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真っ赤な桜とギムレット

作者: ななせP(=七瀬)

n回目の初投稿です。

季節外れの面がありますがどうかご了承ください。

 これはとある編集部に勤める私が経験した、少し不思議で少し寂しいお話である。

 三月。春の木漏れ日や鳥の囀り、木々が風と触れ合う音というものは非常に美しいものだ。山の中というのは体いっぱいに自然を感じられることができる希少な世界で、現代の忙しない社会に生きる我々にとって此処は心のオアシスと言っても過言ではないだろう。まさに私は今、そんな大自然の中を一人、一枚の地図を広げ歩いていた。もう歩き始めてから一時間以上は経ったかと思う。普段あまり運動しないからだろうか、私の足は疲労感でいっぱいであった。こんなことになった発端は一週間前に起こった。

 その日はいつもの通り編集部で視聴者投稿を精査している時であった。私の担当する雑誌は所謂観光雑誌であるのだが、近年その売れ行きは右肩下がりであるのに加え、記事の内容も他雑誌と同じようなものばかりになってしまっていた。上司はそんな状況から脱却しようと、観光に関する視聴者からの情報提供を始めたのだった。私は視聴者から寄せられた写真を一枚一枚機械的に裁いていく。正直なところこんなものにはあまり期待はしていなかった。百枚の中に一枚でも面白いものがあればよい方だと思っていた。と言うのも、ここに寄せられている情報の大半は「○○の家の犬が可愛い」だとか「○○の地域は交通が不便」と言うものばかりで、前者に関して言えば観光名所にはなり得ないし、後者に関しては「そんなものを観光しに載せてどうするのだ」という感想しか湧いてこない。私はまた何の成果も得られず仕舞いだった。

 昼の休憩に入り同期といつもの取るに足りない会話をしている時、私の部署に一通の封筒が届いた。丁寧に書かれた宛名を見るに、新しい情報提供らしい。デスクに戻り封を切り、中身を取り出す。中に入れられていたのは一枚の桜木、それもまだ花が咲くどころか蕾もない桜木の写真だった。ただその桜の様子は人間の腰程の高さしかないもので、私の期待した「都会の中の桜並木」だとか「水面に移る夜桜」というものでは無かった。「はぁぁぁ。」酷く長い溜息が零れ落ちると共に机に突っ伏した。いつものことではあるのだが、こう長く成果が得られていないと精神的ダメージが来る。もう一度写真をみるもやはりそこには虚しい現実しか写っていない。

「ねえ、その写真って何写ってるの?」

同期の一人の『詩織』が二つのマグカップをもってやってきた。彼女は違う部署ではあるが、同期のため入社当時から仕事についてよく話し合っている仲であった。

「桜の木だってさ。まあ今回も例の如く雑誌には載せられないだろうけどさ。」

「ふーん、そうなんだ。コーヒーでも飲む?」

「飲むよ、いつもありがとうね。」

彼女から差し出されたコーヒーを受け取り一口啜る。苦いものが嫌いな私ではあるが、彼女の入れたコーヒーは何故だか美味しく感じる。胸を流れる温かい液体が心地よい。

「それで今日の成果はどんな具合?」

先ほどの封筒を手に彼女は聞いてくる。

「ぼちぼち…って言いたいけど、今日は全然ダメかな。どれも在り来りなネタばかりで載せたところで…って感じ…。そっちはどうなのよ。みんな原稿の締め切り守ってるの?」

彼女の部署は原稿文章を回収して編集する部署であった。これはそういった仕事柄よくあることなのか、彼女はよく「○○さんは締め切りを守ってくれない」だと言うことよく言っていた。どこもみんな大変なのだろう。

「こっち? まあ今月に関して言えば問題なくいきそうだよ。いつも締め切りを守らない人が『筆が乗った!』とかで気合入れて書いてくれたからさ。」

「へえー。珍しいこともあるもんだね。」

どうしたものだろうか。どうやら今上手くいっていないのは私だけらしい。一応この雑誌の御偉いさんも「もうじきこの雑誌は終わりかもね」と言っていたから売れなかったところで私の首は飛ばないだろうけど、なんだかそんな結末は手放しで喜べはしなかった。どうにか足掻きたかった。

