大空魔艦 前編
スチーム・パンク、ディーゼル・パンクといったジャンルが好きなので、ついつい書いてしまいました。
まあ、昨今のテクノロジーについていけない頭からひねり出されたお話ですが、よろしくお願いいたします。
序章
「……そして教暦四百三十五年寒月七日、ついに我々は最大の合理でありかつ非合理たる《教国》から『森』を抜け『大陸』の南東の端、世の果て、共和の国に入った。ここは王を、大勢の寄り合いによって選ぶと言う、神の摂理に反する思い上がった国である。《教国》がこの不埒な国を改心させんと絶えず欲するのも、聞くかぎりむべなるかな……」
約六百年前、《帝国》の大旅行家フィルネント・ガィエーンが記した『旅行記』より。その記述は《共和国》を世界の人に知らしめるきっかけになった。
× × ×
くそっ。
いまこの戦場にいるこの彼は、たまたま住んでいた所が『森』の《共和国》側だった、という理由だけで、《共和国》奉ずる兵士の役割をになっていた。
もっとも最初のうちは、自分が何を国に売り渡したのか、彼にはよく説明できなかった。狩人ぐらしにくらべ、兵隊ぐらしはよほど楽だったからだ。なにせ飯はおろか着るものも、金まで国は気前よくくれたのだ。
が、ある日、自分に忠実に生きようと兵営の柵を乗り越えた者が、全員の前で銃殺された。その瞬間はじめて、今、彼は自分がすべての主だった狩人ではなく、国が好きにできるただの兵隊にすぎないのだと痛烈にわかった。やはり国はタダでたからせてくれる相手ではなかった。
教暦でかぞえて九百七十三年目の今日この日、もうほとんど無意識に、彼はまた思った。
くそっ。
いまたまたま彼が兵隊をしている《共和国》は、あの尊き《教国》と戦をしている。噂
では《教国》がばち罰をあてようとしたのに国をあげて逆らったのだそうだ。本当に罰あたりな話だ。都のバカどものせいだ。神様と魔法そしてその他諸々の、彼が恐れてきた全ての物があの国の味方をしているのに。こんな鉄砲を振り回した位でどうにかなるものか。
彼は味方から斥候にだされ、今一人だった。このまま相手の方に走りお坊様に降参して、罪を告白すればまだ間に合う。おれはもともとこの地が棲家だったのだ。ばれるものか……
× × ×
そして、彼は偵察目的の敵陣地残骸にたどりついた。そこで、彼はいきなり数人の神官服を着た人物を見つけた。
両者の間で、戦場の音が消えた。砲弾がぶち壞した、元は天幕の司令部だったような穴に、罪を告白できる相手を突然みつけられた彼は、喜びとともに膝をつこうとした。
しかし、彼の狩人の本能は鉄砲の引き金を絞っていた。一番豪華な神官服が倒れるのと同時に、神官服の一人は逃げ、残りはまるで懺悔をするかのように泥に膝をつき、彼にむかってすがりつき命乞いをしていた。
後刻、命乞いをした神官と、死体になった神官を検分した味方部隊の将校が、硬直して立っていた彼を呼んだ時、その彼はてっきり懲罰を食らうのだと思った。いかに恥知らずと言われる《共和国》軍ですら、お坊様を手にかけた自分をこのままにしておくはずはない、と。彼は生涯最大の恐怖を味わった。なにせ将校とは、いけないことはいかようにも裁いていい、と国から言われている人達なのだから。
……まさか、死ぬとは思わなかった
九百七十三年紛争の際、エンメン紫位卿を狙撃した《共和国》軍兵士の言葉
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教暦一〇〇六年花月二十八日より以前のことをつづった、この話の最初の一段
第一章
1
「君のとかくについては……」
部屋。よくない何かのほうがおこることの多い、影と、窓からさしこむ光が極端な陰影をなすこの天井の高い古い石造りの部屋。その、中央。いならぶ上官達を前に直立不動で立たされている自分の姿。
自分もふくめた部屋の全員が、黒と金でデザインされた『神務省軍』の軍服をきていなかったら、きっと泣く子も黙る「魔女」狩りの情景にみえるのでは? と、シリル神務少尉は内心ひどくおかしかった。が、彼女の思惑を無視して、神務省軍人事局長大佐は続ける。
「……たしかに、評価される面と評価されざる面とが、ハッキリと二分されている。そして、このことを問題視する見解が根強かったのも、また事実だ」
フン。でも、この評価はシリルにとってなかなか気分がよかった。人がそんなに簡単に、白と黒とにふりわけられていいはずがないのだ。そう評された彼女は、大佐が息をついだその瞬間すかさず口を開いた。
「はい、局長大佐殿」
「まだ君の発言はゆるされていない」
大佐は瞬時に渋面となっていい放ち、視線を目の前の大きな机におかれた大げさなな二通の書式……彼女への辞令……へおとし、そのまま続けた。
「が、しかし、神託は出、神務官決議、大臣決裁、そして海軍省と陸軍省の受諾と元主府の一筆、諸々の話し合いがついた以上、この場は正規の物であり、君には以下の辞令が、公式に交付される」
大佐は渋面をあげた。眼前の、軍帽を小脇に抱えたシリルが緊張とともに背筋をのばす。その黒髪も光を浴びつややかに重くまっすぐに。人一人、いや場合によっては国家の運命も刷り込んだ重い権威をせおった書類が、いま軍のなかで生を受ける。大佐は口を開いた。
「辞令その一『汝シリル・エル・ウリセリ 貴官ハ本日現会議ヲモッテシテ神務省軍中尉ニ任官サル』
これにより君は本日ただいまをもって、少尉から中尉へと昇進した。一応おめでとう。しかし、この措置は海軍の諸令則により、戦列艦の首席導法師は中尉が最低限の階級だからである。そのことはわすれないように。ついで、辞令その二『汝シリル・エル・ウリセリ 貴官ハ一号航空戦艦首席従軍導法師承命服務』 本日ただ今をもって、君は一号航空戦艦首席従軍導法師に任命される。辞令の受領を。シリル・エル・ウリセリ神務省軍神務中尉」
彼女は黙って二歩、つかつかとあゆみでると、微笑こそうかべなかったものの、満面を喜色にかがやかせ、大佐から二通の辞令をうけとった。
やれやれ。大佐は思った。いま自分が誕生させた目の前の、一号航空戦艦『大空魔艦』首席従軍導法師、の履歴をおもいやると、たとえ雲の上の会議で決まったことをただ単にいいわたしただけだったにもすぎず、改めて彼はこの人事に複雑な感情をいだかずにはいられなかった。
服務規定尊守、不可と評価したもの数名。上官に対する態度で、特に数言記入してきたもの数名。酒、女性としてはたしなむ以上、しかし醜態はさらさず。さらに喫煙の習慣、若干にせよあり。修道院時代からの大食漢。士官任官時に『食事がよくなるのがうれしい』と発言、訂正せず。しかし立ち居振る舞いとスタイル、そしてその黒髪は……いい。
一方で、自然魔法全般の取得、優。もろもろに対する感受の性、優。さらに神務一般、優。聴聞僧として、極めて優。そして、健康、闊達、優美。最近、自動車を購入。
批判と評価が表裏一体のシリル神務少尉、ではない、もう中尉だ、は、凡俗に近い自分にまで、さまざまとこうも思いめぐらせる。その彼女は、たしかに大佐には理解しがたい雰囲気を全身でかもしだして彼の前にいる。
……なぜ神務省全体の会議はおろか神託までもがこの国、この小さな《共和国》の国防における最後の切り札である大空魔艦の『この方面』の中心に、かのような女をすえるのかが、実はこの組織で神務とは最も遠い仕事をしている大佐には、結局謎だった。
一分のすきもないつめ襟、黒地に金ボタンと金輪の襟章、それに金刺繍の袖章をあしらった神務省軍軍服を身につけ、黒金の精悍な軍帽を小脇にし、その身には魔法者のあかしである、絹の、ブーツまでの短い軍用黒ローブをまとっている、この不思議でむずかしいシリル。
いま自分が手渡した辞令二通で、今度はきっと海軍の紺服たちと陸軍の緑色どもが、彼女のあれこれに、きりきりまいさせられるのだ。そのシリルに遭遇する彼らは、彼女を推挙してよこした我々を、一体なんと思うことだろう。
座ったまま彼が彼女に返した答礼は、彼と、彼と似たりよったりの考えをいだいていた、この場の全員の困惑を代弁するかのような、あいまいで、さえないものだった。
2
発 《共和国》海軍省
宛 《共和国》元首府
本文
『一号航空戦艦起工ノ件
右報告ス
教暦一〇〇〇年露月五日起工』
3
《共和国》の隣で起こりつつあることが、物事を促進する触媒となった。神官と魔法使い、そして戦士をほぼ三倍そろえながら、鉄砲と大砲、そして機械の力の前に、ほぼ三十倍の損害を被ると言った惨憺たる敗北。その責任を、『過酷に』追求された教義派の総主卿にかわって、《教国》を掌握した新派閥『開明派』のレノルト総主卿は、現実を教務に迎合させる人間ではなかった。彼は《教国》に『文明』『産業』と言った種をまき、民衆の支持を育て、豊かな国土という果実を得んとした。教務なぞレノルトにとっては、この過程におけるこやし位の価値しかなかった。そして、この信念を忠実に履行した結果、神から現実の《教国》をまかされる総主卿として、とにかくレノルトは成功した。しかし、神から現実をあずかり『神の姿に最も遠く、神の御心には最も近い』やりかたでもって《教国》でそれを成功させたレノルトも、やはり、その成功の範囲を可能な限り『近隣にわけあたえる』ことは神が自分に与えたもうた義務だ、と解釈する《教国》の人間であった。少なくともレノルトは、このことを終始公言して、はばかる所がなかった。
神から『俗世を武器で統べる権利』を授かった『皇帝』頂く《帝国》は、時としてこの『統べる権利』について見解の違いが多かった複雑な隣の主の思惑を、砲弾を磨きながらだまって見ていた。革命が進行しつつある元《王国》、現《民国》は、まるで木から落ちたハチの巣のように、遠巻きで見る者にも、飛び回るハチ自身にも、どうしようもない状態だった。また一方、海を堀とした島国《同君連合》は、その堀にますます軍艦を走り回らせ、これら鋼のうきしろ浮城でせっせと壁を築きあげていた。
レノルトの言葉に震え上がったのは、『大陸』西側列強から東に一つ孤立し、九百七十三年末の紛争でレノルトを彼の私兵たる開明軍ごと殺しそこなった前科のある、箱庭のように小さな《共和国》だった。力もなく、魔法の類にもこと欠き、ドラゴンもいなければ味方も遠い。あるのは知恵と熱意と工夫、そして打算だけだった《共和国》は、それらの中から何かを得ようとしていた。その中で、
空飛ぶ軍艦を建造する!
誰が最初にこう言い出したのかは、もうわからない。しかし全員の『まさか』は一人で歩き出し、そしてまず一回様々な物に触れて歩いて、各々の元へ帰りついた。そして帰りついたその『まさか』が次に歩き出したとき、今度は全ての『まさか』が、現実にむかっ
て仕事をする人間のとも共をつれていた。
予算。資材。技術者。建造進行の具体的計画案。その全ては《共和国》の現実から魔法のようにひねりだされ、一つの象徴、つまり『一号航空戦艦〈共和制〉号』のために集まり始めた。
皆は気付かぬ内に、未知の将来にいる彼女に向かって歩み始めていた。その歩みはやがて歩調のあった早足となり、駆け足となり、そしていつしかそれは、運命共同体と化してある一方向へと驀進していたのだった。
4
『大陸』の東南に一国位置する《共和国》は、西方に位置する諸列強と異なり、もっぱら自国の力のみを頼りにして強大な隣国、世界最大の非合理に基づいた国家《教国》と対峙して行かなければならなかった歴史的必然から、国家の持てる力を最大限活用できる機能的な政体、機構を選択せざるをえなかった。この、半ば自らの意志、半ば状況の強制によって合理的な政体とそれにふさわしい生き方を選んだ共和の国では、非合理だったが人間にとってはよりなじみの深かった魔法の類は早々に主張の場を失ってしまい、人は単純でより手っ取り早く力となる『理屈』の方に信をおいていた。
しかし、そのように日々のことにいそがしく、自らが理解でき分かる範囲でのみ魔法を役立てることにしていた『単純で』『罰当たりな』『神をも恐れぬ共和の人々』は、それゆえ、逆に神が与えたもうた魔法の力を、自分たちのために徹底して利用しつくした。物事の是非を正確に見通し、複雑な計算を瞬時にこなし、あるいくつかの条件によって導きだされる特定の未来を精緻に占う。このように手段となりはてた魔法は、合理によって運営される諸々のことがらの手助けとなった。
この助けは力強かった。非合理の力を取り込んで、合理の元に造り上げられた諸々は、固い部分と柔らかい部分がたくみに溶け合って、当事者が思っていた以上の代物に仕上がっていることが多々あった。これら軽くてよく回る諸々の機械は、この《共和国》の全てを鮮やかに、滑らかに動かすことができ、より巨大な物を、複雑な物を生み出す原動力となって行った。
かのような状況下で、いつしか人々に『大空魔艦』と呼ばれはじめた、空飛ぶ戦艦の建造は、なんと本当に始まり、そして進んだ。で、いったん始めたら《共和国》の人達は、周囲があきれるほどの熱意と創意工夫をもって事にあたった。新たな提案はすぐ実験にうつされ、結果が是とあれば、即採用となった。船が前代未聞な分、時として実験すらおぼつかない事象も起こった。そういった時人々は、科学の粋を結集した軍艦を造るのに、最も科学から遠いはずの魔法に平然とたよった。人々が思う以上に頻繁に、実験の類は技術者の砦たる工廠から、この国の『神事』『魔法』そして『宗教』を一括管理している《共和国》神務省に持ち込まれたものだった。
機械的、技術的な困難は、後述するただ一つを除いて、正面から、側面から、次々と克服されていった。それ以外の克服されるべき物は、全て人間共に起因していた。
5
鋼板と火花、蒸気と電気、数字と魔法の向こうから大兵器たる『大空魔艦』が姿を現しはじめるにつれ、どこの国でもある現象、陸軍と海軍のいさかいが《共和国》でもおこった。
《共和国》は確かに大陸と地続きの国家ではあるが、北に《教国》のみと接し、それとの間に『森』といった壁を有したため、自然国家の勢いは海を通して広がり、その国力は海上における通商路によって維持されることになった。故に《共和国》においては国家の防衛は直接国境を接する《教国》にそなえる陸軍と、海上の通商路を防衛し、海上をつたって武力を行使するための海軍の双方にほぼ等しい質量の任務を強いた。この状況は『予算の奪い合い』といった喧嘩の種を、古くから《共和国》に撒き散らし続けてきた。
それがこの計画を機に何度目かの表面化をみた。陸軍は『大空魔艦』の非公式名でよばれていたこの船を、海軍軍艦籍に編入することに難色を提示した。彼らはこの新兵器が、陸上戦闘の支援に投入される可能性が極めて大きい点を指摘し陸軍の管理にすべきだと主張したのだ。
もちろん、建造、維持、運用、管理の観点から、海軍はこの要求に徹頭徹尾反対の姿勢をとった。この争いは艦の建造がすすむにつれ、ますます苛烈の度を深めた。双方とも建前を前面におしたて、この件に関しては一歩も互いに譲る気配を見せなかった。
人間に起因する問題はもう一つあった。
船と言うのは不思議な機械で、たとえ同じ図面をもとに幾隻と建造された船であっても必ずその一隻一隻に個性が存在する。人と同様静かな一生を送るものもあれば、一方で波瀾万丈の一生を送る物もある。ここで問題にされたのは、この前代未聞の個性を有した大空魔艦に乗り組ませる神官、つまり『従軍導法師』の選定であった。
