼休みに学食で一緒に食事をするくらいには良好だが、親友なのかと尋ねられれば少し迷うところであった。

 身長は桐香よりも十センチほど高く、大人びた印象を受ける。現在市内のアパートで一人暮らしをしながら、バイトを三つも掛け持ちして生計を立てているという労働系の女子高生だ。どうしてそんなにバイトをするのかと桐香が訪ねても、一向に理由を語ってくれない。


「今朝も暑い中、ギリギリセーフだったらしいな」


「ええっ? 何で知ってんの?」


「ウチのクラスの担任が大急ぎで校門をくぐる桐香を目撃したんだってさ。で? 今日は何だ? 寝坊か? また純君に起こしてもらったのか?」


 理沙から図星をつかれた桐香は気まずそうな表情で視線を一瞬だけ反らす。


「そ、それは……」


 理沙に質問されて桐香は言いよどむ。

 自分の弟に起こしてもらったなんて事は言いにくいが、寝坊しかけた理由がおかしな柱時計の夢を見ていたなんて、もっと言いにくかった。 


「ま、言いたくないんなら無理にとは言わないけどね」


 理沙は何かしら訳ありだと察したのか、桐香を問い詰めるのをやめた。


「……ご、ごめん理沙」


「気にする事ないって。さ、もう帰ろ?」


 帰り道を指さす理沙を見て安心したのも束の間、背後から桐香を呼ぶ声が聞こえてくる。


「藤森って中学ん時からお腹よく下してたもんな?」


 桐香と理沙が声のした方を見ると、茶髪の男子がこちらに歩いてきた。


「トイレに行ってて遅刻しかけたなんて、先生には口が裂けても言えないもんな」


 茶髪の男子がそう言ってゲラゲラと笑いだし、それに呼応するように理沙もププッと吹き出すのを堪え始める。しかしそれとは裏腹に、桐香は苦虫を噛み潰したかのように不機嫌そうな顔をする。


「ちょっと逢坂君! それセクハラ!」


 桐香に指摘されて尚も笑い続ける茶髪の男子の名は、逢坂(おうさか)(ひろ)()。クラスは理沙と同じくA組。出身中学は桐香とは異なるが、とある理由で中学時代から面識がある。


「セクハラじゃねぇよ。トイレに頻繁に行かないように工夫をしろってんだ」


 眉間に皺を寄せて睨む桐香を尻目に、弘貴は笑いながら言う。


「別にトイレが原因なわけじゃないし! てか遅刻したわけじゃないし!」


「今回は遅刻じゃなかったとしても、次、それが原因で遅刻しないように気を付けろって話。藤森はただでさえ時間にルーズなんだからな。あと学校帰りに毎日のようにアイスとかパン買い食いするの控えた方がいいぞ。遅刻常習犯でユルユルお腹の桐香ちゃん?」


 ウインクで指差された上に、ちゃん付けまでされた事に不快感と苛立ちを顕わにした桐香は、少し肩を震わせながら体を後退させる。

 桐香が怒りを募らせた事を瞬時に察した理沙は、「まあまあ」と宥めて制する。鞄の取っ手を持つ右手により一層力を込めた桐香は、弘貴を睨んだ後、踵を返して廊下を早足で歩きだす。


「ねぇ桐香? 今日バイトないから久々に駅前のマック行かない?」


「いい! 今日は帰る!」


 理沙が笑いながら桐香を呼び止めようとするも、それをあっさり突き放し、昇降口へと向かう。


「あっ、そうそう。シェイクとかジェラートとかもお腹ピーピー鳴るから……」


「余計なお世話だバーカ!」


 背後から弘貴の声が聞こえてきたので、もう一度振り返って舌を出して威嚇した桐香は、そのまま廊下を全力で走り抜ける。昇降口でローファーに履き替えると、急ぎ足で学校の敷地を出る。


「ったく……私の気にしてる事二人してゲラゲラ笑いやがって!」


 市街地を歩きながら、桐香は心の声を小声にして吐き出す。

 桐香のコンプレックスの一つは、冷たいものを少し口にしただけで、次の日は五回くらいトイレに行くほどお腹が弱いという事だ。

 弘貴の言っている事に対しては自覚はある。夕食までの間、桐香は自宅に買いだめしているアイスを一本口にしている。それも一年中。

 純からも何度も注意をされているにも関わらず、桐香は誘惑に負けてアイスを欠かさず貪っている。


「分かってるよ。このまま食べ続ければお腹に負担がかかるってことくらい……でもさ、食べたいもんは食べたいもん」


 信号待ちをしている間、桐香は開き直ったかのように己の持論を口にする。そして信号が青に変わると、再び走りだして海沿いの国道へと向かう。



 これから桐香が向かうのは国道の途中にある、海の見える丘へ続く坂道。坂道のふもとで海を背に深呼吸をした桐香は、急な斜面を登り始める。

 その坂道の中腹辺り、左側に「ロックチャイム」と書かれた立て看板が視界に入り込んでくる。

 桐香がこの店の扉を押して中に入ると、扉の上に取り付けられているベルが揺さぶられ、心地のよい音色が店内に響き渡る。それと同時に、香ばしい匂いが桐香の鼻を程よく刺激する。


