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27.健三の青春

 今から七十年以上も前の話――

 当時は太平洋戦争の最中で、数多くの若き兵士が戦地に赴き、帰らぬ人となっていった。



 藤森健三の家族は父の達夫(たつお)、健三、妹の奈美(なみ)、弟の(すすむ)の四人の父子家庭。母は弟を出産して間もなく、当時流行していた伝染病でこの世を去った。

 健三の実家は砂時計店。そして健三は漁の仕事をするために毎日漁港へ出かけ、売った魚で稼いだ金で家計を支えていた。

 何百年も前、当時漁をしていた沖合いでは、全く腐敗しないといわれる魚が釣れると漁師達の間では噂になっていた。市場で仕入れ人がコンテナの中にマグロを入れたのを忘れてそれから帰ってしまい、それから一年後、コンテナの蓋を開けると捕獲したばかりのもの同然のマグロがあったというのがこの伝説の始まりだった。この町はこの他にも妙な都市伝説がいくつも飛び交っているが、健三はそんな事は気に留める事もなく、毎日金目鯛や伊勢エビを網に捕らえる日々が続いた。

 この凪町(現凪市)には空襲の魔の手が迫る事はなく、戦闘ヘリの音におびえる事もなく過ごす事ができた。しかし戦争が始まって以来、食料は日に日に減っていき、収入も減少する一方だった。

 達夫は砂時計を製造し、健三は毎日仕事に出向く毎日。奈美と進は学校に行く金もないため、二人が仕事をしている間は、自宅で待機をするしかなかった。幼い妹たちではあったが、空腹でも泣きわめく事はほとんどなく、店で造った砂時計を一日中不思議そうな顔で眺めている事が多かった。

 食事に関しては配給に頼らざるを得ない事が多かったが、月に一回丘陵地帯にあるみかん畑にみかんを買いに行って妹たちに分け与えたりしていた。



 健三には(なぎさ)という恋人がいた。健三が働いていた職場で商品を引き取りに来ていた業者の販売人で、勤務の初日に一目ぼれをした。ある日、健三は勇気を振り絞って渚に告白をすると、渚は少し気恥しそうに首を縦に振ってくれた。

 それから健三は仕事が終わったら毎日、渚と一緒に凪の街を練り歩いた。当時は遊ぶ場所なんてほとんどなかったのだが、健三にとっては歩きながらくだらない痴話ばなしをするだけで彼の心は潤っていった。

 渚は資産家の令嬢で、街を練り歩くときはいつも桜色の着物を着てきてくれた。海沿いの小さな道を二人で歩き、小高い丘の上で海を眺める日々が続いたのだった。

 会うたびに二人の会話は弾み、普段は寡黙な健三も自然と表情に笑みがこぼれる。ある日健三が自分は(かわや)でしゃがみながら妄想に耽るのが趣味だという事を口にしたら、渚は今までに見た事がないくらいに腹を抱えて笑ったのだった。



 ★



 渚と出会って一年が経過したあくる日、健三は仕事を終えて自宅に向かう時、前方で奇妙な色をした雷が閃いているのが分かった。首を傾げながら遊歩道を自転車で通過していると、今度は頭上でゴロゴロと雷鳴が轟く。自転車に乗ったまま反射的に空を見上げると、紫色の閃光が健三をめがけて落ちてきたのだった。

 落雷に直撃した健三の視界は、淡い紫色の視界で染められる。落雷による痛みはなかったものの、自転車の転倒で右肩を強打してしまう。そしてそのまま健三の意識は次第に薄れていった……

 彼が目を覚ましたのは、雨音によるものだった。大粒の雨が槍のように降り注ぎ、周囲の地面を浸食していった。大海原はいつの間にかたくさんの荒波が発生して、波の音が健三の耳にも入ってきた。

 かき氷を一気に口に頬張った時のような頭痛が健三を襲い、思わず右手で額を押さえつける。そしてその後、雨が降り注ぐ空を眺めた。空の明るさから、先ほどと時間は経過していないと悟った健三は、ゆっくりと立ち上がり転倒していた自転車を起き上がらせる。そして舗装されていない遊歩道を自転車を押しながら自宅に向かっていった。



