大空魔艦 後編
第七章
1
自分が今まで存在してきた世界のほとんど対極に位置する、軍規と科学に律せられた現代海軍艦艇の公試に割りこむのは、魔法使いのシリルにとってとてもおもしろいことだった。艦に『指南』する役目は進空式で公式に終了してしまったので、ときたまの祭事や、朝の礼拝を司ったりすることをのぞいたら、いまのシリルは事実上この艦のいそうろうに近い存在だった。が、少なくとも指南役をおおせつかって乗り組んだ以上、この艦が正式の軍艦として認知されるのに必要な儀式である各種公試には、可能なかぎりたちあってそれらを見とどけるつもりだった。
そして、そのような決心で物事にのぞんでいた今日、シリルは期待していた。今日は先日の全力運転についだ公試の山場、砲熕兵器公試の初日、主砲発射が行われることになっていたからである。
大空魔艦の主砲は、四基の連装砲塔におさめられた八門の二十単位砲だった。が、実はこの砲には意外な素性があった。
軍艦の大砲は、けずりだすのに大変な手間と時間がかかるものだが、大空魔艦艤装の時、海軍工廠には退役となって実弾射撃試験の標的となった旧式装甲巡洋艦〈前衛〉号および〈前進〉号の二隻からとりはずした砲が眠っていたのだ。最新型ではなかったが、この〈前衛〉級の主砲は、いま共和国の軍艦が装備している二十単位砲の原型となった物だったので、揚弾装置の一部と射撃指揮装置を現行機の物と換装して使用すれば、性能的には充分な物だった。そして、ちょうどそれは大空魔艦の要求基準に合致していたのである。
こうして、物をむだにする余裕のない《共和国》の海軍工廠で発見されたこの砲は、旧式装甲巡洋艦の主砲から、空飛ぶ軍艦の主砲へと華麗なる転身をとげ、ふたたびお国にご奉公することとなった。だから、見るべき者がみると、大空魔艦は主砲だけが一世代前の技術でできているのがわかった。四本の大きな煙突とならんで、この旧い、いかつい、座りこんだような姿をした砲塔は、この艦の外見上の大きな特徴だった。
この艦の極めて個性的な従軍導法師が、今日発射されるのを大いに楽しみにしている大
空魔艦の主砲は、以上のような経過ののち最新の軍艦に積まれた、皆になじみのふるつわもの古強者だったのである。
2
艦中央前よりに立っているこの立派な構造物の正式名称は『央部測的所』だった。それは三本の構造材に信号マストと探照灯台も取り込んだ、軍艦の艦橋に対して普通の人がいだく、力強い印象そのままの姿ではあった、が、大空魔艦の艦橋は艦首にあったので、乗組員たちはもっぱらここを『ニセ艦橋』と呼んでいた。この『央部測的所』通称『ニセ艦橋』は、大空魔艦が大砲を撃つ時の指揮命令を発する場所である。
しかし、『ニセ』どころか射撃指揮装置の発達はこの央部測的所を重要な存在にしていた。《同君連合》から輸入した、当時《共和国》には十基しか無かった最新式の射撃指揮方位装置がここにはおかれていたし、その他あらゆる精密機械がところせましとその回りをうめつくしていた。時と場合によってはここの指示でもって、この大空魔艦の全てがあやつられることにもなるのだ。
そして、主砲発射五分前になり、この央部測的所につめる全員が緊張の極にあった時、突然この高いところのハッチが開くと、大空魔艦の魔法使いが風をまとって黒髪と黒ローブををひるがえしながら姿を現した。よく登ってきたものだとみなが思った。
「いいですか?」
砲戦指揮用眼鏡から顔をあげた砲術長、リンデ・ガネージ海軍中佐は、あのサラマンダー騒動以来、どうもこの術使いの女が、好きになれなかった。でも、この手の者をむげにあつかうと、船乗りの部下どもが『たたる』とか『縁起でもない』といった、階級と軍律だけではどうしようもない物におびえるからタチが悪い。だから、一瞬おいだそうかとも思ったが、結局彼はシリルにむかって『勝手にしろ』と手振りした。そんな彼の心中を察するほどできてはいなかった彼女は、楽しそうに砲術長のかたわらにやってきて立った。
そのシリルのほほに光った黒い筋がついているのに、砲術長は気づいた。
「砲塔に行ったな」
彼はプロの大砲屋だった。シリルのほほに光っているその黒い筋が、砲身駐退機のオイルなことくらい一目でわかった。シリルは帽子のストラップをあごから外しながら言った。
「はい。あの前部A砲塔へ」
彼はシリルの返答に鼻を鳴らした。そして砲術長は、黒い長い髪をたらし、黒の絹ローブを舞わした姿をしている彼女をみすえると、きつい命令口調で言った。
「貴官より階級が上の共和国軍人として、私は貴官に正式に命令する。もう二度とそのかっこうで、砲塔に入ってはならない」
「なにかお気にさわられ……」
「復唱しろ。共和国神務省神務省軍中尉シリル・エル・ウリセリ。いま、すぐ、この場で、この私にむかって」
さて、どうする? とリンデは思った。すると、少し期待はずれだったが、シリルはリンデにむかって背筋をのばすと、靴のかかとを高らかにあわせて、見事な口調で復唱をした。が、その目はリンデをみていなかったので、彼は彼女が怒っているな、と思った。リンデは砲術指揮眼鏡にかがみこむと、そのままシリルに言った。
「ききたまえ。機械の歯車は時として、人をも食い殺せる。そして砲塔に限らず、昨今の軍艦は機械の塊だ」
シリルは一瞬唖然とした。が、実際自分の身の上にそのような事故が起こっても不思議ではない事実に思いがいたらなかったことが、そしてそのことを他人に指摘されるまで気づかなかった自分自身が、突然はずかしくなった。
そんなシリルに現実をぶつけたリンデは、眼鏡から顔をあげずに、淡々と続けた。
「活動中の砲塔内では、重い砲身に俯角をあたえる歯車の類をはじめ、ありとあらゆる鋼鉄の牙が動いている。さしずめ潤滑油は唾液(ここで彼はふりむきシリルのほほに視線をやったのだが、彼女は気づかなかった)と言ったところか。そしてその牙の前をヒラヒラしているその長い髪、そのローブ、そして鋼板の上ではすべりやすいブーツ……」
そこでリンデはまずいったん、ゆっくりと言葉をおさめた。彼女に思い知るチャンスをあたえた。そして、さいわいなことにこの魔法使いは、バカではなかったらしい。
「気をつけます。これではまるで犬の前にしゃしゃりでた腸詰めのようなものでした。二度といたしません。砲術長」
リンデ自身が言おうとしていたのより気のきいた物言いで、シリルは即答した。いたぶり足りなかったが「撃チ方用意」の号令がかかったので、リンデはシリルにここでの見学を改めて許可した。彼女は、軽いあしどりで、リンデの後ろ脇へと身をひいた。発射の号令をかけなくてはいけないリンデはシリルから関心を抜くと、指揮眼鏡の焦点をいったんくずしてから慎重にあわせなおし、刻一刻つげられる標的との距離に、神経を集中することにした。
リンデが呪文のような言葉と数式を電話に吹きこむと(それが『射撃解析値の伝達』と言う物だと、彼女はあとで教えられた)央部測的所の眼下、大空魔艦前甲板にあるA砲塔が音もなくグルリとまわって、二本の砲身をもたげた。その様子はシリルに、夜、部屋に出た油虫、を思い出させた。そしてシリルがおかしな感想をいだいたその瞬間リンデが
「撃てぇっ!」
と叫ぶと同時に「撃チ方始メ」のラッパが鳴りひびいた。
その時リンデは、脇に立つシリルが両手で耳をふさぎ足をふまえなおしたのがわかった。これは散々おどかされてやってくる新兵のしぐさだ。彼はシリルがやはり素人だと分かって少し満足した。そして満足すると同時に、リンデは修正の号令をかけ続けた。
眼下のA砲塔に並んだ二本の砲が真っ赤な炎を吹き、艦全てのガラスと精密機器の指針をふるわせ、そこから艦体すべてをおおいつくすほどの大きな黒煙がわき起こり、それはたちまち轟々と飛翔している大空魔艦のはるか後方へと流れさった。
指揮眼鏡につきっきりでリンデは「高め四百、撃て!……下げ八百、撃て!……高め三百、撃て!……よし急げ……右よせ十二…」などとシリルには分からない数字と隠語でできた呪文を次々と放ち、彼女の足元にあるA砲塔は、それに合わせて閃光と黒煙を次々に吹きあげた。そしてリンデが呪文をおさめると同時に、突如奇妙な静けさがおとずれた。ただ弾着時計が時を刻む音と「各部異常無し……各部異常無し」といった繰り返しだけが、この央部測的所に流れていく。指揮眼鏡から顔をあげ、リンデは一息ついてから号令した。
「撃チ方待テ……よし、各部撃チ方止メ」
シリルが、驚いたような不思議な口調でたずねた。
「……お終い、ですか?」
「砲弾は値が張るんだぞ」
リンデがそう言った瞬間、壁のスピーカーがさけんだ。
『……艦橋より総員に達する。観測艦からの通報によれば、大空魔艦の最初は『近』『遠』『近』。そして『狭挟』は四射目で記録され『急げ』に移った。以上』
シリルにはわからない言葉に、リンデが満足そうな笑みを浮かべた。この場にも安堵の気が満ちた。物事は首尾よくいったらしい。全員が言葉を交わし合い、小休止となった。
戦闘配置がとかれ、この砲術の中枢にもタバコの香りと、運び上げられた戦闘配食のスープの香りがまざり合ってただよった。その中で、リンデはこの場で一番軽佻浮薄な部外者のシリルが、なにかとまどいを見せた、浮かぬ顔をしているのに気づいた。
「どうした、中尉? 『近』とは砲弾がまとまって標的の手前に着弾したことを意味する。『遠』はその逆。そして『狭挟』は砲弾が目標を包囲するように着弾したことを意味し、『急げ』は文字通り『どんどんぶっ放せ』だ。『右よせ』とか『左よせ』は左右の修正。つまり標的を落下する砲弾でまず包みこみ、それを継続させることにより初めて軍艦の砲弾は、相手に対して命中が『期待』できるようになるわけだ」
砲術長は兵からマグをうけとると、この精密機械でいっぱいの測的所を見まわし続けた。
「あたらないもんだろう? 全く、これだけの仕掛けをもってしても、軍艦の砲弾は命中してくれないものでね。それよりシリル中尉、よかったらここで昼食と、そして我々に祝福を」
「ええそれは…… ねえ、砲術長。つまり要するに今の射撃は『命中はなかったがあたりそうになりつつある』所だったんですよね?」
兵食の一口をほおばっていたリンデは、無言のままうなずいた。が、リンデの満足をよそに、うけとったマグに口もつけず、シリルは疑問を残した口調で続けた。
「ならば、今もしこの艦の備砲八門全部を使い、もっとたくさんの弾を撃っていたら、本当の命中もでたかもしれませんね。この後に期待します」
一瞬リンデは、シリルが自分に何を言っているのか理解に苦しんだ。口一杯の食べ物を飲み下してから、彼はシリルに問い正した。
「何が言いたい? 今の一連のはすべて一斉射撃だ。前部上甲板Aから後方下部懸垂Y砲塔まで、主砲八門全てを同時に発砲した、大空魔艦最初の斉射だったんだぞ」
「えっ? 本当に全艦一斉のサルボー? あそこにあるあのA砲塔だけではなくって!?」
目の前の甲板にあるA砲塔をさししめしたシリルが、無意識に専門用語を理解のもと使ったのがリンデは気になった。
「当たり前だ。昔の帆船ならともかく、今の軍艦の大砲は中央で制御し号令一下同時に撃つ物なんだ。バラバラに撃っていたらそれこそ一万発撃ったって、あたりはしない」
「……自分はここに来る前に、自室のインクびんのふたは全部テープで止めて、割れ物はみんな水の入ったバケツにつけたり、タオルでくるんだりして来たんです。なんか無駄だったみたい」
リンデは合点がいった。この女はどこかで別の一斉を見てるんだ。しかもデカイやつを。撃つ直前のおおげさなふるまいもそれで説明がつく。リンデはたずねた。
「前はどこの艦で?」
シリルは素直に答えた。
「戦艦〈順風〉号。この艦にくる前に研修で乗り組まされたんです」
共和国最大級の戦艦をだされては、大空魔艦砲術長のリンデも、苦笑するしかなかった。〈順風〉号の主砲である三十・五単位砲の砲弾重量は一発あたり三百八十一重量単位。それにくらべ大空魔艦の二十単位砲の砲弾重量はたった百四十八重量単位しかない。確かにあの『四・四艦隊』艦の一斉にくらべられては、大空魔艦の砲は豆鉄砲だろう。
が、なぜか腹は立たなかった。先読みの専門家であるはずの魔法使いが、読みがはずれてまごついている様はおもしろかったし、シリルが船室で、水を張ったバケツに小間物(もしかしたら『魔法の道具』だったかもしれんぞ)をつけたりしている姿を想像すると、これはよけいに面白かった。そして、どうやら俺は大空魔艦で最初にこの魔法使いを戸惑わせた人物かもしれないと思うと、なんか妙に痛快で、さらにその魔法使いがまだほほにオイルの染みをつけたままでいるから、砲術長の今日の昼食はますます美味かった。
3
「海軍外套は暑いから」
主砲発射公試が終わった翌日の朝、とつぜん大空魔艦の主計課事務室に姿をあらわし、とじひもの長いのを一本欲しい、とのたまったシリルに向かって、なぜ、と机の引き出しをかきまわしながら主計兵曹が発した問いに対する答えが、このあいまいな一言だった。そして黒い事務用の紙とじひもを手にしたシリルは、主計兵曹に次の質問を発する間をあたえず彼に背をむけ軍帽をぬぐと、今もらったひもを口にくわえ、夜の川のように光り流れている髪を、手早くまとめはじめた。
シリルが長い黒い髪を色気のない文房具のひもでたちまち結い終え、その上に再び軍帽をのせるまでの一部始終をみていた兵曹は、こいつは本職だけれど、女なんて結局はみんな魔法使いみたいなもんだな、と思った。
髪型のかわったシリルは、ふりむくと兵曹にむかって礼を言った。
「ありがとう どう?」
「変わるもんですね。なんですか。心境の変化ですか」
彼女のいつものくせで、こうなると礼だけではおさまらなかった。
「仕事よ。今日発射される、噴進砲塔を今のうちに見に行こうかと思って」
これは新手のなぞかけか。あのロケット砲塔と、髪型とがどう関連づくのか。普通の人だった兵曹には合点がいきかねた。そして、そういった表情をする人間は、常にシリルの恰好の餌食であった。シリルは得意満面な顔つきで、他人の受け売りを、さも自分の考えのような口ぶりでもって続けた。
「機械の歯車とかが危ないでしょ。だからローブも置いてきたし、髪もまとめるの。いにしえ古の時代、一番上等のひもは人間の髪の毛で結ったものだったんですって。ねえ、知ってる? 旅立つ勇者は時として、恋人の髪で結った縄でもって護り刀を身にたずさえたのだそうよ。だからこの髪が機械の気を魅いたりしてくわえられたが最期、歯車が私をかみ砕くまで、放してくれっこないでしょうね」
「ああ。それで最初は海軍外套を髪の上からはおっていかれるおつもりだったんで。そりゃ、暑いですよ。なにせあの外套は、真冬の甲板に立つ兵向けの代物ですからね」
兵曹は、丸まった髪の上に軍帽を乗せバランスをとっているシリルにむかって言った。
「だから今日は絹ローブもされていない。確かに、本職にいわせれば、あのお召し物も髪の毛と同じ位あぶないでしょうからね」
こんどはシリルがたずねる番だった。
「それは絹はお蚕の糸で織るから、髪の毛と同じような物だろうとなんとなく想像がつくけど、本職が云々って、どう言うこと?」
「海軍にかぎらず、機械屋の着ている作業服、あれは絶対に木綿地でつくるんです。絹とか毛織地は使わない」
「だって、高いもの」
「必要とあらば高くても、罰あたりな軍隊なら税金つかってそろえますよ。ちゃんと理由があるんです。木綿なら、機械に巻きこまれても破けてくれるんです。着てる者をまきぞえにしない。放してくれるんです。それ以外の布は放してくれない。もっともっと機械化が進んだら、導法師、身の安全のため、あなた方のローブもそのうち、木綿織りになるかもしれませんよ」
「や~めてよ! それは!」
シリルは天をあおいで嘆息した。が、あおいだ天井は機械化の結果である、管と電線が走り回っていた。
4
シリルは魔法を修めた人物としては珍しく、機械には何の偏見もなかった。しかし、その機械に殺される自分の姿があり得ることを昨日教えられ、想像して恐ろしかった。その恐ろしい光景を思い浮かべながらギクシャクと歩いていたシリルは、噴進砲塔揚弾室手前のハッチにつまづいてころびそうになり、髪を結い上げた頭から帽子を落とした。
自分の黒金帽子のころがった音に意外や大勢の人間がふりむき、シリルはすこしあせった。そこには海軍は一人もいなかった。
陸軍はいつも、かたまりにみえた。そして噴進砲塔基部から、そのかたまりをかきわけ大空魔艦陸軍第一士官、ゼシエル・ギ・ゴーツ陸軍大佐がわいて出てシリルをにらみつけた。
「魔法使い! 何しにきた?」
ゼシエルはガラガラ声で吠えた。こういった『軍人』を前にすると意地をはりたくなるシリルは、胸をはると堂々と答えた。
「なにか不都合でも、陸軍第一士官?」
「『大佐殿』とよべ!」
「ここは海軍将校に統率された軍艦の中です。艦内での階級呼称については、初日にこの艦の艦長が、貴官の部下に対してその見解を示された旨の風聞を伝え聞いていますが。それと、今日の予定表には、いまこの時間、ここで陸軍が集まる予定は無いはずです。艦長はこのことを御存知なのですか?」
シリルは帽子をひろい、周囲の機械を見回しながらゆっくりと歩みを進めた。歩みを進めてゆくにつれ、彼ら陸軍の怒りがいや増すのが、ひしひしと感じられた。
「で、艦長にこの謀議の存在を、報告するとどうなるでしょう?」
シリルが『謀議』といったところで、陸軍の若い将校、軍服のそでにぶっちがいになった大砲の砲身を刺繍してある砲術将校が憤然と身をのりだした。が、ゼシエル(彼も砲科だった)がその将校を制した。
「謀議か。謀議…それでもいい。それで艦長に刺すもいいだろう。彼の方が俺より階級も上なことだし、適切な処置を下すことだろう。ただそれで貴官の満足がえられるのなら」
満足なはずはなかった。シリルにもわかっていた。ただ、彼女は陸軍達が、どのように思って自分達の行動を、祖国のためによかれとしたのか、彼らの口から聞きたかった。いつものように、まず好奇心が先にたった。
ゼシエルは将校の一人から点検板をうけとり、シリルに来て見るよううながした。シリルはとことこと陸軍のかたまりに近寄った。
ゼシエルがさし出した点検板は、噴進砲の点検要綱表だった。シリルにはわからない数字と計算式でつづられた文面が何枚にもわたってとじられていて、赤や青のチェックがいたるところに記入されていた。そのチェックはほとんどの項目が可か不可のどちらかでチェックできるようになっていて、もう最後の項までマークが入っていた。そして『不可』にはひとつもチェックが入っていなかった。しかも各項目は必ず複数の人間でもってチェックされている。これは、海軍とはちがったプロの集団の仕事だった。
「おどろいたか、それともあきれたか?」
シリルは表から顔をあげた。全員が彼女ををみているのを感じた。シリルは彼女をとりかこんでいる陸軍を一瞥してから、点検板をゼシエルに返すと、口を開いた。
「どちらでもありません。感嘆しました。しかし、なぜ海軍に、艦長にだまってこのようなことをなさるのです。検査なら、艦長に話されればいくらでもおおっぴらにできるでしょう」
「中尉」
ゼシエルがガラガラ声で言った。
「君は自分の家の戸じまりに、よくしらない他人を関わり合わせて平気かね」
「鍵のついた家に住んだことがあまりありません。ずっと寮か修道院、兵営でくらしてたので」
「凡俗にはそれが心配なんだ。それと同じだ。おれたちの砲をおれたち自身の手で検査して、なにが悪い」
「それは官僚主義、縄張り意識にもとれますが。この艦は国民の税金で建造された、《共和国》全体の国家資産です」
「風聞に比して、君はまじめな人物のようだな。『くそ』をつけたくなるほど。『くそ』じゃなく『えせ』でもいいが」
シリルは笑った。ゼシエルはこいつは話がわかる奴だと思った。ゼシエルは手ぶりで部下に作業の収束を指示すると、続けた。
「聞け、おれたちだってこの大空魔艦の就役は大歓迎だ。なぜだかおしえてやろうか」