《共和国》に限らず軍艦には必ず吉を保証し、敵の魔法に対する妨害、戦における魔法の利用、そして乗組員の魂の平安のために魔法使いを必要とした。もっとも、この人選に関して《共和国》がとりうる選択枝はあまりなかった。すでに述べているが、魔法に関する諸般の事物は全てこの国では神務省が管理しており、軍人や政治家は彼らがさしだした人物を許容する以外に、道がなかったからだ。そしてそのことを熟知していた神務省は、陸海軍の反目が過熱する度に、彼ら軍人にも制御できない物が世に存在することをちらつかせ、『連中の頭を冷やす』とこれを称していた。もちろん、神務省のこのやりくちが、裏で元首府、そして『委員会』と結びついていたのは、周知の事実ではあったが。
6
建造に関しては最後に一つ、重大な問題が存在した。大空魔艦を浮かす機関と『石』である。
『石』を貴金属の籠でつつみあげ、電気仕掛けで浮力を与える浮上機関の設計は、順調に進んだ。『石』の小結晶は稀少ではあったが宝石としてはるか過去から産されており、浮上機関の雛形は大空魔艦完成のはるか以前に実験室では珍しくなくなっていた。それどころか《共和国》は、それを万国博覧会に展示して、一時は世界中が電気と『石』で浮く様々な模型の制作に熱中した。物事を皇帝陛下万歳と叫ぶためにのみ結び付けて考える《帝国》の人々は、軍艦用の内火艇にこれを組み込んで『浮き内火艇』をつくり上げ、『石』の軍事利用における『世界初』を主張した。もちろん皇帝陛下万歳とも叫んだ。
もっとも、大空魔艦がこの方式で浮上させられることをが明らかになると、《共和国》の大部もふくめた世界中は、一瞬不安をいだいたものの、結局それを笑い飛ばした。数十万重量単位もの巨艦に浮力を与えるためには、それこそ人が両手を回しても抱えきれない大きさの『石』が計算上必要とされたからである。しかも、二個。婦人の指を飾る程度の石ですら稀少なのに。
大概の男だったら、ここで彼女をあきらめるだろうと期待をいだいて、皆が思った。
7
一〇〇五年収穫月、教国は突然軍を国境に集結させ始めた。これは戦争になると、誰もが思った。在教国共和国大使は総主座協会からレノルトの署名入り招聘状を受け取り、ここに《共和国》は戦時体制にむけた総動員の準備に入った。
が、大使が『総主座教会』に緊張と共に出向いたとき、現れたのは数名の枢機卿で、その中にレノルトの姿は無かった。そしてその枢機卿は大使に祝福を与えたあと、総主卿はしばらく公の場に出ることを控えられる、とだけ述べて去った。
それ以上のことは、なにも無かった。そして、それ以後レノルトは全ての公務を欠席しだした。何が起こったのか。だれにもわからなかった。ただ、それはこの独裁者の身とこの独裁者の国に、何かが起こり、起こることを意味した。
レノルトがこの時までに《共和国》正面の『南東軍』に整備しえた軍隊は、陸軍鎖台五、魔鎖台一、竜六匹、といった具合である。この南東軍展開勢力を共和国軍と比較すると、教国の歩兵戦力は《共和国》の歩兵三個師団に対してほぼ二倍半(教国の鎖台は、共和国の師団に比べ兵員の定数が多い。また教国の歩鎖台は当時、騎兵も含んだ編成であった)。確かに一方では、一〇〇四年度の編成改組により、《共和国》各歩兵師団は機械輸送対応編成へ、また第一騎兵師団が徒歩兵消滅編成となったため、即応力と機動力の面では圧倒的に教国に対し優勢だった。しかし、ドラゴン、魔力を駆使する部隊、術者などは、ドラゴンの巣を長年の紛争でねこそぎ破壊された《共和国》に対し、やはり《教国》側は断然の優位を誇っていた。
8
が、驚愕すべきことに、《教国》にはこれら各種軍事組織を公式に束ねる機関が存在しなかった。これらは総主卿レノルトに対する“私的な”契約によってのみ中央の意に従っていたのである。そのことは最後に《共和国》に幸いした。『石』に関してである。
大空魔艦のための『石』は《共和国》《教国》国境にそって拡がる『森』から、この世界の不思議の源ながら人間が理不尽にも国境で引きわったその場所のいずこかから、突然《共和国》に与えられた。当然、前後の経緯はあったはずだったが、記録はなにも無い。ただ《教国》の全ての軍事・警察組織がこれを各々の思惑で阻止しようとして失敗し『石』は船に乗った。
《共和国》では、かなりの数の人間が『自分の』仕事はおわった、『自分のおかげで』祖国は世界最強の空飛ぶ軍艦を手にすることができるのだ、と、本気で思っていた。軍艦の指揮権で言い合っていた陸軍と海軍の双方からは別々に『無事入港の見込み』との報告が諸方面になされ、周囲の顰蹙をべつに彼らもまた満足していた。
しかし、船があと二時間で共和国海軍軍艦と邂逅できる地点で、事件はおこった。船は突然浮上した正体不明の潜水艦から砲撃をうけたのだ。幸いその怪潜水艦はすぐに潜行して姿をくらませた。船はあやうく沈没をまぬがれ、はうように《共和国》海軍のドックにたどりついた。『石』は無事だった。『森』から提供されたこの『石』は、神務省の管理下におかれ、彼らの手で計算通りのカッティングがなされた。
この事件は、大空魔艦指揮権問題の解決の糸口になった。海軍が主導権を握っていたものの、じつはこの『石』の輸送責任者は、陸軍の軍人だったのだ。
責任者はひとりだった。そして海軍は物腰やわらかではあったが、ひとりの『背後』にあった『思惑』をつついた。結局この現実を突きつけられた元首府と『委員会』は、航空戦艦そのものはやはり海軍の管理下に置く決定をついに下した。公式にはこの決定で、すべての問題に決着がついた。ある種完結された世界である軍艦の艦長、最高権力者には、海軍大佐が代将として任命され、その下に海軍大佐の副長がおかれる。しかし一方では陸軍大佐の陸軍第一士官を大空魔艦に乗り組ませ、陸軍が搭載に固執したロケット砲噴進砲、そして翼竜によって編成される『竜騎兵』を、それが有する憲兵の資格を維持したままの一個小隊二十四騎。さらに進空には見送られたものの、将来的には搭載される航空機が、彼の指揮下に置かれることとなった。この陸軍第一士官は順列で副長と同列、指揮権で第三位とされた。
一応皆が納得した。が、陸軍は最後に小さないやがらせを一つ考えついた。彼らは竜騎兵の人事に、ある小細工を弄したのである。
9
『拝啓
来ル花月二十八日正午一号航空戦艦〈共和制〉号進空セシメラレ候ニ付当日御来臨下サレタク此段御案内申シ上ゲ候
教暦一〇〇六年花月二〇日
《共和国》海軍省』
第二章
1
ここはこの艦で最も厳重に警備され実包を込め竜騎兵銃に着剣した竜騎兵が常時立哨している。その二人の捧げ銃に、シリルはちょっと威張た風に答礼し胸をはって、口を開いた。
「神務省軍中尉シリル・エル・ウリセリ。この艦の、首席従軍導法師。入室許可を」
鋼鉄でできたハッチが重々しく開かれ、彼女は『浮力機関室』へ入った。
そこは、部屋の中心のプラチナの針金で編み上げられた籠の中空に浮いている、二個の『石』を別にしたら、どんな軍艦にも存在する無粋な機関室だった。壁面は無数のメーターとレバーに覆われ、その間をドタドタと、兵隊や士官が走り回っていた。天井には無数の配管がのたうち、その間を縫って、汽笛が野太く轟いた。ここは機械と油と、人の思惑
が練り込まれ固まって出来上がった場所だった。
『石』を最終的にカットしたのはうち神務省の連中だと聞いてはいたが、自分が給料をもらってやっている仕事と目の前の『石』そのものとが、何の関係もないことは一目でわかった。きっとその事は神務省の面々も重々承知なんだろう。ただ、この石にこめられている、この石が反射している、諸々のの怨念については、どうやら自分の仕事らしかった。でも、やはりここは単なる機関室だったので、彼女はこの艦の頭脳、艦橋に行くことにした。
機械仕掛けの鋼の軍艦の通路を歩いている彼女は、行き交う全員の視線をひいた。もちろん今、ブーツの靴音も高らかに鋼の階段を駆け上がった彼女は、今風に作られた詰め襟の黒々とした神務省軍の軍服を、一分の隙もなく着用におよんでいた。が、軍服特有の突き詰められた風体をおだやかに包みこみ、黒光りするブーツの踏み出す一歩一歩ごとに舞いおどる、すそにそって中尉の階級模様を金糸で鮮やかにぬい取った、ひざまで長い昔ながらの黒ローブは、軍服以上に黒々とつややかな長い髪の彼女を、やはり幻想的以外に形容の仕様なく演出していた。これで、彼女の重く真っ直ぐな髪の上に乗っているのが無粋な軍帽でなく、先のとがった三角の帽子か何かだったら、本当に彼女の歩く後ろから、妖精や精霊がおどりながらついてきたとしても、万人にその光景は当然に見えただろう。それほどまでに彼女は、全身でもって独特の雰囲気をかもし出していた。
が、意外なことに、この幻想的な、姿は黒く、瞳はさらに黒く、しかしその黒の間からのぞいている肌は雪のように白い従軍導法師は、今自分が歩いている機械のはらわたが気に入っていた。そしてその思いは自然と顔に出て、彼女は歩きながらいつしか微笑を浮かべていた。
すてきだ! いいじゃない! 人の手になる空飛ぶ軍艦! 前代未聞で、世界最大の!
なぜあの二人は、この良さがわからなかったのだろう? いや、わかろうとしなかったのだろう?
ともあれ、頭の固い上役達が、勝手に設定した序列から言うとしたら、自分は、この重大な、文字通り前代未聞の艦の従軍導法師に選ばれる可能性が、どう見ても三番目より上でなかった。が、序列の先頭にいた、自分の思い込みと狭い世界だけが大事だったあのむくんで小太りこいた女、そして図書館の本のページの隙間から“知識”をえる事によって、上役によしとされ彼女の前にいたあの男をよけて通って、神務省軍全体の懸案だった『一号航空戦艦乗組従軍導法師承命服務』の辞令は、結局、今軽やかな歩調でここを歩いているシリル
へとめぐりめぐってきたのだった。
満足だった。本当に素直に満足だった。魂、船霊の宿っていないこの大きな軍艦に自分がそれをいれることになったと思い起こす度、なんとも言えず胸は高鳴った。これは良いことだ!
シリルは満面に笑みを浮かべ、水兵たちの視線など意に介せず、闊達なあしどりで鋼の軍艦の中を、ローブを舞わし闊歩して行った。
2
内火艇のエンジン音も、潮風も海の臭いも無く、そして地面からではあったが一号航空戦艦艦長フォーンツ終身国会議員海軍大佐代将は、号笛の吹き鳴らされる中、組み階段を登ってくると、掲げられた国旗に敬礼し、艦首ハッチをくぐった。そして笛の音が余韻をひきずって消え、彼が先任艤装将校と工廠長の敬礼に答礼した瞬間、この人物は大空魔艦全乗組員の上にたつ神となった。見事なタイミングで号笛を引き継いだ軍楽隊の演奏の中、フォーンツ代将は艦長としての最初の職務を遂行すべく、後部の飛行甲板に向かって歩みだした。
本来ならば竜のいる家の嫡男であったフォーンツは、陸軍に入るのが筋だった。が、フォーンツの実家、ドードクベル家に当時いたのは、まだ卵からかえったばかりの小さな竜
一匹で、それはまたつくれるかもしれない嫡男よりも、人手と金を切実に要していたのだ。
しきたりと、家風と、そのような事情は古き血を引く竜騎兵一族の思惑と言った毒気をすって、フォーンツにとってつかみ所の無い、得体のしれない怪物となっていった。見えないそいつは手強かった。そいつはフォーンツを、なにかにつけて傷つけ続けた。彼がこの家の者である以上、そいつは永遠に彼を苦しめ続けるものと、彼を知る誰もが思った。が、しかしフォーンツは彼を苦しめ抜いたその怪物に鮮やかな一撃を加え、自らをときはなった。フォーンツは陸軍軍人一族の誰もがしなかったことをやってのけた。
彼は周囲を出し抜いて、海軍士官学校に入校したのである。
激怒した者は多かった。そして海軍は、楽園とは程遠かった。が、そこで彼は自由だった。少なくともその怪物は、海軍の中でまで彼を苦しめることは無かった。それどころか、露骨に不承不承ではあったが『軍隊』と言う組織の中では、その怪物は彼の背後を護る味方ともなったのである。
英雄でも何でもない、常に他人に流されながら生きてきたと思っているフォーンツは、必要なときは、ためらわずに実家に巣くうこの怪物を解き放った。そして、それを四十年近く続けてきた結果、今、彼は世界最強の軍艦の指揮官となっている。
その、航空戦艦艦長としての最初の任務は、『陸』が強引に陸軍籍のままで乗り込ませてきた竜騎兵(厄介なことに、こいつらは陸軍では憲兵の資格も有している)から、この艦の最高責任者として敬礼を受け、そして乗艦許可をあたえることだった。
3
進空式に列席した人々にとっては、先刻艦内を満足して歩いていた魔法使いより、見事な編隊を組んで翼竜で天駆ける竜騎兵が鋼の軍艦におりたつ光景の方が、はるかに幻想的に思えた。もっとも列席者の一部は、今時竜騎兵なんぞを、それよりもっとはやく空を飛ぶ軍艦にのせてどうするのだろうかと、疑問を抱いていた。もっと少数の者は、軍艦に陸軍が陸軍籍のまま乗り組むのはどういうことだろう、と思っていた。それを軍艦にのせることに成功した列席者の一部は満足だった。竜騎兵搭載を阻止できなかった列席者の一部は、苦々しくそれをみていた。
艦首ハッチから権力がやって来るのを敏感に察した竜騎兵指揮官アトレス・ヌ・ビュン陸軍大尉は、部下を一瞥した。竜も、部下もきれいに並んでいた。みっともない鋼鉄の塊と海軍野郎に秩序の手本をみせて欲しい、と露骨にいやな顔をする彼に航空戦艦赴任の命令書と、袖にぬいつける〈共和制〉号のワッペンを渡しながら騎兵師団長は言った。
彼は師団長の言い分を拡大解釈した。部下たちに命令書をみせワッペンを渡しながらアトレスは、秩序を自分たちが『与える』のである! と言い放った。やつらに活を入れろ、とも。その成果はいま、見事に発揮されている。
しかも、彼らには恰好のおもちゃがあった。竜騎兵の中で一番の若輩者、ただただ家にいた竜を巧みにのりこなせるというだけの理由でこの共和国陸軍最精鋭の末席にいる、エルセ・デ・ハンナン・ル・アリエル・イル・ドードクベル三年志願兵士官候補生は、すこし出来すぎの感もあったが、この艦の最高権力者フォーンツ・(中略)ドードクベル艦長の長男だったのである。
フォーンツは、ペイントで様々なラインの引かれた飛行甲板をゆっくりと横切り、黄色と黒の縞模様のラインで区画わけされた中に、見事に整列している竜騎兵の前に立った。 竜のかたわらで背筋をのばしていた竜騎兵達は、艦長がペイントラインをまたいだ瞬間、隊長の一声で、さらに見事に背筋をのばしあごをひいた。
そして見覚えのある、もしかしたら自分が乗っていたかも知れない『我が家の』竜のわきから走りだし、自分の前でギクシャクとかかとをふみならして姿勢を正した若い小隊旗手を見て、ああやはりな、と彼は思った。
目の前にいる、海軍の礼服をごく自然にまとい、いま自分から礼を受けようとしているのは、父親でも、一家の長でもない、多くの伝説に彩られた、高位の軍人だった。その人物の静かな視線と、背中からの、荒々しい先輩たちの気配とに前後から貫き通されて、エルセはもう、やけくそだった。セリフをトチッたら、それこそ何をされるか分からない。が、とにかくもうやるしかないのだ。彼は一呼吸すると、声を張り上げた。
「栄誉ある
航空戦艦〈共和制〉号艦長殿!
我ら!
陸軍
騎兵第一師団!
特設第一竜騎兵連隊!
第一大隊!
第一中隊内!
特派海軍出師
独立竜騎兵一〇一小隊は!
世界最強の!
「大空魔艦」を護るため!
