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25.街の廃墟

 夜の闇が訪れて海からの潮風もひんやりと肌に感じる時間帯になった頃、桐香はそびえ立つ三階建ての建物の門扉の前に立ち尽くしていた。桐香が瞬きをしながら見つめるその廃墟は、二年前までは藤森クロックの支社であった。かつては桐香の父、藤森幹也が経営していたのだが、彼が東京の本社に社員ごと異動してからは、今では人の気配のない寂れた敷地となっている。


「こんな時間に行くなんて怖いけど……でも行くしか……」


 桐香は門の前に一人立ち尽くして小さく呟いた後、ショルダーバッグに取り付けられた自分の姿を象った編み人形を握りしめる。そしてジーンズのポケットからスマホを取り出すと、側面のボタンを押して現時刻を確認する。午後八時半を指していた。明るいうちにここに勝手に侵入すると、藤森クロックの関係者と鉢合わせする可能性がある。なので日が沈む頃に凪中央駅から路線バスに乗ってここまでやって来たのだった。

 そもそも桐香がこんな廃墟を訪れたのには当然の事ながら理由があった。



 話は八時間前に遡る――

 桐香がいつもの学校のトイレの個室で用を足した後、スカートをはいたまま便座に座ってくつろいでいた時の事だ。個室の外で扉が開いた音がしたと思ったら、女子生徒が談笑をしながらトイレに入ってきたのが分かった。至福の時間が削がれるから早急に出て行ってほしいと心の中で願いながら、桐香は女子生徒たちの会話を聞いていた。


「ねえ、海沿いの国道の廃墟の話って知ってる」


 女子生徒の口調が急に真剣みを帯びたものに変わったので、桐香は個室の中で耳をそば立てる。


「廃墟って……あのちょっと前会社か何かだったあの古い建物の事?」


「そうそう、藤森クロックっていう会社の廃墟なんだけどさ……」


 個室の外で少しの沈黙が訪れる。おそらく女生徒が唾を呑んだのだろう。両親の会社名を耳にした桐香も、便座に腰かけたまま顔をしかめる。どうしてこのトイレに訪れる者は私絡みの噂話が好きなんだろう――桐香がそう思っていると……


「あの廃墟……出るらしいよ……」


 女子生徒の一人が言葉を発すると、再びしばしの沈黙が訪れる。


「マジで……?」


 個室の外で女子生徒が頷いたのが桐香には分かった。もう一人の女子生徒もその言葉をあざ笑う事もなく、静かに反応をする。

 この凪市は不思議な出来事が多発する街だという事は、市民のほとんどが周知している事。だからそういった噂話を作り話だと笑う住人は少ない。


「で、どんな幽霊なの?」


「何でもあの会社で自殺した社員の霊らしいよ。週六日の十六時間勤務で休日もほとんどなくて、残業手当ても出ない上に上司からのパワハラで精神が耐えられなくなって、それで……」


「ウッソー、超ブラック企業じゃん!」


 女子生徒の会話を聞いた桐香は、目を見開きながら体を震わせる。沸き上がってきているのは怒りの感情ではなく、こうした噂で自分の両親の会社の評判を貶められるという恐怖だった。

 桐香は便座から立ち上がり、個室の扉を勢いよく開いた。それに反応した二人の女子生徒がビクッと反応しながら桐香の方を向く。個室から出てきたのが桐香だと分かると、二人は「あっ……」と口を大きめに開き、頬に冷や汗をかく。


「その事、詳しく教えてくれないかな……」

 

 桐香が真剣な面持ちで女子生徒に尋ねると、二人はお互いに顔を見合わせる。そして一人が腰に右手を当てながら口を開く。


「私も詳しい事は知らない。ただ、その男性の死体が見つかったのが花崎の海岸の絶壁の下の海らしいよ」


「絶壁の下……」


 女子生徒の言葉に、桐香は口ごもりながら反芻する。


「まあ、真相を確かめたければ廃墟に行ってみれば? 何か手掛かりがつかめるかもね」



 桐香はこの事を父である幹也にも何度も電話で聞こうとしたのだが、彼は「忙しい」の一点張りで娘の話に一切応じようとしなかった。彼はこの噂の事は知らないのか、それとも会社にとって不利益な情報だから娘に伝えるわけにはいかず、はぐらかしているのか――桐香には知る由もなかった。