「ねえ、これ見た?」

横で封筒を弄っていた彼女が手渡したのは一枚の便箋だった。そこには丁寧な文字のほか手書きの地図が張り付けられていた。

「どうしたの、これ?」

「封筒の内側に張り付いていた。多分地図を張り付けたノリが乾く前に入れたからじゃない? まあそんなのはどうでもよくて、中身読んで見なよ。」

『初めて投稿させて頂きます。実は数年前、私の所有する山に一本の桜が植えられているのに気が付きました。私自身植えた記憶はなく、親族も同様にないとことなので誰かが勝手に植えたものだと思います。本当はそんなもの抜いてしまおうと思っていたのですが、何やらその桜は普通じゃないのです。なぜか真っ赤に咲くのです。同封した写真は十二月に撮ったものでその様子はわかりませんが、実際に赤く染まった桜が咲くのです。地図を貼り付けさせて頂くのでぜひ記事に使ってください。』

私の眼はいつになく煌めいていた。

そんな訳で私はこの山を訪れていた。差出人とは麓で挨拶をし、例の桜木までの地図を受け取った。本当はそこまで案内して欲しかったのだが、差出人は高齢で膝が悪く、山を登ることはできないとのことだった。もし場所が分からなかったらそのまま降りてきてもいいとのことで、その際は後日咲いている写真を送るとのことだった。正直それなら最初から咲いている写真を送って欲しい訳なのたが…。

 木々の根が飛び出した道を進んでいく。春と言うこともあり、名も知らない淡い色の花々があたりには咲き、木々の隙間からは薄く澄んだ水色の空が覗き、そのなかを緩やかで温かい春の風が通りぬけていく。

「ここを抜けたから次はこっちか。それでまっすぐ行ったら目的地ね。」

一人で確認するように呟く。やがて歩いていくとそこだけ空気感の違う開けた場所が現れた。春の陽気に照らされた緑の絨毯に、宙を踊る蝶々、そしてそこには件の桜がひっそりと聳えていた。それは普段の浅紅色ではなく、真っ赤な花弁を付けている。近づくにつれ更にその様相が見えてくる。「真っ赤」といっても、情熱の感じ取れる鮮紅色のような赤ではない、それはまるで何か胸を騒がせる「何か」を想起させるような暗褐色の桜だった。私は目の前の光景にただ息を飲んだ。

「こんなところに何の用かな、お嬢ちゃん。」

背後から掛けられた若めの男性の声にすぐさま振り向く、黒のスーツに赤いネクタイ、鏡のように磨かれた革靴を履いた男が鋭い目つきでそこに立っていた。蛇に睨まれたカエルというのはよく言ったものだ、私は何一つ言葉を発せなかった。男はゆっくりと此方に向かって歩いてくる。

「見た感じこの桜を切りに来たわけでもなさそうだし、もしかして観光とかかな。カメラもあるしね。まあ何でもいいや。とりあえずその辺に座りなよ。」

そう言うと、男は私の横を通り抜け桜木の横へと腰を掛けた。私も促されるように急いでその場に座る。

「あ…あなたは一体誰なんですか…? それにこんなところで一体何を…?」

精一杯の力を出し、震える声で男に尋ねる。こんな山奥にスーツと革靴、それも革靴には泥一つ付いていない。彼は此処に来てからわざわざ着替えたのか、だとしたらそれにどんな意味があるのか、彼が何者だか私には全く見当が付かなった。

「あー、僕? 僕は『柳谷いつき』って言うんだ。まあ『やなぎ』だとか好きに呼ぶといいよ。そう言う君の名は? それになんでここにいるのか知りたいな。」

「私は『三島さえ』です。今日は撮影のためにここに来ました。」

緊張のあまり機械的な反応になってしまった私を見て、彼はそんな様子を見て少し微笑んだ。

「撮影で来たって言ってたけど何かそういう仕事なの? 例えば記者とかさ。」

「そんな所ですけど、撮影がメインというわけではなくて記事を書くのが本当の仕事です。今日はそのネタの審査…、審査というのは実は私の編集部では一般投稿でネタを集めていましてその…」

