21.記憶と記憶
時計塔で幽霊に出会ってから一週間後の夕刻、桐香はローカル線の電車の中にいた。向かっている場所は、この間理沙と一緒に行ったライブハウス。春宮雪乃がライブツアーで再びこの街に帰ってくるのだ。
桐香はあれからしばらく、男性の幽霊の素性を暴く事ばかり考えていたが、情報の種すら無いのでは話にならなかった。試しに夜間に時計塔を訪れ、正体が分かったと嘘をついてみたが、男性の幽霊は現れる事はなかった。桐香が嘘をついている事を見透かしているのか、あるいは試練なんてはなから嘘だったのか、あれっきり幽霊は姿を現さなかった。
せめてスマホで画像を撮っておけば良かったと、桐香は電車の座席に座って心の中で後悔の言葉を述べる。この一週間、桐香の脳内は幽霊の事ばかりだったので、ガス抜きとして理沙にとって関係性の深い場所に赴こうと思ったのだ。彼女達をこの世界に取り戻すきっかけがある事を信じて。
電車の窓の外をボーッと眺めていると、窓ガラスに雨粒がポツポツと付着し始める。しかし今の桐香は焦らなかった。先週の反省を生かして、傘はしっかりと携えてきたのだった。
ふと桐香は鞄の中に手を入れ、クリアファイルを手に取ると、中からA4サイズの紙の束を取り出した。それは理沙から譲り受けたバンドスコアの冊子。親友が作詞作曲したものだった。パートごとに楽譜が振り分けられ、すぐに演奏ができるようになっている。冊子の終わりの方には歌詞と、それを元としたあらすじが書かれている。桐香は冊子をパラパラとめくり、あらすじに目を落とす。理沙から受け取ってからは、毎日のように歌詞とあらすじに目を通しているが、読めば読むほど感傷に入り浸ってしまう。
曲名は「メモリア」というもの。記憶を失った少女が自身の記憶を探している内に、やがて自分は両親に見捨てられ、恋人は落雷に打たれて失った孤独な存在だという事を思い出していくというストーリー。それから何百日かが経過した後、魔法使いに出会う。その魔法使いこそが、少女の記憶を消した張本人だった。少女は悲しみから逃れたいがために、突如現れた魔法使いに自身の記憶を消すように懇願したのだった。少女が徐々に記憶を取り戻していったきっかけは、彼女が習慣的に訪れていた港の桟橋。そこは少女が恋人に告白をした場所でもあり、そして二人で何度も訪れた思い出深い場所。恋人が死んで記憶を失っていたとしても、体に記憶された本能は消すことができず、無意識に桟橋を訪れているうちに恋人との記憶も取り戻してきていた。
記憶を完全に取り戻した少女は魔法使いに、自分を殺してくれと頼んだ。記憶を失っても勝手に思い出して辛い思いをしてしまうなら、死んだ方がましだと言った。しかし彼は首を横に振り、静かに口を開く。
「死ぬなら勝手にお死になさい。でもそれは非常にもったいない事ですよ。あなたにはわたしの魔法をモノともせず恋人の事を思い出せたのですから。それはあなたが誰よりも他人を敬愛のできる証。そんなあなたがこの世界から消えてしまったら、きっとあの世で後悔をする事でしょう。フォッフォッフォッ」
魔法使いは不敵に笑ったのち、霧となってその場から消え去った……
少女は決意をする。自分がこういった運命を背負った人間だというのなら、その運命に逆らうほどに人を愛せる人間になってやる、と……
「やっぱり……私みたい……」
あらすじを目で追っていた桐香は、楽曲の中の少女と自分を照らし合わせて小さく呟く。記憶を失ったのが自分か周囲の人間かの差異はあるものの、世界から孤立したという点では、この少女とは似ている部分があると桐香は思った。
魔法使いなんて存在しないだろうし、所詮はおとぎ話の中の出来事なのだが、桐香はこの少女から強い信念を感じ取った。天涯孤独となった少女は、その悲しみから逃れるために魔法にかかり、自身の記憶すら世界の彼方に切り離されてしまったのに、恋人への力強い思いが故に魔法を打ち払い、そして最後に人を愛する人間になる事を決意した。最初は悲しみから逃げていた少女が、悲しみに打ち勝つ力を手に入れたのだ。
今の桐香には、この少女のような信念を持ち合わせているとは思えなかった。もしも友人のみならず、知人全てが桐香の目の前から消えてしまったのなら、自分はこの少女のように人を愛し続ける事はできるのだろうか? 運命を憎むのではなく、受け入れる姿勢を保つ事はできるのだろうか?