「ええ、ぜひ。陸軍はこの艦の建造に終始反対しているものだと聞いていましたから」
「それはえらい連中の、そう、それこそ君が言った官僚ども、軍人でありながらもう官僚とは変わらないような連中の縄張り意識が生んだ愚かなエゴだ。いいか、君や海軍にはわからんかもしれんが、陸軍の兵たちが敵を目の前にした塹壕、汚くて、凸凹で、メシの冷たい、せまい塹壕のなかで、どれほど後方からの味方の支援を待ち望むものか、想像できるか? そして、後方の連中が、どれほど前を気づかって、何とかしてやりたいと切歯扼腕しているか、わかるか? そしてだな、こういった連中もまた、われらが《共和国》を護っていることに、ちがいはない」
こうして今この瞬間から、彼女の中にそのような戦争の現実、兵士の現実が存在することになる。人は日々利口になって行くのだ。シリルは、この、重い現実に対する回答が思いつかなかった。ゼシエルがむきなおって、シリルに顔をむけた。シリルは、今はそのような現実の中を突っ切ってきた男の顔を直視できず、顔をそむけた。そして退散することにし、この場に背をむけた。
「大佐殿」
ハッチに手をかけたシリルは、ゼシエルの方をむかずに言った。
「『殿』がついているぞ、首席導法師」
「発射の瞬間、大佐殿はどこにいらっしゃるんですか?」
「艦橋だ。発射そのものは海軍野郎の所管だからな」
「お気の毒です。でも、自分には幸いでした。うかがいたいことがきっと出来るでしょうから、その時はよろしくお教え下さい」
それだけ言い終えると、シリルは背を丸め、ハッチをくぐり抜けて、去った。
ゼシエルは、あの女が気に食わないことに変わりはなかった。そう、あと二十年早く自分の前に姿を現さなかったことが、えらく気に食わなかった。
艦橋への道を迷い行きながら、シリルは思い出したかのように帽子を取ると髪を板結っていたひもをほどいた。肩と背中に髪が舞い落ちた。いつもの自分にもどったこの瞬間の感触はよかったが、今のふるまいの一部始終を思い起こしたとたん、そんな気持ちは吹きとんでしまった。彼女は帽子を目深にかぶりなおした。自分の未熟と戦い、それを打ち倒したかった。が、自分で自分をこれ以上見下し、罰を与えるのはやはり辛い所業だったので、気持ちがどうしても逃げた。己に立ちむかいたい気持ちと逃げたい気持ちの間を漂いゆれうごきながら、シリルは艦橋へと歩いて行った。そして、エルフとすれちがったことに、彼女は気づかなかった。すれちがってから、オーベロイがシリルに声をかけてきた。
「こんにちわ、シリル。今日も真実がみつかりますように」
その柔らかな一言でわれにかえったシリルは、青くたゆたうそのおだやかな彼の視線を、痛いほど欲している自分を感じた。そしてふりかえり、今朝は一つその『真実』とやらにぶつかって、痛い目にあったことを訴えようとした。が、ふりむいた彼女の目の前に広がっていたのは、ただ電灯で照らされた軍艦の廊下だけだった。
5
大空魔艦最強の火器、艦首六結ロケット砲は、共和国陸軍の執念だった。この砲の特徴は、弾丸一発あたりの重量が五百重量単位をこえるロケットを六結束させ一斉射につき六発、合計三千重量単位以上の鉄塊を一斉に発射でき、しかもその弾丸が全て水圧機械で再装填されるので、弾体重量の総体に比して大変な発射速度を持っていた点だった。
が、大空魔艦の装備としてこれを検討したとき、海軍はいい顔をしなかった。その理由はただただこの砲が、『陸軍の手で設計された』といった事実に対する、根拠の希薄な反感にすぎなかった。だが、陸軍の執心はその程度では翻らなかった。彼らは海軍のわがままを辛抱して聞いた。陸軍は自分たちが最初に設計した機械式装填装置が重すぎ複雑すぎたのが敗因だろうと、次いで油圧式装填装置の図面を描きあげて海軍に提出した。が、この案も海軍は『不必要な油圧の使用は損傷時危険』の一言で即座にはねた。海軍は陸軍の執心をうとましく感じていたのだが、至極まっとうな理由で陸軍の設計を却下したのだから、もう陸軍もあきらめるだろうと思った。
しかし陸軍は再度、驚くべき忍耐を発揮して、三たび、今度は水圧で装填する装置の図面を海軍に提出した。陸軍の三度目の挑戦は、海軍を困惑させた。そして、そのとまどった所を慎重にみはからって、この問題に対し今まで沈黙を守ってきた元首府と『委員会』が口を開き、円満解決には程遠かったものの、大空魔艦に陸軍設計のロケット砲が搭載される運びとなった。忍耐を試されてきた陸軍は、この決定に狂気乱舞した。海軍もこの砲の発射指揮の権限を、海軍将校たる艦長に帰属させることを周囲に了承させたので、とりあえず決定にはしたがうことにした。そして大多数の普通の人達は、自分たちの税金で建造される軍艦に、天下無敵の新兵器が搭載されると伝え聞き、素直に浮かれよろこんでいた。
しばらく前までそういった『浮かれよろこんでいた』人達の一人だったシリルは、発射の瞬間、艦橋にいた。艦を運転しつつ、標的曳航艦が引く標的に対して実施された主砲発射の時とはちがって、艦は海上の虚空に静止していた。
今、ここは静かだった。どうしても消せない“軍艦の音”だけが、どこかでしている。
また時計が進んだ。だが、シリルは昨日の主砲発射の時ほど、胸が高鳴らなかった。昨日見た上甲板A砲塔の向こう、艦首にある砲身のない、缶詰のてっぺんみたいな形をしたロケット砲塔が回る様は、砲身のあるいかつい主砲砲塔のそれに比べて、見劣りがするにちがいなかった。そのくせ様々な光景を直接みることのできないこの艦首主艦橋には、それゆえか張り詰めた雰囲気がただよっていて、それは傍観者のシリルまで痛々しくさせるほどだった。
いまロケットが放たれる右舷側の風景は、何がおきるか察しているのだろうか? ぶあつい艦橋のガラスのむこうで、鳥が、空に割りこんだこの不細工な同類を小バカにするように軽やかに飛んでいた。いや、同類と見なしてくれてすらいない可能性もある。あたかも町の鳥が、空にわりこみそびえたつ尖塔にとまって、その上で糞をするように。その中で人は自分がつくり出した問題と緊張の海におぼれかけているのだ。
こんな考えをもてあそんでいたシリルにとって、時計を読んでいただれかが発射の時が到来したのをつげたのは、突然だった。そして、それは唐突だ、とシリルは思った。が、当然ここでは彼女の思惑にかかわり無く物事が動き、艦長が発射の号令を下した。
その時、艦橋が光った。そしてまず窓の外の風景が光と共にとびちり、次に艦長が、乗員が、羅針盤や舵輪、諸々の見慣れた光景がきらめく光芒の中へとびちった。シリルはたちすくみ、一瞬まず事故かと錯覚し、ついでようやく、新兵器六結ロケットが点火されたのだと合点した。しかし理性で合点したその次の瞬間に、まるで『ブリキを手で一気に引き裂いたような』大音響があたりをおおいつくしたので、今度こそ大惨事になった、と、シリルは狼狽した。
すると、突然それはかけぬけて行くように遠ざかっていった。目が風景を取り戻すと同時にシリルは右舷の窓辺に走り寄った。自分の頭のすぐ右上から白い雲間に向かって、一条の金属がかった固い灰色の煙が轟然と延びていた。煙の先端には星のようなきらめきが乗っていて、その星はなおも煙の直線を生やしながら雲につきささり、それをつらぬき、その中で太陽の様に一瞬ひろがってきらめき、やがてぼやけ、溶けて、消えて行った。しかし、引きしぼるような響きはその源が、星が、視野から消え去ってもなおあたりに轟きわたり、やがて遠雷のごとく雲間のむこうでうなり、ようやくこの場から消えて、去った。
雲に引かれた直線だけが残った。ため息と汗がふきでるのと同時に、我にかえった彼女は、ひろがる雲間から背後にある、せまい、人間がこの空にわりこませた空間である艦橋にむかってふりかえった。
ただひとりをのぞいた全員が、今のシリルとあまり変わらない風体で、各々の場所につったっていた。唯一の例外であるゼシエルだけが、シリルの様子をみて破顔していた。
「およそ三千三百六十重量単位だ」
ガラガラ声でゼシエルはシリルにむかって言った。このような音の元でさけぶから、ゼシエルの声はガラガラなのだとシリルは変な納得をし、次いで彼が言った重量が、昨日発射された八門の二十単位主砲一斉射の数倍にもなる物だと説明してくれたのを、彼女は理解した。まだボーッとしていたが、それだけの物をあのようにわずか一回で一直線に強引に飛ばすエネルギーのすさまじさは、とりあえず茫然とするに値する代物なことを理解できる程度にはなっていた。
もういちどシリルは窓の外にむきなおった。先刻ゆるやかに舞っていた鳥は、もう空のどこにもいなかった。そしてあれほどの光景をぶちまけた炎と鉄塊を雲のむこうに運びあげた煙の柱は、もうぼやけ、汚れた綿のようになって消えかかっていた。今一度、シリルは艦橋をふりかえった。もうそこには異質な物は何もなく、再び日常が全てに主権をおよぼしていた。そこでは人々は声高に、弾着だの、弾道だのと、いま発射された六結ロケット砲について、論じ合っていた。
第八章
1
歩兵連隊兵営より、書棚の奥の友へ
いまガタついてて、糊でかためた木屑をおさめたそこに行くことがかなわないが、とりあえず一報したためる。
貴様の言い分をいれたわけではないが、聖都鎮台の臨時観閲行進は取りやめとなった。たとえそれを強行してあの古い者共を敵にまわしたとしても、我々としては勝つ気がまえ十分だったのだが、貴様の言うとおりたしかに、そいつは面倒と言えば面倒だからな。
どうせ貴様のことだから、自分がこの世を救ったような気分でいることだろうが、あくまでもこれを決定したのは貴様がいつもとやかくいっているいるわれら軍人だから、そのつもりでいるように。くれぐれも。
一応軍人はただいま多忙につき、とりあえずこれにて失礼。
『教えの楯持つ者』より、皆々様によろしく。
貴殿の友 軍人記す
2
『書棚の奥の友』より兵隊の君へ
お手紙ありがたく拝見。観閲中止の件、読むにつれ、君達軍人にもまともな考えをする人がいるらしき事実を知り、うれしく思える。本当にくり返しになるけど、そんなことをしよう物なら、それこそ反開明派に大同団結の口実をあたえることになるだろうからね。まったく、敵をおびえさせるにも限度があるってものだよ。
でも、とにかくよかった。この気持ちがなくならない内に書きしるしたかったので、君がよこした兵を待たせて、今この手紙をしたためている(ただし、わが友ヴェルゼン。その決定を下したのは君達軍人だが、それをお導きになったのは、神様と教えだ。ゆめ、感謝の念をわすれずに。これだけは修道士の僕から厳に言いわたしておく)。
けどね、楽しいことも事実だ。今をときめく天下の開明軍から、汗水たらして手紙をたずさえた、しかも武装した兵士が来てくれたおかげで、僕はすっかり注目の的さ。ここにいる僕の同僚たちが(おおかたは『古い人々』に声援を送っている連中だが)君達の一挙一動に、今どれほど戦々恐々としているか、きみには想像できまい。だからつい、僕も例によって調子づいてしまい、息を切らして君の手紙をさし出している彼にむかって『うむ、まだ市内は平穏のようだね。君の動きがこれを証明している』なんて言ったりしたもんだから、これはますます。
そして、いま僕は完全武装した君の開明軍兵士を事務所の入口に立たせて、これを書いていたりするもんだから、遠巻きにこちらをうかがっている連中からの視線が、そう、扉をつらぬいて感じられる程さ。まったく! 兵を使うことが、こんな楽しいことだとは知らなかった。これで人殺しをわざわざ生業に選ぶ、君達軍人の気持ちが実感できたよ。ここに来られないのなら、そして君にできる権限があるのなら、この兵をつかうと言った楽しい遊びを、ぜひ今後も続けさせてもらいたく思うね。
おもいがけず長くなった。とにかく今はありきたりのあいさつだが、ここの風習にしたがって申し送ることにして、筆を置きたい。
御身御大切に
3
これから数日、キュンナンは廊下に足音がするたびに、ヴェルゼンからの使いかとワクワクしどおしだった。が、ついにやって来たのは兵ではなく、ヴェルゼン・ゼファーンその人だった。修道士をおどろかせたことに、この時軍人はその大きな体を旅装に包み、野戦用の行李を肩にかついでいた。
「まさか、本当に戦争かい?」
書き物をしている机から顔をあげたキュンナンは、兵のかわりにそこにいるヴェルゼンの姿を見、開口一番そう言った。
ヴェルゼンは行李を置くと、過日腰をおろした小さい椅子にすわった。また椅子は重そうにきしみ音をあげた。そんな彼のしぐさを、キュンナンは唖然と見ていた。
本当の非常時になると、たとえ常日頃へらず口をたたいていても、やはり普通の人はこのような反応をしめす物か。ヴェルゼンはニヤニヤしながらキュンナンにむかって、口を開いた。
「あわてるな。これはただの旅装だ。戦争に行くんじゃない。でも、キュンナン。貴様でもやはり、戦争はこわいか」
キュンナンはペンを机にほうり出すと、答えた。
「当たり前だ。なにはともあれ蛮勇こそは、この僕に一番欠けている物だからね」
キュンナンの言いぐさに軍人は笑った。そのヴェルゼンの笑みをみて、キュンナンは当惑した表情を浮かべた。
「でも確かに、本当の戦争なら、開明軍歩兵将校の君がこんな所にノコノコ顔をだしたりするはずは、ないもんな」
キュンナンは書きかけの書類をまるめて、部屋のすみにあるごみ箱になげた。
「なあヴェルゼン。この街、この国、この世界に、今、何が起きつつあると君は思う?」
全てがこの総主座教会から胎動するこの国のことを、そこで生きている修道士にたずねられたところで、部外者の軍人がまともな返答をできるはずも無かった。
「知らん。ただ言えるのは、おれが出張を命じられたことだ」
「出張? 今? どこに? 何しに?」
キュンナンは身をのりだし矢つぎばやに問うた。ヴェルゼンははきすてるように答えた。
「どこに行くのかはハッキリしていない。が、行く『方向』だけはわかっている。おれが教義派どものお供で乗るのは、お前の新聞を乗せてくる《共和国》巡礼線の下り列車だ」
「! 使うのか……」
「教義派は提案した。開明派にとって現状最大の驚異を排除しよう、けどそのかわり、票をよろしく、とね。バカなえらいさんはそれにのったんだよ。でも、さすがに実行の段に、一応こちらの人間が立ち会わないのはマズイと気づいたようだ。というわけでおれはまあ、奴らがキチンとやるかどうか見張りに行く、と言った立場で、おれは出張とあいなった」
『大空魔艦』とか『ドラゴン』といった単語は出なかった。が、二人の間にはその二つの言葉が渦をまいてただよっていた。
キュンナンはため息をついて、頭をふった。そして机の上にひじをついて両手を組むと、その上にあごをのせ、組みあわせた指のあいだからしぼり出すような口調で言った。
「……票、票、選挙の票。権力につながるこの一票。まあ確かに、君達と彼ら、愚か者二組の気持ちは、わからんでもないけどね」
さんざん自分が無責任に評していたことが現実におきたことに、キュンナンはかなり衝撃をうけたようだった。軍人はそんな彼の姿がおかしかった。ヴェルゼンは言った。
「結果についての信念は、どうせ変わらないんだろう?」
「もちろんさ。でもね、やはりそれにつきあわされるのは、疲れるよ。全く君達は……」
夢想家の修道士はすっかりうちひしがれていた。現実家の軍人は思わず笑っていた。
「なあキュンナン。それでもやはり目の当たりにすると、愚か者のしでかすことにもそれなりの重みを感じるだろ。愚か者も大勢集えば、それだって歴史を動かす力さ。そいつらが手をのばせばすぐとどくところに権力がうろついているなら、それはなおさらだ。おたがいここは一つ、観念することだな」
キュンナンは顔をあげてヴェルゼンを見た。教えでは、刃物を身におびてなす世俗の軍事は『神の目の一つをかりうけて』蛮族を平定し教えの元に俗国をたてた《帝国》の仕事とされていた。それゆえ、教えを厳格に解釈する《教国》の教衛軍は、どんな寸鉄であれ刃物を身に帯びるのを禁忌とする。だから今、開明軍軍人のヴェルゼンの腰にも、刃のついたサーベルではなく、まがまがしいトゲが林立している鉄球を、鋼の棒の先端にはめたハンマーがさがっていた。
それを見たキュンナンは、友人として申し送ることにした。
「とにかく旅装とはいえ、いつもとちがう武器で前線に出るのだから、充分気をつけたまえ、ヴェルゼン」
キュンナンがそう言うと、ヴェルゼンはもったいをつけて外套の中に手をいれ、そしてそこからゆっくりと、黒光りする大きな鉄塊を引きずりだした。しおれていたキュンナンはそれを目にしたとたん、たちまち血色をとりもどした。軍人はこのお調子者の修道士がああだこうだ言い出す前に、弾丸を全部ぬいてから、彼にそれを手渡してやった。キュンナンはそれをうけとると喜色満面の様子で、いつものごとく好き勝手を言いだした。
「……ああ、この銃は《帝国》製だね……へえ、輪筒がないね……弾、弾は……ふうん
、ほう、握りの中に入るんだ……ということは、ここの長さによってはシリンダー式より、弾が多く入るわけだ……いいね、新式だねぇ……う~ん……なくしたら、大変だ……」
キュンナンの間抜けな最後の一言で、ヴェルゼンはふいてしまった。このやせた口の軽い修道士にかかると、こんな物騒な代物までが、なんかばかばかしく思えてくる。
キュンナンはまだ拳銃に執心していたが、ヴェルゼンはもうでかける時間だった。これで一応会っておく人間には全て会うことができたので、心残りももう大方なくなった。しかも偶然とはいえ、出立の前最後に会ったのが修道士だったことは、もしかしたらめぐりあわせなのかも知れない、とヴェルゼンは思った。彼は無言で立ちあがると、キュンナンの前に歩み出て、ひざをつき頭をたれた。
すると、銃をいじる手をとめ、それを机の上に置いてからキュンナンは言った。
「その姿は戦支度ではなく、旅支度だと君は言ったね? ならば、旅ならば、どんなことがあっても旅立ったここに帰ってくるつもりでいたまえ。死出への祝福、なんて言うのは、ぼくはゴメンこうむる」
「キュンナン……」
「約束しろ、友よ」
「……わかった、戻るよ。約束する」
「では。これは私を通じ神と誓約をなすことによって、なんじ軍人に与えられる祝福とこころえよ……」
キュンナンは立ちあがってヴェルゼンに祝福を与えた。それがおわると、ヴェルゼンは立ちあがってキュンナンの机から銃を取り、開いた方の手で軽々と行李をかつぎ上げ、キュンナンにむかって頭をさげた。
でも二人はそんな、かた苦しいやりとりだけで別れられる友達ではなかった。キュンナンは両手がふさがった友のために、ドアを開けてやった。ヴェルゼンは入ってきた時と同様に、大きな体を押し出すようにしてドアをくぐり抜けると、ふりむいて、銃をつかんだ方の手をチョっとさしあげて笑ってみせた。キュンナンも右手をあげて、それに応じた。
「ヴェルゼン……」
「ん?」
「本当に、御身御大切に」
口の軽い男がしみじみ言ったので、このありきたりのあいさつにもいくらか重みが感じられた。そして、軍人は決心し、友に背をむけこの場を歩み去った。
4
減ってゆく雪。増してゆく日ざし。車窓の外の風景の変化は、寒い国の軍人に、南に、はるか南に下ってきたことを実感させた。
あの小さな《共和国》が敷設したとはにわかに信じがたい幅広の鉄路の上にのった巨大な機関車は、聖都を出発してから全く一度も停車せず昼に夜をついで驀進し続け、もうヴェルゼンがおもむいたいかなる遠隔地の演習よりも、はるかな距離を来てしまった。しかも、こんなに短時間でもって。機械の威力については多少なりとも理解しているつもりだったが、直接それを体験してみるのとそうでないのとでは、やはり感慨もちがった。そして、もう何百回目だか忘れたが、ヴェルゼンは車窓の外をぼんやりながめながらまた考えた。
《共和国》の軍艦を襲うために――
《教国》兵が《共和国》の列車に乗って――
《教国》と《共和国》の国境の『森』へと出かける……狂ってる!