「あー、大体話はわかったよ。てことはこの桜について知りたいわけだね。いいよ、教えてあげるよ。」

彼の提案は全く予期していないものだった。私は丁度この桜は記事にするのなら、何らかの信憑性のある証言が欲しいと思っていたのだ。それが簡単に手に入るのなら願ってもいな機会であった。この機会に食いつかない理由など私にはなかった。

「是非教えて欲しいです、やなぎさん! それでこの桜にはどんな意味があるんですか!」

「教えるとは言ったけど一つ条件をだしてもいいかな?」

「その条件とは…?」

どんな条件が出るのだろう、私は思考を巡らせた。「名前を公開しないで欲しい」や「報酬が欲しい」といった条件などなら別に構わないのだが、あまりに度の過ぎた条件となるとこちらも考えなければならなくなる。私は彼の瞳を見つめた。

「条件っていってもそんな難しいものじゃあないんだ。ただ僕側にも色々と準備しなきゃいけないことがあって、だから明日またこの場に来てくれないかな。あ、あと何かお酒を持ってきて欲しいんだ。個人的には日本酒が好きだからそれが良いけど、缶ビールでもワインでも何でも良い。明日来るときにお酒をもってきてくれないかな?」

「条件ってそれだけですか?」

「そうだよ。『明日また来て欲しい』のと『お酒を持ってきて欲しい』の二つだね。それ以外は特に無いよ。」

「私は別にそれで構わないですけど、どうしてお酒を…」

「それは明日のお楽しみってことで。それじゃあ明日の十二時ごろにここで待ってるよ。帰り道に来をつけてね。」

彼はそういうとこちらに手を振っていた。どうやら今日はもう帰るほかないようでであった。

「それじゃあ、また明日十二時にここで会いましょう。」

私はそそくさと立ち上がり振り返らないようにこの場を後にした。今日は何も成果が得られなかったが、明日成果を得られるかもしれない。私はそう考えながら来た道を戻る。そして明日になった全部質問するのだ、彼が何者なのか、あの桜が何であるのかを。疲労の溜まっていたはずの私の足取りは、何故か軽やかであった。

 その日は山の麓のホテルに泊まった。こう言う所のホテルというのは観光客向けに少し高めの料金設定であるのだが、会社の経費で落ちるのだからと何の躊躇いもなかった。私の部屋の窓からは運がいいことに丁度あの山が望めた。こうしてみるとまあまあの高さの山であることが改めて分かる。なんだか手持ち無沙汰になり、この「赤い桜」のきっかけを見つけてくれた同僚の『詩織』に電話することにした。

「もしもし詩織、元気してる?」

『こちとら仕事帰りなのによく電話してきたね。まあ元気だよ、疲れてはいるけど。そっちはどうなのよ。取材とかで山登ってるんでしょ。』

「確かに大変だよ。明日筋肉痛になってると思う。だけど明日が本番なんだよね。」

『本番って?』

「明日、あの桜の謎が分かるんだ。」

左手に持った写真を眺めながら答える。確かに最初は疑心暗鬼であった。「赤い桜」なんて存在しないと思っていたし、あったとしても誰かが上から色を塗ったものであると思っていた。だがその実物を見てハッキリと分かる、あれは偽物ではなかった。今、私の胸は興奮で満ちていた。

『まあ詳しい事情は帰ってから聞くとして、これから電車乗るから切るね。』

「あ、掛けるタイミング悪かったね。それじゃあ切るね。またね。」

『それじゃ、また明日。』

通話時間は一瞬だった。私はどこか物足りなく、ただ携帯電話の明かりを見つめていた。彼女からしたら電話は迷惑だっただろうか、そんなことを悶々と考えてしまう。その時だった携帯電話に一通のメッセージが届いた。