シートに寄りかかり、天井の蛍光灯を見つめながら桐香は自問自答を繰り返す。そうこうしているうちに、電車はライブ会場の最寄り駅に到着した。立ち上がって窓の外に視線を移すと、先ほどよりも雨脚が強まったように感じられた。
会場にたどり着いた桐香は、傘を左手にさして順番待ちの列に並ぶ。デニムパンツのポケットの中には、ネットで購入したチケットを忍ばせてある。以前はチケット料金を無料にしてもらったのだが、流石に何度も父親の立場を利用する気にはなれなかった。
雨の降りしきる中、三十分ほど列の中で順番を待ち、入り口の係員にチケットを渡し、ようやくライブハウスの中に入る事ができた。桐香は傘を折りたたみ、エントランス内を見渡してみる。以前にも増して春宮のファンでごった返しており、至る所でライブTシャツを着た人々が談笑をし合っている。雨天という事もあってか、グッズ販売のブースも屋内に移動していた。
桐香は始まるまでの時間、グッズでも見ようかとブースの近くをウロウロしていると、突然右肩に衝撃が走る。
「わっ」
ぶつかった方向を見ると、ポニーテールの少女が目の前にいた。
「ごめんなさい……」
ぶつかってきた少女は簡潔に詫びると、少しの間桐香を少し見まわしてきた。
「?」
「みのりー、そろそろ会場入るよー」
桐香が首を傾げていると、遠くから聞こえてきた声に、ポニーテールの少女は声のした方向を見る。
「あーい」
間の抜けた声で返事をした少女は、そのまま声のした方へ歩いて行った。見ると友人と思われる二人の少女に合流していた。三人とも、桐香と同じくらいの年齢に見える。理沙と同じく、高校生の春宮ファンも多いのだろう。
★
会場に入った桐香は、チケットに書かれている指定されたEブロック、つまりホールのど真ん中のスタンディング席まで進む。今回はネットでチケットを注文したため、後方の席にならずに済んだのだった。流石に今回まで従業員に顔パスをするわけにはいかなかったので、中ほどの席で妥協する事にした。
会場のど真ん中で待機をしていると、入り口から後方で応援する観客がぞろぞろと押し寄せてくる。時間が経過するにつれて人と人との間隔が狭くなっていき、会場内の密度が大きくなっていくのが感じられる。
ホールが芋洗いの状態となり、入り口の扉が閉じられると、観客全員がステージの方を向く。それでも会場内の喧騒は治まらず、しばらくの間観客たちは談笑を続けていたが、突然ホールにある全ての照明が消灯される。同時に観客たちの会話が断ち切られ、全員がステージに集中をする。
しばらくすると、軽快なドラムの音が鳴り響き、ステージ上にスポットライトが照射される。ドラムのリズムに合わせて、ギターとキーボードが軽快なメロディを奏で始める。観客がメロディに同調するかのように、右手に携えたピンク色のタオルをクルクルと頭上で振り回す。
桐香も周囲の観客を見て、予めグッズ販売のブースで購入しておいたタオルを同じように頭上で振り回した。
やがてスポットライトがステージの中央を照らされると、ピンク色をしたベースを掲げて演奏をしている春宮雪乃が現れる。今回は赤と緑の装飾が施された、ドレスのような衣装を身に纏っている。桐香の目には、テレビでやっている魔法少女アニメのコスプレにも見えなくはなかった。アニメの主題歌もいくつも歌っているので、それを意識したのかもしれない。
春宮が現れた瞬間、会場内は大歓声に包まれ、暑苦しい空気が震撼したのが肌で感じられた。
「凪市の皆さん! こんにちはー!」
オープニングが終了して何曲かの演奏が終了すると、春宮がマイク越しに観客に向かって叫ぶ。それに呼応して、観客がステージに向かって大声で返答をする。
いま会場に居る観客数は、三千人に上るだろうか? 彼女はそれだけの人間の心を動かす事ができる。普段は他者を魅了させ崇拝させる人間を好まない桐香だが、春宮だけは親友の理沙が憧れを抱くのも分かる気がした。
