20.神隠しの呪い
「あ、あの……この間はありがとうございました」
桐香は少し気恥しそうに、目の前の幽霊に謝意の表明をする。
「いや……俺が何かしたというわけではない。ただ単に声をかけただけだ。礼を言われる筋合いはない」
男性の幽霊は少し素っ気なく、桐香から視線を逸らして返答をした。その様が何だか愛くるしく、桐香の頬に再び笑みがこぼれる。
目の前の男性の表情を少しだけ凝視した桐香は思う。この男の表情と言い仕草といい、やはり自分に似ている。寝起きで不機嫌そうになるところ。そして、少し優しくされると素直になれずにドライな態度をとってしまうところ。そう、弘貴にステラポートに誘われたのに、首を縦に触れなかった時のように……
「えっと……私は藤森桐香って言います。あなたは……」
桐香が戸惑いながら自己紹介をすると、幽霊は眉間をピクリと痙攣させて反応をする。
「……なに、しがない会社員だった男だ」
男性が初めて桐香と視線を合わせると、少し考えて答えた。どうやら自身の名を名乗る気は無いらしい。
しかし桐香にとっては、お礼を述べただけで帰るわけにはいかなかった。
「あの……」
桐香は意を決したように男性の両目をじっくりと見据える。
「一か月前、私がこの丘のふもとの国道で雷に打たれた時、あなたは声をかけてくれましたよね? それはどうしてですか? 助けてもらってこんな事を言うのもなんですけど、もしあなたにとって私が赤の他人だったなら、すぐに私に声はかけないはず。だって……紫色をした雷に打たれた人間なんて、普通だったら近づきたくないですよね?」
桐香が話していると、男性の表情に次第に焦りが垣間見えてくるのが分かった。
「それはお前に声をかける以外に、お前を介抱する手段がなかったからだ。幽霊である俺は、自身の霊力を強めない限り他人には見えないし声も聞こえない。だから病院への通報はできない。霊体だから、当然電話の受話器を持つ事もできない」
「……」
男性の言葉に桐香は顎に手を当ててしばらく考えていたが、やがて再び視線を合わせて口を開く。
「……でも、私が雷に打たれた時、あなたは焦ったようには見えませんでした。あの時本当に抜き差しならない状況だとしたら――私があの落雷で死ぬとしたなら、もっと表情に焦りが見えてもおかしくないはず。なのにあなたは、ためらいの表情すら見せずに介抱してくれた……」
「……」
桐香の発言に、今度は男性が押し黙りながら聞いていた。
「まるで、あなたが私の事、そして紫の雷の事を知っているかのような素振りでした」
桐香が言うと、男性は何かに言い負けたかのように歯を食いしばる。そしてため息を吐いて、右手で白髪を少しかき乱す。
部屋の中にしばしの沈黙が訪れる。二人の耳には、外の雨音が弱まったように聞こえた。
「ただのうかうかした嬢ちゃんだと思っていたが、案外抜け目がないな……」
男性はようやく桐香の目をしっかりと見つめた。
「嬢ちゃんの察しの通り、俺はあんたの事を知ってる。そんでもって、俺はあの紫色の雷に打たれた事がある。ずっと昔、俺が生きていた頃の話だがな」
男性の発言を聞いた途端、桐香の両目は大きく開かれ、反射的に目の前の幽霊に詰め寄っていた。
「ほ、本当ですか!?」
「おいおい嬢ちゃん、俺は曲がりなりにも幽霊だぜ? ちったあ怖がれや」
幽霊を見ても寸分たりとも慄かずに詰め寄る桐香を見て、男性は苦笑を浮かべる。自身が他人を怖がらせる存在であるはずなのに、逆にこうして興味を持たれてしまうなんて、男性にとっては想定外だった。
「あ、あるんですか? あの雷に打たれた事が?」
「ああ、あるにはある」
「じゃあ、あなたに起こった怪奇現象は……」
「『身の回りの大切な人間の存在が世界から抹消される』――だったな。抹消されたのは、妹と、弟と、そして恋人の三人だ」
男性からの発言を聞いた桐香は、自身に起こった出来事をもう一度振り返ってみる。
(同じだ……私に起こった事と……全く)
固唾を呑みながら、桐香は男性の発言と自分を照らし合わせていた。そして緊張を含んだ視線で、再び男性を見つめる。
「それで……消えてしまった人たちには会えたんですか?」
「ああ、彼らは忘れられた世界から戻ってきた。『神隠しの呪い』は克服した」
男性の言葉に、桐香の表情が安堵のものに変わる。桐香には暗闇の中で一縷の光を掴んだような感覚を覚えた。
この人なら、世界から消えた三人を取り戻せる――自分に降りかかった呪いを振り払う事ができる!
