1.紫色の雷と時計の夢
朝のニュースでやっていた天気予報の通り、街は一日中止むことのない雨……
梅雨時の空にどんよりと立ち込める雨雲と、激しい水しぶきが乱れ散る海。この二つが重なり合い、水平線の彼方までグレー一色に染め上げている。
ここは静岡県の伊豆半島に位置する海沿いの街、凪市。人口約七万人の地方都市で、昭和三十年に当時の凪町と、周辺の市町村が合併して誕生した歴史のある街だ。
特に漁業が盛んで、凪市には四つの漁港を有している。
また、郊外に点在する段々畑ではみかんの栽培も行っており、農業も本格的に取り組んでいる。
代表的な名産品は、そのみかんから造ったゼリーと、沖合で捕れた海老を加工して造った塩せんべい。
ビーチやアミューズメントパーク、水族館などのレジャー施設も充実しており、五月の連休や夏休みには、毎年他県からの観光客が押し寄せてくるのである。
そんな凪市の街中を、傘もささずに駆け抜ける少女がいた。
「やばいやばいやばい!」
市街地の濡れたアスファルトの上を走り、学校から帰るべき自宅を目指すこの少女の名は藤森桐香。気休めにと、傘代わりに通学用の鞄を頭上に掲げるものの、最早それは雨を防ぐ機能を果たしておらず、信号待ちをしている間にも彼女の制服もローファーもびしょ濡れになっていく。
「天気予報、大事……ホンっと迂闊だな、私」
桐香が愚痴をこぼした瞬間信号が青になったので、再び通学路を走って自宅を目指す。
やがて市街地を通り抜け、海沿いの国道にやってきた。この国道をまっすぐ行った先の住宅街に、桐香の自宅がある。
降りしきる雨の中、桐香は足を緩めることなく国道の歩道を走る。
「そういえば今日の目覚まし占い、乙女座のラッキーアイテム傘だったじゃん! 私の馬鹿っ!」
傘を家から持って行かなかった自分の浅はかさを嘆いていると、国道の一キロくらい先の上空で、紫がかった色の稲光が走ったのが分かった。本来稲光というものは、あんな色はしていない。
「何あれ?」
今まで不機嫌な顔をしていた桐香が、光の走った辺りを目を開いて見る。
ここから一キロ先といえば、丁度海を見渡せる丘への入り口辺りだろう。
「何だか嫌な感じ……気味悪いわ」
再び眉間に皺をよせた桐香は、走る速度を強めて国道を突っ切ろうとする。
観光地として全国にも名を馳せているこの凪市には裏の顔があった。
これはほとんどこの街に住む人間しか知らない事なのだが、ここ数年で怪奇現象というものが多発している。合併前から起こっているという噂も随所で流れ、今や凪市民の話題の要となりつつある。
例えば……幽霊の潜む廃墟、時間が逆戻りする森、街中のどこかにある人形が動き出す夜、一年間腐敗しないマグロの釣れる沖合、突然歌声が聞こえてきて訪れた者を催眠術にかける海岸、等……
単なる都市伝説でしかないものから、実際に体験者が現れるものまで存在し、語ろうものなら枚挙にいとまがない。
中には信憑性が著しく低かったり、あるいは市民がメディアからの取材を頑なに拒むためなのか、これらの奇妙な出来事の数々が街の外に流出したケースは、少なくとも桐香は一度として耳にした事はない。
この紫色の落雷も、この街の怪奇現象なのかな――なんて心の中でぼやきながら、桐香は整備された歩道を走り続ける。が、幼いころからスポーツをろくにやってこなかった桐香にとって、学校からノンストップで走り続けられるわけもなく、丘の上に続く道の前で立ち止まってしまう。
「はぁ……キツイ……」
鞄を傘代わりにするのをやめ、顔を俯かせて視線をアスファルトに移す。無理な運動をしたせいで息は切れ切れ、制服どころか栗色のショートヘアーまで濡れ始める。顔から流れ出た汗が雨と一体化するのを、肌を通して感じる事ができる。
もういい、今更走って帰ったってどっちにしろずぶ濡れだ――そう悟った桐香は呼吸が整うのを待つために、ふと右側に見える太平洋を眺める。
空模様が穏やかでないなら海も大荒れで、大きな波の塊同士がいたるところでぶつかり合っては砕けるのを繰り返している。その激しい波の激突が、桐香の耳にまで入り込んでくる。しかしこの街で生まれ育った桐香は、毎日のように海をその目に焼き付けてきた。荒れ狂う海であろうと、別段驚くような光景でもない。