(いいにおい……)


 桐香が見渡した店内は自然の温かみを感じられる木造の内装で、どこからか落ち着いたテンポのジャズが流れ込んできている。そして商品棚の上には様々な種類のパンが並べられていた。

 シンプルな円い形をしたあんパンに、ホイップクリームをふんだんに詰め込んだデニッシュ、渦巻き状の生地に塩をまぶしたロールパンに、分厚いハムカツを挟んだサンドイッチなど、見ているだけで楽しめてしまうものばかりだった。

 店内には丸いテーブルが二つ置かれており、これはこの店でパンを買った客がすぐに食べられるような、イートインスペースの役割を果たしている。


「あった!」


 様々なパンに目移りする中、桐香は店の中央の商品棚に一つだけ乗っているビーフカレーパンが目についた。その上のポップには、本日十五個限りと書かれており、この店の一押し商品である事が伺える。

 その時店の厨房から、エプロンとバンダナを身につけた女性が現れた。


「いらっしゃいませ、あら桐香ちゃん!」


「こんにちは、すみれおばさん!」


「いつもありがとうねー」


 この女性こそがこのパン屋、ロックチャイムの店主、(いわ)()すみれである。



 このロックチャイムは今から二十五年も前から営業をしている。すみれの母親がかつて働いていた名古屋のホテルでのベーカリーの仕事を辞めて、夫と娘のすみれの三人でこの凪市に移り住んできた際に開業した店だ。

 かつては三人で店の営業をしていたが十五年前に父に先立たれ、母親も三年前から店の仕事が出来る状態ではなくなったため、現在はすみれ一人でこの店を切り盛りしている。


「じゃあおばさん、このビーフカレーパンいいですか?」


 桐香はビーフカレーパンをトレイの上に乗せてレジの上に持っていく。


「はいどうもありがとう! 残り最後の一個だったから、桐香ちゃん運がいいわ――じゃ、二百円ね」


 桐香は二百円を払って袋に入ったパンを受けとる。


「毎日のように買ってくれるの、桐香ちゃんくらいだからホント助かるのよ! いつもありがとね!」


 すみれに称賛された桐香は少し気恥しくなったのか、左手で栗色の髪の毛を少しいじる。


「いやー、ほんと美味しいからやめたいと思ってもやめれないんです。純や友達からは食べるものに気をつけるようにって口うるさく言われてるから、一人で来ないとなんだか買いづらくて……」


 桐香は話した後、先ほど食べるものに関して指摘した弘貴を、無意識に友達と口にしていた事に気が付く。


「あら、なかなかに厳しいのねー。でも桐香ちゃんなら大丈夫よ。可愛くてスタイルもいいんだし。年頃の女の子がちょっとくらい好きな物食べたって、どうって事ないわよ。あたしみたいなこんな体になっちゃいけないけど」


 すみれは笑いながら、自身の少しだけ脂肪の付いたお腹を擦る。


「そんな事ないよ。私なんてチビで童顔だから、異性なんて誰も見てないよ。おばさんこそまだまだ綺麗だよ?」


 それからしばらく、お互いに容姿に関して無理やり褒めちぎるやり取りが続いた。話をしているうちに、すみれから恋愛事情に関して尋ねられ、桐香は激しく首を横に振って否定する。慌てて店内の時計を一瞥した桐香は、すみれに手を振って店を出る事にする。


「じゃ、おばさんまた」


「ありがとうございました~」


 パンの入った紙袋を手に持つ桐香が店を出ると、背後からすみれの元気な声が聞こえてきた。

 このロックチャイム特製のビーフカレーパンは桐香の大好物で、小学生の頃から十年以上買って食べ続けている。あの店の人気商品なので、夕方行っても売り切れてしまう事が多い。高校生になって下校時刻も遅くなり、買える確率は更に落ちてしまった。カレーパンが無かった場合はデニッシュ辺りで妥協しようと思ったが、今日は幸運にも一つ買う事ができた。

 桐香は太平洋に背中を向けて、急ぎ足で坂を登っていく。桐香の足取りは、これから大好物のカレーパンを食べられるという喜びのおかげか、登り坂なのに関わらず軽やかだった。

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