 奇妙な出来事が起き始めたのはその日の夜からだった。

 彼の夢の中で長針しかない三つの時計が現れ、左から一日経過する度に数字が減少していった。そして数字が零を指した次の日、妹の奈美がどこにも見当たらなくなっていた。店で働いている達夫に奈美の事を聞いても、「そんな娘は知らん」と答えるだけだった。

 最初の一週間目は妹の奈美で二週間目は弟の進、そして三週間目は渚がこの世界から居なくなっていた。

 達夫に妹や弟の事を聞いても首を傾げられ、職場の人間に渚の事を尋ねても知らないの一点張り。

 健三は自分の家族と恋人が居なくなる事に底なしの恐怖を抱く。世界の記憶から三人の事が抹消されたとしても、自分だけ忘れたりはしない。その事が恐怖心を肥大化させていったのだった。



 ★



 三人が世界から消えてから数か月が経過した初夏のある日、健三の家にピンク色の召集令状が届いた。これは陸軍省からの招集命令……言わば出兵のための呼び出し状だった。上官からの命令は天皇からの命令と教えられていた健三に、令状に背く事なんてできない。結局姉弟にも恋人にも顔見せができぬまま、彼は日本を飛び立つ事となった。



 出征先は東部ニューギニア。現地では日本国軍とマッカーサー大将が率いる連合国軍が衝突を繰り返していた。しかし単騎で挑んだ日本が同盟を組んだ敵軍に敵うはずもなく、健三が上陸した時点で日本兵の約半数が戦死を遂げた有様だった。

 頼りない銃火器を片手に、ジャングルの中で戦う毎日が続く。しかし視界の悪い密林の中では、戦う相手は敵兵よりもむしろ自然環境だった。マラリアやデング熱といった感染症を媒介する蚊が大量に飛び交っており、それに刺された兵士たちが毎日のように倒れていく。兵士が血を吐き出す日が無いほどであった。

 物資の乏しかった日本軍は、支給品に頼る事もできず、食料は現地調達を余儀なくされた。バナナを調達できればまだ幸運な方で、日本軍の主な主食は、カエルやトカゲ、モグラにコウモリだった。日本にいた時もそんな野生動物を捕って食うような事はしなかったため、最初は嫌がって食べなかったが、飢えが襲ってくると何が何でも口にせざるを得なかった。人間は追い詰められるとどんなものでも食べられる事に、健三底なしのは恐怖を抱いた。



 それから何週間も、何か月もジャングルに潜伏する日が続いた。敵兵は一向に現れず、健三の飢えは限界に近づいてきていた。

 そんな時は日本で待つ家族と恋人を交互に頭に思い浮かべるようにしていた。それにより飢えによる苦しみを一時的に忘れる事ができ、同時に自分は彼らの為に戦っているのだと奮い立たせる事ができるのだった。



 ジャングルに潜伏して何日が経過したか分からなくなり、仲間も感染症で倒れ、健三がふらふらと歩いていると、密林の視界が開けて何もない空間に出た。そこは木が根こそぎなくなったような場所で、空がぽっかりと開いており、太陽光が降り注いで地面をキラキラと照らし続けている。

 何もない場所の中央で健三は手にしていた銃器やポーチを地面に放り投げ、大の字に仰向けになって空を見る。地上は戦火と血で染まっているというのに、空はこんなに青く澄んでいるなんて何の皮肉だろう――健三は木々に囲まれた狭い空を見ながら心の中で呟く。

 ひょっとしたら周囲に敵兵が潜んでいるのかもしれないというのに、今の健三は無防備そのものだった。生死の狭間を潜り抜けてきた彼の体は既に疲弊しきっており、次第に睡魔に襲われていく……



 虫のはばたくような音で、健三の意識は現実に戻される。まぶたを開いて空を目を凝らして見ると、黒い小さな物体が太陽の周辺を旋回しているのが見える。

 連合軍側の戦闘ヘリだろうか? と考えていると、甲高い悲鳴のような音が聞こえ、次の瞬間、健三の左横で爆発が起こった。爆風で彼の体は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。何とか体を起き上がらせた健三は、違和感を感じた左手を見る。手首から先がなくなっており、肉がえぐれた先端からは鮮血が吹き出していた。