『がんばれ by詩織』

私はニヤニヤしてしまう自分の頬を両手で抑え、うずくまる様にして布団の中へと潜り込んだ。

『がんばる byさえ』


朝起きてまず感じたのは両足の痛みだった。確かに覚悟はしていたのだがあまりの痛さにしばらく起き上がれなかった。窓の外の山は朝日に照らされどこか神秘的に感じる。私はホテルの朝食をとり終わった後、手帳を見ながら今日の予定を確認する。

「今日は十二時にあの場所だから十一時前にここを出るとして…、その前にどこかでお酒買わないと…。取材のことも考えると彼の好きな日本酒の方がやっぱりいいかな。」

いつもの癖で予定を確認するときは一人でに口から声が漏れてしまう。私はホテルの購買コーナーで一升瓶に入ったまあまあの値段の日本酒を買い、登山の荷造りを始めることにした。両足のふくらはぎと太ももにシップを張り、膝にはサポーターを付ける。気休めだろうかも知れないがないよりはましである。バッグには飲み物や軽食を詰めていく。ただ最後に日本酒を詰めたとき、その重さと大きさには後悔した。

 二回目の山登りは辛いものだった。筋肉痛が予想以上の威力を発揮していて、道中何度か休まないと中々登れるものでは無かったのだ。やっとの思いでその桜咲く開けた場所にたどり着いたとき、私の体は汗だくでその足取りは疲労感に支配されていた。

「あ、来たね。待ってたよ、三島さん。」

そこには昨日出会った男が座っていた。彼はやはり昨日と同じスーツ姿でこの山に来ているようだ。ただその瞳は私を見ているというよりはどこか遠くの空をぼんやりと眺めていた。

「ここまで来るのに疲れたでしょ、とりあえずその辺に座りなよ。」

「あ、ありがとうございます。これ言われていたお酒です。そんな高いものでは無いですけど…。それでいきなり本題なのですけど、この桜って一体何なのですか?」

私は彼の横に腰掛け、バッグから一升瓶を取り出しながら尋ねた。あの桜は相も変わらず暗褐色で染まっている。春風には似合わないその色はどうにも私の心を不安にさせる。この内から溢れ出ようとする感情は何なのであろうか。

「そうだなあ。まずどこから話すべきか…。じゃあこの桜がいつからあるかを話そうかな。」

「一応、目撃情報だと数年前からって話らしいですが…。」

「正解、あれはちょうど五年前ぐらいかな。僕の友人がここに植えたんだ。まあ頼んだわけでは無かったけど嬉しくはあったよ。それにしてもやっぱりこの桜は赤すぎだよね。梅だとか薔薇でこの色なら分かるけど、桜でとなるとやっぱり異常だよ。」

そう言う彼ではあったが、彼の細く白く伸びた指先は真っ赤な花弁を愛でるように優しく撫でていた。

「やっぱりこの桜って新種だったりするのですか…?こんな色の桜なんて見たことありませんし…。」

「確かにこれは訳有ではあるけど、この桜自体は本来の浅紅色の筈なんだ。ただ色々と事情があってね…。」

「その事情を教えてもらっても良いですか?」

彼は目を細め少し困った表情をすると桜の根の部分に視線を落とした。

「三島さんは何でこんな色だと思う?」

「栄養とかですか…? 例えば食紅を溶かした水で白い花を育てると赤くなる…、いや、あれはどちらかというとピンクのような色でしたが…。それとも誰かが上から色を塗ったとか…。」

昔、小学生の頃、理科の「師管・道管」の実験でやったことがある。遠い記憶ではあるがそんなことを今でも覚えていた自分がいた。それにしてもやはり気がかりなのはあの色の濃さである。普通あんなにも色付くものなのだろうか。

