17.アイミスユー
夢の中に迷い込んだ桐香は、三つ並んだ柱時計の内、一番右の時計に真っ先に視線が行く。いつの間にか零を指しており、これで三つの柱時計のカウントダウンが終了した事が分かった。歯車の音が消滅して静寂の訪れた空間の中に佇む桐香は、両手両足の指一つ動かすこともできず、眼球だけを動かして三つの柱時計を左から順番に見つめていた。
夢を見始めてどれくらいの時間が経過したのかは分からないが、突然踏みしめている足元が揺れ動く。視線を下に持っていくと、今まで暗くて正体が分からなかった地面が砂の渦を巻いている。砂は部屋の中心に向かってどんどん吸い込まれており、それに従うかのように桐香の体も少しずつ滑り落ちていく。その様は、まるでアリジゴクのターゲットにされたか弱き蟻んこのよう。
桐香の体が部屋の中心まで滑り落ちると、そのまま砂の中へずぶずぶと沈んでいく。
「やだ、苦しい……助けて……」
呼吸もままならなくなったこの状況で感触を味わっている暇などなかったが、砂はきめ細かくサラサラとした触り心地であるという事は分かった。体が完全に砂に埋もれ、そのまま細いパイプの中を通過すると思ったら、突然開けた空間に放り出される。そこがどこなのか確認する暇もなく、着地した時の衝撃で夢から目を覚ました。
★
夢から目覚めた桐香は、いつものようにベッドの上で上体を起こして窓の外をボーッと眺める。昨日とは打って変わって窓からは青空が覗いていた。小鳥のさえずりは聞こえない代わりに、遠くでローカル線の列車の走る音が微かに聞こえてくる。
ベッドに腰かけた桐香は右手で後頭部を掻きむしり、昨日の出来事を振り返ってみる。
スターポートの観覧車で弘貴と二人きりになった桐香は、初めて今自身に起こっている事を信じてもらえるようになる。そして彼に対して友達以上の関係を築きたいと心に思うようになる。
しかし心の内を明かそうとした瞬間、弘貴は煙のようにフッと消え、存在をなかった事にされてしまった。思いを伝えようとしていた相手すら、神様のいたずらによって世界から消されてしまったのだ。
あれから観覧車を降りた桐香は、失意に満ちた中、バスに乗って自宅に戻ってきた。そしてその後見たのがあの夢。今まで深夜に起きていた夢の中の時計が零になるという現象が、どうやら今回は夕刻、丁度桐香と弘貴が抱き合っている時に起こったらしい。
この現象が神様によるものなのだとしたら、なんて気まぐれな神なのだろう……
神の気まぐれを心底憎らしく思いながら部屋の中を見渡してみると、勉強机の上に置かれた二つの編み人形が目に留まった。ベッドから立ち上がった桐香は、懐中時計と桐香本人を象った編み人形を、ひとつずつ両手の掌に乗せてみる。生まれて初めて愛しいという感情を抱いた幼馴染から貰った贈り物。しばらく手の上に乗せていると、微かな温もりが伝わってくる。その温もりが贈り主に会いたいという感情からくるものだと分かった桐香は、急に目頭が熱くなり目元に涙が浮かぶ。
涙があふれる寸前に、壁に取り付けられた時計を見る。
「行かなきゃ……」
溢れそうな涙を右腕で拭った桐香は学校へ行く準備を始める事にした。
通学用の鞄の取っ手に、昨日弘貴から貰った二つの編み人形を取り付ける。髪型を整えた後、簡単な化粧を施す。寛子から食らった強烈な張り手の跡も、今更無理して隠す必要性も感じられなかった。その後、朝食は口にせずに制服に着替えて家を出る。
学校に向かう桐香の足取りは決して軽いというわけではなく、片足を上げる度に膝全体にまで負荷がかかっているのが分かる。
海沿いの国道を歩いていると、やがて賑わいだしてきた市街地に差し掛かる。
