29.抗戦
曾祖父から真実を告げられた次の日、桐香はいつも通り砂時計に幽閉された夢から目覚める。窓の外の空は曇り。ハウスダストのような灰色の雲が、空全体を覆っている。
「……行きますか」
窓からのぞく空をボーッと見つめていた桐香は、一人寂しく呟いて体を起き上がらせてベッドから降りる。
文化祭が近づいてきた事もあり、最近は起きるのが苦痛ではなくなってきている。三人を世界に取り戻せるかもしれないという気持ちが沸き上がって、無意識に心がウズウズしてるのだろう。
学校へ行く準備ができた桐香は玄関でローファーを履く。そして扉を開けた桐香は、門扉の前に立ち尽くす幽霊を見て少し渋めの表情をする。
「よっ」
桐香が玄関から出てきたのを見た健三は軽く会釈をした。
「お、おはようございます……」
桐香もしぶしぶ軽く頭を下げると、玄関の扉に鍵をかける。
「ホントについてくるんですね……」
「言っただろ? 学校生活覗いていいかって。そしたらお前、『じゃあ私のボーカルの練習、見てくれるなら来てもいいかなー』って、昨日言ってたじゃねーか」
健三に指をさされた桐香は、ウッと喉の音を上げながら顔をしかめる。
確かに昨日、丘の上の時計塔で健三から「お前に興味が沸いたから、ちょっと授業参観をさせてくれないか?」と言われた。そこで桐香が冗談半分で、練習風景を見てもらうのを条件として首を縦に振ってしまったのだ。その時は健三も冗談半分で言っていると思っていたから。
しかし、今門扉に寄りかかっている健三を見た瞬間、彼は本気だというのを確信したのだった。
「だからって玄関の前で堂々と立って待たないで下さい! すっごく怪しいです!」
あの時首を縦に振った自分の軽率さを恨みつつ、桐香は健三に詰め寄った。
「何言ってんだ、お前以外俺の姿は見えないんだら怪しまれるわけ――」
「私から見て怪しいんです! ついてくるのはいいですけど、こっそりついてきて下さい! 妙なマネしたら警察呼びますからね!」
「おぉ……幽霊に手錠はかけられないと思うがな」
健三の屁理屈に少し頭を抱えた桐香は、門扉を出て学校へ向かう。
海沿いの国道を歩いている時も、コスモスで彩られた市街地の国道を歩いている時も背後に気配を感じ、桐香は何度も後ろを振り向いた。そのたびに男性の幽霊は少し口角を上げて右手を振る。自分以外の人間にこの姿は見えないのだから、極力会話も避ける事にした。
教室は文化祭が一週間後に迫った事もあり、ウズウズした雰囲気が蔓延していた。桐香のクラスは今年は発表を行わないという事で、この教室は代わりに女子バスケ部が使う事になったらしい。教室のあちらこちらに花を模した装飾が施されている。後方のロッカーの上にはティーセットがいくつも置かれているので、カフェでもやるのだろう。
そんな落ち着かない雰囲気の教室の中でも、健三は桐香の授業を受ける風景をまじまじと見つめていた。普段だったら黒板の書写に飽きたらボーッと窓の外を眺めるのだが、今は背後からの視線を浴び続けていたため、そんな余裕はない。
時折視線が気になって背後を振り向くと、その都度曽祖父が腕を組みながらニヤリと微笑む。視線を意識してばかりだとラチがあかないので、桐香はただひたすら板書を書き写していったのだった。
★
放課後になり、担任が教室を出ていくと、生徒たちも文化祭に向けてやりたい事をやり始める。教室の装飾を手伝う者もいれば、部活の発表会の練習に向かう者もいる。
桐香は鞄を手に取ると早急に抜け出し、廊下を歩く。途中横切る教室内では、生徒たちが発表でやるらしき劇の練習を始めたり、レイアウトを変えるために忙しそうに机を運んでいたりしていた。廊下でも準備に追われて忙しなく動く生徒が多く、いかにも文化祭前らしい雰囲気が漂っている。
