人生メトリクス
「どうして叔父さんは悪人になっちゃったんですか?」
真夏の午後3時頃、寂れてはいるがクーラーがよく効いた喫茶店の中で、僕は叔父さんに問いただした。
テーブルを挟んで互いの間にはアイスコーヒーが二つ。
叔父さんは痩せこけた頬をポリポリと掻きつつ、ため息をついた。
「悪人って……そりゃ何を見て言ってんだよ?」
「決まってるじゃないですか、存在価値係数です。-900以下なんて数値、どんな悪事をやらかしたんですか?」
「……やっぱりそこかー」
「そこかって……それ以外に、判断材料なんて無いでしょう?」
そう言って、僕は生気の無い叔父さんの顔に焦点を合わせる。すると、『-988』という数字が読み取れた。
叔父さんは叔父さんで、僕のことをジッと見ている。きっと僕の数値も判明していることだろう。
「そういうお前のEVCは+126か。頑張って生きてるみたいだな」
「ええ、僕は真っ当に善良に生きているという自負があります」
そう、このEVCという数値を上げるために、僕は日々勉学やボランティアに励んでいるのだから。
+126という数値は、同年代の大学生の中ではかなり高めだろう。そのおかげで単位取得や就職にもある程度は目処ついている。
「逆にこの数値がマイナスともなれば、そりゃ真っ当な人間じゃないでしょう。なんせ、神様が決めた価値そのものなんですから」
そう言ってアイスコーヒーを飲んだ僕に、叔父さんは胡乱な目を向けていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
『あなた方の魂の行き先は、この指標によって決められます』
およそ十数年前、僕が物心つくかつかないかの頃にその言葉は全人類に響き渡った。
『善行を積めば数値は上がり、悪行を成せば下がります。この数値を基準にして、死後の裁きが行われるのです』
その声は自分こそが魂の裁定者だと言い、人類の善悪を数値で一括管理すると宣言した。
そして全ての人間に設定され、あらゆる人間が見ることができる数値……すなわち存在価値係数(=Existence Value Coefficient)が現れた。
「こんな風に易々と出張ってくる神など存在しない」
「いや、神は存在するが今回は悪魔が騙っているのだ」
「仮に神だとして、この数値は本当に死後の裁きに使われるのか?」
人々の疑問は尽きなかったが、こんな超常的なことを地球規模で成せる存在であることだけは明らかだった。
「ゴミ拾い程度でも加算されたぞ」
「俺は立ち小便で減算された」
「数百万人に一人の稀血を持った奴が輸血をしたら、大幅に上がったと聞いた」
厳密な正誤のほどは不明だったけど、全人類が行動する度に更新される数値に人々は徐々に慣れていき……次第に活用し始めた。
「あなたのEVCは+85ですか。当社の基準としても悪くないですね」
「ニュースで酷い犯罪が……って、またEVCが-の奴かよ」
「子どもの将来を考えると、小さい頃からEVCを積み重ねておくことが大切なのです」
そんな認識が浸透した結果、現在ではEVCは社会における絶対的な指標として機能している。
風体や肩書きよりも、まずEVCを見るのが常識。
件の神様の存在を信じる信じないに関わらず、今の人間はEVCと無関係ではいられない。
政治、司法、宗教……etc。多くの業界を巻き込んだ混乱はあるけれど、今でも辛うじて世界は運営されている。
ただ一つ、例の声は気になることも言っていたらしいが。
『しかし、死後まで待つ必要がないほどの悪人には、また別の処置を行います』
その意味ははっきりとしていない。悪人にどんな処置が成されたか、誰も観測していないからだ。
ただ、ほとんどの人は無性に嫌な予感がして、EVCを増やすことに躍起になっている。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「叔父さんだって、最後に会った……確か十年くらい前までは、EVCは大幅な+だった筈です」
うっすらと記憶に残る十年前の叔父さんは、精悍な顔をして快活でそのくせどこか大人びた余裕があった、実に真っ当な人生を送っていた。EVCが+だったことも十分納得できる人だった。
それが今では、ボサボサ髪に落ち窪んだ目元、こけた頬に小汚い服装。それに加えてEVCが-まで落ち込むなど、とあまりにも酷い落差だ。
「ですから、もう一度聞きます。どうして叔父さんは悪人に……EVCが-なんて有様になっちゃったんですか?」
「そりゃな、EVCって仕組みにどうしても納得が行かなかったからだ」
「納得も何も、神様がそう定めた制度で――」
「EVCの影響で妻が自殺した」
叔父さんの淡々とした言葉に、僕は返答ができなかった。
そんなことまるで知らなかった。葬式だって出席してないし、風の噂にすら……。
しばらく間が空き、アイスコーヒーの氷が溶けて崩れる音がした頃に、ようやく叔父さんは続きを話し始める。
「妻は……お前の叔母さんは、十年前に自殺した。経緯が経緯だったもんで、お前の両親も語りたがらなかったのかな」
「経緯?」
「近所の子どもがな、ひき逃げされたんだ。妻はそれを助けようとして……応急処置の仕方を間違えた。119番で応答しながらだったんだが、素人の対処だけあってミスをしてな」
「叔母さんが……」
思い返す叔母さんの姿は、存在感こそ薄いものの優しさを押し固めたような人物像だ。
常に影のように誰かに寄り添いながら、ふとした瞬間にスッと手を差し伸べるような人だったように思う。