この教義派の面々で固められた一行の中でただ一人の開明軍軍人だったヴェルゼンは、自分の立場がなんとなく曖昧なのが、ずっと気がかりだった。一応ヴェルゼンは軍人として、彼らの開明軍の立場から見張り、また安全をまもる立場でこの企てに参画させられてはいたのだが、教義派から聞かされた所によれば、彼らは自分達に忠実な兵を、もう現地に用意しているらしい。
だから、事実上ここでの彼は何の必要もない存在だった。連隊長は自分が聖都を出る時、この《帝国》製の新型銃を金庫から出しながら、ついぞみせたこともないほど真面目な表情で『たのんだぞ』と自分に言いおいたのだが、あんなに真剣に送り出されるほどのことも無かった、とヴェルゼンは思った。そして、無為な数日を過ごして来た今、あの聖都の開明軍鎮台歩兵連隊は、いますぐここから歩いて帰りたいほど、たまらなくなつかしい存在だった。
この豪華な客車のなかで、明らかに召使用につくられたこの部屋でヴェルゼンが物思いにふけっていると、ノックもなく、突然部屋のドアが開けられた。
「軍人」
そう呼びかけられたヴェルゼンは、ベッドに足をのばしっぱなしにしたままの姿で、入口に立った修道士をみた。そいつはいかにも暗記をたくさんしていて、自分より暗記の量が少ない者を小馬鹿にし、自分より多くの暗記をしている者には卑屈に、しかし勤勉につかえる、そんな印象をあたえる人物だった。
その男はキュンナンと同じ言葉でヴェルゼンに呼びかけて来たが、キュンナンに接するのと同じ接し方でこいつに応対する気には、全くヴェルゼンはなれなかった。彼はそいつをにらみすえると、ゆっくり言った。
「修道士、これからは私のことを『大尉』とよべ。軍人でない貴様に『殿』をつけろとまでは言わんが、以後その頭がこのことを忘れよう物なら、今度は頭ではなく体に、二度と忘れないよう、しこんでやるからな」
「荷作りを始めろ。まもなく我々は神が与えたもうた己の足を使うことになる。それと軍人、ここは貴様らの野蛮な兵営ではない。それは夢わすれるな」
「わかった。所で貴殿に一つ用ができた。一歩前にでてくれ」
このキュンナンとはくらべ物にならないほど立派な身なりをした修道士は、軍人の言葉にあまり注意を払わなかった。そして一歩でた。すぐにヴェルゼンは腰のハンマーを外すとベッドに座ったまま重い鋼のヘッドを、修道士の足の甲に打ちおろした。
「フ。『神があたえたもうた己の足』を使うのが難儀になったな。修道士」
足をかかえ、涙とよだれをまき散らしながら床の上をのたうちまわる修道士にむかって言うと、ヴェルゼンはもうまとめてあった行李をかつぎ、騒ぎをききつけて集まってきた連中をかきわけ、乗降デッキにむかった。外は正面に尾根をたたえた、しかし石切り場のように殺風景な岩と砂だけの単調な空間だった。今こそ曇天だが、一度太陽が照ろう物なら、ここは 炉のように熱くなることだろう、とヴェルゼンは思った。が、この全くありがたくない土地の真ん中で、列車は速度をゆるめ、そしてとうとう止まってしまった。
乗降デッキからこの荒れた土地の上に、ヴェルゼンは飛び下りた。ブーツの下の大地はあきれるほど見事な岩だった。ここが盆地の底である証拠に、彼の背後にいる機関車が息をつくたび、それが幾重にも反響してこの空間に響きわたった。
開明軍軍人の彼をあきれさせたことに、教義派の連中は列車からおりるだけに途方もない時間と手間を必要とした。彼らはまずこの土地に祝福を与え(与えた所でどうなる物でもなかろうに)、聖都から持ってきた聖水で下の地面をはき清めたのち、敷物をしいてやっと列車からこの地に下り立った。しかも、そこまでいろいろやったくせに、ほとんどの者はこの世の不幸を一身に背負ったがごとくひどい顔つきをしていた。が、てんでに不幸を表現していたその連中も、自分たちを率いている存在が列車の奥の主室から姿を現す段にいたっては、さすがにそのような態度はおおいかくした。そしてまた新たな儀式を始めるべく彼らは右往左往しはじめが、ヴェルゼンも一応この瞬間には、唯一の開明軍代表としてそれなりの態度でたちあわなくてはならなかった。
妙なことだったが、ヴェルゼンはこの一行の頭領に、まだ会っていなかった。順列、権威、そして信仰の度合いが全ての《教国》で、これだけの人数の坊主を開明軍の軍人ともども『共和の人々』のしかけにつめこんでここまで連れてこれる存在は、まず枢機卿以外には考えにくかった。が、その人達は目下、聖都のあの迷宮の奥に閉じ込められているのだから、この一行の頭目が枢機卿のはずはありえない。ならばこれから姿を現す黒幕が誰なのか? 列車からのばされた敷物の一番端の位置についたヴェルゼンの心中に、聖都を出ていらいひさしぶりに、激しい好奇の気持ちがわきあがった。
その時、ヴェルゼンは先刻自分がうちすえた修道士が、この場にいないことに気がついた。もちろんあんな奴が頭目だとはとても思えなかったが、万が一を考えると……なんかおかしかった。奴の報復によりおれはこの不毛の地でくたばって、そしてこの場の連中が土すらないここで、このなりだけはデカいなきがらをどう始末するのかでドタバタとする場面を想像すると、思わずヴェルゼンはふき出しそうになった。
ヴェルゼンがそんなことを思った瞬間、デッキに頭目が姿を現した。その背の高い痩身の人影がまとっているのは、ヴェルゼンの想像とはことなり、似てはいたものの聖職者の衣ではなかった。その人物が身にまとっている、一見長衣にもみえるほど長い、フードのついた外套は、あろうことか教義派の軍事組織である、教衛軍の軍服だった。
フードを深くかぶった陰気な姿ではあったが、軽やかな足取りで、その外套はデッキから敷物の上におりたった。そして軍人族共通の足音であるブーツの音と共に、まっすぐにそれはヴェルゼンの眼前へとやってきた。
細身だったが、外套の背丈はほぼヴェルゼンと同等だった。外套は襟に『上尉』の階級章を付けていた。これは開明軍ではヴェルゼンと同じ大尉にあたる位だったが、教衛軍と開明軍では階級の数と扱いに微妙な差があり一概に対等と判断するのは危険だったので、ヴェルゼンは、ここは敬礼したほうが安全だと判断した。が、外套はフードの下でヴェルゼンの判断を読んだらしい。
「敬礼はしなくていい」
その声は意外なほど若く澄んでいたが、その裏の断固とした意志を感じたヴェルゼンは油断せず、相手の次の台詞と行動を待った。しかし、外套がフードをおろした時には、さすがのヴェルゼンも驚愕を表に出していた。
フードの下からヴェルゼンの眼前に現れたのは『森の人』、エルフの顔だった。その異様なほど整った涼しげな顔立ちと、エルフに共通したとがった長い耳そして澄んだ瞳は、ヴェルゼンにある種恐怖の念をいだかせた。直立不動の姿勢でいるヴェルゼンに対して、エルフは玉のような声で続けた。
「会うのははじめてだな。ヴェルゼン・ゼファーン開明軍大尉。私は教衛軍上尉ラーテナイ・J・ローゼロイだ。君も含めたこの一行の指揮を取るよう、上から命じられている」
「命令書は?」
「見たければ聖都に戻って正式に請求しろ。君と私、一応階級は同じとしておく。が、私の方が先任なことは、忘れてはならない」
そこまで聞いて、ヴェルゼンはやはり敬礼をした。が、エルフはそれには一瞥もくれず列車にむきなおると何かしら合図をした。
すると、デッキから先刻ヴェルゼンが『しこんだ』例の修道士が、数人の手でもって運ばれてきた。奴はまだ脂汗を浮かべて悶絶していたが、エルフはその様子を見ながらせせら笑うような口調でヴェルゼンに言った。
「奴をこらしめたらしいな。『軍人』?」
「はい。『軍人』として」
おどろいたことに、ヴェルゼンのこの言いぐさに、エルフは笑ってこたえた。
「あんな奴はそれで充分だ。ただ、今一応こやつらの頭目でもある私は貴様のしたことを『ゆかい』の一言で片づけられない。これから我々はこの尾根をこえる。あいつには目的地に着いた所で治療をする。そこでだ……」
ラーテナイは、眼前にひろがる切り立った尾根をあごでもってさししめし、続けた。
「お前は『神のあたえたもうた己の足』を使えなくなったあいつをかついで、その足でここを越えろ。そして遅れよう物なら、あいつと二人でこの地に果てることになるぞ。坊主に与えた苦痛に対しては、彼らの解釈でもって報いなくてはならないのでな。いいか、『苦しみを与えた者は……』」
「知っていますよ。『苦しみを受けなくてはならない』」
「貴様はあの恥知らずの開明軍には、おしい奴だな」
「修道士の友人が、自分にはいますので」
尾根の頂上ははてし無く遠く、ほとんど荷物らしい荷物をもたない坊主の一行は足取りも軽く、足場の悪いここをのぼっていく。ヴェルゼンは、これでは足の甲をぶちわられた方が楽だったかも知れないと後悔した。俺がキュンナンだったら、いまごろは死んでいることだろう、と、ヴェルゼンは思った。
が、そのキュンナンは、必ず帰れと言った。だから、こんなことで根をあげるわけには行かなかった。開明軍軍人として、あの尾根のむこうの目的地を見るまでは、そこで起こることに立ちむかうまでは、そして最後にこれら諸々の事柄をキュンナンにむかってぶちまいて、奴を驚きのあまり平服させるまでは、なんとしても歩み続ける。それに、俺は第一歩兵じゃないか。
背中の汚物を早くおろしたいがために、ヴェルゼンの歩調はこれほどの荷物の割には軽かった。体は焼けそうなくらい筋肉をいためることで、このヴェルゼンの脳の決定に抗議した。が、軍人の意志はこの肉体の抗議をねじふせた。そして数万歩の苦行の後ついに彼は尾根の頂上に立ち、疲労でかすんだ視野を通じて、眼下にひろがる風景をとらえた。
尾根のふもとにひろがっていたのは、広大な森だった。足元にひろがる『森』。そこは本当に黒かった。幾年月にも渡ってここに集り、解決を必要とした無数の良いことと悪いことがみんな染みこんだ結果、ここはこのような色にそまったのだろうかと、眼下の森を見ながら、修道士をせおったヴェルゼンは、しびれた頭で感慨にふけっていた。
第九章
1
副長ベイエーヌ海軍大佐から、海軍省海軍委員会発行の命令書を封じた封筒をうけとったフォーンツ艦長は、まず表に書かれた自分の名前に目を通すと、今度はそれを裏返して、封筒を封じているリボンを挟んでたらされたろうを確認した。フォーンツはもちろん昨日今日任官したわけではなかったし、もう数え切れないほどこの書式の命令書をうけとってきたのだが、それでも彼はやはりこの確認をおろそかにすることができなかった。そして気がすむと艦長は、豪奢な艦尾艦長公室を大きく占領しているダイニングテーブルの隅の椅子にこしかけた。
晩餐まで、もういくらもなかった。フォーンツは、純白のテーブルクロスの上に、当番兵がまるで兵器のように整然とならべた銀器の中から、するどい刃のついた肉の切りわけナイフを手に取った。
ニス塗りのぶあついキャンバス地でできていた海軍省海軍委員会発行の命令書封筒は、電灯の下でてらてらと光っていたので、それはまるで何かの肉料理みたいだった。そして艦長がその光った封筒をつかみ大きな肉切りナイフでもってザクザクと封を切り裂く様子が、かたわらに立って見守っているベイエーヌ副長には、なぜか一瞬、ひどく野蛮なことをしているように見えた。
ガンコな封筒が開きになるのと同時に、その中から鈍い音をたてて暗い色の塊が転がり落ちた。それは小さな鉛の塊だった。
銀器の並んだ白いテーブルクロスの上に転った、ゆがんだ鉛の塊を見て、艦長はちょっとおもしろそうな表情を浮かべた。鉛の塊。これはもしこの命令書を海中に投棄する必要が生じた場合、確実に沈めるための重りとして、この書式の命令書に同封されている物だった。そして封筒のニス塗りは波しぶきとびかう艦上で文書を防水し保護するため。さらにこの封筒を封じていた丸くたらしたろうに皇帝陛下万歳な《帝国》ですら使うのをためらいそうなほどおおげさな判がつかれた封緘印は、この書類に海軍省海軍委員会の権威を与えるための物だった。この書式は多分百五十年程昔の共和国海軍でも、完璧に通用すにちがいない。今、空飛ぶ最新の電気戦艦の中で開封された命令書がだ。やれやれ!