演奏は更に進行し、十一曲目が終了すると、春宮はステージ上のサポートメンバーに合図を送る。会場内の観客がそれまで振り上げていたタオルを手元に下ろし、静かにステージを見つめ始めた。
「ええっと……」
春宮がベースを抱えながら、少し間の抜けた声をマイクに向かって放つ。
「少し言いづらいんだけど、私にはおじいちゃんがいました。私が幼かった頃から可愛がってくれて、私もおじいちゃんが大好きだった。でも十年くらい前から認知症を患っていて、だんだん私の事も、家族の事も分からなくなっていきました」
会場内が嵐が過ぎ去った後のように静まり返った中、春宮は言葉を続ける。
「それで、私が小六の時かな? 認知症がいよいよ深刻になってきた時、おじいちゃん、家族が目を離した隙に、家の外に勝手に出歩いて、交通事故に遭ったんです。幸い一命はとりとめたけど、太ももから下を複雑骨折してしまって、それからずっと寝たきりのまま暮らしてきました。周りの人間を思い出せないだけじゃなく、自由に歩く事もできない――最早目だけが見える、そんな状態だったんです。それで、歩けない事で体はどんどん衰弱していって、食事もろくにできなくなって……」
春宮が言葉をつづけると、次第に声が震え始めた。
「……私がバンド活動をして二年が経った蒸し暑い夏の夜だったかな? ライブのリハーサルが終わった後、すぐにこの街に帰ってきて、おじいちゃんが入院している病院に行ったんです。その日は夏祭りがやってたんですけど、もうそれどころじゃなくて……病室に行ってもおじいちゃんは、窓の外を眺めているだけだった。いくら声をかけても、私には反応しなかったんです……」
俯き気味に話していた春宮は、やがて顔を観客の方に向かせ口を開く。
「その時ちょうど窓の外で夏祭りの花火が見えたんです。最初は一発ずつだったのが、だんだん間隔が短くなっていって、最後は一斉に花火が咲き乱れて夜空を明るく照らし出して――窓の外を眺めていたら、突然おじいちゃんは繋いでいる手を強く握って、『綺麗だね』って言ってくれたんです。私とおじいちゃんは、昔一緒に夏祭りの花火を見に行った事が何度もあって、多分その事を思い出したのかな? だったら少しでも認知症が改善されるかもしれないって思ったけど、それから三日後、おじいちゃんは急に体調を崩して……そのまま帰らぬ人となりました……」
春宮は表情を一瞬歪ませると、右手で涙を拭う。観客から「頑張れ!」とコールが鳴り響くと、春宮は「ありがと」と小さな声をマイク越しに放つ。桐香も思わず喉の奥から励ましの声を発したくなった。
「私はおじいちゃんの死の経験で気づいたんです。体の機能が失って、記憶を遥か彼方に置いてきたとしても、美しいものを見る目がある限り、いや、たとえ目が見えなくなったとしても、美しさと優しさを感じる心がある限り、人は忘れたものを取り戻す事ができる――これは、この経験をもとに作った曲です。聞いてください、『メモワール』」
春宮が再び涙を拭うと、サポートメンバーに再び合図を送る。ドラムがステップを刻むと、春宮達は再び演奏を始めた。
(感じる心……)
桐香は心の中で静かに呟く。そして熱くなった目頭を激しく瞬きをさせながら、ステージの上の春宮を見つめていた。
春宮の祖父は記憶する機能を失い、そして体を動かす機能まで失ったとしても、最後の最後で孫との思い出を、そして春宮の温かさを記憶の引き出しから呼び起こす事ができた。彼女はこの体験を歌にする事で表現をし、見る者の記憶に焼き付けようとしている。
もしかしたら自分も、大多数の人間に何かを伝える事で、失ったものを取り戻す事ができるのだろうか? 心の中でそんな思考を巡らせながら、桐香は春宮の演奏を見守っていた。