(この公式の場で、非公式の名前が叫ばれた瞬間、いあわせた海軍の何人かが顔をしかめた)
乗艦許可を求めます!」
ほとんど絶叫に近かったエルセのセリフに対し、艦長はごく穏やかに言った。
「許可しよう」
この一言で、艦長は、息子が一気に安堵したのが、手に取るように分かった。
「艦長殿に、捧げぇ、銃!」
隊長の号令一下、全員が機械仕掛けの人形のごとく『捧げ銃』をし、旗竿で片手のふさがった気の毒な小隊旗手は、肘を目いっぱい張り出させた、陸軍式の敬礼をした。
海軍式の、肘を脇腹にたたみ込むような敬礼でもって、フォーンツ代将は答礼した。そして、竜騎兵達が彼ら独特の長い銃剣をつけた銃を収めた瞬間、あることに気付き、そして次の自分のセリフを期待して凍り付いたようになっている竜飛兵全体を見回し、自分の息子(だいたいどんなことがあったのか、想像すると面白かった)を一瞥したあと、彼は穏やかに口を開いた。
「ところで隊長」
「ハッ」
「それに、小隊旗手三年志願兵候補生もだ。覚えておいて欲しいが、海軍では、どんなに階級が上の者に対してでも“殿”は付けないのが慣例だ。だから、次からは私の事は『艦長』だけでいい。
ご苦労だった。部下を解散させ、離昇配置につけさせてくれ」
指揮官は指揮官に向かって淡々と話し終えると、あちこちで繰り返される敬礼の林を抜けながら、悠然と退場していった。
「解散!」
と怒鳴りつつも、アトレスは口惜しかった。過日手にした航空戦艦乗組員の袖章ワッペン。もちろんアトレスは誇り高き竜騎兵の軍服にそいつを寄生させるつもりはなかったので、かわりに穴をあけひもを通し、小隊の竜全部の首にぶらさげさせたのだ。もし艦長殿がそれに目をむきでもしたら『我々は陸軍竜騎兵であり、軍法に定められた服装規定を尊守しておりそれには所属部隊を明示した記章もすでに添付されております。ただし竜はその限りになかったので、拝領したワッペンはご覧のように有効活用させていただきました』とでも言ってやるつもりだったのに。艦長、なかなかのクソじゃないか……
どうも、ここはかなり勝手の違う世界の様だ。陸軍第一士官麾下の噴進砲射撃班と竜騎兵、しめて百四十八人の陸軍の精鋭。その中でも特に典型的な『昔ながらの』陸軍をして
いるこの竜騎兵達が海軍の世界に慣れるのには、まだかなりの時間がいりそうである。
4
「艦長。おひさしぶりです」
敬礼の林の中から、フォーンツに向かって言った、その『森の人』の冬期一種装は、この礼服であふれている軍艦のなかで、逆に異彩を放っていた。
「ご苦労だな。首席航空管制官」
「いえ、おかげで礼服を着なくてすむので助かります」
その首席航空管制官、オーベロイ・J・ローゼロイ海軍中尉は、たしか徹夜で航空用機材(ただし飛行機そのものはなかった)の搭載作業を指揮していたはずだが、まったく疲れた色もみせず、ごくごく当たり前の表情で、滑らかに艦長に返答した。
この『森』からきたエルフの航空管制将校は、いつも興味深かった。彼はどんな時でもあわてなかったし、かといって、決して冷たい人物でもなかった。そして、彼は物の見事に色白でどうみてもエルフであるにもかかわらず、不思議なことに彼の人間の間での立ち居ふるまいには、まったくクセがなかった(そのことがかえってクセだった)。
彼のことを書いた公用書類の『年齢』の欄はいつも空白だった。オーベロイ自身が海軍省人事部に提出した書類の幾つかに艦長は目を通したことがあった。が、それらの書類の年齢の欄には常に横棒が一本引いてあり、その全ての答弁におだやかに終止符を打っている一本の線は、決まって多くの想像をかき立てた。何度かフォーンツは、この涼しげな白い顔をした中尉はひょっとしたら、自分の倍、年をとっていて、自分の三倍、物を知っているんじゃないだろうかと、思ったりもした。
確かに、このエルフの航空管制士官は非常に有能だった。すばらしい視力の『森の人』が双眼鏡を手にしようものなら、彼は誰よりも早く帰還してくる飛行機を見つけた。一度「水平線が邪魔でして」などと言ったセリフは、たちまちその艦のはやり言葉となり、日を経ずして艦隊中に広まったものだった。
しかし「飛行機屋」である彼が、しかもパイロットでもないオーベロイが、兵士達の非公式の賞賛以上の物を得ることは、まず無かった。共和国海軍は、飛行機と、非人間の種族に対し、かなり寛大ではあったが、無条件で是とはしなかったからだ。
もちろん、海軍省にも言い分はあった。人間を基準に構築されている軍組織のなかで、人間よりはるかに長い寿命の『森の人』、を人間と同様にあつかえば、近い将来、彼らが軍に対して影響力を持ちすぎるようになるからだ、と。そして、ある方面の者が影響力を強く持つ軍隊は、国の向かう道までその意のままに出来るのではないかと、人はおびえたのである。
が、やはり、愚かなことだ、とフォーンツは思った。そして、だからこそ、人間がエルフの『森』の中に強引に国境線を画したことは、途方もなく愚かな、傲慢なふるまいではなかったのだろうかと、オーベロイを見るたびに、フォーンツは思った。
5
十一時五十七分。フォーンツ艦長は艦の前部にある、航法艦橋に入った。主計長が声高に、その事を航海日誌に記載する旨宣告し、彼はうなずいた。八点鐘、つまり正午、
一二〇〇まであと三分。この船台の上に座り込んでいる機械が『船』となり、「彼女」と女性名詞で呼ばれ始める時まで、あと三分。
「まだ来ませんね」
副長のベイエーヌ・シ・カストール海軍大佐が、フォーンツにささやいた。
この大陸の国々では、船が進水する時は、または、飛行船が進空する時は、司祭、でなければ宗教関係者から、その船の行く先が常に『南』……吉方……である保証をうける儀式、つまり『指南される』儀式がつきものだった。そして、この艦に指南を授けるはずの、色々な噂がつきまとった従軍導法師は、まだこの場に現れない。何でも彼女は自分が指南する事を条件に、この艦の勤務を承諾したそうなのだが。
「女だてらに軍務につきおって。恐れをなしたんじゃないのか?」
これはこの艦の陸軍将兵の元締めである、航空戦艦陸軍第一士官ゼシエル・ギ・ゴーツ陸軍大佐のガラガラ声だった。うなずいた者が何人かいた。あと一分。しかし、根っからの陸軍軍人のゼシエル以上に、海軍軍人達は気をもんでいた。もう一分を切った。なぜ来
ない。もし指南を受けそこなったら、船に船を守護する船霊がつかなかったら、この世界最大のそして前代未聞の船は、書類の上ではともかく、末代まで『不幸な船』の烙印をおされかねないぞ……
その時、艦橋上層に通じる階段の下で、衛兵が敬礼する装具の音がし、軽やかな足音と共に、一号航空戦艦首席従軍導法師が、黒い姿を現した。
その黒い影は、所々に金色をちらつかせながら、この艦橋の何人かが口を開きかけた時には、もうフォーンツの前にいてかかとを踏みならし、ここにいるほとんどの軍人の予想とは裏腹に、鮮やかな美しい敬礼をした。
「首席従軍導法師、神務省中尉、シリル・エル・ウリセリ。指南の任務につきます」
フォーンツは答礼した。彼女もまた、先刻のエルフと同様に、極めて興味深い人物のようだ。機械化機械化と騒げども、この世界にはまだ不思議は多い……
その瞬間、乾いた鐘の音が二つ続いて鳴った。そして、もう一連打。また一連打され、さらにもう一回。一呼吸おいて、それがもう一サイクル繰り返される。八点鐘、一二〇〇。
「よし、離昇」
フォーンツは、ここにいる全員に聞こえるように、最初の命令を穏やかに伝えた。そして、航海長が艦橋下層に通じる伝声管に一声それを吹き込むと、すかさず下から復唱と同時に浮力機関室への浮力インジケーターを前後させるベルの音が響いた。艦橋の全員、千四百五十七人の全乗組員、そして数十人の技術者全てが何らかの感慨をもった。そしてその感慨は『一二〇〇 離昇』の短い文で、公式に航海日誌に記録される。
進空式に列席していた全員が、すでに宴席のテントから外にでて、離昇の瞬間にそなえていた。予定では艦は高度五十で、国旗と整備旗を掲げる(まだ軍艦籍には入っていないので、軍艦旗ではない)。それと同時に、今日は都長が音頭をとって、一号航空戦艦と《共和国》に対し、参列者全員が万歳をとなえる事になっていた。
軍楽隊の指揮者は、十一時五十九分五十七秒にタクトをふりあげ、正午、全ての教会の鐘、工場のサイレン、停泊中の船の汽笛が一斉になると同時に、それを振り降ろした。
そして、一瞬つまった緊張が抜けた、次の瞬間、何年もそこにあった『風景』が、ゆっくりと動き始めた。
6
全ての接地計の針がゼロをさし、ねじれるべき物は全て規定の分だけねじれ、伸びるべきものは、全てマーカーの範囲内で、無事にその動きを止めた。それでも、乗り組んでいた技師や水兵達の少なからざる人数が、無数の桁材、張り線のあげる呻き声に恐れをなし、自分の担当部署から大空魔艦が崩壊するのではないかと、不安になった。が、きしみつつも船は崩壊しなかった。そして、人の不安とは裏腹に、あたかもその音は、寝坊をした人が、唸りながら伸びをしているかのような雰囲気があった。
航法艦橋では、航法士官が刻々と高度計の目盛りを読み上げる中、初めて安堵の空気が満ちた。そこここで、人々はゆっくりと、下へさがって行く地面と風景に見入っていた。今、航法艦橋の窓と、ドック脇の式場の高さが一緒になり、艦橋の将兵達と、宴会の列席者達は、どちらからともなく、この瞬間の喜びを分かち会うように手をふりあった。
「では……」
フォーンツは、ぐるりと周囲を見、そしてもう一呼吸おいて、非常を知らせる電話が、一つもならないのを確認してから、艦首を背に自分の方をむいて立っている、魔法使いに向かって言った。
「指南する者よ。この艦はどちらへ? いざ、述べるべし」
シリルは艦橋上層の全員を見回し、そして分厚いガラスの外の景色にまで目を走らせてから、口を開いた。
「艦長。そして、この艦の誕生に立ち会われた皆様方」
艦橋の複雑な空間が、静まり返った。どこかで何かのメーターがたてるゼンマイの音だけが、単調に鳴っている。差し込んで来る穏やかな陽光が、魔法使いを舞台の役者みたいに、照らし、包んでいる。
「導法師は指南します。この艦の進む方角は……」
その瞬間、シリルの目に映った足元に沈んで行く窓の外の風景が、妙なインスピレーションをまたたかせた。そして、それが何かとリンクした次の瞬間、シリルはたまらず吹き出し、必死で笑いをこらえながら、身をよじっていた。
この瞬間にふざけた彼女に対し、何人かが気色ばんだ。また別の何人かは、これも何かの儀式かといぶかった。しかし、ますますシリルは身をよじって、爆笑をクスクス笑いに必死で止めていた。艦長は冷静だった。が、それでも、とうとう、一人どなった。
でも……でも! 最初にこのことを、やがて世界を爆笑させるこのことを、一番最初に知っちゃったんだから、笑うなってのが無理じゃない……
「貴様! いいかげんに……」
誰があんなに怒鳴っていたのか、フォーンツは後になっても思い出せなかった。が、この瞬間、スピーカーが叫んだ。
『浮力機関室より艦橋! 動力切替え、艦は外部電源から自己独立電源に移行します!』
「こちら艦橋、了解」
見えない誰かが、それに応じた。
外部電源の電線が外れる音とともに、機関が少しうなり、艦はほんの少し沈んだ。同時にシリル以外の全員が顔をみあわせた。
その時、電話がなった。そしてもう一つ。
「えっ! なんだって!?」
最初の電話にでた将校が、叫んだ。重なり合った視線が狼狽にかわった。その声を合図にしたかのように、電話は次から次へと鳴りわめき始めた。フォーンツは礼服であったにもかかわらず右舷側に走りより、張り出した、自分の背ほどもあるガラス窓にへばりつくようにして下を見た。
なぜか艦橋のある艦首は『襲われなかった』ので、誰も気付かなかったが、下はもう、惨憺たるありさまだった。電源が切り替わった一瞬、ほんの少し船は沈んだ。しかしその沈んだ時に下へ向かった『ほんの少し』の質量が、大空魔艦の場合にはハンパでなかった。航空戦艦建造施設わきの進空式会場は、その質量が押しのけ巻き上げた、雨水と、海水の混じり、オイルと錆カス、泥、その他港にある汚い液の全てが混ぜ合わさった、恐るべき液体をぶちまけられ、この国で最も地位のある人々をも、その国是のごとく平等に、徹底して染め上げていた。大空魔艦最初の戦果は、少なからぬ数の礼服となった。
「艦長!」
先刻の静けさが一転し、今や電話の音と、命令、怒号飛び交う修羅場と化した艦橋に、突然シリルの、禀とすんだ声が飛んだ。先刻、彼女に向かって怒気をあらわにした者も含めた全員が、雷に打たれたみたいに緊張した。
シリルはまだ、このアクシデントを楽しんだ片鱗を声色と、表情に浮かべてはいたものの、この場にいあわせた全員が終生忘れられなかった、素晴らしい物言いで続けた。
「艦長。導法師は指南します。この前代未聞の空飛ぶ軍艦。往く道は、苦難あまた多けれど……」
そして、彼女はローブを舞わして鮮やかに回れ右をし、艦首を指差した。
「向くは常に南、吉方です」
こうして『彼女』は彼女に指南を受け、自身はほとんど汚れることなく、高度五十で予定どおり濃い青地に、白く理性の大天秤を縫い取った、《共和国》国旗と整備旗をあげた。
万歳がさけばれた。
船霊がついたかどうかは、もうだれも気にしていなかった。
第三章
1
総主座教会。
数世紀にも渡って膨張しつづけたこの石造りの迷宮は、細部は微細を究めたつくりで構成されていた。が、その全貌は、重く丘陵二つをおおいつくし、その丘から聖都全体を、そしてこの、ひろく冬の長い《教国》全土を威圧するかのようにそびえている。
この総主座教会の中でくりひろげられてきた諸々のことはよくもあしくも『全て』の一言で形容できた。教義の名の元に、人を救うための指示も、また、教義の名の元に、人を破滅させるための指示も、全てがこの総主座教会の奥から発せられ実行された。そして、皮肉なことに多くの場合、教義の名の元にそれらの指示を発する者たちは、その教義よりも現実の方をみすえていたのである。
確かにこの教会は現実の世界を治める政治の場であった。が、同時にここは『教徒』の信仰が最後にたどりつく、精神の故郷でもあった。このように政治の場と、魂の故郷の両方をつとめているこの総主座教会は、なかなか複雑な存在であると言えた。
存在の複雑さもさることながら、長年に渡って膨張した建物その物も、ここは無限に複雑だった。ここではたえず、どこかで何かが行われていて、そこで行われていることは、常に多くの者の関心事だった。だから、ここの無数の部屋は常に、どこかにいる、誰かの監視下にあった。たとえそうではなくても、多くの者はこの建物の部屋に、何かを感じることが多かった。そして、この《教国》では、古き良き剣と魔法の時代ならばともかく、この無粋な機械化の時代においてすらなお、部屋になにかいつかせる技に、こと欠くことは無かったのである。
だからこの総主座教会ではかり事をするのに一番安全な場所は、今一人の修道士と一人の軍人とがおち合って歩き始めた、西の棟と東の棟をつなぐ、世界最大の廊下だった。
「ごきげんだな。キュンナン」
キュンナン、と言われた、やせて金縁の眼鏡をかけた、まるで腕木式信号機が修道服を着ているような修道士は、はにかみながら首をふった。しかしはにかみながらも彼は連れの軍人から、聖銀貨が重くつまった革袋を遠慮せずにうけとってたもとに入れた。薄給の軍人には酷だったが、賭の金こそは神聖だし、これでキュンナン・ギエレクの名前が入った請求書のかなりが消えてくれることを考えると、やはりキュンナンは軍人に対する同情よりも手の中の金に対する喜びを感じた。
「な、ヴェルゼン。僕のいった通りだったろ? 意外と人は器用なもんなんだぜ」
「しかし、あんなバチ当たりなしかけが、あんなにあたり前に浮きあがるなんて、まともな発想じゃできることじゃない」
「そうさ。でも『共和の人達』の熱意と元気、そして執念が、まともだった試しはあったかい? 意外と軍人達は敵を見てないね」
全《教国》軍の範たる、開明軍聖都鎖台の軍服一杯にひきしまった身をつつんだ、ヴェルゼン・ゼファーン開明軍歩兵大尉は、このやせた修道士をにらみつけた。が、軍人らしいその反応は、まったく軍人らしくないキュンナンをおもしろがらせただけだった。
「でもさ、」
キュンナンはずり落ちかけた眼鏡を押しあげながら、仏頂面をしているヴェルゼンにむかって、口を開いた。
「君は賭金を精算してくれたが君達はこれからが大変だな。一体どうするんだい。あんなバケモノ。どうにかする手立てはたててあるんだろうね? 神の子供の一人として、その子等をまもる君達軍人に、僕は聞きたいね」
軍人は、キュンナンの問いには答えず、渋面のまま前を見すえて歩き続けた。そしてこの廊下に響きわたる彼のブーツの音は、そのまま彼ら軍人たちのいら立ちを表現しているかのようだった。
キュンナンは、軍人からまともな返答が来るなどとは、はなから思っていなかった。しかし彼はいら立たしげに歩く軍人をみながら、教会はもう千年近くのあいだ、神が降りたもうて世を裁く日は近いと事あるごとにさけんでいるが、これだけ人間のやらかすことがおもしろいのだから、神はいましばらく人間のなしざまを笑って見ておられるのではないか、などと不敬な考えをもてあそんでいた。
「これは開明軍将校としてはいま一つ認めたくないのだが……」
おや、意外だな、と、キュンナンは思った。古き慣習をあざわらう、そのくせ軍人の常で保守な所がぬけきっていない『開明軍』の将校が、どうも古き力をあの最新の機械に対する優位として認めようとしている。
大回廊の端を、二人はおりかえした。すると窓からさしこむ光の柱のおりなす陰影のむこうにもう一組、彼らと同様に何事か語らっている二人連れが見えた。軍人は続けた。
「……我が方の古き力の優位は、あんな機械じかけぐらいでは、ゆるがないと思う」
「ふぅん。では、君はあの『大空魔艦』は驚異でもなんでもなく、教えと神の国の守備は万端ととのっている、と言うわけだ」
ヴェルゼンはキュンナンを見た。そして、この国の誰もがあまり口にしたがらないことを自分に言わせようとしている、目の前のやせっぽちを一瞬うとましく思った。が、それでも軍人の勇気は、そんな禁忌ごときに屈したりはせず、彼は言いはなった。
「魔法だ。それとドラゴン。この、神々に与えられた力を、我々は軽んじていない。が、あの罰あたりの『共和の人達』は、神が与えたもうたこれらの力を軽んじて、己の浅はかな知恵を過信し思いあがった。そのあらわれが、あれだ。そして思いあがりには、神は報いを用意したまうだろう」
眼鏡の奥からキュンナンは、大真面目に論ずる軍人にいたずらっぽい視線を注いだ。
「あはぁ、そうくるかぁ。けど……」
まるで独り言のように始まったキュンナンの次のセリフを理解するのに、ヴェルゼンは一瞬時間がかかった。
「古き力……神から与えられた…… ならばヴェルゼン、人の、自分の頭で考える力、つまり『知恵』も神から与えられた物……じゃないのかな?」
これは大それた発言だ、と、ヴェルゼンは頭では理解した。が、本当に舌が凍りついて、ヴェルゼンはキュンナンに言うべき言葉が一瞬思いつかなかった。だが、キュンナンは一瞬前とはうってかわった真剣な表情で、前を見すえ歩いていた。
2
軍人はこの不敬な修道士にむかって大きく息をすうと、口を開きかけた。が、その時、先刻陰影のむこうにいた二人連れがヴェルゼンとキュンナンのわきをすれちがった。そのような時はおたがいに口をつつしむのがこの廊下の礼儀だったので、ヴェルゼンは完全に物を言う機会をのがしてしまった。