しかし、フォーンツはその時代錯誤な命令書を、結局はていねいに、慎重にあつかい、いくぶん緊張した表情でその書面に見入った。誰がどのような感想をいだこうとも、まちがいなくその大時代な命令書は『電気戦艦大空魔艦』の艦長すらしたがわせる力を、国家から与えられているのだ。
電気の下の華やかなダイニングテーブルで、艦長は軍の命令書に集中していた。ゆっくりと文面を追っていたフォーンツの表情に、読み進むにつれ当惑の色が濃くなっていった。そして文末まで読み切ると、フォーンツはベイエーヌにむきなおり、口を開いた。
「そんな忠義の部下ぶって立っていないでくれ、ベイエ。こっちが切なくなってくる」
フォーンツはベイエーヌに命令書を渡し自分の前の椅子をさししめした。ベイエーヌは神妙に食卓につくと、命令書に目を落とす前に、旧友に対する物言いで口を開いた。
「共犯者が欲しいのですね。フォーンツ」
「それ位は副長の義務さ。それとも艦長として、海軍代将として命令しようか、え? 大空魔艦副長、ベイエーヌ・シ・カストール共和国海軍海軍大佐?」
二人とも苦笑した。ベイエーヌもあきらめ命令書を読み始めた。目だけを動かすいつもの読み方で読み終えると、彼は顔を上げた。
「これは、正式の命令書でしたよね」
ベイエーヌは開きになった封筒を手の中で裏がえしたり表にしたりしながら、ため息まじりの口調で言った。が、やはり残念ながら、手の中の一式は正真正銘、正規の命令書だった。そのことをもう二度確かめていた艦長も、副長と似たような口調で答えた。
「ああ。我々とこの艦は、今この瞬間、この命令書が命じる所を遂行する義務を有した」
そして、二人とも口をつぐんだ。
命令という物はまずそのほとんどが『理不尽』でくくれる物だったので、それに散々つきあわされてきた艦長と副長はもう命令書に対してはあきらめの境地で接することができる物と思っていた。それは誤算だった。
日の落ちた外は暗く、大空魔艦の艦尾にあるこの艦長公室を取り巻いているスターンウオークの中を、風が通りすぎた。艦のどこかで、点鐘がかわいた音を立てて鳴っていた。
その時、壁にかかっている電話機がなりひびいた。そのベルの音は、二人を思索から現実に引きずりもどした。ベイエーヌは立ち上がると、受話器を取った。
「こちら艦長公室、副長である」
そしてすぐ、ベイエーヌは一言「了解」とだけ言って受話器を置いた。
「飛行場正面口警備哨からです。元首と海軍委員をのせた車が通過したとのことです」
フォーンツは小さくうなずくと、食卓から自分の事務机にむかい命令書一式を引き出しにしまいこんで、鍵をかけた。
「では、艦尾から艦首まで、はるばるとお客をおでむかえに行くかな」
ベイエーヌは先に立ってドアを開けた。艦長は最後に背のびをして鏡をのぞき込み、帽子に手をやって座り具合をなおすと、喧騒にあふれた艦内へ歩み出した。
「御命令どおり特に作業の変更は指示していません。元首の来艦の件も各科長と陸軍第一士官以外には、通達しませんでした」
フォーンツは前を見たままうなずいた。
「当然だ。彼は今日お忍びだし、あの新しい命令書でも出航の刻限は変わってないからな。こんなことで作業を中断したりしたら、定刻に出航できなくなる」
フォーンツはここで言葉を収めたが、元首はともかく、今日彼と一緒に晩餐に来る海軍第一委員がもしこの状況を不快に思うのなら、それはいい気味だ、と内心思った。そして艦首ハッチで、係留塔の搬入エレベーターから姿を現した、元首と、海軍第一委員と、そしてクサいにおいねぎをいっぱいにつんだ搬入トロッコに敬礼した時、フォーンツは自分の命令がよく遂行されていることを実感でき、大いに満足した。
ずっと以前、自身も海軍に従軍していた元首は、艦長公室へとむかう間、副長の予想以上に好奇心をたたえた明るい表情で、新時代の軍艦のあれこれをフォーンツに聞きただし、彼の答えや飛び回る兵の姿にその都度感心したり笑ったりしていた。その一方、今日の晩餐を設定した海軍第一委員、貴族で構成された共和国貴族院の中といった、せまい世界の中から選ばれ役職にありついたこの『政治家』は、艦首への行程の半分も行かないうちにもう、巨大な戦艦の意外にせまい通路とそこに充満した独特のにおいにうんざりとし、己の設定の過ちを悔いている様子だった。
《共和国》の最高権力者、この国の海軍将兵全ての運命の支配者、そして供を連れた世界最大の軍艦の艦長の三人は、三者三様に艦を縦断し艦尾艦長公室のダイニングテーブルに着席した。
その時、来賓二人の視線が一瞬テーブルの一点に止まった。フォーンツは、先刻命令書からテーブルに転がり出たあの鉛の塊を、そこにそのままにしてあった。ベイエーヌもそれに気づいた。が、艦長はあたかもそれが存在しないかのようにふるまった。
ホストである艦長がそうふるまった以上、紳士と、策士であった元首と委員も、封緘命令書と一緒にここにきた小さな歪んだ鉛の塊は、存在しないものとしてふるまった。たちまち艦長公室は、鉛の塊を核とした幻想空間と化した。あの理不尽な書類は、それを読んで実行する人間、それを作った人間、そしてその内容と前後の経緯をを承知している人間の三人が、何事もなかったかのような表情で、口調で会話をかわす間じゅう、この空間を、まるでヘタな隠蔽の魔法でもかけられたかのように、姿をちらつかせながら漂い続けた。
ベイエーヌを疲れさせたことに、最後までこの三人は虚構のバランスを崩そうとはしなかった。だからベイエーヌは、元首と海軍第一委員の二人が艦首から、空気を粉っぽくもうもうとさせている空の粉袋をつんだ台車と一緒にエレベーターに乗って退艦するまでの時間に、どうも飛び飛びの現実感しか感じられなかった。そしてその中でただ一つ明確に覚えていることと言ったら、全員が、艦長があの命令書を切り開いた肉切りナイフで切り分けられた肉を食べた、という、つまらぬことだけだった。
2
ここは静かだった。
見渡すかぎり木々は永遠につらなり、それれらから生え出ている枝葉は、そのむこうの空の青い部分をまるで夜空の星々のようにしか見せないほど、濃い色合いでかさなりあいおおいしげっていた。
家ほどもある大木の根元に所在無くすわって、葉のすき間から地面に何本も降り注いでいる陽の光をぼんやりとながめながら、ヴェルゼンはキュンナンと歩きながら会話した、総主座教会の大回廊を思い出していた。
あの陰気な寒いかわいた廊下でも、ここと同じように太陽が頭上から射しこんで光の柱を立てていた。が、ここの陽光はあそこのよりもはるかにに濃くあたたかな色をしている。陽は濃い。空気はしめってぬるい。音は響かずあたりに吸いこまれて消えていく。やはりここは南の『森』なのだ。
「ここは静かだろ」
頭の上からおだやかな口調が、ヴェルゼンの考えにくさびを打ちこんで来た。ふりあおぐと、自分のすぐ頭上の木のうろに、いつの間にか教衛軍上尉の軍服を着た、エルフのラーテナイがいた。
人間に用がある時エルフはいつも、ふ、と、姿を現した。しかも彼らは唐突に出現するのとは少しちがい、まるで森のすぐそこの一部のようにいつも自然に、必要な所にあらわれいでた。そして、ここに似つかわしくない《教国》の重い軍服を着ていたにもかかわらず、エルフは物音一つたてずに、軽やかな身のこなしでヴェルゼンのとなりにおりてきて、腰をおろした。
ラーテナイは小さなかめと銅のカップを二つ持ってきていた。彼はかめの封を切りトロッとした甘い香りの液体をそれぞれのカップに注ぐと、その一つをヴェルゼンに手わたした。カップを手にしたヴェルゼンは、いままで彼のことを歯牙にもかけてこなかったラーテナイが、突然酒をふるまいにきたことに疑いをいだいた。それに、ヴェルゼンは甘い酒が、あまり好きではなかった。
物事はこれだけ重なりあい、彼の表情に浮かび上がった。エルフはそれに気づいたが、彼はキュンナンとちがいそれをあげつらって生真面目な軍人をからかうようなことはしなかった。そのかわり、ラーテナイはのんびりと幹によりかかり身をまかせると、その風貌と同じような口ぶりで、おだやかに命じた。
「飲むんだ、開明兵」
ラーテナイはそう言ってカップに口をつけた。機先を制されてしまったので、ヴェルゼンも観念して酒を一すすりした。
やはり甘い酒だった。好きにはなれそうになかったが、深いよい酒ではあった。なによりもこの場のゆるりとした風情にぴったりの味わいだった。そのような酒はえてして魔力を持っているもので、ついヴェルゼンはカップ一杯をほしてしまっていた。口の中が甘くなり、彼は顔をしかめた。その一部始終をみていたラーテナイは、笑いながら言った。
「甘いのはあわないか?」
「悪くはないですが……でも自分は都の澄んだ火酒がなつかしいです。カップの底が見えないのは、どうも落ち着かない」
「寒い都の酒とちがって、ここのは蒸留しないからな。だから、いろいろと残って、にごり、そして甘くなる」
ラーテナイがかめをさし出し、ヴェルゼンは素直にカップを出した。エルフは酒を注ぎながら、ヴェルゼンに言った。
「人間はいつだってそうだ。自分に必要の無い物は、たとえ自分に優しいと知りつつもことごとくそぎ落としまい、きついのを承知でその生の成果のみを貪欲にむさぼりたがる」
深入りしたくなかったので、ヴェルゼンはだまって注がれた酒を飲んだ。この酒は甘いがかなり強い代物のようで、腹からゆっくりと体全体へ熱が回ってきた。
「森の物を食べ、森の酒を飲み……」
語るラーテナイの口調にも、酒の色が少し混じってきていた。
「……森の中で生き……」
こいつが言いかけていることがわかった。ヴェルゼンはそれを最後まで聞きたくなかったので、エルフの言葉にかぶせて言い放った。
「……死して躯を埋められれば、それは土にかえり、新たな森の礎になる。全てはこの狭い世界の中を回っているにすぎない……」
ヴェルゼンは正面をみたまま、二杯目を干した。この、自分に説教をたれたエルフの言いぐさをさえぎって、すこし気分がよくなった。酒で舌がなめらかになったヴェルゼンは、エルフにむかって言い続けた。
「でも、人はちがいますよ。好きな所で食べ、飲み、生き、そして好きな所で死ぬんだ。あんたたちとちがって、こんなしめった、時間のくさった森にしばられること無くね」
エルフは終始無言だった。怒らせたかな、とヴェルゼンは思い、ラーテナイの方をうかがった。が、エルフはあいかわらず木の幹にもたれて薄笑いを浮かべ、ただ前を見ているだけだった。この場から去りたくなったヴェルゼンは、ぐっと立ち上がった。
すると、『ふっ』と抜けるような感触におそわれ、ヴェルゼンはよろめいて木の幹に手をついてしまった。たった二杯で足にくるとは、意外やたち質の悪い酒だったらしい。
エルフもゆっくりと立ち、よろけたヴェルゼンにむかって今度ははっきりと笑った。
ヴェルゼンはそのガラス細工みたいな顔をにらみつけた。そして口を開きかけたその時、エルフの顔の白さに気づいたヴェルゼンは、あたりの空間が『黒』であることが突然わかった。二人を取り巻いていた、つらなる木々も、臭い立つこけむした地面も、木漏れ日も、今手をついていた古い太い大木まですべてが消え失せ、今、この空間は何もない、純粋な黒となっていた。しかし、光も闇も陰影もないこの黒の中で、白い顔にまだ笑みを張りつけたエルフの姿だけはハッキリと眼前にあるのが、人間の軍人には不気味だった。
あわてて周囲を見回すヴェルゼンの様を見て、エルフは笑い声をたてた。
「心配するな。酔っぱらったことぐらいあるだろう、開明兵。そう思えばいいんだ」
ラーテナイは黒の中をスタスタと歩き始めた。その後について歩きながらヴェルゼンは腰のホルスターに入っている拳銃の感触を確かめなおした。すると、エルフは言った。
「その鉄の感触をしっかりととらえろ。今、ここに自分が『いる』事実をしっかりと受け止めるんだ。でないと、この黒の中を永遠に落っこちつづける羽目になるぞ」
ここは上も下も定かではなかったが、酒のせいで感覚の鈍っていたヴェルゼンは、さほど恐怖を感じなかった。ラーテナイはしっかりと目的をもったあしどりで歩いていたし、それに、他人から押しつけられた情況に『明朗なあきらめの気持ち』で対処できるのは軍人族の特技だった。しかし、あきらめたかわりに、ヴェルゼンはエルフにたずねた。
「ラーテナイ、この闇の空間も森の一部なのですか?」
エルフは答えた。
「まず、闇とはちがうさ。おたがい、姿はハッキリ見えているだろう。お前はそれに気づいているじゃないか。それと、ここは森かとのおたずねだが、お前はどう思うんだ」
「生気がまったく感じられないし、森の人である貴官でも、ここに来るには自分同様、あの酒の力を借りた。だから自分にはこの場所が森だとは思えない」
「しかし、『森』なんだよ」
そのエルフのもの言いに、ヴェルゼンは思わず手にしていた拳銃をにぎり直していた。が、エルフは無防備に人間の軍人に背をむけたまま、歩き、話し続けた。
「表面が欠けている硬貨が使えないように、物事は表と裏の両者が均等に存在することによって成り立っているんだ。人の世界では、良いことと悪いことが、まあそれにあたるだろう。ここだってそうさ。生気にみちあふれた『森』の部分と生気のかけらすらないこの空間。その両者が均等に存在するのが、私達の世界なのだ。お前たち人のいる所とちがって、同じ地表に存在しているわけわけではないがね」
「しかし……ここでは生きられない」
「そう、だから私達はあの『森』で生きてきた。ここが全てに渡って『無』な分、あそこは全てに渡って『有』なのだから。軍人、我々エルフがおだやかで、大方に渡り無欲、新しいものを餓鬼のごとく追わずに神から与えられた場所の中で平和に……というよりはのんきに、かな……くらしていたのは、なにもかも『有』ったからなんだよ。そう、人には少々複雑すぎる、あの『森』のなかにね」
しかし…ヴェルゼンは思った。最近人は『森』に挑んできている。人は木を切り、森を砕いてそのうま味を吸い、それを便利に取り合えるよう、森の中に国境をひいた。エルフ達が唯一生きていけるあの場所に……それは、彼らにとって迷惑だろう……
「わかっているじゃないか、開明兵ヴェルゼン・ゼファーン」
「貴様……」
「おいおい、いまさら心の内を読んだからと言って怒るなよ。それよりも、そこまでわかっているならばこそ、そろそろ我々だって少しは困って来ていることに察しがついたのだろう?」
「ならば、どうする? 俺は歩兵だ。その辺の説明ぐらいしてくれるんだろうな」
「我々にしてみれば《共和国》よりは《教国》のほうが付き合うに楽な相手でね。『森』全体がお前たち《教国》の側にあって欲しいと思う者は、存外多いんだよ。そこである取引が成立してね。我々は我々の方法である物を取りのぞく。その代わり人は血でもって国境線をむこうに押しやる」
「だから血を流す人間の軍人も、この企ての一行に混ぜたわけだ」
「ご明察。その後しばらくは《教国》でゴタゴタおきそうな気配だが、それは我々が知ったことではないし、知りたくもないがね」
「森が戦場になるぞ」
「百年もすればその上をまた森がおおうさ」
物事が核心に近づくにつれ、ヴェルゼンは心臓の鼓動が早くなって行くのがわかった。最後の問いを発するには、勇気が必要だった。軍人にはその持ち合わせがあった。
「しかし、取りのぞくと言ったが、何を、どうやって? 何も持たないお前たちが?」
「あの大空魔艦を、これで」
そう言うとラーテナイは、すぐ後ろの虚を指ししめした。そこには壁があった。はるかなる、壁。そしてヴェルゼンの視点が定まった時、壁は鼓動していて、それは、ドラゴンだった。
その時、ヴェルゼンはなぜこの空間が全くの『無』なのかが分かった。ラーテナイの後ろにそびえたつドラゴン。口の端すらはるか彼らの頭上にあり、その体の終わりは闇の奥に消えていて見ることができない。山岳のようなこの一匹のドラゴンのためだけに、ここは存在する空間なのだから。この空間の全ての『有』は、ただこの生き物だけなのだから。そしてこの『有』は何かを『無』にするためだけの物……
それだけ考えると軍人の頭は限界になった。後は体が引きつぎ、ヴェルゼンは銃を構えると、ラーテナイに向け、引き金をしぼった。無駄なことだとどこかでは、わかっていたのだが。
また暗かったが、今度の暗さは自分にもわかるような気がした。だんだんとはっきりしていく頭の隅で、今のこの暗さは闇ではなく夜なのだ、と、ヴェルゼンはわかった。先刻木漏れ日が射していた枝の間から、星が一つ見えた。
その小さな冷たい輝きを目にしたとたん、ヴェルゼンは我にかえった。まず冷静に体全部を思い、どこも壊れていないことを確認してから、彼はゆっくりと身を起こした。彼は大きな古い木の下にいた。記憶の糸は、昼間ここでエルフと酒を飲んでから、夜のこの時まで切れずに続いていた。それをたどり終えたヴェルゼンは、自分が急にちっぽけな、つまらない存在に思えてきた。
その瞬間、彼は右手の金属の感触に気づいた。拳銃? いや、それは、銃ではなかった。ラーテナイと酒をくみかわした、古い、ゆがんだ銅のカップだった。銃はホルスターに入っていた。ヴェルゼンはカップを投げすて銃を手にとると、弾倉を抜いてそこから弾丸を一発づつはじき出した。おわるとスライドまでひいて、薬室からも弾をはじきだした。
発射された弾は一発もなかった。
とたん、ヴェルゼンははじけたように笑い始めた。銅のカップを、ドラゴンを背後にひかえたエルフに突きつけている真剣な自分を想像すると、とてつもなくおかしかった。こいつは、キュンナンにばれたらおおごとだ、と、彼は一人夜の森の大木の下で、身をよじり笑いころげていた。
第十章
1
それにしても……
冷めたコーヒーのおりが少し残ったマグをゆすりながら、シリルは空漠たる士官室をみわたし、感慨にふけった。
消化に悪かろう……
大勢があわただしく入ってきて、そして出ていったこの士官室の空気が、まだうずまいているような気がシリルはした。彼女は冷めたマグをテーブルに置いた。軍人がかかわると、ただの食卓まで戦場となるらしい。
一昨日首都軍管区飛行場を出港した直後、艦長は自分もふくめた将校全員に対し、国家が与えた命令書を読み上げた。その命令書は大部分の行程が『森』の上をとおる《教国》・《共和国》国境線上を、まるで縫うがごとく飛べ、と、この生まれたての船に命じていた。そして艦長の口から、公試の一部が政治的脅迫の手段にすりかえられることが告示されてから以来、艦内の生活はだいたいこのような光景のくりかえしと化してしまった。
そろそろ自分もいそがしそうにしなくては悪いかな、などと、シリルは珍しく殊勝なことを考えた。空は一面の雲、そして今や下は一面の『森』といった目標ひとつない有様だ。そしてこの大きな船は、時計、記秒時計、いくつかの計器、羅針盤、それに計算尺だけで国境ぞいの複雑な航路をとぶといった無茶苦茶を強いられているらしい。
ところが、士官室からでると、シリルはオーベロイとはちあわせした、ので、彼女は勤労精神にいましばらく出馬を見合わせてもらうことにした。
「こんにちわ、中尉」
「こんにちわ。中尉」
同時に、おなじセリフであいさつしあった二人は、同時に破顔した。
「いったいどうしたの?」
「私も昼食が食べたいんです」
「いそがしそうね」
「なんとか午前の内に、発進軌条への注油作業を終わらせてしまいたかったんですよ」
「飛行機なんて一機もないじゃない」
「いつ搭載の命令がくることか! なにせ相手は、あの命令書を書く連中ですからね」
注油作業のかなりを彼自身がやったであろうことを、その優雅な手は雄弁に物語っていた。オーベロイはどうやら何でも自分で処理し、しかも幸か不幸か彼自身の勤勉さと有能も手伝って、仕事がますます増えていく型の人物らしい。彼の背中にも、先刻ここであわただしく栄養補給……あれが『食事』だとはどうも言いかねる物があった……をしていった他の大勢と同様の空気がおどんでいた。
「でも、シリルも、あなたなりにいそがしいのでしょう?」
異邦人のことがわかるのは、やはり異邦人らしかった。
「わかってくれてうれしいわ。艦長ったら『君の方法でわかることが君の任務だ』って言うのよ。おかげで今朝から艦内を歩き通して、午前が終わったのにまだ半分も歩いてない。この軍艦、すこし大きすぎるわ」
一気にシリルがまくしたてたその時、窓から射しこむ陽の光が少し動いた。艦はまた針路を変えたらしかった。シリルとオーベロイは舷窓に顔をよせた。しかし、そのむこうにひろがる曇り空と黒い森には、見るかぎり何の変化もなかった。
「人間の手になる空飛ぶ軍艦で、はるかな高みから故郷を見下ろすご感想は?」
「意外と。神の視点から故郷をみる時は、やはり何か感じるかと自分でも期待していたのですが、意外とそうでもないんです」
が、そう言いつつもエルフは端正な顔に真剣な表情を浮かべて『そうでもない』はずの下界に見入っていた。その横顔を見たシリルは、刹那、そこに唇をふれさせたい衝動にかられた。それは濃かった。本当に。顔をわずか動かせば唇にふれる現実となるだけに。その誘惑を断ちきるには、今から口にするセリフを要したほどだった。
シリルはエルフに視線をすえたまま、それを言い放った。
「この大空魔艦のことをよろこばない『人』も、きっとこの下にはいるんでしょうね」
エルフはなにも答えなかった。
禁忌に触れた者と、禁忌に触れられた者との間は静まり返った。どこかで時の区切りを告げる、点鐘の音が小さくまた鳴った。
シリルに一瞥をくれると、無言でオーベロイは食べるために歩みさった。
そして誰もいなくなった。シリルはまた外を見た。そこは何もかわっていない……
が、シリルはわかったので満足だった。もちろんそれはまだ、他人に口で説明できるほど彼女の中で凝固してはいなかった。
が、何かが起こる、それだけはわかった。そしてわかった以上、彼女の方法でわかることが、艦長から命じられたシリルの任務であった以上、自身はすぐに艦長のもとにむかう義務が生じたことも、彼女には理解できた。
自分で理解し納得したシリルの行動はすばやかった。ブーツのかかとを鋼の床にうちならしながら、彼女は艦橋へとむかった。
行く手の兵が飛びのくように彼女に道をあけ敬礼する中を、進空式の時のように、快活でいながら幻想的な足取りで艦橋へとむかうシリルの口の端には、いつしか笑みが浮いていた。少なくとも、一つはハッキリとしたので。なぜ、あの危うい問いかけを発した瞬間、『森』からこの艦へ何事かがなされようとしているのが、目の前の端正なオーベロイの(もちろん、彼自身がその企てに直接加担するはずは無かったが)横顔を通してこの自分にわかったのかが。
思いおこせば簡単だった。あの問いかけの直後、彼の横顔からはもう、その一瞬前にシリルの唇を強烈に誘った『なにか』が完璧にぬぐいさられていたから。
満足だった。
艦橋まではまだ遠かった。歩きながらシリルの無意識は、そこに行きつくまでに幾度となく、本来いるはずのなかった場所から、本来いるはずだった場所を見下ろしていたオーベロイの表情を脳裏に反芻した。すると、その中の一つにシリルは突然、人間の言葉ではきっと言い表すことの不可能な、彼の思い、そしてさびしさを見出してしまっていた。
満足の中で、この発見はちいさな氷のトゲだった。だから、まだ満足ではあったが、シリルはすこしさびしく、そして切ない気持ちにも、させられてしまった。
2
大空魔艦の艦首主艦橋上層にのぼったシリルがまず感じたのは、この場に充満している活気と、それとは全く無関係に、しかし平然とここにいすわっている違和感だった。次いでシリルの五感をおおったのは、この場にいる男たちから発し艦橋におどんでいた彼らの臭いだった。
男の臭いは気にならなかった、が、その中に時間のたった冷めた食べ物の臭いがまじっているのが、少し興ざめだった。しかし興ざめすると同時にこの場を一陣の涼風がふきぬけ、おどんだ空気をふきはらった。彼女の姿を認めた艦長が、シリルにむかって言った。
「急に空が晴れだした。天測を実施し艦位を特定する所だ、シリル中尉」
艦長の肩ごしに外を見ると、確かに前方の一角が晴れはじめていて、そこから陽光が柱になって森に注いでいた。観測窓があけはなたれ、そこで誰かが六分儀を手になにか数字を読み始めていた。空気がいれかわり、そして天測作業がすすむにつれ、男たちの間に暖かな安堵……艦の正確な現在位置がわかる……がひろがっていくのが、シリルにはわかった。が、彼女が感じた最後の一つ、違和感だけはまだ平然と、依然すべてとは無関係に、この艦橋にいすわっている。
その時、観測窓のところから強烈な緊張が走った。同時にそれはシリルの中にすべりこみ、彼女が感じていた違和感ととけあった。
!