そんな生徒たちの間を縫いながら、桐香は軽音部の部室に行く足を速める。
「みんな、楽しそうな顔をしているな」
桐香の背後をついていく健三が嬉しそうに呟いた。
お祭り騒ぎが苦手な桐香は、「私は別にそうは見えないです」と言おうとしたが、健三は戦禍を体験し、最後まで日本の為に戦った男。その未来が若者が笑顔になった世界だという事を再認識して喜ばしいに違いない。
「……そうですね」
前を歩く桐香も小さく呟く。背後の幽霊が「フフッ」と笑ったのが桐香には分かった。
下駄箱で靴を履き替え、昇降口を出て左側に進み、部室へと向かう。文化祭前なので、部室棟も閑散としている。
「桐香の歌声って、どんなんだろ……」
校舎の壁に沿って歩く桐香に、健三は話かける。
「大したものじゃないけど……それなりに練習したんで、聞く価値はあると思います」
人気の少ないところなので、桐香は健三の方を振り向いて返答をする。
そして再び正面を向くと、部室棟の方角に三人の女子生徒が立っているのが分かった。
「あっ……」
その女子生徒の正体に気づいた桐香は、思わず喉の奥から声が漏れる。彼女たちはまさしく女子テニス部のあの三人、即ち有須寛子の取り巻きだった。
「……あれ?」
桐香は彼女たちを無視して軽音部の部室へ向かおうとするが、向こうが桐香の存在に気づくと、気さくな振りをして声をかけてくる。
「藤森さんじゃん!」
「丁度良かった。寛子が呼んでるんだけど、ちょっと部室まで来てくれないかな?」
女子生徒の言葉に桐香の顔は引きつってしまう。
(丁度良かったなんて都合のいい事言って――ホントは待ち伏せしてたくせに)
「いや……これからちょっと軽音部に用事があるから……」
心の中でぼやいた桐香は女子生徒たちに丁寧に断りを入れるが、気がついた時には一人の女子が背後に回っていた。
「さあさあ……文句言わずに早く!」
逃げ道を絶たれた桐香は、しぶしぶ女子テニス部の部室に連れていかれる事となった。
部室では寛子がパイプ椅子に座ってスマホをいじっていた。
「何? 話って?」
やって来た桐香を見ても目配せをするだけの寛子に対し、桐香は毅然とした物腰で彼女に話しかける。
気に食わない人間を自分のところに勝手に呼びつけて、不満のはけ口にする。そんな寛子の行為に桐香は憤りをあらわにする。
しばらくスマホを操作していた寛子は、ため息を吐いて立ち上がると、嫌悪感をあらわにした桐香の前に立ちはだかる。
「あなた、今度の文化祭の時にゲストボーカル? とやらをやるそうね。ボーカルの代わりにあなたが歌うんですってね?」
「……そ、そうだけど?」
寛子の高慢な態度に、桐香は少し口ごもりながら答える。
「じゃあ、わたしたち女子テニス部がやる演劇って何だか知ってる?」
寛子から質問を受けた瞬間、昇降口の掲示板に張られた男女が抱き合っているド派手なポスターが桐香の中で思い浮かべられる。
「ひょっとして、『ステラ』?」
「そうよ。わたしが半年かけて脚本を作り上げた官能劇なの。部活や勉強で忙しい中、寝る間も惜しんで考えたわ」
寛子が自慢をするかのように頬をせり上げて語る。
「なのに……文化祭の実行委員から言われたの。軽音部の発表でゲストボーカルが歌う事になって時間が押してるから、テンポを上げて演技するようにって……」
急に不機嫌そうになった寛子を見て、桐香は今までの強気な態度が鳴りを潜め、背筋に寒気を走らせる。背後にいる三人の取り巻きが腕を組みながら笑みを浮かべているのが、振り向かずとも桐香には分かった。