四つの人影がすれちがって充分距離が開いてから、やっと軍人は口をひらけた。
「キュンナン。俺が、異端審問官でなくて良かったと思えよ」
炸裂させそこなった激昂を内にふうじこめた軍人のしずかな言葉は、氷のようだった。が、この細い修道士は、ヴェルゼンの今のセリフなぞ無かったかのごとく、彼にむかって平然と続けた。
「……そう。神は、亜人種、エルフとか、今はいなくなってしまった、人以外の者たちには、自らの力の一部を直接お与えになり、彼らにそれを自由に使わせた。だから彼らは、自らの手で様々な『術』を使い、人に恐れられ、また敬われたりもした。その上神は人がこの地にあまり長居はしないようにと、その寿命を非常に短くお造りになった。ただここまできて、さすがに神は人をあわれんで、本当に本当にあわれに思って、人にも二つだけ得意な物を与えて下さったんだよ。一つは自分で仲間を増やす力。もちろんこの力には、ささやかな幸せもついてきてはいるがね。それともう一つは、自分で物を考える、考え出す、物を造り出す力。つまり『知恵』だ」
この修道士とは長いつきあいの軍人は、彼の弁論の間は、口を出さなかった。キュンナンは空間を見ながら続けた。
「ただ、これは神の大盤ぶるまいだったと、僕は思うんだ。確かに『森の人』のような精霊達は、神が分けてくれた力を直接使えた。例えば一番いい例が、君の言いたい魔法の類だな。しかもそれには『神の力の一部である』という『箔』までついていた。ただ人も、さんざん試行錯誤を繰り返し、無限の失敗と犠牲を重ねては来たけれど、この『神の箱庭』の諸々の物から力を引き出す方法を考え、見つけだし、そしてそれを使うことにかけては決して『あの人達』に劣っていた訳じゃなかった。ただ、その方法がね。『森の人』等々はあるものを最初から持っていて、または与えられていて、それを様々に組み合わせることによって技に磨きをかけた。が……」
キュンナンとヴェルゼンは、また廊下のはしをおりかえした。今度はキュンナンが陽のさす側に立った。
「人は諸々からしぼりとることによって、技をより高めて行った。そして人のやり方がみな押しなべてそうである以上……」
修道士はヴェルゼンに顔を見すえて、一呼吸おいてから重大なしめくくりをした。
「軍人、結局神の覚え愛でたい『森の人』ではなく同じ『人』が治めている我が祖国と《共和国》との『力』に、そんなに差がつくと、君は思うのか?」
これはおかしい、と軍人は思った。キュンナンはあまりに断定的で、それゆえ探せば彼の理論には、いくらでも穴があるはずだった。ただ、歩きながらそのような思考をすることは、軍人には不得手だった。
「まだ『疑い持ちたる』ようだね。軍人」
キュンナンは教典を引用した。この段は『疑い持ちたる者は、目の前の真を信ぜよ』なのだが、いま軍人の目の前には、やせた修道士しかいなかった。しかし、一応この男は修道士だったので、自分が引用した節を、このままで終わらせたりはしなかった。
「聞きたまえ。あの大空魔艦は『石』で浮いているんだろう?」
「その位は知ってる」
「ヴェルゼン。その『石』があの『森』から提供されたのだとしたら、君はどう思う?」
これはヴェルゼンにとって、キュンナンから聞くはずのない、極秘事項なはずだった。が、軍務に関係の無いこの修道士の口からさらりとそれを語られた彼の顔は、驚きから蒼白、そして困惑を経て怒りへと一瞬の内に多くの変化を見せていた。
ひとしきりして軍人は口を開いた。
「なあ修道士。君達は常々我々軍人を『牛』よばわりして笑っているようだが……」
この無骨な歩兵が考え考え皮肉を言っている様は、神と共に人間を楽しむのが旨のこの修道士に、またとない喜びを与えた。
修道士の視線に鈍感な軍人は続けた。
「牛の餌は、まず普通は牛のものだぜ」
軍人の精一杯の言葉を、キュンナンはあっさりと混ぜっ返した。
「おっとっと。まあ怒るなよ、軍人。その餌をやってる人間と、たまたま哀れな修道士が、世間話におよんだだけのことさ」
キュンナンはひとしきり軍人の表情を楽しんでから、言葉を続けた。もちろんここで軍人を怒らせ切るのが得手で無いことは、修道士は百も承知だった。
「ここではみんな、なまじかくしたがりすぎるんだよ。その点《共和国》じゃあ、あの大空魔……」
軍人が耳をそばだてたその時、鐘が一つ鳴った。キュンナンは口をつぐんだ。そして、その『導きの鐘』の音が消えきらぬきわどい瞬間に、この教会にあふれた聖都すべての鐘が、あたかも静かな長い冬に、人の存在を主張するかのように爆発しだした。音の洪水の中で、会話は不可能だった。二人はこの洪水の中を、黙々と廊下を歩き続けた。先刻の二人連れと、今度は音の中ですれちがった。
音がやみ、その隙間から冬の静けさが戻ってくると、修道士は軍人にむかって言った。
「ヴェルゼン。とりあえず、昼を食べにいかないかい? 真実はいまさら逃げはしないし、いい加減、腹がへらないか?」
そう言って、キュンナンはずり落ちかけた細い金縁の眼鏡を人指し指でおしあげた。その時、一瞬、窓からさしこんできている陽の光の下を二人は通った。そして、その光が修道士の眼鏡できらめいた様子を見て、軍人は、本当にこの男は腕木式信号機だな、と、改めて思った。
3
広大で強大な《教国》は、『森』をはさんでそのむこうの、地図から押し出され海におっこちそうなほどちいさな《共和国》最大の仮想敵国であるにもかかわらず、その国における教徒の数は、世の人々が思っている以上に実は多かった。もしかしたら西側に位置する各列強より、その割合は多かったかもしれない。かといって、これらの人々がその罰当たりな『共和制』奉じる祖国にたいする愛国心にかけているか、権威もち、信心の源たる総主座教会をかまえる《教国》に、唯々諾々と盲従するか、と問われれば、全ての人が、たとえ敬虔な教徒であろうと、その問いに対しては声を大にして「我は共和の人なり!」と、言いはなつことだろう。
《共和国》において「教え」やそれに付随してついてくる「魔法」の類は、魂の安らぎ、よき来世への予約券、心、病、悲しみの癒しの手だて以外の、何者でもなかった。いや、それ以外の何者にもさせなかったのだ。そう、あの国家の方針と権力、そしてあの国の人々の「気質」とが。「奴らはこの世にしがみつく罰当たりだ」 ある老枢機卿の言葉である。ただ彼らは、とりあえず「この世」で生きていく以上つかえるものはみなつかおう、と思っていただけのことなのだが。
各国には《教国》が指定した枢機卿の座所である「主座教会」が必ずその首府に存在し、教義のため活動している。《共和国》とて例外ではなかった。そして時として教会は強力に、すばらしき来世の夢と、みじめな来世の恐怖の念、そして俗人には理解しがたい力を振りかざし、その国の現世の内政に、強力に干渉してくるのが常だった。が、《共和国》だけではちがった。この国はあろうことか宗教、神事、そして魔法をまとめてつかさどる『神務省』なる役所、をつくりあげ、“教え”が現世の国家と、それを生きる民のためになるよう、人の権力の管制下においたのである。その象徴のひとつが《共和国》の主座教会だった。それは、神務省の省舎の中にとりこまれていたのである。役所の中の教会! 《共和国》の人々はそれでも、《教国》の人間にとっては不可解なことだったが、その教会堂を、彼ら自身が満足のいくまでにすばらしくかざりたて、そして総主卿によって任じられ、《教国》から派遣されてくる主教は、ほかのどの国に派遣される主教よりも、歓待されるのだ。だからこの《共和国》主教を任じられた者はみな、悲嘆と密かな喜びとで、体が二つになる思いをするのが常であった。
しかし、そこまでだった。教会の正門は通りに面しないようにつくられていて、魂の救いをもとめる人々はおろか、《教国》からの主教までもが、教えのためにはまず《共和国》の国章である『理性の大天秤』が彫り込んである、役所の門をくぐらなければならなかった。そして、その役所兼教会といったまさに『罰当たりな』建物の屋上にある旗竿には、濃い青地に純白の大天秤を縫い取った《共和国》の国旗が、はためいていたのである。
この国のかのようなやりくちを、もちろん《教国》が快くおもうはずがなかった。しかし、舌をもってこの小さな国をやりこめようとすれば、彼らは逆に主のあたえた知恵をしぼって、二枚目三枚目の舌をふるい、大きな宗主国をもてあそぶかのようにやりこめた。なにせ相手は役所である。また武をもって正さんとしたところで、小さな針ネズミのようなこの国は、陸海軍の凡俗たちに火薬と鉄を無分別にあたえてはむかい、さらには罰当たりなことに神事、魔法をも効率的に軍事に応用すべく組織された、神務省の中の軍事、警察組織『神務省軍』なるものまでつくりあげ一致団結し、あらがうのだった。そしてそれらがあたかも、刺虫が巨獣をつつきまわして疲弊させたがごとき経過をたどると、常にいつしか机ごしになにかしらの協定ができあがってしまっていて、大概それは過去の協定のくり返しにすぎなかったのである。『天は神のもの、地は人のもの』この聖典の言葉をもっとも敬虔に実践したこの《共和国》のやりくちを、ある時代の《教国》総主卿はなげいた。「余は現世にあまねく神の預言者であり執行者たりうるもののはずだ、が、あの国だけではどうしようもない」と。
もっとも、歴史に登場したのは、なげく総主卿ばかりではなかった。開明を旗印に現れこの無粋な、油まみれの機械の領分が大分ふえてきた現代を、彼なりに理解し、それをもってして神の力をこの世でふるわんと半生をそそいだレノルト総主卿は、今この世から去るまぎわにさいしてもなお、世に騒乱の火の粉をまきちらすほどの、力にあふれた総主卿だった。が、世界、国家、軍、そして《教国》のそこ知れぬ奥で複雑にからまりあった汚泥のごとき古い力と、それによりそう諸々全てを相手にしたゲームの采配をふるった彼も今、突如、そのゲームの親をおろされることとなったのだ。
全ては「神のおぼしめし」によって。そして、皆はあわてるのである。
4
キュンナンとヴェルゼンは、かごから脂じみた木のさじを取って(キュンナンは常々、このさじをかごごと煮たら、結構なスープが出来るんじゃないかと思っていた)、熱いシチューが注がれた碗にそれをつっこむと、となりの山から大ぶりの黒パンをつかんで、おりよく空いていた長テーブルの角に座った。教会の食堂ゆえここでは高座に一人当番修道士が座り、食堂全体にむかって、食事時でさえ皆がここがいかなる建物の中にあるか忘れぬよう、教典を朗読している。
野営慣れした軍人は、手にした固い黒パンをバラバラにちぎって熱いシチューの中にほうりこみ充分ひたしてやわらかくしてから、それでもひとしきり神に感謝を捧げると、一口目のさじを運んだ。一方キュンナンには、この教会厨房の大鍋シチューに、すっぱい黒パンをほうりこむ軍人の味覚が謎だった。
しばらく二人は黙々と食を進めた。
ここのシチューは材料をそそぎたされながら、夜毎日毎百五十年間煮こみぬかれてきたので、身はほとんどとろけてしまっていて、見た目は貧相だった。が、その姿とは裏腹に、このシチューこそ教義に説くようにその真実の力で多くの者を幸せにし、多くの者の心に変わらぬ信頼をあたえつづけてきた。だから教会厨房の大鍋はこの総主座教会で二番目の崇拝の地位を勝ちとっていて、本来ここで一番尊いはずの総主卿の地位が時としてあやふやな事を考えると、この鍋の中身こそ、この建物での数少ない真の存在と言えた。
「今日も『縁取り』がやけに多いな」
食べながらそれでも周囲に目をくばっていた軍人は、普段よりも僧服に縁取りの入った高位の者が多いことに気づいた。また、その中には幾人かの『森の人』の姿もあった。
「レノルト卿があれだからな。ただ、集まって何事かをなす口実としては、近年これほどの物は、ちょっとなかったね」
この恐いもの知らずの軍人が一瞬小さく見えたように、キュンナンには思えた。きっと自分たちの忠誠の対象が消えてしまいかけている、と言うことは軍人にとってたまらないことなんだろうな、と、他人事ながらキュンナンはこの友を少し気の毒に思った。
「なにか聞いていないか?」
軍人は真剣なまなざしでキュンナンにたずねた。キュンナンは頭をふった。彼も多くの者と同様、レノルトが病の床にあること以外には、今はほとんどなにも知らなかった。
「こんどの総主卿選挙は大変だろうね」
キュンナンは黒パンの最後のひとかけでシチューの碗をきれいにさらいながら言った。そして大きくのびをして僧服のたもとから紙巻きタバコのつつみををとりだすと、共和国製の機械マッチで火をつけた。ゆっくりと食後の最初の一服を味わってから、彼は続けた。
「まあ『先駆者は常に混乱の元凶』と言うからね。それにレノルト総主卿は上手いこと各派閥の均衡をとってた分、譲歩もたくさんしていて自分の派閥も決して強くはない。それが君達『開明派』には心配の種だね」
ヴェルゼンは勝手にキュンナンの紙巻きを一本取ると、勝手にキュンナンの機械マッチで吸いつけてから言った。
「目の前の軍人を忘れるな」
「しかし、総主卿選挙の場にいるのは、軍人ではなく枢機卿だ」
軽くキュンナンは返したが、ヴェルゼンの視線は真剣だった。そして『目の前の』友の表情は、キュンナンをも真剣にさせるだけの物があった。
「待機させてるね」
「いや」
答えながら、ひさしぶりにヴェルゼンは余裕を感じた。
「ただ、今は訓練期の最後で、聖都鎖台歩兵は連隊単位で一時間動員の訓練をしている」
ということは、その件をもふくめて水面下工作は始まっているんだろうと、キュンナンは思った。軍人には気の毒だが、きっと彼らの熱意とためこまれた情熱は取引の材料にされ、彼らにかかわりのない何かの代償にされて終わるにちがいなかった。もちろん、キュンナンはこれを口にはしなかった。が、彼は別のことをヴェルゼンに言った。
「ならば、もしもの時は、僕の仕事場だけは君の部隊に『護って』もらいたい物だね。なんせ、ただでさえだらしがない僕が、毎日ヒイコラいいながらやっとこさっとこあそこは整理しているんだ。知らないやつに荒らされようものなら僕のできる範囲で今後君にあの、二十単位連装砲塔を四基装備した……」
「それは同時に十二単位副砲八門を舷側に装備している『大空魔艦』のことか?」
おや、と言う表情をキュンナンは浮かべた。ヴェルゼンはとくいげに煙をふいた。
「さすがにこればかりは牛が自分で餌を見つけたさ」
「あは。ではせっかくだから、もうちょっと餌を増やしてしんぜよう。補足すると多分その『大空魔艦』は重燃料専焼式ボイラーを装備し、その熱で発電し推進モーターを機動させる。これは電気推進方式、タルビン・エレキトリック方式と言うんだそうだ。出力は十一万七千五百出力。これは世界最大出力だそうだ。乗員は平時編成で千四百五十七人。ちなみにこの乗員は一日に鬼牛二頭たいらげるそうだが、新式のガス冷蔵庫を搭載しているので艦内で屠殺する必要はない。艦長はフォーンツ・デ・スタジュー・ル・アリエル・イル・ドードクベル共和国終身国会議員海軍大佐代将。ま、この人はあのいつも皆でワイワイやっている共和の人達の間からですら、どこからも文句は出ない、って人らしいね。それと『大空魔艦』と言うのは俗称で、正式にはあれは『共和国海軍一号航空戦艦〈共和制〉号』 同君連合海軍の戦艦〈勝利〉号より大きい、人間が手にした史上最大の存在だとか。史上最大なんだよ」
キュンナンの、煙混じりの知ったかぶったセリフで、ヴェルゼンの優位はくつがえってしまった。怒り、失望、妬み、の入り交じったヴェルゼンの表情を前にさすがにキュンナンは、この生真面目な友人が気の毒になった。もちろん、それは決してヴェルゼン自身のせいではなかったが、今自分が自慢げに披露した知識は、本来ならばやはり彼ら軍人が真先に知るべき事柄だった。が、時としてこのような不合理がこの古い国ではあまりにあたり前にまかり通った。
キュンナンは素直に種をあかすことにした。
「ヴェルゼン。毎朝この聖都には『巡礼線』で一本づつ《共和国》発の列車がつくが、これに連結してある郵便車が五種類五部づつ、つまり総計して二十五部だけあの国の新聞をのっけて来るんだ」
「……?」
「そしてその内の一組は僕の勤める、宣撫司対外部資料室の分なんだよ。そして僕は毎日それをつづって、皆が見やすいようにしているんだがね」
「……??……!?……!!」
最後の一瞬、軍人は察しがよかった。
「軍人。僕の知識はすべて彼らの新聞からもらったんだよ。《共和国》だったら銅貨一枚で、誰だって買える代物さ」
ヴェルゼンの表情の変化は、キュンナンに笑いを誘わずにはおかなかった。そのキュンナンの笑いは、ヴェルゼンにも伝播した。そしてひとしきり忍び笑いをかわした後で、とうとう軍人ははじけたように笑いはじめた。軍人の明るいバカ笑いに、キュンナンもつられて笑いだした。周囲はあきれ、その周囲から無視されながらも健気に教典を朗読していた当番修道士は、いら立たしげにせきばらいをくり返した。が、若い軍人と修道士の二人は気にも止めずに笑い続けた。
「ア・ハハ! おい! この破戒僧め!」
ヴェルゼンは両手を握りしめ、机をたたいた。碗とさじがはね、その音は二人をチラチラとうかがっていた全員をちぢみあがらせた。キュンナンは笑いすぎて涙のでた目をぬぐった布切れで眼鏡をふき、まだクスクスしながらいった。
「来いよ。兵隊なんか連れてこなくても、いつでも、好きな時に」
軍人が欲した『真』は、本当に『目の前に』あった。そして、この教典の説く所を身を持ってしめしたやせた修道士は、実は意外とこの食堂の高座修道士より、神の御心に沿っているのかもしれなかった。
第四章
1
《共和国》の中心『共和の都』は、山が、丘と、神がいくつか投げあたえてくれた島でもって有余をあたえてくれている、海ぞいの複雑な空間に、人の勢いをぶちまけたかのような、高い密度とあざやかな乱雑さでもって炸裂していた。
その都の奥の少しばかりしめって頑固に草木のしげっていた沼拓地を、機械の力で切り開いて造り上げられた首都軍管区飛行場に高くそびえ立つA係留塔からのながめは、本当なら朝の今時分、足元には『共和の都』を、沖合には《共和国》最大の大海軍基地『軍艦島』をはるかに見下ろす絶景のはずだった。が、今朝は春のまだ浅いこの時期の霧雨のせいで、全ての絶景と風光明媚は、白く重い霧のむこうに沈み切ってしまっている。
雨らしい雨こそふっていなかったが、この人間がつくり上げた世界最大の、暗緑色をした空飛ぶ軍艦がしっとりと濡れきっている様は、少し想像力のある人間にとっては、奇妙な光景だった。もし、この軍艦を洗う必要が生じて、皆で手分けして水をかけるとしたら、一体それはどんな大事になるだろうか。それをやすやすとやってのける自然は、やはり大きく偉大な物だった。
大空魔艦が艦首をつっこんでいるA係留塔の中、その艦首主ハッチで立哨任務についている竜騎兵のエルセ・ドードクベルが風景になんとなくひとり合点するのと同時に、脇の仮設電話が鳴った。
エルセは一瞬、隣の『森の人』の甲板士官の顔をうかがった。するとエルフは楽しそうな表情で、エルセにむかって、電話を取るようにうながした。
オーベロイはこの若い陸軍竜騎兵将校の卵が、海軍の電話にどう応対するのか見たかった。しかも、よりにもよってこの坊やは、艦長の息子ときている。やはり興味はつきなかった。
