19.少女の目は丘の上から
三つの柱時計のあった部屋の中央に巨大な砂の渦が現れ、桐香はそこに巻き込まれた。体が完全に砂に埋もれ、小さな管の中を通過したかと思ったら、その下にあった空間に放り出された。そこは上にあった柱時計の部屋と同じくらいの大きさで、天井を見上げると砂が少しずつ流れ落ちてきている。この光景を見て、ここが砂時計の中だという事を理解した。こんな夢を見始めておよそ二週間、あれから毎晩、夢の中の桐香は上から流れ落ちる砂を見つめながら、過ぎ去る時間に身を任せていた――
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窓から差し込む眩しい朝日によって桐香は目を覚ました。瞼を開いてしばらくすると、タオルケットを纏っていた体を起き上がらせる。そのままベッドを離れて、網戸で閉ざされた窓に近づく。窓の外の空は晴れ渡ってはいるが、遠くの方で入道雲が立ち込めている。網戸を通して流れ込む風は、薄手のパジャマの桐香にとっては少し肌寒かった。
「本当……静か」
鳥のさえずりの聞こえない朝に違和感を感じた桐香は小さく呟くと、くるりと踵を返して一階へ。キッチンの冷蔵庫から牛乳の入ったパックを取り出すと、それをダイニングのテーブルに置く。重く感じた体を椅子に納めると、テーブルにあったリモコンを手に取り電源を入れる。
それからパックに入った牛乳をカップも使わずに一口飲むと、チャンネルを変えながら朝のニュースバラエティをしばらくの間眺めていた。
桐香の自宅と市街地を繋ぐ海に面した国道で、紫色をした奇妙な落雷に打たれてから一か月が経過した。あれから桐香に起こった出来事を忘れろと言われても不可能だろう。弟が消え、親友が消え、そして――心の拠り所となるはずだった幼馴染みが消えた。それでも世界は回り続け、こうやってごく平凡な朝はやってくる。信じ難かった事実が当たり前に変わっていき、それがやがて日常に溶け込んでいっている。桐香はそんな状況に順応し、何事も無かったかのように生活している……
テレビの中では、原宿で流行っているファッションを紹介するコーナーが終了し、キャスターの表情が真剣な面持ちになったと思ったら、ニュースを報道し始める。今日本で起こっているろくでもない事件の報道を見るに堪えなくなった桐香は、手元のリモコンでチャンネルを変えるのを繰り返す。しかし、どのチャンネルも同じ報道しかやっていなかったので、そのまま電源のボタンを押す。
「……いきますか」
桐香はそのまま壁に掛けられた時計を一瞥し、学校へ行く支度を始める。この間、寛子から食らったビンタの跡もすっかり消滅し、手厚い化粧を施す必要もなくなった。
制服に着替え、弘貴から貰った編み人形の付いた鞄の中に必要な教材を詰め込むと、玄関でローファーを履いて外に出る。
朝の陽ざしが差し込む今日は八月の一日。全国の学校は夏休み真っただ中だ。なのになぜ学校に向かっているのかというと、特別補習を受けなくてはならないから。原因はもちろん、期末試験で赤点を採ったから。
桐香が通っている学校は曲がりなりにも進学校なので、成績の振るわない生徒へのペナルティは決して軽いものとは言えない。国語、数学、英語の三科目で赤点(平均点の半分以下)を採った桐香は、夏休みが始まってからすぐに補習があり、今日で九日目。一科目の赤点につき、三日の補習を受けなければならないので、桐香の場合は今日が最終日。今日行けば補習から解放されるので、本来の桐香だったら足取りは軽いはずなのだが、今はスキップして登校できるほど晴れやかな気分ではなかった。足取りも重いまま、桐香は進むべき道を歩き学校を目指した。