「……だ、だからどういう事?」
「テンポを上げて演技なんかしたら、全体的に安っぽくなるし、ミスもしやすくなる! あなたがゲストボーカルをやらなければ、テンポの速い演技をしなければならなくなる事なんてなかった!」
寛子は悔しさを込めたかのように奥歯を噛み締めて桐香を睨みつける。しかし寛子の口元は笑みを見せており、背後の三人もクスクスとせせら笑っている事から、この怒りは以前と同じ偽物であるという事を感じ取れた。
危機感を感じ取った桐香は踵を返し、部室を出ようとする。
「おい! 話は終わってねえぞ!」
逃げようとする桐香の腕を、取り巻きの一人が力を込めて掴み取る。
「痛っ!」
悲鳴を上げる桐香に残りの二人が掴みかかり、寛子の目の前に強引に連れていかれる。
「この間はスポーツに対する侮辱。今回は演劇の邪魔。あなたはどれだけわたし達に水を差せば気が済むの?」
他者を蔑むような笑みを見せる寛子に対し、桐香は涙目になりながらも目の前の高慢な部長を見つめ続ける。桐香の心の中の、こんな状況でも何もできない自分自身に対する屈辱感は臨界点に達しようとしている。
「じゃ、とりあえずお仕置きを受けてもらいましょうか」
寛子の振り上げた右手が、身動きできない桐香の頬をめがけて力強く叩きつけられる。パァンと弾けるような音が鳴り響いて、頬に衝撃が走った。
女子たちに拘束された桐香は、赤く腫れあがった頬を抑える事もできない。
「ところであなたの両親の会社、日本じゃそこそこ有名な時計会社らしいじゃないの?」
「……」
寛子の質問に桐香は答える事もできない。
「最近学校内で、あなたの会社に対する良からぬ噂、聞いた事ないかしら?」
寛子の発言を聞いた桐香はハッと声を出し、両目を見開く。
「そう、この街の藤森クロックの支社だった廃墟に出る幽霊の噂。なんでも会社がなくなる前に、そこで働いていた社員が自殺をしたって話。原因は重労働によるストレスとパワハラなんだそうね」
得意げに話す寛子を前に、桐香の顔は徐々に青ざめる。
どうして……なぜ会社と無関係の寛子が今この話をする……
「あれね、わたしが垂れ流したデマなの」
寛子が口元を押さえてせせら笑うと、周囲の女子三人も桐香の拘束を解き、クスクスを笑い声をあげている。
「最初にわたしのクラスにデマを流したのは二週間前だったかしらね? そしたら学年全体にその噂が広まって、そのうち全学年にまで浸透していったわね。面白半分で流した噂がこれほどまでに連鎖を起こすかのように拡散していくなんて……」
寛子の口から語られた真実を耳にした桐香は、そのまま床にへたり込んでしまう。
「いやー、寛子ってほんっとにムゴイ事するからね。この情報、ネットにまで流したりするんだもん」
「でもさ、この子にばらしちゃうの、ちょっと早すぎない。もうちょっと信じ込ませておいた方が面白かったのに」
「まあ、どっちにしろ噂は拡散されていくんだからさ、この子は真実を知っていようが知らなかろうが変わんないって」
寛子の取り巻きが口々に話し始める。
抜け殻のように脱力した桐香は、目の前に立つ寛子を力なき視線で見つめ続ける。
「……どうしてこんな事……」
「単に、あなたが虫にしか見えなかったから」
寛子の発言に、桐香はしばらく口を閉じて沈黙をする。自身の言葉の意味を理解してくれない桐香にイラついたのか、寛子は深くため息を吐いた。
「有名な会社の社長の娘って言われてるから、さぞスゴイ才能を持った人間なのかと思ったら、あなたはただの凡人でしかない。勉強が特別にできるわけじゃない、かといってスポーツで優秀な成績を残してるわけでもない。つまりあなたは金持ちの親に寄ってたかる虫でしかないの。あなたは親の七光りだと思ってたけど、わたしの思い過ごしだったみたい。あなたは光る事すらできない、ただの虫ね――」