「残念だけど、そんなに理屈っぽいものじゃあないんだ。でも発想は合ってるよ。」

「合っていると言うとやはり土に秘密があるのですか?」

食いつくように私は聞く。ここでこの秘密を暴けばきっと面白い記事が書ける、その確信があった。

「『桜の木の下には』、って短編小説を知っているかな?」

彼の視線は霞のような雲の浮かぶ空を見上げていた。『桜の木の下には』その言葉を聞いた時、私は自身の胸に秘めた言いようのない不安感と騒めきの正体を知った。「桜の木の下には」その後に続く言葉は有名なものだ。それは想像するにはあまりに簡単で、あまりに残酷な答えだった。現実というものはなんて非情なのだろう。彼は、この世界に対する怒りも憎しみもないような悠々な表情でただ空を見つめている。きっと彼にとってはもう取るに足りないことなのだろうか。彼が何故そんな表情をするのか、私に分かることなど何一つなかった。

「知っていますがそれと何か関係が?」

「なら話は早いね。そう、この桜の木の下にはね、『死体』が埋まってるんだよ…。」

その言葉はあまりに淡白でさっぱりと吐き出され、やがて春の陽気に溶けていった。

少し間沈黙が流れた。山の鳥たちはそんなことなどお構い無しといった様子で、『死体』だなんて言葉が飛んで来たのだ、無理もないだろうことだろう。

「『死体』ですか…?」

「そう、死体。」

「いったい誰の…? それになんで…?」

「僕のだよ。五年前にこの桜が植えられたって昨日言ったけど、実はこれは僕の墓標なんだ。」

「え…。」

何故そこに死体が埋まっているのか、何故そのまま放置しているのか、聞きたいことは山ほどあった。だが『僕の墓標』というその言葉に、頭の中に浮かべたそれらの質問は吹き飛んだ。墓標ということは目の前にいる彼は一体何者なのだろうか。先程とは別のいやな予感が浮かんだ。結論というものは既に頭の中で浮かんでしまっているが、どうにかその真実にたどり着かないために思考が至る所で寄り道を繰り返していた。『死』を迎えた人間が此処にいる、それはつまり『幽霊』と言うものに他ならなかった。

「やなぎさんって『幽霊』なのですか…?」

こんなことを聞いて本当に『幽霊』だったら、私は一体どうすればいいのだろうか。果たして幽霊から走って逃げることが出来るのか。僅かな可能性に期待してこの質問を問いかけたが、今更ながら後悔した。

「三島さんにとってはどっちがいい?」

「個人的にはやなぎさんが幽霊じゃない方が嬉しいですね。」

「やっぱりそう思うよね。」

私は腹を括った。もしかしたら彼が意地悪な質問をしているだけで、本当はお遊びの類の質問かもしれない、私はそう心の中で静かに願った。だが、続けて彼の口から発せられた言葉は私の望むものでは無かった。

「僕、この桜に囚われた『幽霊』なんだ。」

「そうですか…。」

一拍おいてから私は諦めたように答えた。

「あれ、あまり驚かないんだ。いつもならここでみんな逃げていくのに。」

逃げる様子のない私を見て彼は不思議がる。だが私は彼の思っているような立派な人間ではない。逃げられるのなら今すぐにでも逃げたいのだが、体が硬直してしまい逃げることが出来ないだけであった。

「それで『幽霊』の目的は一体何なのですか。私の魂ですか、それとも肉体の器ですか。どっち何ですか!」

この後のことなど分からない、だが何もしないと言う選択肢は私の中では最悪の選択肢であるということは明白であった。私は彼の瞳を鋭くにらみつけた。彼を威嚇することが私にできる最大の抵抗であった。その直後だった。彼は急にうずくまり、似つかわしくない大声で笑い始めた。

「何とか言ったらどうですか!」

予期せぬ笑いは私の眼に異常なほど不気味に映った。いきなり人間が笑い始めたら誰しも恐怖を覚えるだろう。ましてやそれが『幽霊』なのだ。それを超えた恐怖を覚えることはいとも容易いことであった。

 笑い始めてから少し経ち、過呼吸気味な彼は目じりに涙を貯めていた。この時私は気が付いた。この自称『幽霊』は私のことを可笑しいと馬鹿にして笑っているだけで、サイコパスだとか狂気だとかで笑っている訳では無かった。