次の瞬間全ては激烈に臨界に達すると、シリルの中で全てを結びつけ明確な像を描いた。遅れてこの場の全員がそれを感じ、そして誰もが現実をうけいれるのにためらった瞬間、シリルはもう跳んでいた。
知っている中で最も強力な解呪の呪文を口にしながら、主羅針盤に飛びつくと、シリルはなんのためらいも見せず、素手のまま拳をその分厚いカバー・ガラスにぶちこんでいた。
全員が唖然とし、全員がその瞬間を確と見ていなかったので、全員の数だけ風評がうまれた。ある者はその時、羅針盤から怨霊がたちのぼったと言い張り、またべつの者はその時シリルの拳が光ったと、ことあるごとに語った。が、ハッキリと全員がみたのは、シリルの白い手をつたって鋼のデッキにしたたり落ちる鮮血と、彼女の手を食い破った割れたガラスの下で、ゆっくりと『正しい方向』にむかって動いていく羅針盤の指針だった。
耐えがたい沈黙のなか、それはのろのろと回り続け、ほとんど半回転してから、ようやくとまった。同時に海図台から数本の線が引かれる音がした。全員が海図台にむかってふりかえった。青白い顔をした士官が、そこに三人いた。第一航法士官はまだあきらめ悪く、海図に記入された現在位置を指でつつきながら、計算尺を動かしていた。航海長も同様に何事か計算していたが、終わると同時に彼の方は大声で伝声管に転舵を下命した。そして顔を上げ、皆が求めた回答を艦長にむかって口にしたのは、以前から青白い顔をした、副長のベイエーヌ大佐だった。
「本艦は国境線を越えています」
艦は回り始めていた。一瞬前までの平和な光景が、今や悪意をはらんでガラスのむこうで回っていた。人々はまだ茫然の余韻を引きずっていた。が、それでも次の瞬間、もう全員が各々の持ち場に散っていたのは、やはり彼らの練度の高さを物語ってはいた。配置についた各々が前にした機械は、おそらくもう彼らを裏切る側にはついていないはずだった。そのことを確認しおわると全員が同時に、彼らの機械を『正気に』させた魔法使いのことを思い出し、皆が彼女の姿を求めた。その、一瞬の人の濁流をたくみに泳ぎきったシリルは、天井から左右から射し込む陽光の中、艦橋の中心で全員に見出された。
進空式の時と同じだ、と皆が思った。彼女の次の言葉を全員が待った。それがあまりにも時代錯誤で、鋼鉄でできた空飛ぶ戦艦の艦橋で言われる言葉としては、以下のごとくふさわしくない代物ではあったにしても。
「艦長!」
そして、次の台詞で、白い手から鮮かに赤い血を流している彼女は、全員の期待に完璧にこたえた。
「ドラゴンがきます」
3
艦長が総員戦闘配置を下令した瞬間には、もう誰かが拡声器の『全艦通報』スイッチをいれていて、その前でラッパ手が高らかに『合戦用意、配置ニツケ』のメロディを吹きならしていた。とたん、大空魔艦の中身は、はじけたように回り始めた。
ドラゴンが来る、と言った恐怖感はあったが、同時にシリルは自分が安堵しているのもわかった。もし『彼ら』がドラゴンとかではなしに、目に見えない、さわることのできない、いや、わかりすらしない手段で大空魔艦を葬り去ることを決意したならば、彼女程度でどうにかできたはずはなかったのだから。
しかし、結局連中は彼らのもつ手段の中でも一番おろかな、そして我々にわかりやすい方法で事におよんでくれた。
シリルは砲熕兵器公試の時央部測的所から見た主砲の業火を思い出した。そして彼女は、あの大砲がある側にいて本当によかったと思った。弾丸と銃剣で坊主やエルフを殺せると証明したのは、この前の戦争でのこの国の軍隊だったはずだ。坊主とエルフに弾があたるのなら、彼らの操るドラゴンにも、きっと砲弾はあたるにちがいない。それは痛いはずだ……
「すまん!」
嵐のように全員が走り回っている中でひたっていたシリルを押しのけた異物は、この場でただひとり褐色の陸軍軍服を着ていた第一士官、ゼシエル大佐だった。喧騒の中を、彼のガラガラ声が豪快に突っ切った。
「艦長! ドラゴンか!?」
フォーンツの静かな声も、また不思議と喧騒の中、よく通った。
「その通りだ、大佐。なぜわかった」
「竜騎兵だ。全ての翼竜が静めるための『眠り草』を吐き出し、グルグル言いだしている。鞍をつけさせて実包も配りたい。許可を」
「貴官に一任する。ただし……」
「わかってる、竜騎兵に限らず大空魔艦乗組の我々陸軍に対する最終的な指揮権はもちろん君に帰属する。ただひとつだけ、艦長、噴進砲の発射だけは俺の管制下に置きたい」
「『撃チ方始メ』の号令がかかるまでは発砲するな。それ以後の発射管制は全て貴官に一任する。その代わり、」
一瞬ゆるんだゼシエルの顔がすぐまた緊張した。が、その前の艦長の目が、一瞬少年のように愉快そうな光をたたえたのを、一部始終を見ていたシリルは見のがさなかった。
「……あの三千重量単位の鉄塊、絶対に全部奴にぶちこめ。これは命令だ。陸軍第一士官ゼシエル・ギ・ゴーツ陸軍大佐」
笑みこそ浮かべなかったものの、ゼシエルは顔全体にハッキリと喜色を浮かべた。
この寸劇が終わった瞬間、周囲の動きが静まった。いま大空魔艦は政治的脅迫の道具から、闘いのための兵器となったのだ。
「艦長」
顔の青白い、いつも無表情なベイエーヌ副長がフォーンツにむかって言った。
「合戦準備完了。総員配置についています」
「それは航空管制所もふくめてのことか?」
この世界の絶対権力者のためらいに、副長はいつものように平然と答えた。
「はい」
それを聞いた艦長は、静かにシリルの脇に歩みよると、小声でたずねた。
「中尉」
「はい艦長」
「手は大丈夫なのか?」
「ずいぶん痛いです」
「そうか……オーベロイ中尉と会ったか?」
「会いました」
「彼は大丈夫か?」
「たぶん」
このあいまいな、軍艦での戦闘配置の瞬間にふさわしくない回答に、フォーンツは沈黙と視線で応えた。が、神経が俗人とはおそらく別の物質でできていたシリルは、その視線を受けてもおくせずに、さらさらと話した。
「何か働きかけはあったようです。私にはそれ以上は分かりません。でも、たった一人の工作で大戦艦が爆沈しよう物なら、ひどいシゴキにあった水兵の手で共和国海軍は三回か四回は火薬庫に火をしかけられて全滅していますよ。公試中の戦闘配置とはいえ、今は本当の戦闘配置下に、当艦はあるはずですよね」
彼を見すえ、シリルは言った。艦長の質問に対し逆に問いたたむように部下が応じるなぞ、殺し合いの場に向かって突進しつつある軍艦の艦橋では、完全に常軌を逸したやりとりだった。フォーンツがそれに対する答えを思案した瞬間、電話を手にした水兵が叫んだ。
「艦長! 砲術長からです」
そうだ。最新の電気戦艦の艦橋で、今、自分はドラゴンを射つために部下に指示をしなくてはならないのだ。常軌を逸した応答。常軌を逸した状況。しかしそれら全てが実は現実のこの瞬間、自分は、すくなくとも自分だけは正常(しかし『正常』とは何だろう)でなくてはならないのだ。
艦長は電話に出た。ただの魔法使いで、艦長の葛藤まで見すかすことのできなかったシリルには、その、電話に応えている艦長の後ろ姿がとてもたのもしく見えた。そしてそれを確認すると、彼女は自分のできることをしに行くために、大空魔艦の艦橋をでた。
3
この『ニセ艦橋』、央部測的所の全員が、最初に一言「艦長?」といったきり黙って受話器に耳をあてている、砲術長リンデ・ガネージ海軍中佐の背中を食い入るようにみていた。やがてその彼は姿のみえない相手にむかって一回うなずくと、受話器を置き、ふりむいてこの場の全員の期待の半分に応え、その半分をふきとばす一言を口にした。
「諸君。本当にドラゴンだそうだ。実弾の配付が許可された。以上、各弾庫長に通達せよ」
先刻艦橋にうずまいた緊張が、ここでも半刻遅れで一気にあふれだした。その中で、リンデは己に言い聞かせるように一言「よかった」とつぶやき、この自分の城、今実戦にむかいつつある央部測的所を一瞥した。
すると、真っ青な顔をした水兵と、かれは目があった。まだ少年のような兵は、完全に動転していた。その証拠に、戦闘配置であるにもかかわらず、彼は彼の任務をすてている。
「な、何が『よかった』のでありますか?」
「大空魔艦の主砲が、中古だったことがさ」
まだ『古強者』のよさを分かるには幼すぎた少年は、あからさまに失望の表情を浮かべた。が、リンデはそんな少年を見放す気にはなれなかった。
「いいか、百重量単位以上の砲弾をたたき出し、その時百ヶ所以上がガンガン動く大口径砲ってのは、実際使えるようにするのにまあ二カ月はかかるんだ。その点本艦の主砲は中古には違いないが〈前衛〉号の連中が慣らしを終えてくれているので、幸いなるかな、今この瞬間、弾を撃つことができる。さあ、俺たちは戦えるんだ! 水兵、配置につけ!」
ガクガクとうなずき敬礼すると、兵は配置についた。がそれを見ていた、リンデだってドラゴンと戦うのは、それどころか見ることすら初めてなのだ。こわくないはずがない。
その時、壁の拡声器がパリパリと音をたて、預言者たる副長の口から、大空魔艦の神にして王、艦長フォーンツ海軍大佐代将の訓示があることが、全艦に通報された。
2
「総員に達する。こちらは艦長である。
現在われらが〈共和制〉号は敵の奸計におちいり《教国》領内を航行するを止むない状況下にある。そしてこの奸計により彼らは今、協定の元、《教国》領を侵犯している我々を攻撃する権利を有するにいたった。おそらく数刻後に当艦は、創造手がつくりたもうた最悪の生物たるドラゴンと、相まみえることとなるであろう。この現状を惹起した責は、一に本職に帰するものである。
しかし諸君、いま同時に我々は、この彼らなりの方法でなされる挑戦、時間の腐海の奥から引きずりあげられた汚物たる怪物を、この最新兵器に対して叩きつけることによりなされる、人の文明に対する底しれぬ暗い邪念に起因した挑戦、に対し、創意と、団結と、血潮とによって今日まで築かれその営みをなしてきたわれらが《共和国》の軍人として相対せねばならないことも、また事実である。
そう! いまここでこの歴史の流れに逆行した試みの全てを打ち砕き、それを後世の判断、裁きにゆだねることが出来るか否か。この重大な瞬間に立ち会ったわれわれは、歴史の当事者、証人としての責務をはたせるか否かも、また同時に問われているのである。
さらに諸君! お互い多くもない俸給から天引きされた税金で建造されたこの大空魔艦が、今ここで奴らの毒牙にかかってみろ。おれたちは《教国》の坊主どもから『我らドラゴンの爪にかかった、史上最大のこけおどし』とかいわれるんだぞ。諸君、単純にいってこの方が本職は頭にくる。諸君も同様だと本職は切に希望してやまない。
全乗組員諸君! きたるカーニバル軍事観閲行進で、最後尾を堂々と行進する権利は、今年はまちがいなく我々の物だ。
そのためにも勝って、そして生きて帰ろう。
艦長からは以上である」
3
「眠り草、はいたって? 隊長」
シリルがそう声をかけても、まき上げられたゼンマイのように緊張して整列し、艦長の訓示を聞いていた竜騎兵の隊列は、微動だにしなかった。その前に仁王立ちしていたアトレスが興奮と怒りがないまじった表情で、シリルにむきなおりなにかをいいかけたが、その時、待機区画すぐ横の竜納屋から、鋭い竜の鳴き声が上がり、続いて、鋼鉄の隔壁を何かで派手に引っかく音がそれにまじった。
あからさまにやる気満々な艦長の訓示の間じゅう、隔壁のむこうの竜納屋には不気味な音が満ちていた。訓示が終わるとその後を、アトレスが静かについだ。
「そういうわけだ。うせな、魔法使い」
もちろん、シリルはうせるつもりなぞなかった。彼女はアトレスを押しのけた。本職の竜騎兵すら入るのを見合わしている、気のたった竜がつまった竜納屋のハッチにシリルが手をかけるのを見て、隊列が一瞬とまどい隊長の指示を請うた。が、竜どもにすこしおどしつけられればいい、と、アトレスはシリルのしたいようにさせるつもりだった。
シリルが竜納屋に姿を消すと、中から竜の吠え声と正体不明の騒音がいりまじって聞こえてきた。さすがに無視をよそおっていたアトレスもふくめた全員がそわそわしだした。
すると、その音が突然とだえた。隊長と部下たちは一瞬目をあわせると、艦長の息子が列をくずしたのをきっかけに、全員がかたまりになって竜納屋におしよせた。
そこで一番だらしなくシリルにしなだれかかっていたのは、よりにもよってアトレスの相棒の竜だった。はき出された『眠り草』と脱糞の臭気の中から、大空魔艦の竜全部にかしづかれた魔法使いは、竜騎兵たちにむかって笑った。誰もみていなかったあの一瞬、彼女が何をしたのかは謎だった。が、シリルの顔に浮かんだ妖絶なほほえみは、この人物にそなわった、まとう黒軍服と黒ローブの色にふさわしい、底暗い才能の一端を全員に感じさせた。
全員が感じた時にはもう、シリルは露呈させた己をきれいにしまいこんでいた。そして集まった男達の中に歩み入ると、明るい口調で全員を見回しながら言った。
「で、どうするの? この鋼の空飛ぶ軍艦が八門の二十単位砲で撃とうとしているドラゴンを、竜にまたがり天駆けて、その鉄砲で狩りにいかれると?」
「分かってるじゃないか。お前竜騎兵か?」
アトレスが全員の気持ちを代弁した。が、その気持ちを、竜騎兵ではなかったシリルは『フン』の一息でかたづけ、言い捨てた。
「ではその心意気に。無駄死にバンザイ」
アトレスは大きなこぶしでシリルの胸ぐらをつかみあげた。シリルの頭から黒金の軍帽が落ち、床に転がった。詰め襟のホックがはずれ、そこから白いのどがみえた。
「隊長……」
爪先立ちになったシリルは、のどをのばし苦悶の表情を浮かべた。が、次の台詞をしぼり出した彼女が再び浮かべたのは、先刻露呈させた本性にふさわしい、ゆがんだ法悦に満ちた表情だった。
「……おそうべき所を、殺すべき奴を、私が教えてあげるわ」
「それは何だ?」
「……敵の幕営と、そこにいる、ドラゴンをあやつっている術者」
「ふうん」
あえぎあえぎ話すシリルの顔をぬめまわし、ゆっくりとアトレスは彼女をはなした。
「一緒は無理だ。竜は二人乗りできんからな」
「半人かしてよ」
「わかるように言え」
「ついていくから。私の方法で」
そう言うと、シリルは自分をとりかこんだ男の壁を、グルリと見まわした。彼女は次々とかき分け、入れかえながら男を吟味し続けた。それをしている間じゅう、彼女はずっとつぶやき続けていたが、それは結局呪文でもなんでもない、単なる『どいつもこいつも』と言った悪態にすぎなかった。
その時、彼女の視線は、壁の一番奥にいた金髪の竜騎兵の上で止まった。壁に手をつっこみそいつを眼前に引き出すと、シリルはドギマギしているその細身の竜騎兵の顔を見すえた。そしてようやく満足そうな顔をしたシリルは、デッキに転がった自分の軍帽をひろった。魔法使いに引き出され、見すえられたのは、艦長のせがれ、新参者、たかが三年志願兵で皆の足手まといの、エルセだった。
シリルに間近から見すえられたエルセは、顔を真っ赤にして彼女の瞳から目をそらしかけた。すると、彼女は鋼鉄のデッキをブーツのかかとで一蹴して、どなった。
「おびえるな!」
勇気をふりしぼりエルセは魔法使いの前にふみとどまった。シリルは、彼の頭に乗っている褐色の陸軍帽をとり、空いた手で落ちていた自分の黒い神務省軍帽を拾うと、二つの帽子を左手でカードを持つような形に持った。
左手の二つの帽子の裏を自分にむけ、シリルは右手をじわりと握りしめた。羅針盤のガラスにかまれた生傷がバックリと開いて、血が赤く光る毒虫のように、白い指にからんだ。
男も顔をしかめた瞬間、シリルは素早く右手を舞わし二つの帽子の裏に何事か血文字を書きつけ、騎兵帽子をエルセの頭に乗せ、彼のあごに帽子のひもをたたきこんだ。そしてシリルは自分の黒帽子を目深にかぶると両手を彼の両肩にのせて、ゆっくりと、今度こそ魔法使いの呪文を口から流し出した。
「私のすることをさわがず、素直に受け止めて。いい? いくわよ……
『あなたの瞳は……』」
そう言うとシリルは、つ、と爪先立って自分の右目をエルセの右目にふれあわせた。
「『……私の瞳。あなたの耳は……』」
ついで彼女は、右の耳を彼の右耳にこすりあわせた。
「『……私の耳。そしてあなたの口は……』」
呪文と同時に唇が温かくおおわれ、濡れた舌にのって何かが自分の中にすべりこんでくるのまではわかった。皆の視線も痛いほど感じた。が、シリルの前のエルセに何ができようわけもない。
ネットリと少年から唇をはなすと、役得つきではあったが自分の義務をはたしたシリルは、満足そうに呪文の最後を口にした。
「『……私の口である』……大きく息をすってぇ、はいてぇ、ハイおしまい。みて隊長。これでだいじょうぶ」
「ん、あ、こ、『これでだいじょうぶ』」
壁の拡声器が、ドラゴンが見えた、とさけんだ。機械のように口をあけしめしながら、声帯を震わせ、自分と同じ文句を口にするエルセの背中を楽しそうに、シリルはポンとたたいた。その音を合図にしたかのようにその瞬間、大空魔艦は主砲の火蓋を切った。
茫然としているエルセと、悠然としているシリル。触れ合った二人の右の瞳には、油を落としたような透けた色が重なりあって浮かび、漂っていた。
第十一章
1
「見えーず」
この一言で、リンデはいやな予感がした。
「続いて見えーず」
またそれが続いて、彼は自分が感じた不吉な感触が何であるのか、突然理解がいった。そのとたん、彼は全てをほうり出してさけびたくなった。が、その時スピーカーが突然陸軍の突撃ラッパを吹奏し『竜騎兵が出る!』とがなったので、彼は『撃チ方マテ』を下令し考えをまとめる時間をえることができた。
一万などと言った近距離で、突然見張りがドラゴンを発見したこと自体は、別段もうどうでもよかった。相手は魔法の手段で出てくるのだから、その程度の奇襲はむしろかえって拍子抜けだった。たちまち両者の距離がつまる中、自分の砲術指揮眼鏡の中でみるみるふくれ上がる、生きる山岳のようなその姿に感じた恐怖も、見張りの一人が卒倒したことも、もう過ぎたことだった。大事をとった八千での第一射。七千五百に入った瞬間の修正二射目。その興奮と期待も、すでにはるかな過去だった。
大口径砲の砲術とは、撃った砲弾がどのように外れるのかをいち早く観測・分析して、冷静に、そして素早くそれを修正して行き、できるだけ早い『その内に』砲弾を目標に当てる技術の結晶、のはずだった。海と陸では、それは正しかったし、今この瞬間も完璧に正しい。しかし、それは巻きあがる泥塊、わきあがる水柱が存在してこそできる技だった。空で外れた砲弾は、放蕩息子のごとくどこでどうなったかを撃ち手に何も語ってくれない。そう、この空では、これら世界最高の観測機材を生かすため唯一そして絶対必要な、砲弾がどのように外れて着弾したかのデータが全く得られないのだった。つまり、砲術長につきつけられたのは、この砲術設備を使っては絶対にドラゴンを倒せない、といった冷徹な事実だったのだ。八門の主砲と八門の副砲はガラクタと化したのだ
『撃チ方マテ』がかかったので大空魔艦は舵を切りはじめていた。『世界最高の観測機材』のためには、艦長が舵を切ることすらはばかられるのだ。そして砲術の束縛から解放された艦長のたくみな操艦で、大空魔艦はドラゴンとの距離を一定にたもち続けた。
リンデは艦橋への直通電話をとった。すると、なぜかいきなり艦長がでた。
「艦長。砲術長です」
『報告せよ』
「砲術長より艦長へ。弾着観測不能。砲弾のあたる見こみが、現状ではたちません」
『あたるようにしたまえ』
その高圧的な一言が触媒となり砲術長の中で知識と経験が化合され、するとリンデは自分も夢想だにしなかった回答を口にしていた。
「艦長、艦をドラゴンに寄せてください」
『どのくらい?』
リンデが艦長に要求した距離は、今の海軍の感覚ではほとんど『大空魔艦をドラゴンにぶつけろ』と言っているに等しい代物だった。この一言で、皆がどよめくのがリンデにはわかった。もっともその半分は彼の想像とちがって、陽光にうろこをきらめかせるドラゴンに対する賛嘆の声だった。間髪をいれず誰かがそれに焦点をあわせて距離をとった。そしてドラゴンの全長がとんでもなくデカイこともわかった。でかい。なんてでかい! そのドラゴンに砲弾をあてるため、砲術長は大空魔艦をつっこませるのだ。まるで……
『まるで海賊だな』
「ちがいます。海軍です。各砲からの直接射撃で全部あててみせます。操艦はよろしく」
艦長の返事をまたず、リンデは電話を切った。手持ちの砲を思うがまま、目の前の目標に撃ちまくる。大砲屋の夢が百年前の技術に先祖がえりするとはいえかなうのだ。まてまて。ならばあのドラゴンなぞ万年前の技術の産物じゃないか。艦長すらおれのいいなりだ。勝利はやはり砲の元にあるのだ。ああ、大砲万歳!