 健三は声にならない悲鳴を上げる。見た事のない光景、味わった事のない痛み――そうこうしているうちに、木のない広場には次々に爆弾が落とされていく。

 慌ててジャングルの茂みの中に飛び込む。今の爆撃音でひょっとしたら救援隊が来るかもしれない。逆に敵軍が辺りを監視し始めるかもしれない。

 健三は茂みの中で息を殺して待った。しかしいつまで経っても救援隊も敵兵も来ることはなかった。

 痺れを切らした健三は、方位磁石を頼りに拠点のキャンプを目指す事にする。



 左腕がなくなった自分は完全に戦力ではなくなっていた。

 木のない広場で仰向けになっていた時、肉体的にも精神的にも限界がきていた健三は、もうこの場で死んでもいいと思っていた。なぜなら大日本帝国という国に忠誠を尽くすべく過酷な状況を戦い抜いた末に、最後の最後で太陽の温かさを、地面の温もりを肌で感じ取る事が出来たのだから。

 しかし、爆撃を食らった今なら分かる。死んでしまったなら、世界からいなくなった三人は永遠に戻ってこない。自分が生きずしてどうやってあの三人を救えるというのだ。



 三日三晩かけ、健三は命からがらキャンプにたどり着く。そして隊長に連合国軍の軍用ヘリが上空を迂回していたと報告すると、隊長から信じられない言葉が発せられた。「日本政府が連合国に降伏を言い渡した」と。それが八月の十五日だった。



 健三は艦船に乗り、日本に帰国する。

 かつて出航した東京港にたどり着くと、そこからローカル線に乗り継いで凪町を目指す。

 生き残った兵士たちが次々と電車から降りていく中、健三はひたすら窓の外を眺めていた。やがて自身の故郷の町の最寄り駅である凪中央駅で降車すると、自宅に向かって歩き出す。

 二か月留守にしていただけだというのに、健三にとっては数十年ぶりにこの町の空気を吸ったような気がした。

 かやぶき屋根の配給所、渚と共に歩いた海沿いの遊歩道、海からやってくる潮風――この町のいつも通りの情景を歩きながら見ていると、自分が生と死の狭間にいた事が信じられなくなる。


 

 やがて健三は瓦屋根の自宅に到着する。

 木でできた引き戸をこじ開けると、目の前にガラスを加工している達夫の姿があった。


「今、帰った……」


 二か月ぶりに会った父に声をかけると、達夫は両目を大きく開いて「お前、健三か」と弱々しい声を発する。健三が静かに頷くと、達夫は店の奥に向かって声を張り上げる。


「進! 奈美!」


 やせ細った父とは思えない野太い呼び声を聞いた健三は、まさかと思ったが、そのまさかが起きた。

 店の奥から半年前に消えたはずの弟と妹が出てきたのだった。

 健三は慌てて近づいて二人の両手を触ってみる。幻ではない……本物だった。

 喜びと驚きの交じり合った感情が健三の心の中で渦巻き、両手が震える。


「そうだ……渚!」

 

 ニコニコと笑みを見せる二人の姉弟を見ていた健三は、やがて自分の恋人の事を思い出す。そして自宅を飛び出すと、ダッシュで渚の自宅に向かった。

 市街地から少し離れた郊外に渚の屋敷はあった。息切れをして到着した健三は、玄関のベルを鳴らす。

 一分ほど待機すると、扉が開き中から藤色の着物を着た女性が現れた。渚だった。


「健三さん……」


 渚の姿を見た瞬間、健三の瞳からは涙があふれ出す。ほんの半年会っていなかっただけなのに、健三の心は急激に熱を帯びて、愛しいという気持ちが高ぶってくる。

 健三は半ば無意識のうちに渚に抱き着いていた。そして人目を憚る事なく、おたけびに近い大声をだして泣いた。渚は微笑みながら、泣きじゃくる健三を両手で優しく包み込んだのだった。

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