「ごめんごめん、幽霊になって初めて強気で攻めてくる人だったから、なんか可笑しくってさ。大丈夫だよ、魂も肉体も奪ったりしないよ。」

彼は涙を拭うと先程とは打って変わった如何にもまじめな表情で告げた。

「そろそろ少し前の話をしようか。桜のことも知りたいでしょ?」

そういうと上がった息を整えるため、彼は大きく深呼吸をした。


 二人の男がいた。だが、その両方と世間から褒められた人間ではなかった。表向きにはとある町の事務職として働き、一方裏の顔としてとある組織の鉄砲玉として活動していた。二人は生まれつき組織の家庭で生まれ、組織に入ったのは丁度十八歳を過ぎたころであった。そんなこともあって二人は昔からの幼馴染で、それと同時にまるで兄弟のように育てられた。また、組織の鉄砲玉として活動してからは組織内のみならず他の組織でも『双頭カラス』と言う通り名で呼ばれる有名コンビになっていた。

 ある夜の路地裏バーでコンビはいつものように世間話をしていた。

「お前もう酒飲めるんだけ?」

「まだ。あと三か月で二十歳だからそれまでお預けだね。」

「いつものことだけどやっぱり律儀だな。」

「一応は法律に駄目だって書いてあるしね。まあ組織に入っている時点で法を順守してる訳じゃないけどね…。マスター、いつものジュース。」

こげ茶色のスーツに青いネクタイ、どこか垢抜けない顔立ちの男はいつもの口ぶりでカウンターに声を掛けた。レトロで少し薄暗い照明は二人の間に差し込み、穏やかな空気を照らしだす。

「そう言えば、いつきは何飲んでるの、それ。カクテルに白く濁ってるやつなんてあるっけ?」

「あー、これ? これは『ギムレット』って名前のカクテル。初めて飲んでみてるけど、まあお前の好きそうな味かな。僕はやっぱり日本酒とかの方が好きかも。」

「へぇー、じゃあもう少ししたらお互いの成人祝いとして一緒にそれ飲まない?」

「別に僕はこれ好きじゃないんだけど、まあ考えとくよ。」

仕事終わりにここのバーによることが彼らにとって唯一の楽しみであった。組織に戻れば鉄砲玉として、また命を危険に晒すことをしなくてはいけない。まさにここは彼らにとって心の拠り所であった。

「明日の計画は大丈夫?」

柳谷いつきは尋ねた。

「何言ってるんだよ、いつき。二十歳になって酒飲めるようになるまで死ねないさ。」

 次の日、作戦場所である三階建ての廃墟を監視している時、予報外れの夕立が降り始めた。仕事の日に雨が降ることには一応良い点もあるのだが、柳谷いつきにとっては昔から「雨」と言うものに良い思い出がなかった。経験則から生まれた考え方ではあるが「雨」は必ず誰かに「不幸」を運んでくる、そう信じていた。

「いつき、そろそろ時間だよ。」

「ああ、そう…。」

「どうした、体調悪いの?」

上の空の返事をした彼に、その友人が顔色を窺った。頭の中に浮かぶこの「雨」へのもやもやとした感情が彼の集中力を阻害する。今日は大事な計画であるというのに、身の入らない自分がいることがさらに彼の神経を逆なでる。

「大丈夫。大丈夫だから。作戦通りそっちは裏口から侵入、僕は表から突撃、それ以外はもう周囲を囲むように配置されてるだろうから、僕の合図で突撃開始ね。」

「了解、合図は任せたよ、いつき」

雨の中、無二の親友は走り去っていく。

「ちょっと待って!」

自分でもどうしてそんな言葉を発したかのか分からない。体が反射で反応していた。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。多分大切なことじゃないだろうから、また後で言うよ。」

「ならいいけど。」

そう言うと、雨に降られる親友の背中はどんどん遠くなりやがて建物の角で見えなくなった。

そうだ此処で失敗する訳にいかない。失敗はつまり「双頭カラス」の二つ名、つまりは相方の親友にまで泥を塗ることになる。組織に泥を塗ることはまだ妥協できるが、親友に迷惑を掛けることだけはできなかった。心を決めて手の平野の無線機を握りしめる。

