22.軽音部
まるで空き瓶の中のような密閉された空間。そこは周囲を見渡しても灯りなんて見当たらないのに、なぜか薄明るく仄かに照らされている。その出口のない部屋の床には、サラサラと手触りのよさそうな砂が敷き詰められていた。
砂の上で横座りをしている桐香は、砂の床を見つめた後、不意に天井に視線を移してみる。すると暗闇に包まれた空間から、砂がパラパラと流れ落ちてきていた。
桐香は弘貴がこの世界から消えてからずっとこの砂時計の夢を見ていた。こうやって毎晩のように見ていると、気味の悪さが徐々に慣れ親しみ、最早一つの光景に変化しようとしている。
(いつになったら消えるんだろ? この夢)
流れる砂を見ながら、桐香は心の中でぼやく。夢を見ているうちに、夢の中で思考を巡らせる事が可能な事に気づく。しかしそこから身体を動かす事ができず、閉ざされた砂時計の内部を視線を巡らせる事しかできなかった。どれだけ時間が経過しようともその空間は砂で埋もれる事はなく、桐香はその事を不思議に思いながら夢の中に身を委ねていった。
砂時計の夢のおかげかは分からないが、何となく重苦しく感じる足を動かしながら、桐香は学校へ向かっていた。
この日は九月三日の月曜日。八月も過ぎ去り、日本中のカレンダーは夏の終わりを告げる。学校も今日から二学期が始まり、生徒達は夏休みの余韻が抜けないまま登校を余儀なくされた。
夏休みが終わったといっても、空の上からは残暑の厳しい朝日が降り注いできている。だから桐香を含め、生徒達はまだ半袖のワイシャツ姿。
学校へ向かう国道を歩きながら、桐香は青空と広い海を交互に見ながら考え事をしていた。そして歩道の途中で立ち止まると、鞄の中から「メモリア」のバンドスコアを取り出した。海から吹く潮風で舞い上がったりしないように、桐香はスコアをしっかりと手に取り、歌詞を見つめた。
メモリア――イタリア語で記憶を意味する単語。その単語が示す通り、作中のストーリーは記憶をテーマとしたもの。
記憶を失った少女が、自殺願望を乗り越えて未来へと向かっていくストーリー。この少女には、自身の忘れていった記憶を思い出していったきっかけがあった。そう、それは恋人を失う前に二人で何度も訪れた港の桟橋。その光景が脳裏に焼き付いていたために、彼女は魔法使いによって失われた恋人の記憶を取り戻していった。
親友が魂を込めて作り上げた物語。このスコアは理沙が世界から忘れ去られる前に桐香に託したものだから、消滅はしなかったのだろう。
ひょっとしたら、例えば全校生徒の前でこの曲を披露したとしたなら、消えた三人を生徒達の記憶から呼び戻せるのでは? 春宮の祖父が、昔孫娘と見た花火を改めて見て「綺麗だね」と話し、そして手を握る力を込めたように……
憶測に過ぎないが、やってみる価値はあると思った。
「けど、どうやって……」
海上で静かに揺れる波を見て、桐香は小さく呟く。力強い潮風を全身で受けて、制服のスカートと赤いリボンが激しくなびく。
全校生徒の前でこの曲を披露するといったって、その機会をどこで作ればいいのか、桐香にはアイデアがさっぱり思い浮かばなかった。思考を巡らせている内に、かなりの時間を浪費してしまった事に気づき、桐香は通学路に向き直り、学校を目指した。
足を急がせた事もあり、始業前に学校にたどり着く事ができたし、重たい格子も開け閉めしなくて済んだ。ほっと胸を撫で下ろした桐香は、下駄箱で靴を履き替える。そのまま教室に向かおうとするが、桐香は不意に下駄箱の先の大きな掲示板に掲げられたたくさんのポスターが目に留まる。それは十月の初めに行われる文化祭に関するものばかりだった。特に文化祭の目玉である発表会の案内がその大半を占めていた。おそらくこれらのポスターは、発表の予定がある生徒達が夏休み中に作成して貼り付けたのだろう。桐香のクラスは今年は発表しないので、自分には関係ないという軽い気持ちでポスターにぼんやりと目を通す。
発表会はクラスで行う大規模なものもあれば、部活ごとで行うこじんまりとしたものもあり、生徒達がここぞとばかりにアピールできる絶好のチャンスである。ほとんどはロミオとジュリエットやライオンキングといった定番の演劇だが、吹奏楽部による演奏や有志で名乗り出た生徒による漫才といったものもあった。
ふと、右下に女子テニス部が作成したド派手な色彩のポスターが目に留まった。高校生くらいの男女が抱き合っているイラストが描かれている。そのイラストを見た桐香は眉間に皺を寄せる。「ステラ」という名の演劇をやるらしく、どうやら天文ファンの少年と素性不明の不思議な少女との恋愛もののようだ。こんな物語、桐香は耳にした事がないので、恐らく寛子達が作ったオリジナルだろう。