 結局桐香はバンドの練習の無い日に、バスに乗ってわざわざ一人でこの廃墟に来なければならなくなった。できるものなら来たくなんてなかったのだが、両親の会社に関する妙な噂が一人歩きしている以上、放っておくわけにもいかなかった。真相を確かめるには、やはり自らの目で幽霊なんていないと証明するのが一番だろう。



 格子状になっている閉ざされた門扉を、手足を使って何とか乗り越え敷地内に潜入する。そしてライトで正面を照らしながら歩き出す。やがて戦前のレトロな雰囲気を醸し出したレンガ造りの建築物が、桐香の目に入り込んでくる。桐香が向かうのは、その建物の正面玄関の左奥。

 ふと一階の窓に近づき、ライトを使って建物の中を照らしてみる。一階は工場で、使わなくなったベルトコンベアーや加工をするための機械類が設置されたままになっている。廃墟となってまだ二年ほどしか経過していないので、手入れが行き届かなくなったようには見えなかった。電源を入れれば今にも動きそうだ。

 窓から顔を離すと、桐香は建物の壁に沿って更に歩き続ける。左側の石垣の向こうには針葉樹が建物を隠すようにずらりと並んでおり、夜風に吹かれて波のような音を奏でる。それを聞いた桐香は少しだけ身震いをする。同じ木の枝が揺れる音でも、昼と夜とでは随分印象が違うのだと桐香は思った。


「ここだ……」


 大きな建物を大回りするように歩いた後、桐香は正面玄関の丁度裏手にある小さな鉄製の扉の前にたどり着く。正面玄関がかつての社員の出入り口だとすれば、こちらは限られた人間だけが出入りできる通用口のようなもの。

 桐香はバッグのポケットから、銀色の鍵を取り出す。そしてそれを扉の鍵穴に差し込んで右にひねると、ガチャリと音がした。この鍵は桐香が幼いころ、かつて社長だった祖父の茂成(しげなり)から家族に内緒で譲り受けたものだ。家族で東京に遊びに行った時、茂成は桐香だけを呼びつけてこの鍵を手渡した。祖父曰く、未来の社長なんだからそれを使ってこっそりと職場見学でもして来いとの事だった。茂成は面白半分で、桐香も当時は会社になんて興味が無かったため、結局今まで使わずじまいとなってしまっていた。

 鍵を鞄にしまい、ドアノブを掴んで引っ張る。手ごたえは重かったが、桐香は両手を使って何とか扉をこじ開ける。

 扉の向こうは真っ暗闇と静寂に包まれた廊下だった。屋内から生ぬるい風が微かに吹いてきているのが肌で感じ取れる。手にしたライトで辺りを照らすと、レンガのようなもので積み重なった壁が現れる。桐香は今の今まで藤森クロックの社屋には踏み入れた事は無かったのだが、どうやら内装までも大正時代辺りの趣にしているらしい。当然照明なんて点灯しておらず、赤い非常灯や非常口の看板も灯りが消えていた。


「どこかにスイッチは……」


 辺りをライトで照らしていると、壁際に六つのスイッチのようなものを見つけた。早速オンにしてみたものの、スイッチの音が響くだけで灯りなんて点かなかった。電気自体がこの建物にはもう通っていないようだ。