「準備はいい? 『3、2、1』で突撃、外の部隊は逃げた人を捕らえること。

『部隊一、了解。』

『部隊二、了解。』

続けざまに部隊の返事が返ってくる。彼らも組織のために命を懸ける大事な仲間である。誰一人掛けずに任務を遂行すること、それが何よりも大切なことだ。先程までの邪念を振り払い、深呼吸をする。

「3、2、1、突撃!」

柳谷いつきは正面のドアを思いっきりけ破った。腐敗が進んでいたのだろうか、木製のドアは蝶番ごと吹っ飛んだ。扉が地面に叩きつけられる大きな音とともに、正面に拳銃を構える。

「え…?」

柳谷いつきは目も前に広がるその光景に吃驚した。事前情報ではそこには対象の人間たちがいる筈だった。だが今、眼前にはそんな光景ではない。誰一人としてそこにいなかったのだ。次の瞬間、柳谷いつきは激しい閃光と爆音の渦の中に取り込まれた。

 目が覚めると視界が赤く染まっている。耳もまるで水中の中にいるかのように籠った音が響いている。意識はあるが全身に微塵も力が入らない。ただ降り続く雨だけが私の体を冷たく打ち付けていた。


「後々、と言うかこの体になってから知ったんだけど、どうやらあれは敵の罠だったんだよね。敵方の計画ではなるべく敵を始末したかっただろうから、僕一人の被害で済んだのはどちらかと言うとマシだったかな。まあ約束は果たせなくなったけどさ。」

彼の涼しげな表情は、後悔だとか執念だとか言うものを微塵も感じさせなかった。私にはそれがあまりにも不思議だった。普通ならそう言ったとき誰かを恨むなどしても良い筈だ。それこそ悪霊になった人を呪い殺していてもおかしくはない話である。

「失礼な話になってしまいますが、後悔はないんですか…?」

こんなこと聞くのはあまりに無礼ではあるが、聞かずにはいられなかった。彼は「ははっ」と小さく笑うと遠くの山間に視線を向けた。

「後悔…? そんなのはしてないよ。この景色が見えるかい? 春は新緑、夏は沸き立つ空、秋は紅葉、冬は雪景色、全部揃ってるんだよ。それにここには桜もある。だから別に後悔はしていないんだよ。」

「死んでしまって…、それにご友人にはもう会えないのに?」

「死ぬことは仕方のないことなんだよ。人間誰しもいつかは死ぬし、『それがたまたまその日だった』ってだけなんだ。それに僕はこの職業柄、人の命や人生を奪ってきてるんだ。命を落とす覚悟なんてとっくに出来てるし、それこそ敵に殺されるのだったら因果応報で面白いじゃないか。」

「そう言うものなのですか…?」

「そう言うもんだよ。」

私には彼の言っていることが理解できなかった。達観し考え方がその経歴から生まれものなのか、それとも「死」を経験しているからなのかは分からないが、それは私の考えとはあまりにも掛け離れたものであったからである。私にはこの胸の蟠りがどうしても拭えなかった。

「三島さんは親友とかいるの?」

不意にそんな質問が飛んで来た。

「いることにはいますが、上京して二年、地元の友達とはもうあまり連絡取ってないです…。あっ、でも会社には同期の中で一人だけ親友がいます…。『詩織』って言う優しい人です。」

「なら、その子のことは大事にしてあげてね。人間、言わなきゃ伝わらないとことだらけだから。思った時に伝えないときっと後悔するだろうから…。」

最後の方は涙ぐんだ声だった。「後悔はない」と言っていた彼ではあったが何か思う所があったのかもしれない。春空を見上げた彼の瞳は細く、瞳の端から一つの雫が頬を撫でていた。