エルセはそんな『森の人』の視線を感じながら、一呼吸入れて受話器を取った。
「こちら艦首舷門」
『こちら艦橋。電話連絡』
「舷門、電話連絡を受けます」
『本文。天候不良のため、本日の公試は一時間繰り下げられる。よって舷門の閉鎖は三点
鐘〇九三〇。以上』
エルセは復唱した。すると、受話器のむこうの雰囲気が、急にやわらかくなった。
『お前陸さんだな』
「ハッ」
『おい、電話をにぎりしめてまで『気を付け』をしてなくてもいいんだぞ』
「えっ?」
エルセは受話器をにぎりしめた直立不動の姿勢のまま、とんちんかんな声を上げた。
「なんで分かるのでありますか?」
後から思い直すと、この質問は確かに笑われてもしかたがない代物だった。そして、事実艦橋の空気が爆発するのが聞こえて来た。
『よろしい。では任務にはげむように』
電話は切れた。エルセはまだ直立不動のまま、手の内の送話器を茫然とながめていた。そんな少年の様子を存分に楽しんだオーベロイに声をかけられて、彼は我にかえった。
「では、三年志願兵士官候補生。電話連絡の内容を、担当士官に伝達せよ」
「ハッ、舷門士官殿……」
「『覚えておいて欲しいが……』」
!……またこれだ
「『海軍では、どんな階級が上の者に対してでも、殿は付けないのが慣例だ』というのは、確か君のよく御存知の人の言葉ではなかったかな?」
『森の人』は愛嬌のつもりだったらしい。が、エルセにとってこの父親のせりふによる揶揄は、苦痛以外の何者でもなかった。しかし相手が海軍で、しかも『森の人』だとはいえ上官である以上、彼にはただ直立不動の姿勢をとるしか手立てがなく、改めて彼はこのような些細なことにまでおよんでいる父親の存在の大きさと、この海軍といった異組織に対しての戸惑いと、そしてなぜかくやしさも感じるのだった。
2
〇九三〇、三点鐘の鳴る中、舷門は撤去され、大空魔艦艦首主ハッチのシャッターが轟音とともに閉鎖された。
オーベロイは部下を解散させ、機材一式が所定の場所にしまいこまれているるのを確認し(イヤな事に海軍は、時として人の損失よりこの手の機材の損失に、普通以上の関心を寄せるのだ)艦橋に一報いれてから、報告書を書くべく自分の机のある場所へとむかった。 外からの姿とは対照的に、艦内は活気に満ちていた。のべつくまなくに何かつぶやいているスピーカーの、音。天井、隔壁を問わずうねっている無数の配管を、何かが通っていく、音。混じり合い、意味の成さない塊となってしまってはいるが、もとは明らかに目的をもった個人から発せられた個性を持っていたはずの、音。そして、どこの何かも分からぬ物から発せられた、音、音、音。これら全ての音が溶け合って、漠然と、しかし濃密に彼を包み込んだ。
もう幾度となく軍艦に出入りしていたオーベロイだったが、常にこの、軍艦が発する『鼓動』につつまれる度に、彼は不思議な感慨をいだいた。聖典の竜は、たった一人の聖者を飲みこみ、自分の食らった物でもってその聖者を養っていたと言うだけで、永らく歴史に残ることとなった。では竜の領分が大分減ったこの時代、千人以上もの人間を自分の腹の中に飼っているこの鋼のドラゴンは、いったい歴史にどう記されることになるのか……
「ドラゴンとは。森の人はロマンチストね、中尉殿」
声は上後ろから来た。階段を登りかけたオーベロイは振り返った。自分に気づかせずに心を読み取った、黒い軍服のこの艦の魔法使い、シリル、が、鋼の階段の上から、手すりに身をもたれかけさせて、こちらを見ていた。そんな彼女の周囲には、せわしない艦内であるにもかかわらず、どういう訳か妙におちついた雰囲気がただよっていて、その姿はなぜだか猫にとてもよく似ていた。
「立哨勤務ご苦労様。中尉」
従軍導法師は、上からオーベロイにむかって言った。
「それでこの後、休みもせずに報告書を仕上げ、それから公試に立ち会うんですって? 本職の兵隊さんにはなりたくないわね。人に命令されて徹夜なんかしようもんなら、私だったら死んじゃうわ」
「では、今生きているシリルは、今宵自分の意思で徹夜したようですね。それで、何か真実は見つかりましたか」
オーベロイのしきたり通りにの物言いに、シリルはほほえみで応えた。この黒くて白い女は昼と無く夜と無く艦内を徘徊し、上は艦長から下は二十歳にもならない水兵にいたるまで平等に声をかけ、また気のむくままに祝福をあたえたりして、一部の軍人の怒りを買ったりもしていた。そんなとき彼女はいつも『私は真実を追求しているのです』と、幅広く解釈の可能な返事をして、そのおこないは結局改まらなかった。その、『食料戸棚の中の猫』のごとく好き勝手していたシリルが、なぜわざわざ自分を待ちかまえていたのか、オーベロイにはなんとなく見当がついた。が、彼は彼女の方から言いだすのを待った。
「今日の公試は、公試前半最大の山場、全力運転試験でしょう? その前に艦に何かおこったら、新しい真実を楽しめないから」
魔法使いはそう言いながら、手すりの上でのびをし、あくびをした。
「でも、艦長が私の進言を受け入れ、艦首舷門深夜直の責任者をあなたにしてくれたので、こっちは助かったわ。やっぱり『森の人』と、あなたの右手の薬指にはまっている『指輪』の組みあわせはたいした物ね。艦尾飛行甲板の開口部なんか、滅封に魔除け百五十個も使ったのよ」
自分の右手の薬指の、霊感がこもっていると言われる森の木でできた『森の人の指輪』をながめながら、オーベロイは言い返した。
「あなたは私を、街道ぞいにある魔除けのお地蔵様がわりにしたんですね」
指輪にむかって彼の青い目が、すこし寄り目になったのを、めざとく目にした黒服の魔法使いは、はじけたように笑い出した。
「ドラゴンの次はお地蔵様とは。中尉。中尉のユーモアは都じこみじゃないけれど、あなたの口から出てるのを聞くと、とても楽しく感じるわ」
が、指輪を見たその時、その『お地蔵様』がわりにされたオーベロイは、なつかしい、この鋼の大空魔艦にはあるはずのない感触を、感じた。彼はゆっくりと、まるでひとりごとのように言った。
「シリル……『森』のにおいがする」
シリルの顔から、笑いがふきとんだ。ばかな。滅封は完璧だった。そんなはずが、あってはいけないのだ。
「なんですって?」
「いや、こっちだ」
歩きはじめたオーベロイの後を、シリルは追った。はっきりとしたあしどりで、喧騒のなか彼は次々に階段を登ると、最上層甲板にでた。すると、すぐむこうのA砲塔基部のハッチが騒々しく開いて、水兵がふたり、さけびながら転がりでてきた。
「サラマンダーだぁっ!」
3
シリルとオーベロイが水兵をおしのけ、A砲塔のハッチに手をかけて中をのぞいたその時、ちょうど、二の腕ほどの大きさをした極彩色のサラマンダーと、二人の目があった。そいつはチョロッと舌をだした口のすきまから、不気味な吐息とともにきなくさい煙をもらしだした。オーベロイはサラマンダーから目をはなさず、水兵にむかって言った。
「揚弾筒はしめたか?」
「いえ、まだ…… 今しがた、右砲の開閉機を整備しようとして砲尾をひらいたら、入りこんできたんです、突然」
「わかった。とりあえず君は艦橋に報告せよ」
消え入るような声で言う兵の言い分をききながらすばやく指示をあたえると、装薬、砲弾をつめこんだ弾薬庫につながっている揚弾筒の、黒々とひらいた穴を一瞥したオーベロイは、今きた階段をかけおりて行った。
しまった…… シリルは思った。主砲、そこまでは滅封しなかった。二十単位もの穴からなら、サラマンダーの一匹位簡単に……
その時、サラマンダーがじわり、と動いた。そのサラマンダーが顔をむけた先には、予備の二十単位砲弾がならんでいる。シリルは砲塔のうしろにズラッとならんだその予備砲弾をさししめして、静かな、まるで音だけでサラマンダーが爆発するかのような口調でもって、残ったもうひとりの水兵に聞いた。
「……ねえ、あれ、全部鉄のかたまり?」
「いえ、先の黄色い六発は、炸薬のつまった留弾です。信管は装着されていませんが」
さて、サラマンダーは木の首輪をしていた。呪文をほりこんだ『森』の、けだものを操る時につかう魔法の首輪。明らかにこいつは、誰かが大空魔艦に損害をあたえるために送りこんできたのだ。そのサラマンダーは口のすきまから、シウ、と煙をふきもらし、半分閉じた眠そうな目でもって、小馬鹿にするようにシリルの方をいったんむいてから、彼女には興味なぞない、といったそぶりで今度は予備砲弾よりもっと危険な、装薬を詰め込んだ揚弾筒へと通じる穴へと鼻先をむけ、のそり、と一歩歩いた。
畜生! オーベロイ……はやく……まった、それよりも自分になにかできることが…… ある。シリルはとめかける水兵をおしのけると、一歩前にでた。そして、ゆっくりと左手をサラマンダーにかざすと、静かに心のなかで『森』をおもった。
さあ……おいで……この鋼の箱の中よりも…こちらのほうが……あたしのほうが、あなたのいた世界に近いのよ……
もう一歩、のそりと爆薬の世界にむかって歩いてから、サラマンダーは、今度は『話を聞いてやるか』といったそぶりで、ハッキリとシリルの方をむいた。……そうそう……そのままよっといで……いいこだから……
その時、おり悪しくフォーンツ艦長と砲術長のリンデ・ガネージ海軍中佐、それに艦内では憲兵の役割もになっている竜騎兵隊長のアトレスが、舷門警備の報告をちょうどしていたエルセをしたがえて、そうぞうしく姿をあらわした。それら凡俗を代表して、砲術長が大声をだした。
「何事だ! いったい!?」
!おっさん邪魔だよ!
その一瞬シリルの気が散って、大声におびえたサラマンダーが、はねた。黒々と開いた揚弾筒の底知れぬ穴にむかって。おくれて事態を理解した全員の上を、戦慄がはしった。
が、その瞬間、ガシャン、と揚弾筒のふたがしまって、サラマンダーはペタン、とその上に落ちただけだった。息つく間もなく、こんどは、はっきりと事態を理解した艦長が、ささやくようにシリルにたずねた。
「どうなる?」
「揚弾筒はしまってますから、爆沈はしないでしょう。最悪でもA砲塔と自分たちの喪失だけですみますよ」
「簡単に言うな! 魔法使いが」
自分の砲の軽いいわれように、リンデが苦々しい口調で、ささやきながらどなる、といった器用なまねをした。が、シリルが言い返しかけたその時、今度は全員をうらめしそうにぬめまわしたサラマンダーが、手近な予備砲弾へとむかって、歩きはじめた。
「しずかに。本当にA砲塔がなくなりますよ」
シリルはふたたび手をかざした。が、サラマンダーは今度は先刻ほど彼女に執着せず、砲弾の方へとはいずりよって行く。
「あんなの、この銃剣でくしざしに……」
威勢よく銃をかまえささやいたアトレスだったが、砲弾に近づくにつれそいつががみるみる表面の極彩色を輝かせ熱くなり煙をあげはじめるのを目にしたとたん、そんな度胸は爆薬よりさきにどこかにいってしまっていた。
もうシリルには全部わかっていた。サラマンダーはいつも食べてるはずの硝石……『森』からほりだされる火薬の原料……に近づくと熱くなるが、あの首輪は必要以上に熱くなるように……やるなあ……で、あのままだと……
「予備砲弾が破裂するぞ」
……わかってるよ。うるさいんだよ砲術長。
その時だった。うるさい、とシリルが感じたリンデをおしのけ、静かに、しかしすばやくオーベロイがこの場にわりこんできて『森の人の指輪』がはまった右手を、シリルがかざしている左手にあわせて、目を閉じた。
オーベロイに導かれるように、自分からも『気』が一気に流れでるのを、シリルは感じた。そしてこんどこそ、サラマンダーも予備砲弾より彼らを気にかけて、つつつ、と寄ってきた。シリルはアトレスにむかってささやいた。
「隊長 合図したら、銃剣ですくいあげて、開いている右砲の砲尾にほうりこんで」
「わかった。いいな、小僧」
顔面蒼白のエルセは、のどをゴクリとさせてからうなずいた。もし失敗したら……
そんなこと、考える余裕なぞなかった。シリルが合図し、オーベロイが身をひるがえした瞬間、二本の銃剣がサラマンダーにむかってつきだされそれをはさみこむと、二十単位砲の砲尾にほうりのせた。
そして、なぜあんなことができたのか、少年にはいつまでもわからなかった。が、エルセは渾身の勇気をふるってもう一歩ふみだすと、ジタバタするサラマンダーを銃剣で砲身のおくまで押しやった。その銃剣で突かれたサラマンダーが、砲の中で、熱した鉄板の上に落とした水みたいな音をたてた。
「さがって!」
エルセが身をひいた次の瞬間、どなったシリルがなにかのレバーを一気にたおし砲の開閉器が勢いよく金属音をたて閉まった。その奥から鈍い、粘りのある爆裂音が。
全員の上を、安堵より先に放心がおおった。エルセはペタンと座りこんでしまった。
そして、それが、全てだった。大空魔艦は爆沈しなかった。A砲塔もそのまま残った。今あるのは、かわいた、生ぐささときなくささが混じったにおい、そして砲術長がかた膝ついて、頭をかかえうめいていた。ケロリとした顔をして、シリルがそれをみていた。
「……ぐ……魔女、貴様おれに何かしたな?」
「主砲開閉器の操作法がわからなかったので、ちょっと『おたずね』しただけです。火急の方法で。でも上手くいきましたので、ご安心を」
「……さて」
一番最初に状況を、放心から現実にひきもどしたのは、艦長だった。
「シリル中尉、君には言いたいことがいくつかある。まず君はこの状況を惹起することによって、私の命令の遂行に失敗した」
事実だ。シリルは神妙に返答した。
「はい、そうであります」
「しかも、艦は重大な事態に直面した」
「はい」
「軍法会議が開廷されるに、これは十分な理由となる」
「はい、艦長」
が、そこで艦長はゆっくりと言葉をくぎると、きつかった表情をゆるめて、この場の全員をみまわしてから、つづけた。
「しかし、事態は収拾でき、大事にはいたらなかった。この点についての全員の功績はみとめよう。砲術長、シリル中尉、オーベロイ中尉、それにアトレス大尉とエルセ三年志願兵士官候補生、みなよくやってくれた。ゆえにシリル中尉、この一件は報告対象とはするが、私のあずかりとする。君はいまから私の下す命令を遂行すること。一つ、砲術長に謝罪せよ。凡俗は『君のやり方』にはなれていない。一つ、君は君自身の手で、この砲尾と、サラマンダーの残骸を清掃すること。一つ、君は正式の書式で本一七三〇までに、この件における報告書を作成し、私に提出せよ。タイプライターの使用は認める。そして最後にシリル中尉、二度とこのような事はおこらないと、この場で私に宣誓し、そのてだてを今日中にこうじること。以上だ」
それを聞いたシリルはかかとをあわせると、しっかりとした口調で艦長に誓った。
「誓います、二度とこのような手だてにこの艦がなやまされる事はありません」
「わかった。信頼しよう。では、状況を終える。解散だ。諸君」
「……ところで、」
いま一瞬の口調とは、うってかわったあわれな物言いで、シリルは艦長にむかって口を開いた。
「……艦長、全力運転には、やはり参加できませんね」
シリルらしからぬ、そのあわれっぽいもの言いに、彼は厳と応じた。
「解散と同時に、君には遂行すべき義務が生じているはずだ。首席従軍導法師」
負けだ。
「すみませんでした、砲術長」
彼女は義務をはたし始めた。リンデは、充分な報いをうけた彼女に、もういいと手ぶりして、去った。そして、去りかけるアトレスはウインクをよこして、すっかり意気消沈しているシリルにむかって言った。
「気の毒だったな。そのかわり、うちの坊主を貸すよ。女一人に怪物の始末をさせたんじゃ、竜騎兵がすたらぁな」
「ありがとう、隊長」
最後に、オーベロイが彼女に声をかけてきた。
「シリル、『森』をにくむ?」
彼女は即答した。
「まさか。にくむのはその背後にある『たくらみ』 まったく、もう!」
静かに微笑むと敬礼してオーベロイは去った。エルセだけが残った。ぞうきんが必要だ。
「……でも」
あおむけになってこすりながら、エルセは言った。破裂したサラマンダーのかすは、かなりシッカリと砲の内側にこびりついていたので、二人は交代でそれをこそぎおとさなくてはならなかった。
「……どうしてすぐに爆発しなかったんでしょう、あのサラマンダー?」
会話の好きなシリルは、逆にエルセにといかけた。
「あなたはどう思うの? 銃剣であれ、あなたはあれにさわったじゃない」
少年は身をおこすと、シリルから新しいぞうきんをうけとりながら、言った。
「なんか……その……あんなに煙をふいてたとかげにしては、元気がなかったような気がしました。もっとジタバタするかと思った」
「なかなかいい線いってるわね。あたしの考えとちかいよ、エルセ君」
『君』よばわりされたエルセは、ちょっとムッとした。が、自分中心に話ができるようなときは、常に鈍感になるようにシリルの神経はできていたので、少年のそんな小さい怒りには、彼女はトンとかまけなかった。シリルはぞうきんをしぼった。そして続けた。
「エルセ(こんどはよびすてだ!)、ここはなんでできてる?」
「え? それは……鉄じゃないですか?」
「そう。そして木はまったくないね。そして、あのサラマンダーは『森』の首輪をしていた」
「ええ。なんか文字みたいな物が、ほりつけてありました」
「お、よくみてた。あの文字はそのけだものに、物事を命じるための物なの。昔はよく、暗殺とかにつかわれた手だてよ。でもそれをするためには、できるかぎり『森』に近くなくてはいけない。つまり、『森』の力がいるのよ」
エルセからうけとったぞうきんを手に、彼女はつづけた。
「この間、湾内で新型の潜水艦が沈没した話、しってる?」
突然潜水艦の話をはじめたシリルに、渡されたぞうきんを手にしたエルセは、一瞬唖然としつつも、とにかく返答はした。
「えっ? あ、はい、新聞にでましたよね。なんでもあまりにも事故の原因になりそうなものがないところでの沈没だとかで」
「そのあと、海軍はそれをサルベージしたの。沈没場所からひきあげたの。そしたら、どうなってたと思う、艦内?」
よくない話らしい。が、エルセはぞうきん片手に、シリルの方へと身をのりだした。
「あいてたのよ。全部。たな、ひきだし、はてはびんやかんのたぐいまで。そしてパイプというパイプには全部あながあけられていたわ。なぜだと思う」
なんとなくエルセはこわくなった。そしてなんとなくわかった。サラマンダーの気持ちもわかったような気がした。が、彼の心中おかまいなしに、シリルは結末をぶちまけた。
「それは、みんなが必死で酸素をさがしたあとだったのよ。わかる? それとここは、あのとかげにとってある種似ていたのよ。『森』の生き物にとってあまりにもちがいすぎる、この鉄の箱の中は。だからあのサラマンダー、あんなに元気がなかった。きっと彼もひどくくるしかったんだと思うわ。それはかわいそうなことだ、と、思ってはちょうだい、エルセ。彼がきた『森』や『魔法』をただにくんだり、きらったり、おそれたりはせずに」
でも、やはりろくでもない話を聞いた、と思った。エルセはまたあおむけになると、ふたたび砲をこすりはじめた。こすりながら、彼はまたシリルにたずねた。
「シリル中尉殿、でも、なんでそんなこと、ご存じなんですか」
シリルはわたされたぞうきんをジャブジャブやりながら、こたえた。
「そのサルベージした潜水艦にはいって、乗組員の霊がまよわないように、おはらいをしたのよ。私が。そうなの、エルセ。もしこの大空魔艦に死人がでたら、私がお祈りして、弔いをするのよ。それ、おぼえておいてね」