寛子はそう言って桐香の右腕を掴み、強引に立ち上がらせる。桐香は奥歯を力強く噛み締めた。
「そういうあなたを見てると胸糞悪くなってくるの。安っぽい中小企業の社長令嬢だからって、偉そうに横やりなんて入れちゃって。あんまりムカついてたから、デマの噂を垂れ流して、あなたの会社の評判を貶めようとしたのよ。わたしは部長という立場があるから、あなたと違って生徒からの信用というものがある。それを利用して噂を吹き込んだら、予想以上の効果があったものね……」
腕を組んだ寛子は桐香を軽蔑の眼差しで見つめる。
「大体時計なんて今時どこでも買えるのに、会社で高級なモン造る意味とかなくね?」
「そうそう。アンタの会社、今更需要とかあんの?」
取り巻きの女子達が顔を見合わせながら、言いたい事を言い合っている。
「わたしがやりたかった事は、あなたの時計会社の評判を悪くして、あなたが困惑するところを見たかっただけ……」
勝ち誇ったように冷たい笑みを浮かべる寛子に対し、桐香は両手の拳を握りしめて震えている。
「さてと。じゃあ、二発目の制裁いくわよ。あなたがわたしを不愉快にしたのが二回目だから、二発食らわせないと体が理解してくれないわよね!」
寛子が声を張り上げると、取り巻きの一人が桐香の両手を拘束する。そして再び寛子の右手が桐香に襲い掛かる。
その瞬間、この様子を見ていた健三の顔が桐香の瞳に映る。そして次に瞳に映ったのが、健三の手のない左腕。
そうだ……藤森クロックは、そしてあの丘の上の時計塔は、健三が戦争で生き残ったからこそ存在できたもの。すなわちこれらは、桐香の曾祖父が戦禍を死に物狂いで生き抜いてきた事の証明。
寛子の右手が頬に衝突する直前、桐香は背後で両手を拘束していた女子生徒のすねをかかとで思い切り蹴る。女子生徒は悲鳴を上げて床に転倒し、桐香は次の瞬間、解放された右手で寛子の張り手を防いだ。そのまま寛子の右手を掴み、力を込めて握りしめるとミシミシと痛々しい音がする。
「……!」
桐香の想定外の行動に寛子は、口を半開きにして驚嘆の表情を見せる。そして桐香が手に込める力が強まっていき、寛子は痛みにより表情が驚きから苦しみに変わる。
そして次の瞬間、桐香は左手を振り上げ、寛子の右の頬を思いっきり引っ叩いた。風船が弾けるような音が部室内に響く。
「別にいい……別にいいんだ。私をせせら笑う分には!」
寛子の右手に尚も力を込める桐香は、喉の奥からか細くともまっすぐな声を発する。
「でも……私の曾祖父は……藤森健三は! 生きるか死ぬかの状況の中、左手を失ってまで国のために尽くそうとした! 世界から消えた愛する人のために、姉弟のために必死で戦った……!」
桐香の声が次第に力強さを帯びてくる。桐香が右手に込める力を強くすると、寛子の苦しみもだえる表情が色濃くなっていく。
「これはあの人の中に宿る魂の証明なんだ! あんたたちは……うちの会社を侮辱した! つまりそれは、創始者であるあの人の魂を侮辱するのと同じ事! 許さない……絶対に許さない!」
桐香の剣幕に、寛子と取り巻きの女子達は動揺したかのように身をのけ反らせる。
「なによ、偉そうに……」
なんとか振りほどいた寛子が、右手と右頬に痛みを感じながら、奥歯を噛み締めて不機嫌な表情を作り出す。その時……
「何してるの? あんたたち」
部室の入り口で声がして桐香たちがそちらに視線を移す。部室の中の様子を見ていた健三の隣に、軽音部部長の柳葉みのりが険しい表情をして寛子たちを見つめていた。