23.新しい仲間
「ねえ二人とも! ゲストボーカルの人が来てくれたよ!」
みのりが部室の中にいる仲間に呼びかけると、桐香に向かって部室の中に入るように首を縦に振ってジェスチャーする。桐香もそれに誘導されるように部室に足を踏み入れた。
「失礼します……」
室内に入った桐香は周囲をちらりと一瞥をする。木材が正方形に敷き詰められたフローリングで、隅っこにはダイニングテーブルが置かれている。その上にはお菓子のごみが散乱しており、ティーセットが飲み終わったまま放置されていた。そして窓際には、ギターを入れる大きな箱やアンプと思われる四角い物体が置かれている。
部屋の奥には、ドラムセットとキーボードが設置されており、演奏者が一人ずつスタンバイしていた。
「みのりおっそーい! 五分十二秒かかってる!」
ドラムの演奏で使う椅子に座った少女がスティックを二本に束ねて、左肩を叩きながら口をすぼめる。彼女は金色がかったボブヘアーで制服を着崩した派手めな少女だった。ワイシャツのボタンは二つ外しており、涼し気なギャルといった感じの格好だ。
「細かすぎでしょ雛子。そんなに時計気にしてたの?」
「ううん。あたしの体内計算」
「なにそれ。体の中に時計でも仕組んでんの?」
「ドラマーはリズムが命だからね。心の中でリズムを唱えているといろんな時間を計測したくなるんだ」
みのりは「へー」と曖昧な返事をしながら、雛子と呼ばれた少女の足元にカルピスの缶を置く。雛子は「サンキュ」と言って缶を開け、中のカルピスを一口飲んだ。
「はい、結花はこれ」
「ありがとみのり」
みのりは結花と呼ばれた少女の足元に緑茶の缶を置く。彼女はフレームレスの眼鏡をかけて黒髪をサイドでツインテールにしており、それが肩の下まで垂れ下がっている。どうやら結花はこの軽音部のキーボーディストのようだ。こちらは真面目な優等生な印象を受ける。
「修理に出してたシンセの調子、どう?」
「ばっちし! 前は鍵盤を結構強く押さなきゃ音が出なかったけど、今はそんなに強い力いらないね。弾きやすいよ」
「よかったね。結花、発表会に向けてあれだけ練習してたもんね」
二人でお互いに笑顔を見せあうと、みのりは入り口に立っている桐香に視線を向けてきた。
「さて、二人とも! 今日は大事なお客さんが来てくれました!」
みのりが声をかけると、楽器の調整をしていた二人が桐香の方を見る。
「まさか、本当に希望者が来るとはね……」
椅子に座って腕を組みながら、ドラムの雛子は桐香の方に目配せをする。彼女の受け入れがたいという視線を感じ取った桐香は、少し慄いてしまう。
「まあまあ雛子……じゃ、とりあえず二人とも自己紹介して」
みのりが宥めると、雛子は椅子から立ち上がって両手を後ろに組んだ。
「えっと、ドラムの竹村雛子でーす。主に洋楽が好きでー、クイーンとか聞きまーす。十一月に公開される、ボヘミアンラプソディっていう映画が楽しみでーす。よろしく」
雛子は語尾を伸ばしながら自己紹介すると、再びドラムの椅子にドカッと座り、フーッと息を吐く。そして左側にいるキーボードの結花に目配せをする。
覇気のないその口調を聞き、桐香は顔に冷や汗を浮かべた。
「はいっ! キーボードの黒川結花でーす。好きな音楽のジャンルはアニソンでーす。カラオケでは特にエヴァとかけいおん!を歌いまーす。けいおん!は……分かるよね? エヴァはちょっと昔の曲だけど分かるかな? よろしくー」
結花も雛子と同じように語尾を伸ばしながら自己紹介をした。雛子と違い無邪気な少女の雰囲気を醸し出していたが、桐香にはそれが逆にとっつきにくく感じてしまう。
「ええっと……藤森桐香です。よろしくお願いします……」
先輩方の異質な雰囲気にたじろぎつつも、桐香はしっかりと頭を下げて自己紹介をする。
しばらくフローリングの床を見つめていると、桐香の耳に足音が入り込んでくる。ゆっくりと顔を上げると、みのりが笑顔で右手を差し出していた。
「改めまして、ギター・ボーカルの柳葉みのりです。よろしくね」
差し出された右手を見て、桐香は半ば無意識の内に自身の右手を伸ばし、みのりと握手を交わす。右手に力を込めると、みのりは何も言わずにしっかりと握る力を込めて返してきてくれた。先ほどの二人の対応と違い、自分を出迎えてくれるその配慮に桐香は安堵の表情を浮かべる。
「じゃあさ、とりあえずその辺の椅子に座っててよ。私達、これから演奏するから」
みのりは握手していた右手を解き、部屋の隅にあるダイニングテーブルを指さす。彼女たちは恐らく、休憩時にはここでくつろぐのだろう。
「はい……失礼します」