以前だったら純と共に家を出て、理沙と合流をして、後ろからやってきた弘貴といがみ合うという日常がそこにはあった。しかし今となってはそれは全て過去の記憶であり、実現不可能となった事が嫌でも思い知らされる。桐香はそんな真実を認めたくないがために、首を左右に振って否定をする。そして商店街のタイルを力強く蹴ると、学校へ向かう足を急がせた。
一学期の期末試験が明日に迫った学校では、授業中、教師達が試験に出る範囲をクドクドと解説している。特に学級担任は、赤点を採ったら夏休み中に講習を受ける事を口を酸っぱくして言っていた。
普段愚痴ばかり漏らしている生徒達も、試験が差し迫った今は流石に参考書の問題に真剣に取り組んでいた。桐香も授業中、問題集を回答を見ながら挑もうとするが、ペンを動かす右手に力が入らず、ほとんどの時間は窓の外を眺めているだけだった。
ダメもとでA組に行き名簿を確認するも、逢坂弘貴の名前も月尾理沙の名前もあるはずもなく、生徒も教師も彼の事なんて存在しなかったかのように一日を過ごしていく。
休み時間中に立ち寄ったトイレの個室で桐香がくつろいでいると、後から入ってきた女子数名が、桐香の事を話しながらクスクスと笑っている。おそらく彼女達も寛子から吹き込まれたのだろう。相変わらず七光りと宣っていた。
午後のホームルームが終わると、多くの生徒達が談笑をしながら試験勉強を始める中、桐香はすぐに教室を後にする。そして昇降口でローファーに履き替えて校門をくぐる。
そのまま桐香は登校時に歩いてきた道とは反対方向に歩き出す。二十分ほど歩いた桐香は、アーケード街の途中にある呉服屋の前で足を止めた。桐香は鞄に取り付けられた編み人形を少しだけ力を込めて握りしめる。
「逢坂君……」
その呉服屋は木造の日本家屋で、桐香が生まれるはるか昔から営業している歴史ある店舗である。入り口の上部には「逢坂」とでかでかと書かれた看板が掲げられている。
この呉服屋は逢坂弘貴の実家であり、桐香は中学生の頃からこの店を知っている。出身中学が弘貴と違う桐香がなぜこの店を知っているのかというと、桐香が偶然この店の前を通りかかった時、店先に並べられていた編み人形が目に入ったからだ。様々な動物や道具を象った可愛らしいデザインに虜になり、桐香は八個も衝動買いしてしまった。
その時店内に居た弘貴に初めて出会った。店の手伝いをする傍ら、彼は編み人形を作って売り出すというアルバイトをしていたのだ。反物を取り扱う店に生まれた彼ならではの技術といえるだろう。
それから桐香は時折この呉服屋に足を運ぶようになっていた。主に弘貴目当てではなく編み人形目当てで……
しかし、今ではこの店に来た目的が変化している。もしかしたら、弘貴に会えるかもしれない――そんな淡い期待を抱きながら、桐香は玄関の引き戸の取っ手に手をかけて、ゆっくりと開く。
店内では若白髪の女性がレジカウンターの向こうで、伝票らしきものに記入する作業を行っていた。玄関の引き戸が開く音に気付くと女性は顔を上げ、桐香の方を見る。
「いらっしゃいませ――あらぁ、桐香ちゃん! お久しぶりじゃない!」
「こんにちはおばさん」
女性は店に来た客が桐香だと分かると、久々に会って嬉しいのか表情に笑顔がこぼれる。この女性が弘貴の母親だ。
店内に足を踏み入れた桐香は、周囲をキョロキョロと見渡してみる。衣文かけにはカラフルな反物が掛けられ、四季折々の花々が描かれた着物がマネキンに着せられている。桐香は和服に関する知識はからっきしだが、こうやって間近で本物を目にすると思わず見入ってしまう。綺麗なものにはこういった力が備わっているという事が伝わってくる。
店の奥では、弘貴の父親が椅子に座って反物の手直しをしている。
「あのね、おばさん……」