やだ、とエルセは思った。彼はまだ『死』がこわい若者だった。エルセは身をおこした。が、そこにはシリルの姿はなく、きれいにしぼられたぞうきんが二個、ポツンとおいてあっただけだった。
4
大空魔艦副長ベイエーヌ・シ・カストール海軍大佐は、艦長が帰ってきたのがわかった。そして大佐がふりむくと彼の予想どおり、フォーンツがその歳にしては非常にさっそうとした足取りで……ただし、艦長と同年輩の議員たちが、フォーンツのこの歩きっぷりを影でいろいろ言っているのを、ベイエーヌは知っていた……艦橋に入ってきていた。
フォーンツと目があったものの、ベイエーヌは口を開く前に一呼吸まった。その一呼吸は艦橋の全員が艦長に遅ればせながら気づき、注目するのに必要な時間だった。そして、必要な時間が経過してから、ベイエーヌは口を開いた。
「昨夜の移動時に消費した燃料の搭載も完了しています。艦長、全部門よしです。総員配置についています」
さあ艦長、これで問題は貴方だけなのですよ、と副長のベイエーヌは目で言っていた。
士官学校時代からのつき合いとは言え、フォーンツはこの寡黙上手な副長を、時としてうとましく感じることがあった。ベイエーヌの前で、彼の言葉の後で、命令を下し神としての責任をはたさなければならなくなるのは、いつだってフォーンツだった。ただフォーンツは、ベイエーヌの巧妙な間のおきかたでもって、自分が内心迷っている時でも、断固とした口調でふるまえるようになったことは充分認めていたし、そして彼が常にフォーンツをその全力で支えてきた事実には、全く疑いをさしいれる余地が無かった。どちらにせよ、艦長は命令を下すしかなかった。
「公試の実施にこれ以上の変更はない。先刻さだめた時刻に艦は係留塔を離れる」
神託は下った。全員の予定が定まり全員の時間が足りなかった。艦橋はまるで出来のいい精密機械のように勢い良く活動を始めた
この一瞬が、フォーンツは好きだった。動くべきものは全て動き、走るべき若者は全員が走っている。
「では、本当に問題はなかったのですね」
影のように寄ってきてささやいたベイエーヌのことばで、フォーンツは現実に引き戻された。フォーンツはベイエーヌにむき直っると、手短にいまA砲塔でおこった事を話した。
「……そして、結局、多分、彼女はうまくやってくれるのだろう」
「シリル神務省軍中尉ですか」
「『電気戦艦大空魔艦』も、結局は魔法使いの言質を当てにする、と言うわけだ。ただ、事件の起きたタイミングが悪かった。省や法務部のやつらをなだめるためにも、公試終了後に正式の会議をもつことになると思う。一七三〇にあれから報告書が提出されるから、それにあわせて会議が持てるよう、とりはからってくれ」
「分かりました。それとこれは陸軍からです。大したことは書いてありませんが、昨夜はやはり騒ぎだったようです」
ベイエーヌはフォーンツに陸軍の軍用電報用紙を渡した。封は切ってあった。その電報用紙を手の中で握りつぶすと、フォーンツは絞り出すような口調で言った。
「ベイエ…… そう、大事件、大惨事になりかけたんだぜ。それをあの魔法使いめ……」
「フォーンツ。誰よりもそれをわかっているのは、副長の、この私です」
艦長が顔をあげると、ベイエーヌはもういなくなっていた。やはり彼も、彼の下にいる時間の足りない部下の一人だった。
フォーンツは一人になった。艦橋は彼がいなくても、きっとこの分では機能しそうだ。誰かが窓を開けて、下にむかってメガホンで電話線の撤去を指示していた。クシャクシャになった手の中の電報用紙が、急に重くなったようにフォーンツは感じた。きっとベイエーヌの言ったように、大して意味のない電報だろう。でも、やはり読まなくてはならない。 活気に満ちた軍艦の艦橋で、今この瞬間、艦長は孤独だった。
5
昨夜首都は軍部の支配下にあった。
本来ならば大空魔艦の運転公試は、軍艦島を基地として実施されるはずだったが、その前半最大の山場、全力運転公試を十四時間後に控えた時点になって、突如気象台と神務省の占い師の双方が、首都軍管区全域の天候悪化を予言した。軍艦島の航空戦艦施設は、首都軍管区飛行場の係留塔とちがい、大空魔艦が発進するためには、安全水域まで低高度で海面を移動する、と言った面倒な儀式が必要で、軍艦島から発進する限り、全力運転公試は大幅に延期されざるをえなくなった。
しかし、航空戦艦〈共和制〉号の就役は、いま巨大な隣国で権力を一身にして死につつある男がいるおかげで、寸刻を争った。海軍省は急遽、全力公試基地を軍艦島から首都軍管区飛行場に移す決定を下した。
それから数時間は激しかった。期せずして航空戦艦施設と艦全部の即応性を問うことになったこの指令は、数千の人間を奔走させた。が、全員の奔走でもって、限度が限界になる間際に、大空魔艦はあわただしく出港ラッパを吹き鳴らし、施設を離れた。が、その時にはすでに霧の最初のひとなでが、あたりに忍びよってきていた。そして、汽笛と探照灯で、あらゆる船舶を追いはらいながら、大空魔艦がそろそろと離昇指定水域にたどりついた時には、もうあたり一帯はまるで豆スープのようなこい霧におおいつくされていた。
離昇指定水域から浮上して、直接そのまま首都軍管区飛行場に入るとなると、必然的に大空魔艦は、首都の真上を横切ることになった。大空魔艦は霧の中から身を起こし、眼下に首都を睥睨しつつまるで絶海の孤島の灯台のように霧の上に姿を見せている、首都軍管区飛行場A係留塔をめざした。
共和国の一般市民が、大空魔艦の姿を目の当たりにしたのは、この時が実質初めてだった。これは非常に印象的な光景だったらしく、当時首都にいあわせた多くの人間が、このことを書きしるしている。
『それは、霧のむこうにおぼろげな姿を見え隠れさせている、明らかにそこに存在するべきではない世界最大の質量と武装に威圧される恐怖感と、その中にいながら、なぜかどうしようもなく自分の中にわき起こってくる『誇り』とも同居させられる、と言った人類が味わったことの無い、異様な体験だった』
フォーンツの手の内の電報は、結局力で乗り切られた形となった昨夜の騒動を一枚にまとめただけの代物で、ベイエーヌの言ったように本当に得る物は何も無かった。が、この瞬間の孤独を慰めてくれるには、これはいい読み物だった。特に傑作だったのは神務省警察局員の助言によって、高級住宅地で『術』を使っていた一団を、取り物の末全員検挙した、とあった部分だった。
時として現実は、まるで安手の活劇みたいだった。あのさっきのA砲塔のできごとだってそうだ。ふとフォーンツは、本当に『術』を使うような連中が憲兵なんかにつかまったりする物なのかどうか、疑問をいだいた。軍人は後でこの件について、あの魔法使いに意見をこうべきかも知れない……
彼がそう思った瞬間、彼の回りで動いていた艦橋が、彼を中心に動きを収束させていた。すると、収束とほとんど同時に〇九三〇をつげる五点鐘の鐘が打たれ、思想家から大空魔艦の最高権力者に戻されたフォーンツは、艦長でしか味わえない、命令が遂行されたことに対する満足感を抱いていた。
フォーンツは顔を上げ、少し間を置いて、彼の大空魔艦の、彼の艦橋を一瞥すると、発進を下令した。この重苦しい霧の中だったにもかかわらず、出港ラッパは陽気になりわたった。連結器の外れる音がし、主推進機のプロペラが大鎌の如く半回転したその瞬間、大空魔艦は再び全ての束縛からときはなたれ、全力運転公試は始まった。
6
軍艦の運転公試は、数日かけて行われるのが常で、まず初日の最初は計画機関出力の十分の二で計測を開始する。そして出力を十分の四、十分の六と上げて行き、最後に十分の十、つまり『両舷前進全速』状態での運転を行う。そして各出力ごとに計測コースでのタイムをとり、これに気象条件、燃料消費による艦の重量変化等の修正を加えて、千分の一単位まで数字を出し、それが新造艦の速力として中央に報告され、公式に軍艦籍に記載される事となる。
ただ、この大空魔艦の場合は少し勝手が違った。この船にはあまりにも多くの『世界で初めて』があったので、文字通り世界中の軍事関係者がかたずをのんで、そしてねたみとあきらめのいりまじった感情でもってこの艦の全力運転公試を見守っていたのである。
実験室の段階では、もうさほど珍しくは無かった『石の原理』を、強引にそして常識外れのスケールで実用化した、ガス袋に頼らない鋼の空飛ぶ軍艦。しかも、それは陸軍一個砲兵連隊分の火力を有して、人間の持ちえたいかなる手段の中でも、最高の速度と精度でもって移動するのである。大概の『最高』はいずれ乗り越えられる里程標に過ぎないが、この大空魔艦の『最高』だけは当時の全てを完璧に乗り越え、次の世代にまで通用する真の『最高』と言うことが出来た。
その大空魔艦の外見上の特徴の一つに、異様な大きさの四本煙突の存在がある。もし大空魔艦の側面図等が手元にあるならば、その下半分を手で隠してみるといい。普通の水上艦に比べて、この艦の煙突がいかに大きいかがよく分かるだろう。そして、この林立する煙突こそ、次の世代にまで大空にこの船を君臨させるべく採用された、タービン・エレクトリック機関の象徴だった。
この機関方式はボイラーの生み出す熱のエネルギーでタービン発電機を回転させ、それが起こす電力で主機八基、補機四基合計十二基計十三万七千出力の推進モーターを駆動させる方式である(当時の新聞には、この正確な馬力数は公表されなかった)。当時の艦艇機関の本流だったレシプロ方式や、ギヤード・タービン方式に比べて、このタービン・エレクトリック方式は、動力効率の面ではおとっていた。が、減速歯車がいらない、推進機の配置設計に柔軟性がある、無段階の速度調整が出来るので三次元での複雑な操艦にむいている、等々の利点が欠点をおぎなってあまりあった。その上、大空魔艦には推進機の外に『石』を使った浮力機関にも膨大な電力を必要としたので、結局『合理と理性を尊ぶ』『共和の国』の技術者達が、この推進方式を採用したのは至極当然の結果だった。時として言われる『電気戦艦大空魔艦』といった物言いは、的をついた物だと言えるだろう。
そして、その『電気戦艦』的機関方式を実現するために計算を進めた結果、大空魔艦には普通の水上艦の倍の数のボイラーと、異様な数の通風孔と前例の無い大きさの煙突が必要とされる事が判明したのだった。そして判明した以上、結末は一つしか無く、そしてそれは、先に述べたのとは別の『煙突戦艦大空魔艦』のあだ名であり、当時世界最強をうたわれた同君連合海軍の技師連が放った『無様な』の一評だった。が、かえってその一言は、合理主義者の中の合理主義者を自認していた共和国の技術者達に、より大きな満足感をあたえたにすぎなかった。
その満足の結晶は、計器の中ではグングンと上昇していた。誰かが高度計の目盛りを淡々と読み上げていた。が、艦橋の外に広がる空間は、全くの白一色だった。
「まだ雲から出ません。予報より雲高が高いようです。艦長、千でなく千五百で水平にする事をおすすめします」
ベイエーヌがフォーンツに言った。フォーンツはうなずいて、ガラス張りの天井を見上げた。正面の景色と変わりは無かった。期待したほどの光景ではなかった。頭の上の空間も、正面同様、露のまたたきが混じった白一色だった。
艦橋から少し離れた、大空魔艦全ての水管を管理している運用指揮所では、担当の運用科士官が、全艦の水消費量を慎重に計算尺で割り出し、艦の適切なバランスを保つために無数のバルブの開け閉めを適宜指示すると言った、気の遠くなるような作業を指揮していた。その運用科士官が手にしている計算尺の目盛り一つの百分の一位の水をバケツにくんで、シリルはA砲塔へと戻りかけた。
運用長が管理している水管は、乗員の便については全く考えがたりなくて、バケツ一杯の水のため、シリルは階段を二つ降り、湾曲した長い廊下を細かく区切っているハッチを何枚もまたいで行かなくてはならなかった。しかしこの位は、自分がしでかした過ちの報いとしては、全く不十分だ、と、シリルは重いバケツを下げて歩きながら思った。
すると、いま歩いてきた廊下のむこうの、いま降りてきた階段の所に、エルセが小さく唐突に姿をあらわした。
彼はシリルの方にむき直り、重そうにバケツを下げて歩いてくる彼女の姿を認めた。そして若者らしい溌剌さと献身を一身に表現している仕種で、シリルの方へと走ってきた。
その瞬間、大空魔艦は雲から出た。
エルセのはるか背後の舷窓をつらぬいて、太陽が光の柱を打ち立てた。その光の柱は陰気な白い表情で廊下にならんでいた舷窓から次々に生え、電灯の明かりと暗い鋼でできていた空間を一気にはらいのけ、走ってくる若者をとらえ、彼のあざやかな金髪の上ではじけ、おいこし、シリルへと達した。そしてその光の柱が彼女に達するのと同時に、この廊下全体が香りそうなくらいあたたかな光で一杯になった。
この光景をたたきつけられたシリルは、バケツを下げたまま棒立ちになった。それは先刻の暗い気持ちや、今日全力運転に参加しそこなったくやしい気持ちまで一気にふきはらってくれた。その時エルセはもう目の前に来ていた。
「わざわざご自身で行かれなくても、言って下されば自分がくみに行きました」
この光の饗宴に無頓着だったエルセは、切らした息の下から彼女にむかって言った。
まだ軽く酔ったような感じにひたっていたシリルは、ぶっきらぼうともうけとられかねないしぐさで、エルセに水の入ったバケツを手わたした。息を切らして走ってきた少年に、彼女は何一つ言葉をかけなかった。そのかわり、彼女は廊下に満ちた陽光の中から、彼にむかってほほえんだ。
先刻のいやな話すら忘れさせるほど、陽光のしたのシリルのほほえみは、少年の瞳にまぶしくうつった。その視線はあまりに見事に彼をとららえたので、つかまった獲物があわてて視線をそらせるのに時間がかかった。そして若者は甘い毒に気づくのに、時として鈍感なのであった。大人たちが“恋”と呼ぶそれに。
第五章
1
係留塔に艦首を突っ込んでいる大空魔艦の艦首主ハッチから一歩歩み出て、前下部懸垂B主砲塔の下で大きくのびをすると、もう数歩歩いてからシリルはぐるりと天を仰いだ。鉄骨と不細工な艦首のむこうで、サーチライトの光にはさまれた星と月が青かった。その星と月と大空魔艦の下で、街が輝いていた。
『サラマンダー事件』の会議はシリルが考えていた以上に、深刻な物となった。海軍省の管轄ににあり海軍代将が頂点にはいたが海軍大佐の副長と陸軍大佐の陸軍第一士官といった、名目上は同格の次席が存在する複雑な場での侵入者についての会議は、はじまる前からその様が想像できた。巨大な官僚機構が押し込まれたせまい鉄張りの部屋では、シリルは『たかが魔法使い』に過ぎず、出席した面々に意見をもとめられる度に、彼女は蛇になめられる思いがした。何しろこの面々はいつでも自分を、『委員会』諸卿といった《共和国》にとぐろを巻いている怪物への言いわけ、いけにえにできるのだから。
風が吹いた。シリルの黒髪と、黒い軍服の上にまとわせた絹の黒ローブを舞わした、春の気配をいっぱいにふくんだ冬の最後の一吹きは、シリルの考えを軽くした。とにかく会議は終わってしまい、考えてももうはじまらない。残ったお偉い達はまだなにか仕事にとりくむ様子だったが……全く同情に値しないと思った。それよりも風は心地よく、景色もきれいだ。だから彼女はこの係留塔を階段でもって下までおりることにした。
鉄板にブーツの音をひびかせながら階段を一段一段おりて行くにつれ、月と星と大空魔艦そして街の輝きが、彼女を軸にしてぐるぐると動いた。二度三度脇のエレベーター軸の中を、エレベーターのケージとバラストがオイル臭い風をまいて登りおりした。そしてそれら諸々に気を散らせながら、のんきにカタコトと、シリルは歩き続けた。
大空魔艦士官食堂の食事は、給与強制天引きが痛かった分、味も量も従兵のサービスもその全ての面で申し分なかった。が、今日は会議が、その最悪のメンツのまま、ディナーへと突入してしまったのだ。だから艦長に声をかけられなかったら、一食分食費をむだにしても、シリルは外にでて食べたかった。が、上官のさそいを、下っぱの方が断るわけにいくはずがない。
ハンサムな息子そっくりな(逆か?)艦長は話がうまかったし、こちらの話にもよく耳をかたむけてくれた。話のしみわたる相手に語るのはゆかいだったが、それでも顔に深いシワを刻んだ艦長は、共に飲みたい相手ではなかったので、ブランデーグラスと灰皿がまわった時点で、無礼にならない程度にそそくさとシリルはひきあげた。だから腹はくちかったが、この疲れた一日のしめくくりに、強烈になにか飲みたかった。
めったに人のこない階段を、カンカンと音を立てておりて来たシリルの姿を認めると、純朴そうな若い歩哨は、敬礼ではなく、聖職者に対するやりかたであいさつをした。街ではめずらしい《教国》風の、と言うことは、共和の都ではいなか者のそれとされるあいさつに対して、シリルもきちんと返礼した。兵士がうれしそうな顔をした。
残業おエラいに同情する気はなかったが、シリルはふと、今の彼のしぐさが街で笑われたらかわいそうだな、と思った。
2
今、はじめて『プロペラ亭』の扉に手をかけようとした瞬間、シリルにはこの飲み屋の一部が、軍事施設たる首都軍管区飛行場から、そのフェンスをぶちぬいて軍法のおよばない外へと、はみだしているように見えた。この飲み屋がなにかいわくインネンがある物で、それゆえいろいろ話題を提供してくれているのは、シリルもいちおう知っていた。が、今日初めてここにきた彼女は軍法の人の軍人として『本当に?』と思い、いったん扉からはなれると、飲み屋の壁ぞいに少し歩いた。しかし、結局フェンスはハッキリと彼女の行く手をさえぎったのに、飲み屋の図体は彼女をさしおいて、外にむかってはりだしていた。
なんか釈然としなかったので、シリルは上を見たり下を見たり、右往左往してみたりした。が、やはりでていて、そしてでれないことに変わりはなかった。そうこうしている内に、でている所の窓からの明かりが彼女の目に写り、そこの人物がこちらに顔をむけた。コップを持ったままの姿でシリルと視線のあった人物は、あのエルフのオーベロイ中尉だった。彼は手を振った。森の人が酒場で酒を飲んでいるのを見るのは、初めてだった。
このような紆余曲折の結果、扉をくぐりぬたシリルをむかえたのは、一瞬の沈黙と、彼女の姿を認めた酔っぱらいどもの歓声、拍手だった。あいさつを返しながら数歩歩いた彼女に、聞きおぼえのある蛮声が飛んできた。
「よう!」
シリルは一瞬その声の主が誰だか分からなかった。が、奥の大テーブルに陣取って悪魔の宴会さながらの光景を展開しているのが竜騎兵の面々で、シリルはその奥にそりかえって大悪魔を演じているアトレスの姿を見つけることができた。机の上に足をなげだしてふんぞりかえっている竜騎兵の親分は、火のついたタバコをもった手をシリルにふると、煙の線を中空にえがきながら大音声で、シリルにむかって言った。
「自由と奔放にあふれた外界へようこそ。軍規に触れる相談も、そこならできらあな」
「?」
シリルがわからないでいると、アトレスはシリルの足元をタバコでさした。左右に視線を走らせ、後ろを見てからシリルも納得がいった。乾いたドロがついたブーツのかかとの所に、ところどころふまれてはげちょろけになっている、元は白らしかったペンキの線が引いてあり、その線にそって窓の外をみてみると、ちょうどそれがフェンスにそう形で引かれているのに合点がいった。いま、自分は軍事施設の、軍法の世界の外にいる……?