みのりに促された桐香は、テーブルの前の椅子に腰をかけ、手荷物を足元に置く。その間にみのりは窓際にあるギターアンプの電源を入れる。そして壁に立てかけてある黒いケースからエレキギターを取り出し、アンプから伸びるコードをギターに繋ぐ。そのままドラムとキーボードの丁度中間の位置に立ち、見物をしている桐香に合図を送る。
「んじゃ、いくよー」
ドラムの雛子がスティックを叩いてリズムをとると、次の瞬間、彼女たちは演奏を始めた。耳に入ってくる曲は桐香は聞いた事がないので、おそらく彼女たちが作曲したオリジナル曲だろう。演奏をしている彼女たちの表情は真剣そのものだが、時折お互いに目配せをし合う際には、少しだけ笑みを見せている。ストイックに取り組む中で見せるその表情は、彼女たちが楽しんで演奏をしている事の現れだと桐香は思った。
演奏が終了すると、桐香は先輩たちに力強い拍手を送る。演奏にあまりに夢中になりすぎて拍手のさじ加減を忘れてしまい、みのりたちに笑いながら制止されるまで両手を叩き続けていた。
「スゴイ……本当にスゴイです……」
春宮の演奏も素晴らしかったのだが、彼女たちの演奏もまた心に響くものがあり、桐香は自身の思った事を率直に伝えたかったがために、端的な意見しか出てこなかった。
軽音部の演奏を見た桐香は、彼女たちなら理沙の作った曲を演奏してくれると確信し、「メモリア」のバンドスコアを手に取り、みのりの元に駆け寄った。
「ん? どうしたの?」
詰め寄ってきた桐香を見て、みのりは首を傾げながら声をかける。雛子と結花も視線を桐香の方に向けた。
「あの……お願いがあります! 文化祭の発表会で、この曲を演奏してもらえませんか?」
三人の視線を浴びた桐香は、手にしたバンドスコアをみのりに向かって差し出して深々と頭を下げた。三人は訳が分からないまま、しばらく顔を見合わせていた。
差し出がましい事は分かっている。先輩たちの発表の中で、ただでさえ歌唱力皆無の自分が歌わせてもらうだけでなく、他所から持ち込んだ曲を演奏してもらうなんて――しかし、今の自分にできる事はこれくらいしか思い浮かばなかった。自責の念に苛まれた桐香は頭を下げている間、自身の体に冷や汗が滲むのを感じ取った。
沈黙の時間がしばらく続く……
「ちょっとそれ、虫が良すぎるんじゃない?」
真っ先に返答をしたのは雛子だった。冷たく淡々としたその口調に、桐香は身震いをしながら頭をゆっくりと上げる。
「あんたは初めて加入したバンドに、自分が作った曲を先輩に演奏してくれって頼み込むの?」
雛子は腕を組みながら桐香の目を鋭く凝視している。その視線は寛子のような他人を軽蔑するものではなく、力強い光を宿した感じのものであった。
「ちょっと雛子?」
「だってそうじゃん! みのりだって赤の他人の作った曲を演奏しろだなんて言われたって『ハァ』ってなるでしょ? なんかこの子は一生懸命書いてきたつもりなんだけど、あたしは部外者の作品をこのバンドに持ち込むなんて事、あんまりしたくないんだよね? ましてや素人の作った曲を演奏して、それがチャチなものだった場合、このバンドはその程度の曲しか演奏できないっていう偏見を持たれる。周囲から舐めた目で見られる……そんなのイヤでしょ?」
「だからってそんな風に言わなくたって……藤森さんだって勇気を出して私達を尋ねてきてくれたんだよ?」
みのりが必死に擁護の弁を述べるが、雛子は腰に手を当てて首を左右に振る。桐香はただひたすら唇を噛み締めて雛子を見つめていた。結花は幼い見た目に反して、落ち着いて三人のやり取りを見守っている。
「みのり、冷たい事言うようだけど、そんなんじゃ音楽の世界でやっていけないよ? あたしら、何のためにM音大に入る努力してきたんだよ……」
雛子の発言に桐香は目を見開き、思わず「えっ?」と声を出してしまう。
「先輩方……M音大ってひょっとして……」
M音大とは、以前親友の口から聞いた事がある。そう、理沙が目指していた東京の大学だ。
「そうさ……あたしたち、この三人でプロを目指す。M音大に行ったら毎日バイトして、今よりもっと高い機材を購入する。それからバイト帰りに毎日練習して、稼いだ金で会場の設営費を払って、何度でもライブを開催する。そしてどんどん知名度を上げる。あたしらの目標は武道館公演。あたしも、みのりも、結花も、それを夢見てここまでやってきた。だから、言っちゃ悪いがお遊びで作った曲をあたしらで演奏したくないんだよね……」
雛子の弁論を聞いた桐香は、立ち尽くしたまま激しく瞬きを繰り返す。
気性の荒い人間が雛子からこんな事を言われたなら、思わず胸ぐらを掴みたくもなってしまうだろうが、桐香は噛み締めた唇の力を強める事でこらえた。そして納得できる部分もある。なぜなら軽音部にとって、自分は異分子でしかない。そんな人間にいきなり他所から持ってきた楽曲を披露しろなんて言われたって、拒みたくなるのも無理はない。それに、雛子の言動はプロを目指す者の覚悟の現れでもある。話し方といい、その力強い信念といい、どことなく理沙に似ていると桐香は感じた。