央部測的所の全員がリンデをみていた。彼の決意を感じた全員は同じ感慨を共有し、この場は熱かった。リンデは胸をはると言った。
「央部測的所は璽後、艦とドラゴンとの距離を継続観測。その結果を各砲塔ならびに砲座に継続伝達する。ただし実際の発射指揮は央部測的所はこれを各砲塔・砲長の判断に委ねることとする。砲側射撃、配置につけ。以上ただちに各砲塔・砲長、弾庫長にこれを伝達せよ」
唱和。
「おおうっ!」
海軍です、とぬかした人物が、海賊のように海軍で音頭をとった。人をとやかく言う資格をもつ者なぞ、結局この世界には存在しないのだ。
2
カチャン、と外れる音がして、オーベロイはふりかえった。赤くペイントされた貯蔵航空機用軽燃料の非常投棄ハンドルに手をかけたシリルがそこにいた。音は、そのハンドルの安全装置が外された音だった。で、シリルは、彼と目が合うまで待ってから、口を開いた。
「貯蔵航空機用軽燃料投棄ハンドルの安全装置を外していない。砲戦下では重大な規則違反のはずよ」
戦闘配置がかかるのと同時に、彼は航空機指揮所の兵を、規定どおり仮包帯所の応援にやっていた。同様に、防炎気密ハッチの類も、全て閉鎖していた。規定通りでなかったのは、今シリルが手にしている航空機用軽燃料タンクにつながった赤い軽燃料投棄のハンドルだけだった。下は森だ。
ここは二人だけだった。
とたん、オーベロイは笑い始めた。彼にしては粘りのある、人のカンにさわる笑い声だった。シリルは一瞬猛烈に腹がたったので、このままハンドルを開き森に軽燃料をぶちまけてやろうかと思った。が、オーベロイが話しだしたので、彼女はそれを思い止まった。
「私を脅迫して真実にせまろうとした中では、これが一番の傑作だ」
「ごめんね。しょせん私は人間だから、こんな方法でしか真実にせまれないのよ。脅迫ついでにお願い、とりあえず話は口でして」
「片方の目を人に貸しているからでしょう」
「ついでに脳の半分も。それに報告は文書で書くからね。皆にわかるように。人の世界では、真実より紙の表面に並んでいることがらの方が、信用されるから」
シリルも、まだハンドルに手をかけてはいたが、リラックスしてオーベロイの打ち明け話を聞くことにした。
3
当たり前のような顔をしてあの『裏』からドラゴンを呼び出し(そのかわりあそこには先までたれこめていた雲が入ったらしい。いまごろは真っ白になっているんだろう)その姿を写している、大天幕の真ん中に置かれた水晶の玉を見、いとおしげになでながら、ラーテナイはヴェルゼンに言った。
「聞けよ、開明兵。俺たちのこの世界は、岩山の間にかろうじて存在する、大木が一本だけはえた、小さい原っぱみたいな物なんだ」
× × ×
「でも……」
鉄の隔壁の中で、オーベロイはシリルに言っていた。
「全ての草花と木が同時にあることにより初めて、そこは岩山のすきまでありながら、土と水のある世界となっているはずなんです」
「その大木がふるびてきたわけね」
「でも、ならば果実を草花の中に落とし、種を植え仲間を、子孫をふやせばいい」
× × ×
ラーテナイは人間の兵隊に塹壕を掘らせ、この幕営の護りにつけていた。人間の坊主たちもそこにいて、自らは信仰をもって兵を鼓舞しているつもりだったが、兵におだてられ体よく前におしやられ、結局は彼らの弾除けとなっていた。大天幕の中は、二人きりだった。
「ヴェルゼン、これは、この企ては、世界に秩序をあたえる高潔な庭師でもある」
「さしずめ『雑草』をかり取り、新しい木をそだてるための庭師、って所ですか」
「大木の元にあってこそ草花も育つんでね。世界には、鋭い鎌と志を持った庭師が必要なんだ。種は意志の元に植えられなくてはいけない。そしてもはや草花が遠慮する季節じゃない以上、あげく『雑草』がはびこる以上、強い意志と共に種と芽ををまもり、育てること、姿勢が必要となる。それにしても……」
水晶玉の中は荒れ狂うドラゴンと砲弾の爆裂煙でわきかえっていた。
「あの大空魔艦は突然わいた雷雲みたいなもんだな。落雷すると迷惑だ。だから草かりの前に、まずふきはらう必要がある」
× × ×
「でも昨今はその大木の元に小さな草花、そう『雑草』が増えたから、落ちた種が芽吹き、大木となる可能性はまずないと思うわ。『雑草』をかり取る必要はないの?」
「『雑草』と、大木の芽吹きとの区別をどうやって、だれがつけるのです? そもそも『雑草』とはなんです? 造られた庭ではなく、そこは皆がいる世界なんです。それに種の結果が朽ち、土にかえるのだとしても、土にかえる以上それは何かの何かになる可能性をもつ。世界は回るんです。存在する以上、途切れることなく。シリル、そして私もまたたぶん、この『雑草』の中に落ちた一粒の種なんです。私は、自身が小さな、軽い一粒でも、根づく努力はするつもりです」
「あなたがたの『森』で学んだ私も、また一粒の種なのね。でも、あなたの話と『種』の源である、大木が諸々に負けてくずれるかもしれない。今まさにそうなりかけている。ちがう? オーベロイ中尉」
「シリルは知っています? 森がひろがるきっかけの大きな一つは、倒木によるんです。倒れ、皆に躯を与えることにより、それを足がかりにまた全てが始まる」
「気が遠くなりそうな話ね」
オーベロイは薄く笑った。
「私達は気が長いんです」
シリルはようやく軽燃料投棄ハンドルから手をはなした。エルフの薄い笑いは長続きはせず、彼はまた話し始めた。
「人の『知恵』と機械の力。私達の魔法の類。両者はますます近づきつつあり、その区別はつきがたくなっている。よかれあしかれ、全てが均等にならされつつある新しい時代の入口に、いま我々はいるのです。そう、『現代』とでも言うべき新しい時代の。そこはもう誰かが『天誅』をかたり自分の都合だけで大鎌をふるうと、ふるった者もふくめその全てが狂う世界のはずだ。それは賭けとしてはあまりにも危険にすぎ、結果がどうあれ、救われる者より、救われない者のほうがはるかに多いだろう。だから、それをさせてはならない。少なくとも私と私の仲間たちはそう思っている」
「でも、まだ鎌の切れ味を試したい『人』達もいるわけね。自分に温かい時間、温かかった時間、を、未来にむかってなおも長続きさせようとする人達が。自分の損得を勘定し、それを護ろうとする所は、結局人間もあなたがたもおんなじじゃない」
「シリル。私達『森の人』を、『神』か何かだと思っていたんですか?」
「まだそう思いたい者どもは、私達の中にもあなたがたの中にも、けっこう多そうよ」
再び、こだまのように大砲を撃つ音が聞こえてきた。ただ先刻とは異なり、その音は全く不ぞろいに放辣で、その間を人間の怒声と様々な騒音が走り回った。今の軍艦の大砲はいっぺんに撃たなくちゃあたらないはず……とシリルが思ったとたん、衝撃とともに床がゆらぐと、何かふきだす音がそれにまじった。
× × ×
開明兵はゲラゲラと笑った。キュンナンに恰好のみやげ話ができたと思った。
「雷雲をふきはらう、だ? 庭師にそんなことができるものか。庭師だって? 鋭い鎌と高い意志を持つ庭師!? 笑わせるな! ここはそんなケチな庭じゃなく、世界だ。世界を律することが出来るのは『神』だけだ。お前さんの言っている庭師なんぞ、さしずめおれからみればさびた鎌を手にし、カラカラに干上がった『死神』といった所だぜ」
「それでも、お前の頭にあわせて言うならそれもまた『神』にはちがいない。そして教えてやろう、開明兵。『神』すらもまた、たぶん人間が発明したものなのさ。しかも、自分のために。自分の希望と、欲望と、そして絶望のためにね」
「おれもお前に教えてやる。生の草に鎌を入れるとそれはたちまち切れなくなるんだ。おれの家は地主でね。それにおれは兵隊でね。山岳兵と言うものが世にはあってそいつに言わせると山で雷にあったら、まず刀と鉄砲をすてるんだそうだ。『庭師』であれ『死神』であれ、草に鎌をとられ雲をふきはらおうとじたばたしている愉快なやつにこそ、雷は落ちそうだな。そして、それは、お前だ。お前たちだ。その後また世界は、現実は回るのさ。大木であれ、庭師であれ、死神であれ、エルフであれ。そいつの躯を肥やしにして」
× × ×
「オーベロイ。本当に、あなたと私、根づく努力をする『種』ならば、私に教えて、力を貸して。たがい落ちた小さな地面のために、この『雑草』におおわれた大空魔艦のために」
「シリル、死ぬのがこわい?」
シリルはオーベロイから顔をそむけないようにするのが精一杯だった。
「わからない、死んだことがないから。でも多くの人が誰かの思惑でいなくなり、たくさんの絆が突然断ち切られるのは、いや……」
シリルの目に、涙があふれた。
「でも、多分大空魔艦には、この艦にだけはいま振りおろされようとしているその無分別な大鎌をたたき折る力がある。けど同時に、その時大空魔艦は新しい機械仕掛けの大鎌になるかもしれない。自分がその誕生に手を貸すことになるかと思うと、それは、とても、こわい……」
黒い左の瞳からも、油のたゆたいの中にあるエルセとわかちあった右の瞳からも、彼女のほほを涙は等しくしたたった。
「シリル。涙の奥に逃げてはいけない。あなたはもうわかっているはずだ。そう、しょせん鎌は鎌なんです。死神の鎌も、我々人の手にある鎌も。でもシリル。人の手にある限り、多分鎌は人が自らの手で世界を造る『道具』になる『可能性』をも、持つんです」
その時また艦に鈍い衝撃が走った。
床がゆらいだ。その瞬間シリルにはわかった。最初にこの大空魔艦に乗りこんで、一瞥した『石』が反射していた怨念。それは……
『石』は『彼ら』が送ってよこしたのだ。彼らの考えを人間の世界に根づかせるために。
「分かったでしょう? 結局私も、力で自分と主義主張の異なった相手をつぶそうとする奴にすぎないんです」
「サラマンダーがA砲塔にはいりこんできたときのこと、おぼえてる?」
「沈んだ潜水艦の話を、あなたは少年にしたんですって」
「『石』がこの大空魔艦に積まれるのを阻止するために、最後に輸送船を砲撃した怪潜水艦。その潜水艦は軍艦島のすぐ近くの湾内、安全な湾内で意味なく沈没し、わたしが霊をはらったあの潜水艦…だった…のね。わたしの祖国、《共和国》の。あなた方は艦を沈めて乗員の口を封じ、私をつかって霊まで封じさせた……」
「時間がない。この大空魔艦を沈めたい? シリル?」
シリルはこの男を、この男の背景を、いや、この大空魔艦にかかわっている全てをこばみたくなった。しかし、もう真実を知ってしまった彼女には、自分にそれをする資格がないのが、強烈につらかった。しかし、このつらさは半分、目の前のエルフのせいでもあった。それを言いたかった。が、口を開いたのはエルフだった。
「決断しなさい、シリル。手を切るかもしれない、大木の芽をそぐかもしれない、そして武器にもなる、これは危険な道具だ。でもそれを人の手に残したいのならば。竜騎兵に目を貸してあるんですよね」
「見て……くれる?」
「いいですとも、シリル」
オーベロイは右手の親指で彼女の右目をぬぐった。のびあがり、オーベロイの吐息を感じながら、彼女は右目を彼の右目に触れ合わせた。そして彼女は、今日は役得の多い日だ、と自分をいつわることにより、自分が自分の住んできた世界の破壊と、新しい世界の創造に手を貸す、といった恐ろしい事実から目をそらそうとした。だから、彼女はこんなことを言った。
「この恰好、見られたら叱られそう」
「大丈夫。ハッチは閉塞してありますよ」
エルフも恐ろしかった。
重なった二人の瞳の向こうにいたのは、この場にいる一人と、その人物と異なった軍服でのみ、識別が可能な『森の人』だった。
4
今や大空魔艦は、千四百五十七人の熱狂を空間にぶちまけつつあった。全ての砲はまるでカーニバルの花火のように炎をふきあげ、大空魔艦全体を無茶苦茶にゆさぶっていた。
この瞬間、ニセ艦橋、央部測的所にいるリンデ砲術長は、今の自分の立場が猛烈にくやしかった。ここでは砲術を志した自分の夢の現れ、そしてその熱狂の様をみることはできても、その中に飛びこむことができなかった。まだ測的所はドラゴンとの距離その他諸元を各砲に伝えてはいたが、それが全くの徒労なことはいまや一目瞭然だった。一度、B砲塔が左右の砲で別々の種類の砲弾を撃っているのに気づいたリンデは、それを詰問することで熱狂の一端に加わろうとしたのだが、電話でのその試みは理解不能な罵詈雑言と、電話機がぶちこわされる雑音とで言下に断ち切られてしまった。大空魔艦とドラゴンは鋭角を描いてみるみる接近し、いまや距離は五百をきりかけている。これで外す奴がいたら、その時はそいつを即罷免して俺が…… が、もはやそのような観測すら不可能だった。弾薬の消費報告を記入した小さな黒板を、兵がリンデに示した。留弾。徹甲弾。半徹甲弾。さらになんのつもりか塩をつめこんだ演習用の弾丸までもが、この空間をとびかっている。煙、炎、鉄片、そしてドラゴンと塩! 塩!
今この場に生肉をほうりこんだら、落ちるまでに料理ができそうだ。
ドラゴンの巨体は炸裂する砲弾で、強火のフライパンのごとくはぜかえっていた。すでに得体の知れない体液が一筋、二筋と糸を引いている。それでも、やつは突進してくる。みんな上手くあててやがる。それにしてもすごい。あれだけの数の砲弾を食らっても、こうもピンピンしていられるなんて……
「あっ!」
砲弾はドラゴン本体ではなく、そのうろこをふき飛ばしているだけだ! 身はなんともなっちゃいない。リンデは兵が床におとした弾薬消費表の黒板をひろった。はがれ落ちるのを最初から目算した装甲とは、なんと偉大な発想の転換だ。それに打ち勝つにはとにかく一発でも多くあて、奴のうろこをはぐしかない。彼は砲弾の消費率を計算し始めた。
「砲術長! 砲術ち…」
計算に夢中になっていたリンデは、黒板を持っていた兵がなぜ射撃方位盤の影から自分を呼んでいるのかさっぱりわからなかった。
「何だ!」
「外!」
リンデがふりむくと、すぐそこにドラゴンがいた。大砲は轟いた。せまい空間の中を轟音と共にふきあがる砲煙が濁流となって走る。その隙間を様々な物が飛びかった。次の瞬間煙のむこうでドラゴンが鎌首をもたげた。その時、砲術長はドラゴンと目があった。
ああ、あれは生き物だ。そしてあいつは、この鋼の箱の中に、自分と同様の生き物がたくさんいることが、わかったのだろうか?