桐香は単刀直入に話を切り出すつもりで、編み人形のホルダーを外して手に取る。
「こんな編み人形、見た事あるでしょ? ほら、最近までここの店先で売ってたよね?」
掌の上に乗った編み人形を見た母親は、目を丸くして桐香の顔を見つめる。
「あら、可愛いわねえ。誰かから貰ったの?」
「弘貴君から貰ったんです。おばさん、分かるでしょ?」
桐香が真剣な面持ちで尋ねると、母親は質問の意味が分からないかのように首を傾げる。
「弘貴って……誰かしら?」
「ウソ……弘貴君だよ? おばさんの子供だよ?」
「えっ? わたしらに子供はいないけど? 編み人形だって、ウチで販売した事なんて一度も……」
あたかも当たり前の如く答えた母親は、店の奥で作業をしている父親にも目配せをした。視線を感じ取った父親も、首を縦に振って反応をする。
母親からの返答に心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた桐香は、表情を曇らせる。
「本当に分からない? 中学時代から私と知り合いで、編み人形作りのバイトをして、テニスでインターハイにも出て、女子からも人気がある子!」
桐香は母親に向かって弘貴の事を思い出させようと説得をする。しかし、必死になればなるほど、母親は戸惑いの表情を色濃くしていくのみだった。いくら思い出させようとしても空回りしてしまう事に、桐香の心の内から悔しさが滲み出てくる。
「無駄にルックスが良くて、テニスの腕だってイラつくくらいに上手くて、試合をする度に女子からキャーキャー持てはやされて、試合中なのに手を振ってアピールしてきて、そんな姿がずっと気に食わなくて――」
説得をしている桐香の声の勢いが少しずつ弱まり、目元からまた涙が溢れそうになる。最近妙に涙もろくなったと実感しつつも、ここで泣くわけにはいかなかった。
「だけど本当は、いつも私を気にかけてくれて、今起こっている事にいち早く気づいてくれた人……」
桐香が弘貴の事を伝えても、両親は困惑するばかりだった。ここで彼らを責め立ててはいけないと察した桐香は、熱くなった目元を右手で拭う。そして泣きたい気持ちを押し殺しながら、弘貴の母親に向かって笑顔を見せる。
「ごめん。居なくなった人の事語るの、変だったよね……」
「桐香ちゃん?」
母親が困惑の表情を更に深刻にさせて桐香に尋ねた。それに対して桐香は首を横に振り、「気にしないで」と言葉を放つ。
「ちょっと尋ねたい事があっただけ。私の勘違いだったみたい……」
「えっ? そうなの?」
母親が尋ねてきたので、桐香は何のためらいもなく首を縦に振る。母親が不安の表情を和らげたのを確認した桐香は、軽く頭を下げて玄関の扉の取っ手に手をかける。店の外に出ると、母親に向かって手を振りながら扉を閉めて呉服屋を後にした。
桐香の目の前から三人の人間が消えた。そんな事実を受け入れたくないがために、桐香はアーケード街を走る。どこに向かっているのか自分でも分からず、ローファーが地面を蹴っている音が、走る桐香の耳に虚しく入ってくる。
しかし桐香の体力でそんな長時間走れるはずもなく、十分もしないうちに呼吸が激しくなり、膝が悲鳴を上げたので、やがて商店街のタイルの上にうずくまってしまった。
息切れをする桐香の右手には、二つの編み人形がしっかりと握られている。それがしゃがんだ桐香の視界に入る。
すると、瞳の奥に押し込めていた涙があふれ出てくる。それが地面に滴り落ち、タイルを濡らす。人形を握る手の震えが、体全体にまで伝わってくる。
夕刻で多くの買い物客が訪れる、凪市最大規模の商店街。桐香はその街路の傍らで、人目を憚るようにひっそりと嗚咽を漏らして泣いた。