海を見続けていた桐香は、今度は視線を左の丘の上に移す。その上に建っているのは、建設されてもう何十年も経っていると思われる、古びた時計塔……
(時計塔……雨にうたれて何だかかわいそう)
桐香が時計搭を見つめて十秒が経過したその時だった。
空が突然紫色に点滅したと思った次の瞬間、桐香の視界が濃い紫色の光に包まれる。この色はむしろ藍色に近い。
今朝の朝食で食パンに塗った、ブルーベリージャムに似た色だと思った一秒後、桐香の体から力がガクッと抜け出し、そのまま濡れたアスファルトにうつ伏せになって倒れこむ。それから間もなくして頭上からの轟音が、桐香の耳に流れ込んでくる。
自分の身に何が起こったのか分からない桐香だったが、先程見た紫色の稲光を思い出して、合点がいった。
(ああ、私……雷に打たれたんだ)
身動きがとれず、呼吸もままならないこの状況下では、現状の把握をする事が精一杯だった。
(傘……持っていれば、雷に打たれる事なんてなかった。あんなに急いで走る必要なんてなかったから。傘があれば学校から家までゆっくり歩くから、この落雷に鉢合わせする事なんてなかった……)
状況の把握ができた後、頭に流れ込んでくるのは後悔の言葉……
(こんな間抜けな話ってある? 笑い話にもなんない……)
落ち度のある自分に対しての自責の念……
(私……死ぬのかな……)
思考の最後にたどり着く、死への覚悟という手段。
「大丈夫か?」
桐香の耳に男性の声が入ってきたと思った瞬間、首元に温もりを感じた。そしてその後、手足と首が動かせる事に気がつく。
両手で地面を掴んで頭を浮かせると、うつ伏せになって呼吸ができていなかったせいか、自分の呼吸が乱れているのが分かった。
そのまま顔を正面に向けると、桐香の目の前には壮年の男性が立っていた。服装は白のTシャツに黒いズボンで、髪の色は全体的に白に染まっている。顔立ちはそこそこ整っており、桐香からはどことなく懐かしいような雰囲気を感じ取る事ができた。
「あ……あの……」
この男性が助けてくれたのか――だったらお礼を言わなければ……
桐香がそう考えた矢先……
「もう打たれるなよ」
壮年の男性はそれだけを口にして踵を返す。そして軽くジャンプしたと思ったら、男性の体はふわりと浮遊する。
「えっ? えっ……?」
目の前で起こっている出来事に、桐香は思わず言葉を紡ぐ事もできずに腰を抜かす。
男性は体を浮かせたまま飛び上がり、時計塔のある丘の上へと消えていった。
「嘘でしょ?」
男性が飛んで行った丘を見上げながら、桐香は力なく呟く。まさかこれだけの短い時間で不思議な現象を二回も体験するなんて思ってもいなかったので、しばらく濡れたアスファルトから立ち上がる事ができなかった。
「あれ? お姉ちゃん?」
桐香が歩いてきた道の方から声がしたので、視線を丘の上から移す。視線を移した先には、右手に広げた傘を、左手に閉じた傘を携えた少年が立っていた。髪型は黒のマッシュボブ。制服のネクタイはしっかりと締めており、少し幼いような顔立ちを持つ大人しそうな少年。
「じゅ、純!」
「ちょ……ちょっと、ずぶ濡れじゃん!」
焦りの表情を浮かべながら桐香に近寄った少年の名は、藤森純。桐香の一つ下の弟である。
純は腰が抜けて立てない桐香の左手を掴んで立たせてあげる。
「ごめん純、家から傘持ってくるの忘れて急いで走ってたらさ――滑って転んじゃって……」
雷に打たれたという事は口にはできなかった。自分のたった一人の弟を心配させたくなかったから。
「もう……連絡してくれればお姉ちゃんの教室まで傘渡しに行ったのに」
「ひょっとして左手に持ってる傘って……」
「お姉ちゃん、普段天気予報見るような人じゃないでしょ? だから傘、絶対に持っていかないなって思って、予備を持って行ったんだよ」
目の前のずぶ濡れになった姉を見かねた純は、左手に携えた傘を差し出す。
「えへへ……見たには見たんだけどな……」
苦笑しながら傘を受け取る桐香を尻目に、純は呆れたようなため息を吐く。
「とにかく、家に帰ったらワイシャツはすぐに洗濯してね。スカートも部屋干しすること、いいね?」
「はーい」
「サボって後回しにして結局乾かなくって、明日着ていく制服がなくて困るのはお姉ちゃんなんだからね?」