この大きくすばらしいドラゴンは今、自分にむけられた炎と鉄の『しかえし』をしようとしている。リンデはそう思った。そして、しかえしだとするとこれはすごいことに……
ドラゴンが吐き出した炎はまさに『しかえし』にふさわしい物だった。そのひとなめで二重になった央部測的所のガラスは次々と砕け散り、熱風がまいこむ中、リンデは持ち場の放棄を命令した。炎をまきこんで、左主翼のモーターはプロペラもろとも火だるまとなった。そしてすいこまれた火の濁流は艦本体をおおいつくし、遙かに長く後方へと吹き出した。舷側に描かれた共和国国章の天秤もろとも、広大な面積の塗装が枯れ葉のような音をたてて燃え上がった。その炎が原を、ドラゴンは結束させたワイヤーのような尾でひと打ちした。まるで缶を棒でひっぱたくみたいに。
さらに、もう一回!
5
着剣した騎兵カービンをを背負い、大空魔艦竜騎兵は今、最若輩の三年志願兵を先頭に空を駆けていた。竜は駆け、風はうなり、船からはみるみる遠ざかりつつある。が、主砲は轟くたびその衝撃で全員の背中をどやしつけ、その中を時折、それよりはるかに太いドラゴンの声が押しわたった。竜の中にはしきりとそれを気にするものもいた。しかし、上気し、先頭を駆けているエルセはまっしぐらにある一点を目ざし、駆けた。
ただ不安なのは『目』が漠とした方向しかしめしてくれていない。先刻の口づけの感触と興奮がまだ駆け巡っている少年の脳裏には、それがシリルの限界である現実なぞ、一片たりとも思い浮かばなかい。そして幸いなのか、耳をうつ風の音と、初めての実戦に食いしばられた口のおかげで、少年が魔法使いとエルフのやりとりを知ることは、なかった。憑かれたようにまっしぐらに飛ぶ少年。脇で少年を見ていたアトレスは、心配になった。もし気のきいた敵がここにいたら、こんなまっすぐ飛ぶ奴はたちまち撃ち落とされる。彼は口に手をあて、大声でエルセに呼びかけた。
「大丈夫かぁー エルセェッー」
その一声で少年は冷め、われにかえった。
大丈夫ではなかった。経験も、知識も、何もない自分が、ただ得体のしれない魔女に気にいられたという事実だけで、先陣を切っているのだ。全員の道を示しているのだ。恐怖で全身が総毛だち、冷汗が吹き出るのが分かった。とたん、彼は泣きたくなった。現実に彼を引きもどした隊長をうらみたくなった。
その時、本当に右の目が涙で曇った。そして、二度三度まぶたをしばたたくと、涙は瞳からあふれだし、熱くゴーグルの中を舞って光った。
反射的に、エルセはゴーグルをむしりとった。風が正面から目を射る。一瞬つらかった。が、誰かが何かを一つ乗り越えたのがわかり、その感触に勇気づけられた少年は、吹きすさぶ風にあらがい、目を見ひらいた。涙は吹きはらわれ、全世界に焦点があった。
少年の行き足は確かになった。それはシリルの気に入らなかったアトレスにもわかり、彼には肉眼から経験を介して、少年の背中越しにたくみに隠蔽された敵の幕営を見出させた。不安をつきぬけ全員の目に攻撃目標が見えた今、仲間は一丸となり、共和国竜騎兵はついに総突撃の構えに展開する。
× × ×
鉄砲をわたし『ぜひそのお言葉の真のありかたを、私達凡俗に実際にしめして下さい』と軍曹は言ってやった。すると坊主どもは感心、というかあきれたことに平然と、軍曹が作った陣地のむこうに進み出て、あわてた彼が制止しなかったら、そのまま国境をこえて行ってしまうほどの勇気をしめしてくれた。
ともあれ、生きた鳴子が手に入り部下の死ぬ人数がへるのがわかったので、幕営と陣地のすぐむこうに広がる茂みに適当に坊主を散らし、軍曹は満足した。幸い、ドラゴンと浮き要塞はここから離れた所でどつきあってくれていたので、彼は自分の陣地に神経を集中することができた。総主卿選挙のいざこざも、それゆえくり広げられているドラゴンと浮き要塞の戦いの帰趨も、自分たちがまもっている得体の知れない『森の人』の思惑も、そのどれも軍曹には関わりのないことだった。でも、自分たちの前に敵は来る。そして兵隊の仕事とは生きて物事の結末にたどりつき、その後生きて故郷へ帰る算段をする物だ。全ての信念が無数に崩壊する軍隊での人生で、軍曹の中に生き残った信念はこれだった。
その時、前方の茂みから銃声がした。軍曹は部下に警戒をうながした。茂みのむこうは、たちまち豆でも煎っているみたいな音に満ちた。それが示す結果に、軍曹は幻想などいだかなかった。少しでも敵の弾丸を減らし、こちらが備える時間をくれただけでよしとした。これであの茂みは、坊主と共和の兵隊の墓標となるだろう。おたがいうらみはないけれど、ともあれいつかは自分の番が来るんだ。彼は厳しい戦場での人生でつちかわれてきた自信をいだき部下と共に銃をかまえた。
その時、それは突然、空から奇声を発しながら、軍曹の陣地にふってきた。軍曹が『自分の番』が来るまでの短い時間にとりあえず見たのは、自分の陣地の中に舞いおり、火をふきあばれ回る翼竜の群れだった。竜には鞍がついていた。旗までくっついているのもいた。竜騎兵!
でも騎手は?
陣地正面にわいて出た敵兵は、すばやく散開すると地面にふせ一斉に撃ちかけてきた。茂みからの再びの銃声に、軍曹は全てが分かった。歩兵じゃない、あれが騎手なんだ。竜だけ先につっこませて、自分は後から歩いて来るとは! 共和の国の竜を駆るものは恥知らずの集まりだ! 軍曹は怒りと共に反撃を決意し陣地へと呼びかけ、ふりむいた。
その瞬間が『自分の番』だった。最期に彼の目に入ったのは、たき火のあとみたいになった彼の陣地と、彼を炎に包みこんだ竜が首からさげている紋章のような物だけだった。
ひどい光景だった。まるで猛禽が小鳥の巣をついばむみたいに、竜たちは爪と炎とでよくできた敵陣を目茶苦茶にしてしまった。大空魔艦をおそっているドラゴンより、自分たちの竜の方が彼らにはよほど恐ろしかった。
敵陣が完全に沈黙するのを待ってから、竜騎兵達は『静め笛』を口にし、それを吹き鳴らしはじめた。興奮し、猪突しかけるエルセを押さえこみ、アトレスは彼の口にも笛を押しこんだ。そして、どうかこの笛が本当に役に立ち、竜どもが俺たちを主人だとみわけて欲しい、と真剣に思った。
が、少年は隊長の思惑を無視し、くすぶる死体をまたいで天幕へと走った。あきらめてアトレスは後を追った。惨禍の上を公園のハトみたくうろうろバタバタしている竜どもは、実に素直に二人の主人に道をあけた。それに勇気づけられた残りの竜騎兵たちも、一気に雪崩をうってエルセとアトレスに続いた。
6
「開明兵……」
ラーテナイの口調は、ヴェルゼンに面罵されても、銃声が聞こえても、まだなおおだやかだった。が、彼の心中は別の所で反映されたらしい。水晶玉の中がドラゴンが吹き出した炎で燃え上がった。鋼の空飛ぶ軍艦は、そのむこうに、もう見えない。
「お前はおしい奴だよ。そこまで考える頭があるのに、なぜ、」
その続きは永遠の謎となった。銃声がとだえ、焼けこげのにおいに乗って、口笛のような音が天幕に聞こえてきた。戦闘はおさまっている? 口笛? すると、外にいるのは……もう、中にいた! 天幕が銃剣で切り裂かれる音に続いて、色ちがいの目をした、少年のような敵兵が。
ヴェルゼンが腰から例の自動拳銃を抜くよりすばやく、ラーテナイが水晶玉をかかげた。 その時、
「オーベロイ!」
と少年がさけんだ。
すると、ラーテナイがその一言で凍りついた。少年に続いて切り裂かれた天幕の入口に集まった敵の塊も、同時に硬直していた。ヴェルゼンは一瞬、少年の一言が魔法の呪文かと思った。
「オーベロイ! オーベロイ中尉!」
「ちがう!」
「うそだ! オーベロイ、なぜここに?」
「絶対にちがう! 私はラーテナイだ!」
ラーテナイが自分の名前を強調すると同時に、彼が手にした水晶玉から『怒り(後に何度も尋問されたが、ヴェルゼンは最後までこれ以外の表現が思いうかばなかった)』がほとばしった。が、少年の瞳にぶつかった瞬間、それは希薄してとびちった。だれかと同じだったラーテナイの顔の記憶までも。もっともとびちろうがその“怒り”は、天幕の半分とほとんどの竜騎兵をコントのように吹きとばした。
それはエルセもズタズタに切りさいた。が、彼は平然と茫然と、そこに立ってはいた。
少年と、その瞳の奥にむかって、まぜこぜにラーテナイはさけんだ。
「なぜこんな邪魔!?を ああ、卑怯者とはいわん! が、私とお前は同じだ。だから大切な物も同じはずじゃないか!? それなのになぜ? 撃て、こいつを撃つんだ、開明兵!」
自分の身に危険を察した少年は、わめきながらヴェルゼンに向け銃剣を突き出した。
へたくそが。ヴェルゼンはたくみに体をながすと、手にした自動拳銃の引き金を、たてつづけにしぼった。自分の体に穴がつぎつぎあいていくのを、エルフは感じただろうか。まったく小僧、お前は助けられたんだぞ、このおれに、と、ヴェルゼンは最後の二発で、不規則に体をおどらせていたラーテナイの顔面を撃ちくだきながら思った。『オーベロイ』の顔も同じなのか……
少年は死体をよけ銃剣をかまえた。ヴェルゼンは銃をすてハンマーを取り、みさかいなく再び突き出された少年の銃剣を受け流すと、一歩踏み込んで空いた手でエルセをはりとばした。魔法にはふみとどまれた少年の体は、ヴェルゼンの拳であっさりと吹きとんだ。
肩をよせ一丸となった敵兵が突撃の叫びをあげた。林立する銃剣を前にしたヴェルゼンは、手の武器を全て捨て丸腰になり両手を上げた。それを認めた敵の指揮官がさけんだ。
「殺すな!」
幸い、その指揮官も、兵も、今度はガキじゃなかった。銃剣の林はあざやかに裏がえり、茶色い銃床の森となった。助かるかな? 来た来た来た来るぞぉ……
やはり、こいつは痛かった。が、できたら骨二三本という所で、などと、ヴェルゼンは打ちおろされる銃床の下で、意外と幸せだった。
7
乗艦に敵弾を受けたことも、激突され切りこまれたことも、官僚の作った書類で窮地に立たされたことも妻の平手をあびたことすらある。が、畜生にどつかれたなんてことはなかった。電話と伝声管が次々に損傷報告をはき出し始め、その騒音を聞いている内に、フォーンツは段々、腹がたってきた。
ドラゴン……ど畜生め、おれの大空魔艦を……
「……」
普段物静かな艦長を突きやぶってわきでた呪いのつぶやきは、それが聞こえる範囲にいた全員をふるえあがらせた。その中でただ一人、副長は平然とフォーンツに損傷の報告を始めた。
「火炎におよび打撃による攻撃を受けましたが、消火装置作動。左舷主翼並びに左舷艦腹に発生した火災は全鎮しました。左モーター一番及び二番全損。三番四番については報告待ちです。舵取り装置は自動で補助動力にバイパスしましたが、打撃による衝撃で切断。手動操舵で中立位置への固定を指示しました。以後操艦は右舷独立操舵に切りかえたく思います。負傷者が出た模様ですが、程度は不明。ただし艦内の現状は掌握されています。連絡未通箇所なし。戦闘継続支障なし」
が、最悪のタイミングで電話機を手に興奮した水兵が「砲術長からです! 央部測的所はこれを全損、放棄!」などとさけんで、副長の報告は一瞬でウソとなってしまった。
逃げたい、と思った者もいた。が、あらゆる騒音がとびかう中、静かな副長の報告に耳をかたむけていた艦長は、もう普段の冷静でおだやかなフォーンツにもどっていた。
「かまわん。以後A砲塔長に砲術管制を移行する。彼には『負けずに撃て』と伝えろ」
艦長が副長に『もどされた』ことに気づいた者はなかった。フォーンツ自身、その意識はなかった。でも、ベイエーヌは満足だった。副長の仕事とは、そういった物なのだ。
8
終わると、シリルとオーベロイはたがいの瞳をはなした。風景はかき消え、二人はまた軍艦の中にいた。
何の余韻も見せず、オーベロイは気密ハッチを開け、シリルに出るよう手振りした。シリルが外にでると、とたんムアッとした熱気と騒音が彼女をつつみこんだ。鉄がかみ合う音がし、ふりむくと、オーベロイはもう一瞬前のファンタジーをすかした現実にふたをし、閉鎖ハンドルを回しながら、ハッチにチョークで『閉鎖済』のマークを書きこんでいた。
「行こう。今度はこちらから見なくては」
艦尾艦底に近い航空機指揮所から、艦首の艦橋へとむかって、二人は歩き始めた。
B砲塔弾薬庫の脇を通った時には、中で揚弾機がうなり、轟々と砲弾を運び上げているのがわかった。通路天井を走る無数の管がしばらく歩く二人を導いていたが、途中でことごとく首をまげ、それは機関室に消えていった。その後すぐ別の管が、熱と力をつめてそこから生え出し、それは二人の行く道はるかに走り去っていた。
舷側の副砲では異様な光景が展開していた。オーベロイが何事か問いただすと「見りゃわかるだろう!」と言った答えが返ってきた。確かにそこでは、砲座にいた全員が敵に対して闘志をむき出しにしていた。が、砲のすきまから鉄砲、拳銃を突き出し空薬夾をぶちまいている者はともかく、たださけんでいる者、なぜかハンマーを手にした者までいたのだから、少したずねたくなるのは人情だ。落ちていた弾薬消費表はゼロになっていた。
通信室の脇を通ったとき、通信科士官の一人が、山とあふれた電報用紙を示した。通信機がたてる電気音の中シリルがたずねると、それらは全て大空魔艦に送られた声援だと彼は言う。海軍省はもちろん元首府、陸軍省、海軍委員会、中には今、このすぐ下にいる陸軍砲兵隊からの物や、遠く洋上にいる小さな海防艦からの物まであった。事実はもう皆につたえられ、皆は空間を飛びこえて、共通の感慨のもと、ここに集まったのだ。
消火装置がまき散らした消火剤の刺激臭がする粉っぽい空気のむこうで、何枚も重なり無数の支柱と張り線でできた左舷主翼は、ドラゴンの火炎をうけたらしく真っ黒に焼けただれ、四基あるモーターの前半分二基のプロペラはまるで死んだ羽虫のようにに止まっていた。後側の二基は、どちらか一基の回転が合っていないらしく、プロペラ回転面がまだらの模様を描いていた。が、翼はいまだゆるぎなく船体からはえ、モーターはブンブンとうなり、回り、艦をおしすすめていた。
そして、二人は艦首の艦橋にたどりついた。来る道のり、大砲は轟き、兵は興奮し、皆は集まりそしてモーターはうなっていた。が、二人が歩いてきた大空魔艦の全てが、集約していた艦橋の喧騒は、全てにもまして一段と濃かった。その艦橋の中を通じガラスのむこうに、シリルは初めて自分自身の目でドラゴンを認めた。それは恐ろしかった、が、すばらしい過去の象徴でもあった。
ドラゴンも、大空魔艦も、そのどちらもつちわれてきた物の究極の集約だ。むこうは古き良き過去の集約。片やこちらは、不安と失敗の上に切り開かれてきた進歩の集約。今一瞬この両者はこの空で、戦いながら拮抗している。シリルは、それに決着がつく瞬間にまにあったことがわかった。
艦橋のむこうで、ドラゴンが鎌首をもたげ再び息をのみ炎をのどの奥で巻き上げていた。船はためらわずに直進した。大空魔艦に最初の指南をあたえる導法師として乗り組んだ、自分の仕事はいま終わる。
彼女が思ったその瞬間、誰もが忘れていた大空魔艦最強の搭載火器、三十単位六結ロケット砲が、金切り音と共に発射された。
忍耐に忍耐を重ねてきたにちがいない、ゼシエルの腕は確かだった。三千重量単位の火をふく鉄塊はまともにドラゴンの横面で炸裂し、艦橋にまで破片をぶちまけた。それをくらったドラゴンはまるで折れたコウモリ傘のように、力なく『森』へと落ちていった。
「おいっ! 投錨だ! 投錨しろ!」
艦長がさけんだ。ふりかえった者もいたが命令は遂行された。
どこかで錨鎖がいきおいよく走り、やがて色々なものが壮絶にこわれる音がした。シリルが舷窓に走りよると太い鎖にぶらさがった巨大な二個の大空魔艦の錨が、意外なほどゆっくりと落ちていった。しかし、一個はドラゴンの首筋を物の見事に打ち砕いた。もう一個はすぐ脇の地面に落ちたが、そのすぐ後から錨より重い鎖が痙攣する巨体へしたたかにふりそそいだ。
ドラゴンは死んだ。
大空魔艦は生き残った。
船は、生きている限り沈黙しない。しかし今大空魔艦に乗り組んでいた全員が生涯、砲声もさけび声もとだえたこの一瞬の静けさを忘れなかった。そして全員次に渦巻いた熱狂の様もまた、生涯忘れることはなかった。
一時、熱狂は無秩序に艦内を駆けていた。が、それはやがて共和国国歌の大合唱といった、《共和国》国民全員にとって、一番わかりやすい形へと変化していった。
我ら 天秤の姿 範とし
理性によりて この地治めん……
理性が支配している艦橋にも、段々と理性の国の国歌の熱唱がうずまいた。普段冷静を旨としている共和国海軍将校まで、その熱狂に侵されつつある。
……理性によりて 統べらるこの地
祖国 我らが《共和国》
『ドラゴンの死骸は《教国》領内にあり』との報告が艦橋になされた。そのおかげで、冷静の側にかろうじて残っていた連中も、たちまち熱狂の側にころがりおちていった。
我ら 天秤の姿 旨とし
裁きを持ちて この地治めん……
艦長は、なぜか不愉快だった。なぜ、なにが、みんなそんなにうれしい? おれたちは、おれたち自身の手で、今まで自分たちが生きてきた世界を、ぶちこわしてしまったかも知れないんだぞ。それなのに、なぜ……
「やめさせますか、艦長?」
こういうことをボソボソと聞いてくるのは、決まってベイエーヌだ。彼の言い分はいつも正しい。ただ、それによってますます不愉快になったフォーンツは首を横にふった。
……されど 裁き正しきここは
祖国 我らが《共和国》
国歌は軍人が一番熱狂する三番に入った。この三番が《共和国》では全ての軍歌の基本になっている。
我ら 天秤の姿 良しとし
正義と共に これを護らん……
正義とはなんだ、と思いながら艦長は窓から下を見た。錨の下で、ドラゴンは死んでいた。なんであんな瞬間に投錨できたのか、彼は不思議に感じた。ひょっとしたら、シリルかオーベロイのせいかも知れない、などと思ったりもした。
その時、艦長は初めて彼のかたわらにそのシリルとオーベロイがいることに気づいた。二人とも、熱狂には加わっていなかった。もしかしたら、二人は大空魔艦より自分達に近かったかも知れないドラゴンの死をいたんでいるのでは、と艦長が思ったとき、シリルが口を開いた。
「艦長、投錨のタイミングはお見事でした」
「……君達ではないのか?」
……故に、正義の側にありしは
祖国 我らが《共和国》!