「誰が見るかっての……」
女子テニス部に対する怨恨という事もあり、桐香はポスターに向かって悪態をつく。ため息を吐きそうになりながらそのまま教室に向かおうとすると、桐香は掲示板の端っこに貼られているポスターに意識が向く。
『ゲストボーカル募集中! 学年、経験、一切不問! 歌に自身のある方、一日限りで歌ってみませんか?』
そう書かれたポスターは、軽音部からのものだった。
珍しい企画もやってるんだなと思っただけでその場を去ろうとしたが、桐香は踏み出そうとした右足を留まらせる。そして軽音部のポスターを再びまじまじと見つめる。
(もしも……理沙が作った歌を、文化祭で歌ったとしたら……)
そんな発想に至った桐香は、顎に手を当てて考え込む。
そうだ、この「メモリア」という曲は理沙が残した唯一の品と言っても過言ではない。親友をこの世界に取り戻す手掛かりはこれしかない……
だったら……
しばしポスターを見ながら考え事をしていると、始業のチャイムが校内に鳴り響く。我に返った桐香は、鞄を肩にかけたまま教室を目指して全速力で走りだした。
★
放課後。桐香は校舎離れにあるプレハブ造りの部室棟の、軽音部の部室の前にいた。鞄を左肩に携え、右手には「メモリア」のバンドスコアを握りしめている。
木製のスライド式のドアの向こうからは、演奏は聞こえてこないものの、何人かの女子が談笑をする声が聞こえてくる。今は休憩中なのだろうか?
扉の取っ手に手をかけようとした桐香は、ためらいを含んだ表情をして扉に触れるのをやめる。
「……どうしよ……」
桐香が小さく発した呟きからは、音楽とは無縁という自信の無さが表れていた。楽器の演奏どころか、今流行りのアーティストもロクに知らない桐香は、ここで一歩を踏み出すべきかと、しばらくの間逡巡をしていた。
五分ほど部室の扉の前で突っ立っていると、部室の中で話し声がピタッと止まり、何やら物を動かす音が聞こえてきた。
このまま立ち尽くしていても埒があかない事を悟った桐香は、奥歯を噛み締めるほどの覚悟を決め、扉をスライドさせようと取っ手に手をかける。
「あっれぇ?」
その時背後から声が聞こえてきた。ビクッとして桐香が振り向くと、紺色をしたポニーテールの少女がこちらに歩いてくる。彼女の両手には缶ジュースが三本握られている。部員の誰かがパシリに使ったのだろうか?
「軽音部に何か用?」
少女が尋ねてくると、桐香は背筋をピンと伸ばしてつぶらな瞳を大きく見開く。人付き合いが苦手な桐香は、初対面の生徒に対しても極度に緊張してしまい、背中から微かに汗が滲むのが分かった。
「え、ええっと……」
桐香は気恥しそうに少女から視線を逸らし、右手に掴まれたバンドスコアをチラチラと見つめる。
「あれ? 君、この前のライブで私と会ったよね?」
「えっ? この前の?」
少女に質問された桐香は、恥ずかしい気持ちから逃れるかのように過去の記憶を遡ってみる。桐香が行ったライブといえば、春宮雪乃のライブしかない。そこで会った人間といえば……
「……あっ!」
「ね? あの時の?」
桐香はライブ会場のエントランスで少女と肩がぶつかった事を思い出した。それと同時に目の前の少女は「ねっ」と言って人差し指を桐香に向かって指してきた。
「あの時は……どうも」
「いえいえこちらこそ。どっかで見た事ある子だなって思ったら、やっぱりこの学校の生徒だったんだね! 君も春宮のファン? ってライブに足を運んでるんだから当然だよね?」
「まあ……最近ファンになったばっかだから、曲とかまだあまり分からないけど……」
桐香が少しおどおどした表情で話しても、少女は表情を崩す事なく「そうなんだ」と言いながら相槌を打っている。この人と会話をしても威圧感を感じなくて話しやすい。寛子とは大違いだ。きっとこの人はクラス内では人気者の部類なのだろう。
「えっと……あなたはここの部活の?」
「うん。私は柳葉みのり、軽音部の三年生。君は?」
「私は……藤森桐香って言います。二年です」
自己紹介で相手が先輩だという事が分かった桐香は、咄嗟に自身の口調も丁寧語に変換した。
「あの……ゲストボーカルを申し込みに来ました。今度の学園祭で歌わせて下さい!」
桐香が内に秘めた勇気を精一杯振り絞り、先輩であるみのりに懇願をする。
「えっ、本当に!? わあっ、ありがとう!」
ただでさえとっつきやすいみのりが、両目を見開いて表情を更に開花させる。
「いいんですか?」
「もっちろん! じゃあ早速中に入って?」
みのりが辛うじて動かせる人差し指を、扉の取っ手にかけて左にスライドさせる。
「ねえ二人とも! ゲストボーカルの人が来てくれたよ!」
みのりの嬉しそうな声が部室の中に響き渡った。