 久しぶりに桐香の腹の底から大きなため息が漏れる。仕方ない、と暗闇の中で渋い顔をすると、手にした懐中電灯を強く握りしめながら建物の奥へと入っていった。



 ★



 それから桐香は建物の中の至る所を歩き回った。一階の工場跡、二階のオフィスルームに社員食堂……一部屋残らず目を光らせるつもりで探索していたら、いつの間にか深夜の零時を過ぎていた。廃墟となって二年しか経過していないのだが、建物内は埃だらけ。しかし幽霊どころかネズミ一匹見つからない。会社に関する資料も存在せず、資料室も本棚だけの抜け殻状態だった。やはり社員の幽霊は単なるゴシップ過ぎず、会社のイメージを下げるために何者かが垂れ流したデマでしかないのかもしれない。

 歩き疲れた桐香はヘトヘトになりながら最後の探索すべき部屋の前までたどり着く。かつて藤森幹也が働いていた場所である社長室だ。

 観音開きの木製の扉はあっさりと開き、桐香の両手で簡単に開放する事ができた。室内は相変わらず暗闇に包まれていたが、天井にはホタルカズラを模したシャンデリアが取り付けられている。内装もこれまでの部屋と異なり、古代ギリシャの神殿のような装飾が施されており、いかにも特別感を醸し出そうとしているのが窺えた。

 幹也の自己顕示欲の高い趣味に再びため息が出そうになりながらも直前で吐くのをやめ、桐香は社長室に足を踏み入れる。

 手当たり次第にライトで照らしながら棚や引き出しの中をくまなく探し始めるが、幽霊がいない事を証明できるものは一向に見つからなかった。他の部屋と同じく、資料は全て東京の本社に持っていかれてしまったのだろう。


「結局なんにもないじゃん……」


 幽霊の発見ができなくて安堵したのかがっかりしたのか……何だか複雑な気持ちになった桐香は、社長室を後にしようとする。


「……ん?」


 偶然、ガラス戸のある棚の上の物体が一瞬ライトで照らされる。近づいて光を当ててみると、それは木製の金庫だという事が分かった。金庫には鍵がかかっており、こじ開けようとしてもガチャガチャと音が鳴るだけだった。


「……」


 桐香はこの金庫の鍵穴には見覚えがあった。数秒の間鍵穴を見つめた後、鞄のポケットに右手を突っ込む。そして通用口の扉を開けた銀色の鍵を取り出した。まさかね、と呟きながら穴に押し込むと、鍵は穴にズブリと食い込んだ。そしてそれを右にひねると、ガチャリと音が部屋中に響き渡る。


「ウソ……」


 目を疑いながら鍵を鞄にしまうと、金庫の蓋を両手で開ける。中には一つのチューブファイルが入っているだけだった。桐香はそのファイルを恐る恐る手に取ってみる。見た感じ今の時代の文具店では売ってないような古いもので、表紙には会社要覧とマジックで書かれている。背表紙には何度も開閉を繰り返したらしく濃い線が残っており、年季を感じられた。

 祖父の茂成が渡した鍵でこの金庫が開いたという事は、桐香に知ってもらいたい事がある気がしてならない。

 ファイルを両手に持った桐香は、そのまま表紙を一枚ずつめくる。

 最初はこの会社の基本データや毎月の決算が書かれているだけだったが、ファイルの中ほどまで行くとたくさんの写真がファイリングされていた。主にこの職場が稼働している頃の写真で、社員らしき人間が時計の製造や事務作業に勤しむ姿が映し出されている。


「これが、父さんの会社か……」


 ページをめくるたびに、桐香は感傷に浸ったような気分になる。そして最後の二ページを開いた時、桐香は手を止めて両目を見開いた。


「……なんで? どうして?」


 桐香の視線の先には、時計塔の中で出会った男性の幽霊の写真があった。紫色の雷に打たれた時、手を差し伸べてくれた白髪の男性の幽霊だ。目を凝らして下に書いてある名前を見て、桐香は更に大きく目を開く。

 しばらく写真の中の顔を見ていた桐香は、そのファイルを勢いよく閉じて、社長室を飛び出す。そして、目的の場所まで、風を切るような速さで足を走らせた。

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