そう確信した桐香は、男性の前で薄汚れたベニヤ板の上に正座をする。
「……なんのつもりだ?」
正座をした桐香が滑稽に見えたのか、男性はフッと笑みを浮かべた。それに反して桐香は真剣な面持ちで男性を見つめ、そして口を開いた。
「あの……私もあなたと同じく、大切な三人が世界から抹消されました。彼らをこの世界に取り戻したいんです。お願いします、この呪いを解く方法を教えて下さい」
桐香の懇願を聞いた男性の表情から笑顔が消える。そして首を左右に振りながら肩を竦める。
「断る」
「ど、どうしてですか?」
桐香の返答に、男性は無表情で右手の人差し指を相手に向ける。
「逆に質問を返すようで悪いが、お前の人生の目的ってなんだ?」
「……えっ?」
唐突に質問を質問で返されたので、桐香は思わず瞬きを何度も繰り返してしまう。
「どういう事……」
「お前の人生でやりたい事は何だ?」
寝耳に水な質疑をされたので、桐香は唇を噤んだまま相手を見つめていたが、やがて男性に向かって口を開く。
「消えた三人を、この世界に取り戻す……」
「それは消えた人間への単なる私情に過ぎん。大切なのは、こういった状況下に置かれていて尚、お前には達成したい目的はあるのかという事だ。それさえ分からなければ、お前にはこの呪いを解く事は不可能だ」
男性の言葉に、桐香はしばらく口を開く事はできなかった。しばらくの間、目の前の幽霊の発言を脳内で何度も反芻する。
桐香にとって学校でまともに会話をする人間は、理沙と弘貴、そして弟の純くらいしかいない。その三人が世界から消えた今、桐香の孤独感は臨界点に達しようとしている。その中で、友人たちを世界に取り戻したいと思うのは至極当然の事。
なのにこの男性は、こんな状況でお前の目的を言えと宣っている。こんな状況下で達成したい目的なんて、彼らを世界に取り戻す以外には……
「あなたが言った事は、消えた彼らの事は忘れろって意味ですか?」
「そうとも取れなくはない」
男性の感情のこもっていない発言に、桐香は再び押し黙って俯いてしまう。そして右手で自身の髪を少しだけかき回す。
達成したい目的だって? 消えた人間の事は忘れろだって?
相手が生身の人間であったならば、今の桐香は全力で突っかかって大声で反論をしていたのかもしれない。しかし相手は幽霊。ここで暴挙を起こしたって、まさにのれんに腕押しだという事は理解している。
暫しの間俯いていたが、桐香は顔を上げて男性に向き直った。
「達成したい目的なら、あります」
桐香の言葉に、男性は「ほぉ」と感心したように首を縦に振る。
「して、それはどんな願いだ?」
「私の両親は、東京で時計製造会社の経営をしています。だから将来は父の後を継ぎ、その会社の経営者になる……それが私の達成したい目的です」
桐香が俯きながら生み出した口実がこれだ。目的を言えって言うなら、三人をこの世界に取り戻せるんだったら、今ならどんな嘘でもついてやる。桐香の心には力強い意志が渦巻いていた。
目の前の男性も両目を大きく見開いてまごついている。
「……本気なのか?」
「本気です。この藤森桐香、二言はありません!」
親指を立てて「フン」と鼻息のような音を立てた桐香を見て、男性は顔を歪ませながら右手で髪の毛をクシャクシャにする。困った時に髪を掻きまわす仕草も何だか自分に似ていると桐香は思う。
「……お前にちょっとした試練を与えよう」
男性はフッと顔を上げ、桐香に向かって静かに口を開く。それと同時に、窓の外から雨で冷えた空気が流れ込んでくる。風に反応して桐香が窓の外に一瞬だけ視線を移すと、雨はすっかりと上がっていた。
「試練ですか?」
「そうだ」
想定外な事を言われたため、桐香は暫しの間面食らっていたが、男性は気にかける事なく言葉を続ける。
「内容は至って簡単だ。俺の名前と、俺の素性を当てるんだ」
「えっ?」
「簡単だろう?」
男性は意地の悪そうに口角を上げて白い歯を見せた。五十代に見えるにも関わらず入れ歯は無く、歯茎も若々しく見える。
「いや、いきなりそんな難題押し付けられても……」
「何なら今ここで当ててもいいんだぜ? 嬢ちゃんが相手の心を読み取る力でも持ってたらの話だがな」
男性の言葉に桐香は押し黙ってしまう。思わずため息を吐こうとするが、目の前の幽霊と一緒にされるのが嫌だったので、空気を吸い込んだところでやめておいた。
「ま、分かったらまたここに来てくれよ。来たのが嬢ちゃんって分かったら、霊力を強めて見えるようにしてやるから。期限も設けないから、じっくりと考えてくれ」
「えっ? いつ来てもいいんですか?」
「昼は外を飛び回ってるから、できれば夜に来てくれ。それじゃ、今日はそろそろ霊力を消すからな」
男性がそう言うと、彼の体がどんどん半透明になっていく。
「ちょ、ちょっと! 名前とか素性とか、初対面なのに分かるわけないじゃないですか!」
桐香は焦りながら、消えていく幽霊に向かって語りかける。
「頭をひねってよーく考えてみな。ま、嬢ちゃんだったら考えずとも自然と答えに導かれるかもしれないがな……」
「待って下さい。さっきは私の要求を拒否したのに、なんで突然試練なんて……」
桐香が質問を言い終える前に、男性の幽霊は完全に姿を消失した。時計塔の部屋の中で一人取り残された桐香は、男性が居た場所をしばらくの間見つめた後、窓の外に視線を移す。雨の上がった時計塔の広場は、しんと静寂に包まれていた。
「幽霊の、正体……」
ボソッと呟いた桐香は、正座にしていた足を立ち上がらせる。痺れを切らしていたためか、立ち上がった瞬間少しふらついた。
「あなたの正体の分かる証拠を持って来ればいいんですね?」
桐香が部屋の中で声を発しても、返事は返ってこなかった。しかし桐香には、部屋の中の空気が少しだけ震えた気がして、自身の身体もつられて震える。
またここに来る事を心に誓い、桐香は時計塔を後にする。そして、雨が上がっている今がチャンスだと思い、下り坂をダッシュで駆け下りて自宅を目指した。