補習は一日六時間みっちり行い、真面目に受けない者は今後の単位に影響すると補習の最初に教師から脅しをかけられているので、桐香は仕方なくノートに板書を書き写していく。しかし真夏の教室はサウナのように蒸し暑いため、補習を受ける生徒達の体力を徐々に奪い続ける。夏季休暇で光熱費削減のためか、はたまた成績の振るわない者への罰ゲームなのか、教室内ではクーラーを使用する事は許されていない。補習が始まると、教師達は顔から汗を流しながら教壇に立つ。一方で生徒達は、蒸し風呂になりつつある教室内で深いため息を吐きながら教師の話を聞いていた。
(帰りたい……)
補習の最中、心の中でぼやいた桐香は書写をする手を止め、窓の外の景色を眺める。遠くに見える水平線から立ち昇る入道雲が、朝よりも大きくなってきている。綿菓子のような雲をボーッと見つめていると、水平線の方からゴロゴロと小さく雷の音が鳴ったのが聞こえた。
雷というものは桐香の日常を変えたあれを連想してしてしまうため、窓の外を見つめるのをやめ、再び書き写しに専念する事にした。
六限目が終了し、担当の教師が教室を出ていく。
「終わったー」
九日間に渡る補習が今日で終了したため、桐香は緊張の糸が途切れてやがて机に突っ伏すのだった。教室にいた生徒達は、愚痴をこぼし合いながら帰宅しだしたので、しばらくして桐香も教材を鞄に詰め込み、帰る準備をする。
昇降口で靴を履き替え、校門を潜り抜けた桐香は、丘の上の例の時計塔に行く事を決心する。自身に奇妙な出来事が起こり始めて以来、あまり足を運ぶ事が無かったのだが、今日は自分へのご褒美とガス抜きを兼ねて、凪市の優美な景色を拝む事に決めた。
市街地のタイルの上を歩く桐香に、八月の容赦ない太陽光が照りつける。街路樹にとまっているセミたちの鳴き声も、暑さに対して愚痴をこぼしているようにも聞こえた。
「あづい……そしてウゼー」
暑さに耐えかねた桐香はコンビニに立ち寄り、アイスキャンディーと冷たいお茶を購入する。冷たいアイスを口に頬張って、少しだけ上機嫌になった桐香。そのまま海沿いの国道へと向かう。
国道は市街地以上に太陽の照り返しが強く、アスファルトからの熱で遠くが霞んで見える。
歩いている途中、道端に暑さで干からびたカエルの死がいが目に留まった。桐香は顔を歪めながら、それを大きく跨いで回避したのだった。
やがて丘の上への道の入り口にたどり着き、桐香はその坂道を登り始める。
丘への坂道の中ほどにある桐香の行きつけのパン屋、ロックチャイムでお気に入りのビーフカレーパンを購入すると、それが入ったビニール袋を右手で下げて坂道を歩き続ける。クネクネとした道を歩いていくと、左側にはコンクリートの崖が出現し、右側には転落防止のガードレールが設置されていた。ガードレールの先には、やがて海が見え始める。そんな急な勾配の坂道を、桐香は頼りない脚力でどんどん登って行った。
「ついたー」
丘の上に到着した桐香は、展望台の手すりの前に立って大きく伸びをする。
この丘から見える景色というのは、いくつもの顔を持つ大海原だけでなく、反対側から眺望できる凪市の街並みも桐香にとっては美しいものだった。
崖の下に見えるのは、アーケードで張り巡らされた商店街に、様々な色の屋根の家がジグソーパズルのように敷き詰められて並ぶ住宅街。そしてその先にある少し小高くなった丘にはみかん農園が点在している。十月になると農園は一面温州みかんで彩られ、絶妙な酸味を持つ果実は全国へ出荷される。それと同時に、県内外から多くの観光客がみかん狩りで訪れるのだ。
桐香はビニール袋からカレーパンを取り出す。そして転落防止用の柵に寄りかかり、丘の上から街を一望しながら一口かじる。中身が隅々まで入っているので、口に入れた瞬間頬が緩む。海を見るのが飽きたなら、のどかな田舎町を見渡す事もできる。お気に入りのカレーパンを食べながら、気分によって見たい景色をチョイスできる。自分にとってやはりここは最高の場所なのだと改めて思った。
桐香は好物を口にしながらしばらくの間、いつの間にか曇り空に覆われた街並みをボーッと眺めていた。