シリルは線のむこう側の窓に走りよると、窓枠に手をかけた。その窓ははめ殺しになっていてびくともしなかった。ついで彼女は線の内側にある別の窓に走り寄って、そこの席の海軍をおしのけて窓に手をかけた。今度はその窓はあっさりと開いて、首都軍管区飛行場の空気が一陣まいこんだ。シリルは肩を落とし窓をしめ、素早くため息をひとつついてからふりかえると、アトレスに言った。
「ちがうよ、隊長。ここは外じゃない、きっと軍の地べたの延長にすぎないのよ」
その声でアトレスの回りで酔いつぶれていた若輩どもがおきあがった。それはまるでシリルが呪文で死人をおこしているかのようで、特に艦長の息子にその呪文はきいたようだった。群衆が笑った。アトレスも、大きな歯を見せて破顔してみせた。シリルは、外から耳の影で見分けのついた、オーベロイのいるテーブルにむかった。彼は少し赤くなった顔で、おだやかさに甘味の混じった声で彼女に言った。
「こんばんわ、シリル中尉」
シリルは勝手にオーベロイのむかいに座ると、黒金の神務省軍帽をぬぎながら言った。
「『こんばんわ』じゃないわ。会議、最低だったのよ」
オーベロイは笑って答えた。
「すみません。『森』出身の私は最初からあの会議にはよばれていませんでしたから。でもあの艦の船霊はずいぶんと強いようですね。指南した人がよかったから?」
「船霊と指南だけじゃない。みんなががんばったからよ。だから、こうして酒も飲める、と」
「シリル中尉。会議押しつけたおわびに、今日はここ、もちますよ」
彼女は給仕をよんでから一瞬迷った後で結局いつも飲み屋で自分がする注文、つまり、一番大きいのより一つ小さいジョッキのビールを一杯たのんだ。大きなジョッキでビールをのみほしたいとは思ったが、このいかれた酒場での一番大きなジョッキなんて想像するだに恐ろしく、その上飲み屋での魔法使いのふるまいを鵜の目鷹の目でみている観衆の眼前で、それを前におたおたしている自分を想像することは、もっとおぞましかった。
運ばれてきたジョッキは、やはり町中の飲み屋では一番大きなサイズにあたるような代物だった。が、そいつはふちに小さな欠けがありはしたものの、シリルが好きなガラスではない塩焼陶器のジョッキだった。豆が少しついた。
しかし全員が注視する中、シリルはそれらをわきにのけると、テーブルに両ひじをついてエルフに顔をよせ、声を落としてたずねた。
「そろそろここらで、なぜ『森』の住人のあなたが、こんな海軍で、こんな飛行機の仕事をしているのか、教えてくれない?」
3
単刀直入にきりこんだシリルの問いかけに、オーベロイは手の中の酒をひとすすりして、それからゆっくりと口を開いた。
「引かれたのです。なぜなら飛行機には無限の可能性があるからです」
シリルはだまってエルフの瞳を見ていた。オーベロイはもっと説明が必要なのだと合点した。彼は話しつづけた。
「私のいた古い世界にも可能性はもちろんいろいろあるのですが、この所ずっと、そろそろそれのいきつく先が見えたような気がしてならなかったのです。当然、こんな考えをもつと、あの世界ではいい顔をされません。ですから、半分おいだされるみたいに私は町に出たんです。でも『森』に愛着があるのは自分がエルフであるゆえどうしようもなく、やはりなにか『森』のために働きたかった。でも人間の世界ではこれがなかなかうまく行かない。たいていは『森』を、つまり、そう、けずる、もしくは単に利用する、さもなくばそれこそ、あがめたてまつる、といった仕事しかないのです。でもそれらが本当に『森』のためになるかと言うと、自分にはどうしても疑問でした。結局残ったのは『森』を外から身を挺して護る仕事だった。すると軍隊。しかし古いものに疑念を感じて来たのですから『教国』の軍隊に入るのは抵抗がありました。で、線の『共和国』に来た。しかしどちらの側ではあっても、陸軍だと『森』を戦場にしかねません。となると消去法の結果、この共和の国の海軍しか、エルフの私にできる仕事はなかった」
「なんか私とまるっきり逆じゃない」
「かくして共和国海軍には、耳のとがった色白の『海軍野郎』が一人誕生したのです。ところが物好きでお気楽の『海軍野郎』の中でも、やはりエルフはめずらしい。異端です。するとやらされるのはやはり異端じみた仕事。で、結局自分の前に待っていてくれたのは、この機械じかけで空にわりこむ飛行機だけだった」
「それに、可能性を見つけた?」
そうシリルが言うと、オーベロイはうれしそうな顔をした。彼はのんびりと椅子に身をまかせ脚をのばし、杯を片手に話し続けた。
「飛行機は手をかければかけただけよくなります。魔法とかその類は時として、手をかけた結果がその限界にたどりついただけ、ということがあるのですが、この『知恵の産物』は違う。人の……この場合自分たちもふくんでの『人』ですが……知恵に限りは無いはずです。だから、飛行機の可能性も無限のはずだと自分は信じていますし、それにたずさわることに無限の誇りもいだいています」
「そこまでいれこむならば、『水平線が邪魔でして』なんて言うほど目のいいはずのエルフであるあなたは、なぜパイロットにならなかったのよ?」
オーベロイは笑いながら答えた。
「年齢制限にひっかかったんです。練習生の年齢制限は二十四才ですが、これではサバを読むにしてもやはりあまりに無茶でしたから」
それを聞いたシリルはプッとふきだした。
話のきりがよかった。シリルはジョッキを手にとる。一瞬麦の香りが鼻をつき、彼女は椅子に身をまかせると一息ついて、グッとジョッキをかたむけた。
うまい! 快感! 濁流となってのどに流れこむ泡の刺激は最高だった。全身でこの刺激を堪能したあと、艦に帰って熱いシャワーを浴びて寝る。とにかくこれで、楽しかったはずだったのがバカバカしさいっぱいになってしまった、全力運転公試の一日に終止符が打てる。そう思うと、ますますきもちよかった。シリルはどんどんジョッキの中身をのどに流しこんだ。
化け物の範疇に半歩足を突っこんでいるとは言え、一応美女ではあった彼女が大きなジョッキをかたむけていくにつれ、先から興味しんしんで視線をむけていた連中の上を、沈黙がおおっていった。が、そんなものにはとんと無頓着だった彼女は、目をつぶって全神経をジョッキに集中し、右足をトンと前に投げ出し顔を上げると、なおものどを鳴らし続けた。ビールがひとすじシリルの口許からあふれ、光った線をひきながらあごを伝い、白いのど元をはしって黒軍服のカラーの所で小さくたまると、つめえりの中にしみて消えた。シリルはその感触にゾクッときたのだが、ちょうどその時ジョッキが空になったので、いいかげん疲れていた彼女はこれ以上考えをとっちらかさずにすんだ。シリルはジョッキを、ドン、とテーブルの上に置いて、口とのど元をぬぐった。
おいしかった! 満足したシリルがふと笑みをもらすと、一部始終を見まもっていた回りの連中が、拍手した。
「ご立派!」
誰かがさけんだ。けど、立派なことなんて何もしてない。飲み屋でビールを一杯、のみたいようにのんだだけだ。みんな自分が笑ったのを合図にするかのように拍手してきたが、本当に単にビールがおいしかったから微笑しただけで、それ以上の物でもそれ以下の物でもないのに……
とにかくのみおわって欲望は満ちたので、シリルは、つ、と立ち上がって入口の方にむきなおった。
「おおーい……」
ああ、また……竜騎兵の糞親分め。
「いい人、がいるわけでもなかろうにお急ぎだな」
「フ、艦長がいるわ」
が、ふりむき、にくまれ口をきいたちょうどその時、スッとアルコールの魔手がシリルの脳をひとなでし、足が一瞬さからって、シリルはいま座っていた椅子に尻を落としてしまった。くそっ、アトレスめ……
酒場が爆笑した。オーベロイまで笑った。竜騎兵魔窟の列席者はことさらにシリルを笑い飛ばした。シリルはため息をつくと、のど元をせりあがってきたガスをふき出し、すわった目つきでアトレスをにらみつけた。
「ほら、ま、そんなあわてずさわがず、一服しておちついたらどうだい」
アトレスがなげてよこしたタバコの包みをとるのに全神経を集中しなければならなかったので、シリルはこの悪漢に反撃しそこなった。けど、これ以上なぶりものにされたくなかったし事実一服すいたくもなったので、シリルは観念して一本ふりだすと、口にくわえた。ひさびさに舌の先に散った、タバコの葉の刺激が心地よかった。オーベロイがマッチをすって火をさしだしてくれたので、少し酔ったシリルは、くわえタバコのまますいつけた。
その瞬間をみはからって、アトレスがぬかした。
「お代は芸ひとつな」
!
はめられた……
4
深刻な危機だった。酒場の連中はこの新しい状況の展開に大いにもりあがってしまい、これは一発なにかしでかさないとかえしてもらえそうになかった。歌くらいで納得するほどヤワな連中でもなさそうだったし、もちろん自分の本芸をこんな所で披露したりするわけにはいかない。
火のついたタバコをアトレスにたたきつけて席を立とうかとも思った、が、そんなことをしたらますます奴の術中にハマってしまうだけだったので、それはこらえると、シリルは目をつぶって手の中の紙巻きをひとふかしした。その姿はいかにも沈思黙考している魔法使いのそれに見えたが、実は単に隠し芸のだしものについて考えているだけなのだ。なさけない。
その時、今度はタバコの煙が脳のアルコールをかき消してくれて、シリルは立ち上がり椅子の上にとびのると周囲に向かってさけんだ。エルフがちょっとびっくりした顔をした。
「ハァイ! 今日は何でみんなここにきている?」
酔っぱらいどもの返事は多少ふぞろいだったが、ほぼ全員が、全力運転終了万歳、と応じた。シリルは再び椅子の上からさけんだ。
「ならば、このことをいわって、祝い酒の泡ワインを抜こうよ! お代は……」
そこまで言ってシリルは椅子の上でちょっとそりかえると、アトレスの方にむきなおって大仰に節をつけて言いはなった。
「竜を駆って天を駆け、かなう敵はくし刺しに、強い敵は報告し、われらが共和国全軍の先達勤める、誇り高き竜騎兵隊長もちだぁ!」
奥の席であわててアトレスが立ちあがって何事かさけんだが、もうその時は全員の熱狂でだれも彼のさけびなぞ聞いてなんかいなかった。おもしろい、怒ってら。が、シリルはおくせず、ニヤニヤしながらぬけぬけと続けた。シリルの発言の時には、酒場の連中は口をとざした。
「その泡ワインを使ってなら一つ芸ができるわ。でも買ってくれないのなら、泣いてゆるしをこいましょう。魔法使いの涙なら、タバコ一本ぶん位の値には、なると思うわ」
ここまでのふるまいも充分芸の内だな、とシリルが我にかえって気付いた瞬間、アトレスがまた、ほえた。
「勝手にしろ!」
そして一同をぬめまわしてから、彼はカウンターにむかって言った。
「その泡ワインを持ってこい!」
もういちど酒場がわき返った。
「魔女! それをさっきみたく一本飲みほす、なんてつまらん芸だったら、殴るからな」
あんなたなの上の、電灯のすぐ下におきざらしになっていた泡ワインが、まともな状態のはずはなかった。そんなまずそうな物を想像しただけで、いい加減腹がはっていたシリルはウッときた。ウッときた彼女は小さくせきばらいして椅子から飛びおりると、にこやかにアトレスにむかって言った。
「まさか」
そしてあわてて彼女はつけくわえた。
「ごめんね、隊長。半分出すわ」
アトレスが苦笑いで応じた。
「竜騎兵をコケにする気か? でも、まあその分は……」
彼は崇拝の対象に向かって目を輝かせている、エルセの背中をどやしつけて続けた。
「あんたと今日午後ご一緒したこいつが、ほれた弱みで出すってさ」
シリルは大きく破顔してみせた。エルセはこのとんでもない形でおこった告白に唖然としたが、一瞬わいた期待の念とは裏腹に、その彼女は隊長のセリフを、やはりざれ言以上には、うけとってくれていなかった。
5
シリルはあいていた小さな丸テーブルをかかえて真ん中まで持って来ると、バーテンにうすい足つきグラスを十個かしてくれるようにたのんだ。アトレスがやって来た泡ワインの鉛箔をむいて、器用に栓をとばすと、今日何度目かの拍手と歓声がわきおこった。
シリルはやってきた十個のグラスを、テーブルのふちにそって少しずつ間をあけて等間隔にならべた。そしてアトレスから泡をふいているワインのボトルをうけとると、一番左端のグラスに、まずそれをほぼ一杯そそいだ。はぜる泡ワインのつぶが、電灯の光の下でちらついた。
ついで彼女は慎重にそのとなりのグラスに、今度は最初のよりこころもち少なめにおどる液体をそそぎこんだ。そして、そのとなりのにはまた少しへらしてつぎ、シリルはそれをくりかえして、最後に一番右端のグラスには、最初のグラスの十分の一の量、底にほんのひとしずくの泡ワインをたらした。
彼女は泡ワインのボトルを床におくと、両手の指先を左端の一番多く泡ワインが入ったグラスにひたし、ならんだグラスのふちを回すように濡れた白い指でひとなでした。
酒場中がけげんな顔つきでシリルのしていることを見守っていた。この人数が入ったこの飲み屋が、こんな静かになったことはこれが初めてだった。その視線の中、シリルは熱心に何度も指を濡らしなおし、泡ワイングラスのふちをなで回しつづけた。
いいかげん聴衆があきてきたその時、シリルの指先から小さくふるえるような音色が流れでた。一瞬手をとめた彼女は、今度は確信にみちた手つきでもう一度、いくつかならんだグラスのふちを一なでした。すると、今度は各々のグラスから個々の音階にわかれた、ふるえる音色が流れでるのが聞き分けられた。
シリルはまた数度、確かめるように濡れた指でグラスをなでたが、もうグラスをなでるたびに彼女の指先からわき起こる、ふるえるガラスがたてる風のような不思議な音色は、この場の全員に聞こえるほどハッキリした物になっていた。それを確かめたシリルは、全員を見回したあとで、
「では」
と一声言ってから、曲を奏ではじめた。
曲はありきたりの民謡だった。しかもシリルは思い出しながらつっかえつっかえ指を回すので、時々調子がはやくなったりおそくなったりした。しかしシリルは真剣な表情で曲を奏でつづけ、彼女が黒ローブを舞わせながら指を回し回しする度に、微妙に重なりあった音色が、指先とグラスから流れ出ていった。
酒場は水をうったように静まり返り、そこを流れていくのは、シリルのたてるふるえる音色だけだった。
ついぞありえなかった野蛮人共の静聴を勝ち得たシリルは、最後の段で両手を重なるように流れるように回して音を奏で上げ曲をひきおわり、顔を上げた。一瞬沈黙がこの場を走ったが、それは居合わせた全員が自分の感情を表現する手段を見つけるのに必要だった時間で、全員がそれを見つけた次の瞬間、この『プロペラ亭』を、口笛も怒声も混じらない、純粋な、そして割れるような拍手がおおいつくした。
シリルは拍手の嵐の中、返礼した。そしていましがたまで魔法使いの楽器だった並んだ泡ワイングラスのまんなかの一つをつかみあげ、全員の見ている前でそれを一気にあおると(やはりまずかった)トンと机の上において、言った。
「もうおしまい。再演未定。以上!」
ますます拍手は鳴りひびいた。まったくひかえめではなかったシリルは、満足感にひたってこの賛辞を受けていた、その時竜騎兵の一人が走りでてきて、シリルが指をひたしていた左端の、泡ワインが一番たくさんはいったグラスをかかげ上げた。
それはエルセだった。
「半分出しました。これはいただきます」
そして彼はクッとそれをのみほした。すかさず、古参兵をさしおいてこの挙に出たエルセに竜騎兵の波がおおいかぶさり、その間からニブい音がいくつかした。そして酒場の全員が我先にシリルがなでていたグラスをひっつかむと、一瞬でその微妙な彼女の楽器は、軍服の海の中に散り散りになってしまった。
全員が立ち上がった。夜もふけていて、これはお開きのいい口実だったらしい。シリルは泡ワインでベタベタになった手で、つきだされる手に手に握手しかえしていたが、その内の何人かは彼女のその手をとってキスをし、またその中の何人かはハッキリと分かる舌の感触を、どさくさまぎれに彼女の手に残して行った。
最後に彼女の手をとったのは、オーベロイだった。
「……オーベロイ」
自分でもわからなかったが、一瞬シリルは後悔にかられ、彼の視線から目をそらした。が、オーベロイはアルコールの入っていない全ての女性が魅かれるようなほほえみを浮かべると、言った。
「なにを。私も楽しかったです。本物の『魔法』をみせてもらった。ビール代と泡ワイン代、約束どおり持ちますよ」
人の流れが入口へ押し寄せた。すると、いきなり彼女の股間にでっかい頭がわって入り、気づいた時にはもう彼女の足は床を離れ、シリルはアトレスの肩にまたがって目をパチクリしながらあたりを見回していた。
「ちょっと!?」
だがそのシリルの明るい抗議は、とてもききいれてもらえる状況ではなかった。一同はそのまま外にでると夜道を、明日につながっている、明日の軍務といった現実へとつづいている暗い道を、ありとあらゆる歌を、野暮は共和国国歌から、粋は今シリルが奏でた曲まで、まったく放辣に歌いちらしながら、大空魔艦係留塔へとたどっていった。
少し行ったら、博愛精神にあふれたアトレスは再びシリルを抱え上げると、今度はエルセの肩に放り乗せた。これは帰り道はブーツを土に乗せることは無いかな、と思ったシリルは、ふとベトベトの手で、アトレスより細身でちょっとたよりない肩をしていたエルセの顔をなでてみた。あらら、どうも少年の先刻のふるまいは、かなり痛くついたらしい。
艦までの道のりには限りがあったので、すこし行ったら次の誰かがシリルをかかえあげ、エルセの肩は軽くなった。ただ、彼女の足の感触はともかく、顔をなでてくれた手の感触、それだけは彼のみにあたえられた至福にちがいなかった。
誰も気づいてなかった。誇りにすら思えた。が、なぜか突然バツのわるくなったエルセは、大声をはりあげて、思い出したかのようにこの行列の合唱に飛びこんで行った。
第六章
1
「すごいな」
「ああ。春の来る前はいつだってこうさ」
キュンナンは製本屋への書類を書く手をやすめ、音もなく雪がふりしきる窓の外に目をやって言った。すると、キュンナンの机より大きな閲覧台の所にいた開明軍歩兵大尉は、あきれた声で言いかえしてきた。
「ちがう。こいつがだ」
そう言ってヴェルゼンは、手の甲で目の前の新聞をはたいた。
軍人にもやはりこの火の気のとぼしい総主座教会宣舞司対外資料室は寒かったらしく、ヴェルゼンは黒光りする革手袋をはめたままの手で、まだ製本されていないここ二~三ヶ月分の様々な国の様々な新聞をめくっていた。いつもと同様、キュンナンの軍人の友は新聞を読むのにも一途な質だった。