しかし、そんな桐香にだって納得できない部分はある。
「この曲は……遊びで作ったんじゃないです……」
噛み締めた唇をゆっくりと開き、桐香は言葉を紡いだ。
「この曲は……今はいない私の親友が、魂を込めて作った曲です。親友も……理沙も先輩方と同じく、ミュージシャンを目指していました。だからこれは、理沙の形見でもあるんです」
桐香の言葉に、三人は両目を大きく見開いて「ハッ」と息を呑む。そしてしばしの間、部室に沈黙が訪れたが、それを破いたのは雛子だった。
「……まあ、ウチらの曲を学園祭で歌いたいって言うなら否定はしないよ。みのりにあれだけ懇願されたんだから、ここで追い払ったりなんかしたらあたしらも格好がつかないし……」
「雛子!」
「そういう事だ。桐香ちゃんだっけ? 君の親友には悪いけど、何と言われようと他人の曲を演奏するわけには――」
「チャチかチャチじゃないかは、この目で見ない限り判断できないんじゃないの?」
肩を竦める雛子に対して声をかけたのが結花だった。
「ごめんね桐香ちゃん! この人プライド高い上に変に天才ぶるからさ、他のバンドの曲演奏するって言うとすぐ駄々こねるんだよね。そういうの、良くないんだよね!」
結花が雛子に指をさしながら桐香に詫びを入れる。するとみのりも雛子の方を向く。
「そうだよ雛子! これから先プロとしてやっていくんなら、他の曲をカバーしなくちゃいけない時だってあるんだよ!」
「……」
みのりに論破された雛子は、すごく苦いものを口にした時のような顔をして黙り込む。
「桐香ちゃん。そのバンドスコア、見せてくれないかな?」
「はい」
結花に頼まれると、桐香は手にしていたスコアのページを開く。みのりがギターを置き、三人が目の前に来ると、桐香はスコアをみのりに差し出す。
みのりがスコアを手に取り、両端に雛子と結花が立ち、そのままページがパラパラとめくられる。やがて三人は最後のページに書かれている歌詞とあらすじに目を通し始める。
「……どうですか?」
桐香が恐る恐る三人に話しかけても反応がない。最後のページを眺めている三人をしばらく見つめていると、三人の目が次第に潤んできた事に気づく。体を震わせながら最初に口を開いたのは結花だった。
「何……これ……」
「えっ!? ちょっと……どうしたんですか?」
みのり達の想定外の反応に、桐香は慌てふためきながら先輩三人に詰め寄る。
「……愛する人の事を忘れたいがために記憶ごと消し去るだなんて……悲しすぎる……」
雛子も目から涙を滲ませながら、静かに口を開く。見た感じこの話に一番感動をしていたのが雛子だった。彼女の先程からの豹変ぶりに、桐香は開いた口が塞がらない。
「そ、そんなにですか……?」
桐香は恐る恐る先輩達に尋ねてみる。するとみのりが静かに首を縦に振り、桐香の方へと向き直る。
「この女の子は、全ての記憶を失ったのに、愛する人の事だけは何故か次第に思い出してゆく……愛の力は魔法すらもはね除けたんだね……」
流れ落ちる涙を右手で拭ったみのりは、桐香に対して率直な感想を述べた後、にんまりと笑みを浮かべた。その笑顔を見ていると、桐香もつられて笑いそうになってしまう。
「そ、そんなに感銘を受けてくれるなんて……嬉しいです」
「この曲、桐香ちゃんの親友が作ってくれたんだっけ?」
結花も涙を拭いながら桐香に尋ねる。
「はい、そうです。私の親友もプロを目指すために、この曲に魂を込めたんだと思います。そしてきっと私の……」
思わず「私のためにも作ったんです」と口走ってしまいそうになった。「メモリア」の中の少女が、桐香と境遇が似ていたため、まるで自分自身のために存在するかのように感じたからだ。しかしこんな事を口にしたら理沙の名誉に傷がつくと思い、寸でのところでやめておいた。
「そうなんだ……いい友達がいたんだね……」
結花に話しかけられ、桐香は静かに首を縦に振った。
「ねえ、やっぱりこの曲、桐香ちゃんが歌ってみるべきだと思うよ」
バンドスコアを桐香に返却すると、みのりは提案を述べた。
「絶対に発表会で歌うべきだと思う。桐香ちゃんのためにも、そしてこの曲を作った親友のためにも……」
みのりが結花と雛子に視線を送る。結花は迷いなく首を縦に振り、雛子も腕を組みながら満更でもなさそうに頷いた。
感銘を受けた先輩たちを見た桐香は、自身の胸の底から熱を帯びた事を感じ取った。
「……ありがとうございます」
桐香は深く頭を下げて先輩たちに謝意を表明した。胸のあたりに帯びていた熱は首を伝わり顔に到達し、やがて桐香の涙腺を震撼させる。その涙腺を伝って瞳からこぼれ落ちる涙を、しばらく桐香は止める事ができなかった。