「そのせいで子どもは死んだ。それ自体は不幸な事故なんだが、問題は妻のEVCが減ったことだ」
叔父さんは氷をガリガリと噛み砕きながら訥々と語る。
「子どもの遺族からは慰謝料請求されるし、見ず知らずの野次馬からも相当叩かれたよ。『EVCが引かれたからには、妻に非があったに違いない』ってな。それを気に病んだ妻は首を括って……」
「…………」
僕は何も言えない。
叔父さんの目を見るのもどこか後ろめたくて、汗をかいたグラスへ目線を移した。
「そもそもさ、基準が曖昧だと思わないか?」
叔父さんの喋りは止まらない。やや早口になりながらも、その口調によどみは無い。
「人を殺したり物を盗んだら『悪行を成した』としてEVCが下がる。そりゃ分かる。でも、それだけじゃないだろう?」
「はい、EVCは前後の状況や背景まで鑑みています」
例えば、家族を殺された者が復讐として犯人を害した場合。
あるいは、飢えに耐えかねてやむを得ずに食料を盗んでしまった時。
EVCの下がり幅は極端に小さくなる。
これは情状酌量の余地があるということ。だからこそ、EVCは神様の意思が介在している数値だと考えられている。
「俺の妻は、間違いなく善意から子どもを助けようとした。ただ、その結果としてEVCが落ち込んだ訳だ」
善行を積めば上がり、悪行を成せば下がる。それがEVCという数値の原則だけど……。
「それ以来、俺は善悪ってもんがよく分からなくなったし、EVCに不信感も持ってる。だから、本質を探ろうとしたんだ」
「本質、ですか?」
「ああ、何が善悪として勘定されるのか、自分の体で調べてみた。とにかく色々なことをやってみたぜ?」
「い、色々って……」
何か……無性に嫌な予感がする。
「この国のお行儀のいい研究機関じゃ制限が多すぎたからな。なるべく治安の悪い外国を回って、殺したり奪ったり救ったり施したり……まあ、本当に色々やった。結果的に悪行が多くなって、EVCはダダ下がりになっちまったが」
そう言って、叔父さんは鼻を鳴らした。そこに後悔のようなものは見受けられない。
「ただまあ、この国に戻ってきて難儀したのは確かだな。EVCが-1000近くともなると、周囲の視線が痛いこと! ……お前はよく俺との再会に応じてくれたな?」
「行方不明になってた叔父さんに、どんな事情があるのか知りたいと思いました。それに、EVCが-の……ええ、悪人であっても気にかけるというのは善行でしょう?」
「結局EVC基準か……。まあいいさ。お前に会ったのは他でもない、俺の研究成果を引き継いで欲しいと思ってな」
叔父さんはそう言って、側に置いてあった鞄の中から紙束とメモリーチップを取り出した。
「条件を調べれば調べるほどな、俺の中でEVCへの不信感が募っていってな。非合法なやり方だが、十年かけたこのデータを見れば胡散臭さは伝わるはず」
喫茶店のテーブルの上に置かれたそれらは、ただ古びているだけでなく妙な存在感がある。
「EVCの上限ってよ、どのくらいだと思う?」
「えっと……現状だと『分からない』だった筈です。+10000以上の人もいますけど、まだ伸び続けているとか」
天井知らずに上がっていくEVC。
その+10000以上の人は、現代の聖人として半端な国の元首よりずっと権威がある。
「ああ、その通り。だが下限は?」
「それは……分かりません、けど」
-800ぐらいの人は稀代の悪人として世界中に知られているけど、僕が見た中で一番EVCが低いのは叔父さんだ。再会して実際に数値を見てびっくりしたよ。
あるいは、-1000を下回るような悪人は、世の中には見つからないようにひっそりと立ち回っているのだろうか。
「その答えがここにある。俺の推測込みだがな」
叔父さんはそう言って、紙とチップを指さした。
気迫の篭った声に引きずられ、僕は叔父さんの顔を再度直視して……あれ、EVCが-999になっている? 確かさっきまでは-988だった筈だ。
「叔父さん、その……EVCが凄い勢いで下がって――」
「……ここまで早いとは思わなかったな。『悪い知識を広めるのも悪い』ってか」
「叔父さん?」
「頼む、どうかこの――」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
僕は今、喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいる。
寂れた店だけどクーラーはよく効いていて、外のうだるような熱気から逃げるのはちょうどいい。
店員さんもEVCが+の人ばかりで安心だ。
「でも、えーっと……何しに来たんだっけ?」
僕は一人でテーブル席に座っている。目の前のあるのはアイスコーヒーとそれを乗せるコースターだけ。
他に客はいないから、こういうスペースの使い方もあるんだろうけど少し寂しさも感じる。
キョロキョロと視線を彷徨わせると、道路を挟んで向かいのファミレスで家族らしき集団が楽しそうにしているのが目に入った。
「ああ、いいなぁ……」
両親以外に親戚が存命していない僕にとって、あんな光景は憧れそのものだ。
「何しに来たか、ド忘れしちゃったな。まあいいか」
僕のやるべきことなんて決まっている。善行を積んでEVCを上げることだ。
昨今だと結婚相談所でもEVCの足切りがあるらしい。
あるいはEVCをもっと増やせば、いずれあんな家庭を築くことができるだろうか。
「なんだかんだで、混乱はあっても今日も世界は平和だ。悪人なんてそう多くない。社会を構成する人々が、根本的には善良ってことなんだろう」
気持ちを新たにして、僕はアイスコーヒーの会計のために席を立った。