「分かってまーす」
釘を刺されてしぶしぶ返事をした桐香は、純から借りた傘をさして、弟と横並びでひたすら帰路を歩く。
桐香と純の姉弟は、この街の一戸建ての二階建ての住宅で二人で暮らしている。
桐香の父親の幹也は、東京に本社を置く時計メーカー『藤森クロック』の三代目の代表取締役社長であり、現在は妻の美月と共に東京のマンションで暮らしている。美月も一年ほど前に専務取締役という立場を手に入れ、夫婦で会社の根幹を担っている。
以前は両親と共にこの凪市で四人暮らしをしており、藤森クロックの支社もこの街にあった。しかし二年前、かつての社長であった藤森茂成が東京本社の社長室で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった(桐香が後から聞いた話では、くも膜下出血だったらしい)為、幹也は三代目の社長となり、それから程なくして美月も専務に昇進している。
しかしこの凪市にも不況の波が襲いかかり、やがて藤森クロックの支社は経営難に陥り、茂成が他界して間もなくの頃、支社は倒産せざるを得なくなった。
必然的に桐香の両親は東京本社への転勤を余儀なくされる。本来は家族四人で東京に引っ越す予定だったのだが、この街で生まれ育った桐香にとって首を縦に振る選択肢などなく、この凪市を出る事を頑なに拒み続けた。
「そんなに東京に行かなくちゃいけないなら、お父さん達だけで行けばいいじゃん! 私と純は誰になんて言われようと、この街を捨てたくない!」
桐香が中学校を卒業するまでの間、引っ越しの話を持ち出されれば、彼女の返事は基本的にこんな感じだった。
両親はその気迫に力負けしたのか、ようやく桐香と純がこの街に留まる事が許可されて、高校に通う事もできるようになった。桐香は大切な故郷や親友を手放す必要がなくなったと知った時に、純と共に狂喜乱舞したのは言うまでもない。
★
空が暗くなるにつれて雨脚は弱まり、やがて熱気が微かな風に乗って窓から流れ込んでくる夜がやってきた。
自室のベッドの上で、タオルケットを身に巻き付けて仰向けになった桐香は、夕方の通学路での出来事を振り返っていた。
あの紫色の稲光は生まれてから一度も見た事がない。あれもこの街でしか見られない特殊なものなのだろうか?
そしてあの落雷に打たれた直後に現れた、白髪の男性。桐香に声をかけた後に時計塔に舞い上がっていった姿。翼が生えているわけでもなく、風船のように非生物的に浮き上がるその様は、まるで幽霊……
「本当に起こってるんだ……怪奇現象……」
ボーッと天井を眺めていた桐香は、突然小さく呟いた。その言葉には恐怖心よりも好奇心の方が強く含まれていた。
生まれてから十七年間近く凪市で生活してきた桐香は、いつか身のまわりで不思議な出来事が起こって欲しいと思っていた。この街に漂っている不穏な空気さえ、逆に心地よいと感じるようになっていたのだった。
そして今日、あんな感じで奇妙な出来事に遭遇する事ができた。細かい事はどうあれ、桐香の胸の内は探究心で溢れかえっている。
そんな自分の姿を覆い隠すかのように、タオルケットで小さな体を頭ごと包み込む。視界が真っ暗になり、高鳴る胸の鼓動とは裏腹に、睡魔が襲いかかってくる……
★
桐香の目の前には三つの柱時計があった。振り子を持った一見何の変哲もない、大きな柱時計だった。
しかし目を凝らしてみると、時計盤が三つともおかしな事に気づく。針が一本で、数字が最大で六までしかなく、その代わり本来あるはずの十二の位置には数字の零があった。頂点の零から右回りに、六、五、四、三、二、一と数が小さくなっていく。そして右二つの時計の長針は零のところにあり、一番左の時計の長針は六の方向に少しだけずれていた。一番左の時計に近づいて耳をすましてみると、中から歯車がキリキリと動く音が聞こえてくる。どうやらこの時計だけ動いているようだ。
この柱時計のある空間は桐香の周囲だけ明るく照らされて、周囲は暗闇に包まれている。今の桐香にできるのは、この空間をキョロキョロと見渡す事だけだ。
これが紫色の雷に打たれて以来、桐香がこれから三週間、毎日見ることになる柱時計の夢。
そしてこれから桐香に起こりうる出来事も、彼女自身の成長に大きく関わっていく……