「そう…大切なことはその場で言わないと…。後々後悔するから…。あいつには申し訳ないことをしたな…。また次出会えた時は…。」

「ごめんなさい、思い出したくないことを思い出させてしまったみたいで…。」

「いや、いいんだよ。今更、一つだけ言い残したことがあるなって思いだしただけなんだ。でも、もう『時間』なんだ。」

「時間って何の時間ですか?」

彼は涙を拭うと、心改めたように懐から漆で塗られた黒い盃を取り出した。そしてそのまま真っ赤な桜に向かい合う。まるでそれは何かの儀式のようで、私はその場から身動きすることが出来なかった。

「三島さん、折角だから一つだけ面白いことを教えるよ。『幽霊』ってのは、成れる期間が決まってるんだよ。どれぐらい成れるかは多分個人差があるだろうけど、僕の場合はもうじきなんだ。期間が過ぎたらどうなるか、それは僕には分からないけど『悪いこと』が起こるって話なんだ。だからもう僕は行かなきゃいけないんだ。」

彼は私が持ってきた一升瓶を開け、杯へと注ぎ始める。その水面には薄っすらとあの桜が写り落ち、杯の端へと寄せては返す水紋が逆さの桜を揺らす。

「ねえ、三島さん。この桜は好き?」

手元の盃に視線を落としたまま彼は寂しげに尋ねた。

「とても好きですよ。ここに一本だけ生えているのって孤高な風情があっていいと思います。」

「そっか…。それは良かった。」

彼はゆっくりと目を閉じ、盃を傾ける。彼の体は柔らかな光にだんだんと包まれ、周囲は光の粒子が溢れた。彼の体が透けて見える。暗褐色の桜も、根元に近い花弁からじわじわとその色が空気に溶けるように移ろい、元の浅紅色へと染まりつつあった。私はその意味を本能的に理解し、ただ目の前で繰り広げられる非現実的で神秘的な光景をただ見守った。

「それじゃあ、またどこかで。」

不意に背後から強い南風が吹いた。その突然の出来事に体が揺らめき、体制を崩しそうになる。気が付いた時、先ほどまで溢れていた周囲の光粒子は消えていた。ただ、朝紅色の桜が私の目の前にただ静かに佇み、盃がその横に無造作に置かれているだけであった。


 取材を終えてから次の日、私はいつも通り出社した。「相変わらず足腰は痛かったが、こんなところで有休を使うわけにはいかない」と言う執念が働き、今こうしてデスクで書類を整理している。結局のところ、あの桜を記事にするのは止めた。上司には「現地の人のデマ」でしたと適当に説明した。上司は些か不満そうな顔をしていたが、「それなら仕方がない」と渋々ながら納得してくれた。

「それで、取材の結果はどうだったの? まあ、周りの話からおおよその見当はつくけどさ。」

昼休み、いつものように詩織が二人分のコーヒーを持って私の元へとやってきた。

「まあここだけの話、取材は無駄じゃなかったんだけど訳あって記事にしたくないんだよね。あの人たちの邪魔をしそうだから…。ここだと誰かに聞かれるから夜電話するよ。」

「へえ、なんか面白いことでもあったの?」

「いや、面白いというか何と言うか、不思議体験と言いますか…」

「夜、楽しみにしてるよ。そろそろ時間だから仕事に戻るね。」

詩織の背中がどんどん遠くなる。『幽霊』の彼は言っていた。「大切なことはその場で言わないと…。後々後悔するから…」その言葉が胸をよぎる。それはまるで電流のように衝動として私の体を動かした。

「ねえ、詩織!」

無意識だった。気が付いた時、私は彼女のことを呼び止めていた。振り向いた彼女の不思議な眼差しがこちらを覗いている。ここで今、はっきりと言わなければいけない。私は小さく、そしてゆっくり深呼吸をした。

「いつも。ありがとね。」


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

この作品はタイトルから先に考え、そこから物語を考えていきました。

それでいてかつ、このタイトル自体もとある曲のパロディでもあります。(ですが、原曲とは全く関係ない物語です。)今回は個人的には思ったように文章が書けた方だと思います。これからもどうかよろしくお願いします。

最後に、この物語の登場人物の男二人がどんな人生を歩んでいたかはご想像にお任せします(投げやり)

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