今度はシリルがけげんな顔をした。「達」でくくられたオーベロイも。
「艦長…それは……ちがうかと」
どららが言ったのか。でも、フォーンツにはもうどうでもよかった。この狂った歴史の幕間に一つでも、人間が自身で下した判断があったことがわかったのだ。それはとてもよいことに、熱狂うずまく中、フォーンツには思えた。
第十二章
1
エルセはベッドに倒れこんだ。口論の結果軍医から「勝手にしろ」と言質を得たので、その通りさせてもらった報いだった。
今日は大空魔艦の『引渡式』で、公試に参加した全員の記念撮影があった。術で浅く切り刻まれた体の傷がことごとく化膿し、体全体が重く熱っぽかったが、エルセは半ば病室から脱走するように、それに加わってきたのだ。
父さん、ではなく艦長……公式には実は『艤装委員長』だったのだそうだが……の強い意向で、撮影場所はまだ生々しく戦いと炎の跡を残していた左舷主翼。アングルは左やや後方からの撮影だった。こげたその翼、モーター、プロペラに千四百五十七人全員が並んだ。竜騎兵は竜と共に全員が太陽の下、一番上の翼に整列した。もちろん完全装備だったので、膿と汗がまじってエルセの包帯はぬれ雑巾のようになってしまった。が、それよりも辛かったのは、シリルがまったく少年の位置から見えなかったことだった。でも、その切なさも写真が出来てくるまでの辛抱……
……うそだ! あなたに会いたい! シリル! あなたがぼくに残してくれるのは帽子の裏の血文字と、もの言わぬ写真だけなのか?
大空魔艦が左舷を焼けこがして軍艦島航空戦艦施設に入った頃から、記憶はすでに飛び飛びだった。治療より先に艦内での事情聴取、やっとベッド、ひどくしみた薬、魔法による負傷を検分しにきた神務省の魔法使い達、新聞記者……この面々になぜシリルはいない……、また聴取、聴取のくり返し。そして勲章と新聞の一面大見出し。一夜にして自分は英雄に。このまま会えなかったら……生きていく限りシリルの幻影に苦しまされるのか……
初恋をこじらせたエルセは、恐怖に近い感覚をいだいた。もっともそれは、混濁した眠りに落ちるまでの、ほんの短い時間ではあったが。
「大丈夫ですよ」
その一声でエルセは目ざめた。軍医が医務室のハッチを開いていた。そのむこうは夕日で真っ赤になっていた。軍医は廊下の向こうの人物ににこやかにうけ合っていた。
「大丈夫ですよ。せいぜいキツク説教してやって下さい。英雄は多分近代医学より、あなたの一言に重きを置くでしょうから」
「信用されてますね」
シリルが医務室に入ってきた。軍医は席を外す代償に、エルセがうわごとで彼女の名を呼んでいた、と人の恥を一つ暴露してから、ハッチを閉めていなくなった。シリルは椅子を引き、帽子をとるとブーツに包まれた足を組んで、彼の枕元にすわった。
胸が一杯になった少年にむかって、シリルツは型どおりの挨拶をしてから、この二~三日におこったことを話し始めた。
大空魔艦からの第一報で、海軍省ではまだ大空魔艦が戦っている内に、辞表と辞令が乱れ飛んだことや、もう少しで国境沿いの第二師団に、出動命令をだすほど陸軍があわてたこと。話が前後するが、その後最終的に第二師団は捜索隊を越境させたのだが、結局ドラゴンの死骸は発見できなかったのだそうだ。
シリルは話し続けた。会話に飢えていたエルセはそれに熱中した。
さて、この騒ぎの元凶だった《教国》の 総主卿選挙。まだ極秘の情報だが、今朝早く在《教国》の《共和国》大使は突然総主座教会から呼び出しをうけ、他国に先立って新しい総主卿の名前を《帝国》人枢機卿から聞かされたのだそうだ。が、選出された新総主卿は大使が記録の山をひっくり返すまで分からなかったほど、政治的には影の薄い人物だったらしい。またその《帝国》人枢機卿は同時に『一部過激思想の持ち主による不幸な事件』について大使にわび、さらに『今《共和国》に保護されている《教国》開明軍将校は、この過激派の検挙と事件の拡大防止に際し極めて大なる功績がある者ゆえ、ぜひとも寛大な扱いを』と言ったとか。その一言で、エルセ達竜騎兵が銃の台尻でなぐったヴェルゼン・ゼファーン開明軍少佐は、いま大空魔艦の鉄張り医務室でウンウン言っているエルセとは雲泥の療養生活と、シャレこんでいるらしい。
ところが、ここまで話してシリルは一つ、深刻な話題をかるい口調で笑いを交えて話し出した。軍法会議が開廷されたのだ、と。
2
戦闘中の艦艇で、将校、特に海軍将校が規定を無視し軽燃料投棄を実施せず、戦闘時、特に砲戦時に閉鎖が義務づけられている気密ハッチを勝手に開け閉めしながら持ち場をはなれ艦橋にむかったことが問題になった。皆が戦勝気分に浮かれるなか、何にでも規律と前例を適用したい軍法務局は陰険にはたらいていたのだ。彼らはついでに神務省にも釘をささんとシリルまでいっしょくたにして、略式ではあったが軍法会議を開廷したのだ。
もちろん無罪だったけど、とシリルは言った。どうやって? とのエルセの問いにシリルは「あなたのお父さんに救われたのよ」と言って、エルセを困惑させた。フォーンツは証言の時開口一番『大空魔艦は……』と言い、検事が『公式名、航空戦艦〈共和制〉号』と訂正するのにむかって『あれがまだ公式に軍艦籍に編入された共和国海軍軍艦ではないことは、法務局も御存知のはずですが』とのたまって話の焦点をぼかしてしまった。皆が大笑いしたちまち二人の階級章と軍帽は帰ってきた。
「私は息子に力をかして救い、その父は私に力をかして救った、というわけね」
シリルは楽しそうに言った。が、言ってからシリルは少年が硬くなり、天井をじっと見すえているのに気づいた。
「シリル中尉……」
「? どうしたの、エルセ」
「少尉になったんです」
「それは失礼しました、エルセ少尉殿。で、何?」
「自分は救われていません」
エルセはシリルの顔を見るのが恐ろしかった。彼は天井を見たまま、話し続けた。
「シリル中尉。あなたが本当に導法師ならば、あなたへの想いをあなた自身に日々かき立てられながら、あなたと考えをわかちあう力量をもたず、あなたを自分の物とする力量もまたもたず、そしてそのことを日々思い知らされながらあなたと同じ現実を生きねばならない、この私をどうか本当にお救い下さい」
シリルが静かになるのがわかった。エルセは恐ろしくなった。とうとう目をつぶり暗黒の中に逃避し、彼はやっと話し続けた。
「あの時あなたの手によって戦場で死ぬことがかなわず今生かされているこの私を、今こそ導法師たるあなたは救済する義務が……」
その瞬間、少年の上に暖かい影がおおいかぶさった。シリルの黒く長い髪が、彼の顔に香りを伴って降りかかった。
今度の口づけは、ただ、額に唇が触れただけだった。が、目を閉じていた少年には、あの時の魔法がかかわった口づけよりはるかにそれは熱く、柔らかく感じられた。
唇をはなすと、シリルは問うた。
「エルセ、一つだけ。『死ぬことがかなわず』と言ったね。人が死んだらどうなるか、あなた、知ってるの?」
「いいえ。教えてください」
「その人のいない現実が、続くだけなのよ」
意外なつまらぬ返答に、エルセは一瞬反応しなかった。そして、それから彼は少し怒ったような表情を浮かべた。
そんな少年にやわらかな笑みをうかべて、シリルは言った。
「それがくやしく、それがいやだったら、死を軽々しく口にはしないこと。エルセ」
長居しすぎたようだ。彼女は立ち上がった。すると、エルセが手をのばしてきた。シリルは右手でその手をとってやった。
その瞬間、少年の手は熱い物にふれたように引っこんだ。シリルの白い右手には大きな縫い傷が走っていた。エルセは彼女がそこからの血で文字をしたためたことを思い出した。シリルはちょっとおどけた素振りで言った。
「驚いた? 傷、わざと残したの。今回のことを忘れないように」
そう言うと、彼女は真顔になった。一瞬少年は構えた。すると、シリルはローブが床につくほど深々と頭をさげ、帽子を持った縫い傷のある右手を胸にあてると、昔ながらの物言いで、エルセに暇乞いをした。
「それでは、御身御大切に」
軍艦島航空戦艦施設の中は喧騒に満ちていた。艦首を岸壁にのせ、艦中央と艦尾のハー
ドポイントをポンツン浮き箱で支えるといったこの施設は、怪我人のベッドとしてはすこぶる条件の悪い所だった。が、今《共和国》で大空魔艦を電源切断状態で修理できる施設は、やはりここしかない。修理できる場所もロクにないくせに、よくもまあ船だけは造ったものだ、とシリルは思った。
もっとも、シリルが思っているほど、工廠の人間は無策ではなかった。今朝記念撮影をしたときにはまだこげていた艦腹に、もう新たに塗装がなされ、真新しい天秤の《共和国》国章が下描きされていた。艦が変事に見舞われた名残は、予備のモーターの到着を待っている空のエンジンナセルだけだった。
それにしても……
まいった。エルセめ。見舞いになんか行かなければよかった。予感はあったが、あんな一途にああも言い切るとは。しかも結構たくみに坊やは『あとはあなた次第』とばかりに言い切って逃げた。ちっ。お姉さんが意外や窮地におちいったことに、君は気づいているのかな? 確かに、悪い気はしないよ。でも火遊びは……やはり、危ない、危ない。
しかし、そう自分をいましめながら、どこかで別の自分が少年の勢いを思いっきり浴びたがっているのを、シリルはわかっていた。火遊びは楽しいのだ。が、その自分を認めることが普段とちがい、今回にかぎってひどくいけないことのように、彼女には思えた。
3
施設門の歩哨に鑑札をみせ敬礼すると、シリルは車回しに向かった。今日はまだ仕事だ。この後神務省に出頭し、今度こそ本当の査問会なのだ。
捕らえた《教国》の将校はなかなか判断がよく、拳銃の最後の弾丸であの黒幕の顔を撃ち砕いてしまっていた。唯一彼の顔をみた竜騎兵達の神務省査問会への喚問は、陸軍が魔法がらみの災禍に巻きこまれるのを恐れ強硬に反対したので、結局実現しなかった。だから省のおえらい達は、残ったあたしの頭の中を引っ繰り返してあの状況を最初から最後まで再現し、誰かを不幸にしようと張り切っているのだ。『石』の一件。そして潜水艦の件。そう、確かに、オーベロイとあのラーテナイは同じ顔をした同じ血筋の人物で、その一族が《教国》と《共和国》にまたがって策動していることは間違いない。でも、それをさせたのは人間が『森』に国境線を引いたりしたからだ。オーベロイの話を聞いた限り、これは軍とか査問、そして大空魔艦などではなく、もっともっと、大きな視点で考えるべき問題ではないだろうか……
あの査問にかかった人間がどうなるか、シリルは知っていた。そうならない方法も知っていた。そして、彼女ごときが何をしようとも、結局は誰かが不幸になるのもわかっていたので、シリルは暗澹たる気分になった。
自分が生誕にかかわったあの船。鋼の空飛ぶ大空魔艦。あなたはこの世にうまれ出るため、ドラゴンを一匹食らっただけでは、まだ足りないの……?
その時突然、シリルは思った。ならば、せめて自分はできる誰かを幸福にしてあげればいい! ついいましがた、ある人物が自分に救いをもとめてくれたじゃない、そう、この自分に! 自分を必要としてくれる人のいる、この深いよろこび。あの一言は今となれば彼女こそ、彼に言うべきものだったのかも知れない。
暗澹の淵から自分に出来ることを見つけたシリルは、幾分ましな気分で車回しのトラックに埋もれている自分の自動車に向かった。小さな愛車は兵の隙間にうまっていた。あの車も自分同様、どこに置いても人目をひく。
「あっ。これ、神官様のですか? いいなあ。今日はほろ、いらない天気でなによりです」
真っ青の、小さな車体に宝石のようなエンジンをのせた彼女の車に、勝手に手をふれないほどに皆は紳士だったので、彼女もにこやかに応じた。
「家賃と食費は御国もちで、仕事がらイヤミもいわれましたが……」
シリルは絹のローブをヒラヒラさせて言った。
「ローブつけられるようになると、まあこの位の手当てはでるのよ。でも、肝心の乗る時間まで御国のお恵みにすがらなければならないことには、買うまで気づかなかったわ!」
皆笑った。好き者がくっちゃべってきた。
「えー、距離計、回っているじゃないですか。タイヤも溶けてますぜ」
「いつもはね、ガレージにあずけてあるのよ。で、そこのおっちゃんに、競技で使っていいと言ってあるの。もちメンテして満タン返し。そう、オイルも総とっかえでね。このようにして諸事節約しないと。最近は軽燃料高いから」
「第二師団が動いて、燃料使ったからですよ」
「それだけかなあ…… でも、第二師団の件についてはこっちに責任があるわね」
「そう、ドラゴン殺しの」
だれかのヤジに、ひとすじ寒けがシリルの背中を走った。が、次の瞬間わいた全員の爆笑でそれも飛んでしまった。そしてシリルはいくつかコックをひねりポンプを数回おすと、自分の手でシッカリとクランクを握って回し、一発でエンジンを起動させる。もう暗かったので、気のきいた誰かがマッチをすりライトに灯を入れてくれた。シリルは運転席に収まると、その場の全員に挨拶し、彼らが離れるのをまってからローブをひらめかしアクセルをブンとふかすとスッ、とクラッチをつないだ。
4
神務省では今晩この件で査問会だ、とシリルはグチっていたが『サラマンダー事件』の時と同様、またしてもエルフのオーベロイには、声ひとつかからなかった。
時として、被差別者なことはいいのかもしれない、とオーベロイは航空戦艦施設にむかって歩きながら思った。人間の『査問』は強引で、それゆえ彼らは何をどう誤解するかしれなかった。そして、いったん誤解すると、まったく人間は何をしでかすことやら。少なくとも彼らは空飛ぶ大軍艦を一隻建造し、それにドラゴンをぶつけるだけの誤解は、十分にしてくれたのだ。
ただ、今回のこの一件は、ついに『森』とそこの『人』をもまきこむ形での事件となった。それが、オーベロイには気に入らなかった。人は不可触だった『森』と『森の人』を、自分たちの争いの一当事者とついにしてしまったのだ。そして自分も、今やある陣営の一人となっている……
査問会のかわりに、海軍省が彼をよびつけた。そして渡された航空機搭載の命令書。
ドラゴンの次は飛行機…… とりあえず今夜、自分は仕事だ。思い悩む間もなく。一つ心配なのはシリルが査問会でまちがいをしでかすかもしれないことだったが、その件については彼は深くは気にしていなかった。彼女はたよれる。悪くても『こちら』側だ、と。オーベロイはあの戦いのさなか、シリルと語り、そして瞳をあわせた時からそう確信していた。
物事をおだやかに、ゆるやかに、しかし確実にひろめる『種』でありたい、たとえこれから軍用機を軍艦に積む、といったおだやかからぬ仕事をしなくてはならない、ある国の軍人であるにしても。彼はそう思った。そして思いながら、オーベロイは航空戦艦施設の、車回しにむかった。
その瞬間、突然異様な音がし、土煙の中、車のライトのあかりがは跳ねた。異変を感じた彼は、跳ねて止まったライトの明かりにむかって駆けだした。一人が膝をつき地面に爪をたてて吐きもどしていた。
「何があった!」
「あ、中尉。事故です、神官様が車に……」
オーベロイは集まる野次馬をかきわけ、そして見た。タイヤをとめているホイール・スピナーがシリルの絹ローブを巻きこんで、そのローブが一気に彼女を道連れに……
魔法使いを食い殺した機械は、あたかも意志があるかのように、まだ回り続けていた。転がった彼女の帽子の裏には、何か赤黒い文字が書いてあった。が、だれひとりそのような物を気にかけてはいなかった。うつろになったシリルの瞳には、大空魔艦の影が……
「どうしてあなたが……」
……ああ! オーベロイは嘆息した。彼はシリルの目に手をやるとそのまぶたを閉じ、回りつづけている車の、スイッチを切った。エンジンがとまり、騒音はざわめきにかわって彼を包んだ。これ以上考えたくはなかった。いや、考えることができなかった。本当にただの『種』になりたいと、この瞬間オーベロイは痛烈に思った。
一人の人間が消えた現実が、いまこの瞬間始まった。
4
そのころ海軍省では、以下の書類が決裁された。
『一〇〇六年青月七日
一号航空戦艦〈共和制〉号
共和国海軍軍艦籍ニ編入サル』
この瞬間、皆の情熱の受け皿だった大空魔艦は、人殺しのための軍艦となった。
-------------------------------------------------------
(このお話の最後の段。ある魔法使いの狼狽ぶりは、記しておく必要があるだろう)
……終わったのではないの、私の出番……?……私はそれで……でも……
歩ける
見ることも
……あ、事故?……って、あそこで死んでいるの私っ? ちょっとっ?……何事!
ヘンだ……
なぜ大空魔艦の艦首から、いま、「私の」自動車事故死の報告を受けて騒動になっている、艦尾艦長公室までがいっぺんにわかる? 厨房ではベーカーリーが明日のパン焼いているし、医務室ではエルセがまた熱だしてうなされている……その熱は明日には引くから大丈夫よ……ああ、航空機甲板、飛行機の搬入している。いいなあ、今度一回乗せてもらおう……
まてまてまて、なぜ、こんなことがこんなふうに、いっぺんにわかるのよ?
え……?
船霊
いや、軍艦に、いや全ての船にそういうものがつく、守護となるのは知っていますが……
ちょっとまった。私じゃなくてもいいでしょう!
いや! 永遠の時間を生きるのは! さすがにたまりません! ……え、永遠ではない?……
でも鋼の軍艦の寿命は長いと思いますが、責任もてっていわれても……
× × ×
数日後、艦長公室のデスクには、次の従軍導法師の任官書類がおいてあった。
さて、騒動となるのはその書類の人物?
それともいまや「この艦の船霊」となった、だれか……?
おわり
いかがでしたでしょうか? 資料は旧い『世界の艦船』誌のバックナンバー、特に軍艦の基本を述べていてくれたころのを数年分、これがメインです。あとのお話は全くの妄想ですが、まあ基本は阿川弘之、セシル・スコット・フォレスター、塩野七生、サン・テグジュペリ、そして主に英国の冒険小説。ファンタジー部分はトールキンの『農夫ジャイルズの冒険』、マキリップの『妖女サイベルの呼び声』、グウィンのエッセーあたりが大元になっています。
基本的に西洋かぶれなので、翻訳文の影響が強く出ていると思います。その辺、ご容赦ください。
で、ですね、佐藤さんとかいう仮想戦記(?)作家の影響を受けているのではないかと言われたのですが、この方がだれだか見当が全くつかないという。よろしけれは、ご教授くださいませ。
ではでは、ありがとうございました。