雲の中で雷鳴が轟いたと思ったら、雨粒がポタポタと展望台のコンクリートの上に落ちてくる。
「えっ? やば!」
桐香が空を見上げて目をしばたかせていると、やがて雨粒の量は増大し、辺りのコンクリートを黒く染め上げ始めた。
「うわ……持ってくるべきだった……」
傘を持ってこなかった事を深く後悔しながら、桐香は踵を返して時計塔に向かってダッシュをする。時計塔の入り口は鎖で閉鎖されているが、小柄な桐香が入る隙間ならあった。
鎖を潜って塔の中に入った桐香は、外の灰色の景色を眺めながらフーッと息を吐く。朝、天気予報を確認して降りそうな日は、必ず傘を持っていくようにと純から何度も釘を刺されていたのに、結局自分はその教訓を生かせていない。自身の迂闊さに嫌気がさした桐香は、「うーん」と唸りながら腕を組んで雨空を見上げる。
とりあえずしばしの間、この塔の中で雨宿りをする事に決めた。
しばらく待っていても一向に雨が上がらないため、桐香の困惑の表情が次第に色濃くなっていく。
(参った……)
このままだと、最悪ずぶ濡れで帰宅する事も選択肢に入れた方がいいと思ったその時、天井の方から「すー、すー」と呼吸をするような音が聞こえてきた。
「誰かいる……」
足音を殺しながら木製の板で造られた階段を登ると、白いシャツを着た男性がベニヤ板の上で仰向けになって眠っていた。
「あっ!」
男性の寝顔を見た瞬間、桐香は驚嘆の表情を顕わにする。男の髪は白、顔から推定するに年齢は恐らく五十代。そして桐香にはこの顔は見覚えがあった。
一か月前、この時計塔の丘のふもとで紫色の雷に打たれた時、言葉を投げかけてくれたあの男性の顔だった。
「どういう事? この人、ここに住んでんの?」
桐香は男性が寝ている近くまで歩み寄ると、しゃがんで寝顔を覗き込む。硬いベニヤ板の上なのによく眠れるなと思いながら、男性の顔をしばらく見つめていた。
ふと顔から腕に視線を移してみると、彼の左腕の先は存在していない事に気づいた。半袖のシャツから出ている左手は、手首の所で綺麗に切断されており、断面は包帯でグルグル巻きにされていた。この間出会った時は、雷に打たれたショックで彼の腕など気にしている暇はなかったので気が付かなかった。
(事故か何かで無くなっちゃったのかな……)
首を傾げながら左手の無い男性を見つめていた桐香は、彼に謝意の言葉を述べていなかった事を思い出し、男性を起こそうと右手で肩を揺さぶろうとする。しかし桐香の右手は空しく男性の肩を貫通し、そのままベニヤ板の床に接触する。
「ウソ……触れない……」
男性の肩を貫いた時、奇妙な感覚を覚えた桐香は、咄嗟に右手を引っ込める。雷に打たれた時に宙を飛んで行ったから、もしやと思ったけれどこれで確信した。彼は幽霊なのだ。
お礼すら言っていないので、見かけておいて帰るのもどうかと思った桐香は、男性が起きるのを待つ事にした。
二階の窓の外、一向に止まない雨を眺めていると、床で眠っていた男性がもぞもぞと寝返りをうつ。やがてうーんと唸り声をあげたと思ったら、霊体となった体をゆっくりと起き上がらせた。階段で腰かけている桐香には目もくれず、男性は窓の外の雨空をあぐらをかいて眺めている。
「クソ……まただよ」
男性は右手でお腹を押さえながらため息を吐いたので、その光景が自分に似ていると思い、桐香の顔から少し笑みがこぼれる。気づきそうにないので、桐香はこちらから声をかける事にした。
「やっと……起きましたね」
桐香の声に反応をした男性は、おもむろに声のした方を振り向く。それから声の主をしばらく見つめていたが、桐香の顔を思い出した男性は、両目を見開き瞬きを激しく繰り返していた。
桐香の目には心なしか、男性の顔が冷や汗で微かに光沢を放っているようにも見えた。
「幽霊でも、お腹を下したりするんですね?」
桐香の発言に、男性は気まずそうに彼女から視線を逸らした。