「本当にすばらしい。こんなすばらしい物がこんなところにあるなんて、どうして今まで教えてくれなかったんだ?」
このほめことばで、キュンナンの勤労意欲はどこかに行ってしまった。彼は書類をほうり出すと、顔を上げ軍人に答えた。
「誰にもかくしてない。だからことさら言う必要も感じなかった」
これは本当だった。総主座教会のこの小さな一室、宣舞司対外資料室の開架書庫は、聖典の一節『諸人知るべし』の文字通り、全てに対して何のわけへだてもなく開かれていて希望者には貸し出しすら許可されていた。が、キュンナンがここの司書になってこのかた、貸し出しは一件もなかった。なぜならこのやせた金縁眼鏡の部屋の主は、さんざん自分がやらかしてきたことを棚にあげて、他人に蔵書を貸し出したら最後、二度と返ってくるまいと、貸し出し用紙を机の引き出しにしまいこんでしまったからである。
その結果が今の、開明軍将校のほめことばだった。そして自分がほめられるといつもそのことを中心に、キュンナンは話をしたがった。
「でもさ、これと同様の資料は軍大学図書館にもあるはずじゃあ?」
「俺は軍大の受験が再来月だ。だからまだ見られない」
「でも、まさか将校の閲覧まで禁じてるわけではなかろう?」
「その『まさか』にちかいぜ」
ヴェルゼンは腕を組むと、閲覧台に広がる各国の新聞を前に、ためいきまじりに言った。
「これだけのことを軍大で調べようと思ったら、少なくともまず申請書類を入手するのに一週間はかかる。提出した書類の審査は、どうせ全部許可になるのにもかかわらずまた一週間。そしてあげくのはてには、順番まちでまたその位だ。見る気もうせるよ。でもこれは、防諜には一番の手かも知れないがね」
このような規則を作る連中が、世界最大の陸軍を動かしているのである。キュンナンは、その陸軍軍人の友にこうしか言えなかった。
「やれやれ」
その彼のふところ具合も『やれやれ』であった。
「お茶っ葉がないんだ。すまないが寺にふさわしく、白湯だよ」
ひどくお寒い言いわけをしながら、キュンナンは机から、一個はとってが無い、そしてもう一個はふちの欠けたったカップを取りだし、あわれなスチーマーの上のヤカンから湯を注いだ。
すると、ヴェルゼンが外套の内ポケットから平たい、大きなスキットルをとり出した。そしてふたを開けると、彼はそこから琥珀色をした液体を、カップの中にたらしこんだ。やわらかい湯気にのって、この寒く薄暗い部屋の中に、あたたかい香りがみちた。
「寺にはふさわしくなくなった、が、これで飲みものらしくはなった」
手袋をしていたヴェルゼンは、とってのないカップを手にした。そして香りと共に見事な破戒僧となっていたキュンナンも、満面に笑みを浮かべてカップを手にすると、金縁眼鏡を湯気にくもらせながら、友達の恵みで豊かになった液体を、まずひとすすりした。
2
「さて、」
軍人は慎重に、キュンナンが一口すするのを確かめてから、言った。
「では話してもらおうか」
キュンナンはひじをひざにつけ背中を丸め、両手の中に包みこんだカップの中身をもうひとすすりすると、眼鏡の縁から上目づかいに、ヴェルゼンを見た。そして、口を開いた。
「やはり選挙はこじれたようだ。総主卿はどうも今『生かされている』らしい」
「と、いうと?」
「『森の人』を一人、とうとう死なせた。これが何を意味するかわかるかい、軍人?」
「半分はわかっているつもりだが、しょせんおれは兵隊だからな」
神の御使いが降臨する。それは最も尊き方々である枢機卿の心身を仮の宿とされる。そしてそれら御使いの神託を通じて枢機卿が投じる一票が、昨日までただの人間だった誰かを『よりよきもの』とし、ひいてはその人物に、全世界数億におよぶ『教徒』の主の座、地上において全ての者の魂を服従させる権力を持つ『神の代弁者』の地位、つまり総主座教会総主卿への道、を指し示すこととなるのである。
このしきたりを神聖な物と見るか茶番と見るかは、現世の人の勝手だった。ただ一つはっきりしていることは、どのような結末でそれが終わるにせよ、結局それら諸々の影響を受けるのもやはり現世の人々である、という点である。
そしてその影響をまっさきに受けるこの世の人々は、皮肉にもその神の代弁者を選出する立場にあるはずの、枢機卿達だった。この巨大な北の国を動かす三十六人がもつ権力は、他のどの国家の為政者のそれより強力で、そして責任は総主卿に対してのみに存在する、と言った容赦のない物だった。が、その彼らの『尊き位』に裏付けを与えているのは、実にその『神の代弁者』の意向のみ、と言った、不安定で危うい物にすぎなかった。
だから、自分に対立する閥からは絶対に総主卿を出してはならなかった。また、自分より若い総主卿も、その任期が終身であることを考えると、避けねばならない(枢機卿の中には、レノルトを選出せざるを得なかったことをいまだに苦々しく思い起こすほど、齢をかさねた者も何人かいた)。そしてもし新しい総主卿を選べない内に、いま病の床にあるレノルト総主卿が亡くなるようなことになったら、『神の代弁者』の不在をつくり出した枢機卿団全員が失脚するのはまちがいなかった。そして権力者の後釜をねらう人間に、世は事欠かない。
枢機卿全員が、等しくこのことはわきまえていた。しかし、票は固まらなかった。対立する開明派、教義派の距離は一向に縮まらず、たとえどちらかに穏健派がついたところで、一致団結して狡猾に外国人枢機卿団が白票を投じつづけているこの状況下では、選出に必要な三分の二、しかも有効票ではなく、有権者数の! の票を集めるなど、たとえ本当に神がいたとしても、できる相談ではなかった。
しかも対立する二大派閥、開明派と教義派は、ともに行使しうる武力を有していた。今持っている物を失うことを恐れた誰かが、手持ちの兵を使うことは恐れなかったとしたら、まちうけるのは災厄だけだ。
だから、開明軍聖都鎖台は待機していた。しかしどこかで、あの底知れぬ遠い過去からの技を駆使する古い軍隊もまた、待機しているにちがいなかった。
3
「今、総主卿を死なすと枢機卿全員が失脚する。だから『森の人』を死なしてまでして、必死に彼の命をもたせている。でも、それも限界だろうね。知っての通り治癒の術は、自分の命を相手にわけ与えるものだが、寿命の長いエルフが死ぬような有り様なんだから、もう事実上死んでいるのと同じだね。彼は」
「森の人と魔法使いを牛耳っている教義派が、総主卿の寿命を左右できるわけだな。選挙もそうなるのか?」
軍人が不安そうに言った。だが、この緊迫した選挙の状況を、まるで他人事のように見ているキュンナンは、軽く言いはなった。
「いや、そうでもないさ。教義派が総主卿の命をにぎっていると言う事実、選挙工作の主導権をにぎっている状況は、諸刃の剣だ。まごまごしているとその事実が逆に、反教義派で票をまとめる動きにつながりかねないよ。ここで必要なのはすばやい動きだ。もしぼくが開明軍の指揮官だったら、」
キュンナンは言葉を区切り、冷えかけたカップの中身をすすった。そして金縁眼鏡を人指し指で押し上げ、その奥から楽しそうな表情で、軍人に言った。
「選挙会場に軍をいれ、すぐに選挙を銃剣の元で実施させる。もちろん、いい結果にまとまるまでは何度でもだ。逆らう奴はなぐってもいいね。そして同時にその場で教義派の枢機卿を全員逮捕して、適当な口実をでっちあげた後で、民衆になげあたえるな。民衆はあとかたもなく始末してくれるよ。そう、この場合は彼らも共犯者にすることが大切だ。後はおたがいやましいことのある者どうしの妥協。ん、存外簡単に行くと思うよ」
キュンナンは得意そうに、もう一度金縁眼鏡を押し上げながらしめくくった。
が、こんな修道士が妄想する程度のことを、人殺しを生業にしている軍人たちが、考えていないはずはなかった。彼らは考えてはいた。キュンナンが言った思いつきを、はるかに凌駕する計画がすでに存在していた。ただ、そのオチが傑作だった。その素晴らしい計画を正式に発動できる権力が、全て寺の奥、総主卿選挙の場に封じこめられてしまっていたのだった。ヴェルゼンのいる開明軍聖都鎖台は、その指揮中枢に最も近い場所にありながら、総主卿選挙がはじまって以来、地方以上の指揮系統断絶状態におかれてしまっていたのだった。
全員が何かを望んでいた。しかし、自分がその『何か』になるのはためらっていた。その彼らのためらいを利して、いまこの瞬間にも着々と、古い勢力派閥は巻き返しを策しているのかもしれない。そして、人にとって一番恐ろしいのは、自分が想像する敵だった。
4
合理主義者が過ちをおかすのは、自分の相手も自分と同様の考えに律せられて動いているといった、幻想にまどわされるからだ。
だから、ヴェルゼンには彼らが不気味だった。ヴェルゼンの所属する開明軍は、この国では比較の問題ではあったが、合理的な判断に基づいた行動をとる組織だった。が、今彼らが緊張している教義派は、いかに同国人とは言え全くの非合理、もしくは彼らの世界にのみ通じる合理、によってのみ動く人達なのだ。同じ相手にするなら《帝国》や『共和の人達』の方が、まだ気心がしれると思った。だからヴェルゼンは、自分たち軍人以外の誰かに、この状況を分析させてみたかった。
ヴェルゼンの、軍人以外での数すくない友人であるキュンナンは、この点よかった。彼はやせてるぶん、観察と情報の収拾、それと分析だけには長けていて、しかもいつも誰かにそれを話したくてウズウズしているのだ。そのウズウズしているキュンナンは、軍人がくれた酒のあたたかな酔いにまかせて、思っていることを話し続けた。
「でも、どうせ君達は動かないんだろう? もし動くなら歩兵将校の君が、この時期こんな所でのらくらしているはずはないからな。それとも……いや、もしかしたら『動けない』のかな、さては」
ヴェルゼンはキュンナンの、かまに、ただ笑みを返した。キュンナンも笑い、友としてそれ以上の追求はさしひかえた。
「そう、今回の選挙でたちの悪いのは、対立する教義派と開明派の双方が拮抗した兵力を有している点だ。軍人はバカだよ、みーんな。戦でもないのに、命令系統の異なった話のできない、自分と同じくらい強い味方を作り、そしてたがいに相手を見張りながら話を複雑にしてるんだから。しかも僕たちの税金でだ」
「俺はその税金からもらった俸給の銀貨で、だれかに賭け金を精算した。同じだれかにその金で買った酒をふるまった覚えもある」
キュンナンはあわてて続けた。
「でも確かに、本当に行動が必要なのは教義派だし、それができるのも彼らだろうね。もっとも、今風の戦争をしたら、まちがいなく君達に負けるけど」
「いまさらこびてもおそいぞ」
「まさか。単純な戦争になったら、結局勝つのは恥知らずな鉄の弾丸をぶっ放し、そしてその弾と同じくらいの数の人を肉挽きにつっこむ覚悟のある開明軍に決まってるからさ。その点教義派は人の生き死にに少し敏感すぎる。人が死ぬのがいやならば、君達同様に彼らにも、断固とした素早い行動が必要だ」
キュンナンは酒の入ったカップをおくと、書きかけだった製本依頼の書類をひっくりか
えしたその裏に、各項目ごとに一つ一つ文字をふり、話しながら箇条書きにして行った。
「そのすばやい行動は A瞬時に終わり、Б大部隊を動員せずにすみ、Вできたら結果が後々まで尾をひかず、Гさらに可能な限り『教義派的な』やり方によって実行され、Д万人にわかる結果を、実質的なものでなくてもいいから、あげなくてはならない」
その各々をゆがんでさびたペン先で指し示しながら、紙と活字、そして風聞の生み出す虚構から生みだした分析を、キュンナンは無頓着にヴェルゼンに話し続けた。
「Aは、総主卿の死が間近い以上当然の事だ。そしてБはAを満足させ、かつ現実問題を考えるとたぶん、そうならざるをえないだろう。В、これは僕はできれば外国が目標の方がいいと思うね。なぜなら同じ死んでもらうなら、近くの自国民より遠くの外人の方が、文句や抗議も小さく聞こえるだろうし、われらが教国なら供養の手立て、つまり『ごまかす』方法には事欠かない。Г、これは当然の事だが、教義派の得意とする魔法か、それに類する、つまり今風の鉄製兵器でない物を使った行動がいい。ま、みせしめ、とでも言った意味もこめてね。Д、それは空虚な成果で構わない。選挙の期間中だけ、衝撃と混乱をまきちらせられる程度の物でいいんだ。どう思う、この考えは?」
5
「では」
ヴェルゼンはキュンナンの言ったことをひとしきり反芻してから、再び彼にといかけた。
「では現実問題として、何に対し、どのような行動をとるべきだと思う? 古い連中は」
「簡単じゃないか。大空魔艦を撃沈するんだよ。『森』にでもさそいだして、ドラゴンか、それに類する物を放って」
いきなりキュンナンは、恐るべき結論をぶちまけた。
「このやりかたの良い所は、さっきも言ったけど大勢を動員せずにすみ、しかもある一点に対する行動ですむ点にある。そして君は大空魔艦のことを『軍事上の絶対的驚異』って言ってたけど、だからこそあの艦の撃滅は単なる一軍艦の撃沈にとどまらず、政治的、軍事的均衡を一気にわが方の有利へと『けり倒す』こととなるだろう。それを教義派にやられると、いま軍の主導権をにぎっている開明派のメンツはまるつぶれだ。そのうえ、」
なんかキュンナンは楽しそうだった。かれは陽気に破滅への道のりを分析しつづけた。
「《共和国》とわが《教国》との国境線にある『森』。軍艦を燃やすには十分人里はなれているし、それをする手だてのドラゴンの類に関しては、やはり我等人より『森の人』のほうが、多分になれているんじゃないかな? 彼らが開明派と教義派のどちらに近いかは、言う必要があるかい? そしてきっとこれをなしとげることによって、ゆくゆくは森の人達に一種の、そう『制限下の自由』みたいな物をあたえる、なんて密約でも教義派と彼らとの間にできてるとしたら、もっと話が現実的になる。森を突っ切っている国境線を、人間の血でもって《共和国》のむこう側まで押し出して、森全体をまとめてやる位の話はもうでているかもしれない。大空魔艦がなくなれば、これとてたやすいことだからね。しかも、今まで話したこの件で、死んだりひどい目を見るのは、これはことごとく外国人か、でなければ森の住民だ。どうだい。軍人」
ヴェルゼンはキュンナンの独演を聞いて、もう一口飲みたくなった、が、あいにくスキットルの中身はもう空だった。それをみたキュンナンは、自分のカップの中身を、ヴェルゼンのカップに移してやった。それをヴェルゼンは一気に飲みほし、ふたたびキュンナンに目をむけた。
「確かに……なにもかも解決する」
ヴェルゼンは言った。
「確かに。教えの派閥の夜明けは近い」
キュンナンは、この期におよんでなおまぜっ返した。その、あからさまに楽しそうだった彼の口調は、軍人の神経を逆なでした。
「笑ってる場合か! 今の時分、教義派の総主卿が誕生したりしたら、《教国》は……」
「すごいことになるだろうね」
ヴェルゼンの言葉をキュンナンはついだ。
「まず、とき放たれた古いものが今の文明を破壊しつくすことによって、もどり百年。そして、新しい諸々のおかげで暮らしの楽になった人民が、怒りとともにそれら全てを、死にものぐるいで取り戻すのにもう百年はかかる。あわせて二百年の暗黒時代の到来だ」
「う…… ほかに道はないのか? それとも神がそれを望んでいるのか……?」
真面目な軍人には悪かったが、ヴェルゼンは本当にからかう相手には手頃だった。キュンナンはヴェルゼンの深刻な表情をみて思わず頬が緩んだ。が、このやせた修道士が展開した、荒廃した未来の現実に直面しそれにたちむかわなくてはならない軍人は、気の毒なくらい衝撃をうけてしまっていた。
そして、軍人は過激に現実にもどった。ヴェルゼンは椅子をひっくりかえして立ち上がると、さけんだ。
「俺はすぐ帰営する! 俺の部隊だけでも、選挙会場に入れるぞ! そうすれば、必ず続くやつがでる。どちらが歴史に裁かれるか、おれ自身で確かめてやる!」
さすがにキュンナンは修道士として、人死はいさめる義務があった。その死ぬ人の中には、興奮した軍人と彼に率いられる兵士もふくまれていた。修道士は軍人にむかって、おだやかに言った。
「おちつけよ、ヴェルゼン。だいじょうぶさ。ほかにも道はある。それに神様もそんな未来を望んでやしないさ」
「気休めを」
「聞け! 聞くんだ。今ひとつの可能性を」
めずらしく語気をあらげ、それに気づいたキュンナンは、急に声の調子を落とすと、打ち明け話をする時のようなひそひそ声で続けた。
「友よ。教義派の連中が本当に狂っていて、本当にこのバクチをうてばいいのさ」
この坊主の話すことは、時折極端から現実を飛びこえて、もう一端の極端に着地するから、その間の現実に生きている軍人にはついていくのが苦労だった。そんなヴェルゼンにできたのは、またキュンナンを喜ばせるような、抜け作面をすることだけだった。
キュンナンはたちあがり、後ろ手を組んで歩きながら言った。
「そして、勝つのはきっと大空魔艦さ。なあ、そのことは第一、君たち軍人自身がこのあいだ証明したじゃないか」
「?」
「ほら、あの競争」
ヴェルゼンに分かる話題になった。なぜならいまキュンナンが言った『競争』にかかわった『若いの』を処分したのが、ほかならぬヴェルゼン自身だったからだ。
6
《教国》は確かに古い国だったが、それでも新しい物を追いもとめ敢然と困難に挑戦する若者にまで事欠いていたわけではなかった。
そのような『若いの』が聖都鎖台歩兵連隊にいた。いつの時代でも外敵にそなえる軍隊では新しい情報、新しい事実が追いもとめられ、それをだしぬくために新しい試みがなされてきたのは《教国》でも変わりなかった。そしてその類の外からの風聞にあてられ、発動機の魅力に引かれた若い軍人の何人かが、なけなしの俸給をだしあって、《帝国》製の
自動二輪車を一台買いこんだのだった。
彼らは全力をつくしてそのオートバイに愛を注いだ。そして何人もの兵士にかしずかれ、そしてまた彼らの愛にこたえながら、その機械じかけの彼女の魅力はいやますばかりだった。しかし、機械を忌み嫌う風習の強いこの国で、彼女を中心に結束した彼らは、やはり異端であった。彼らの周囲にはつねに逆風が渦巻いていた。そしてそれが具体的なかたちになって、この一派に襲いかかったのが、『競争事件』だった。
ことの始まりは、ありがちだが酒だった。ある酒場である騎兵が、エンジンに対する騎馬の優越を、少々声高に論説した。少々だけならよかったのだが、たまたまその酒場にいた『彼女の下僕』の数人が、あとさき考えずにその騎兵をなぐり、逆に袋だたきにされて聖都鎖台騎兵連隊に拉致されたのだった。
前からこの『自動二輪車賊』を苦々しく思っていた騎兵たちは、これを期に彼らを根絶しようと、『捕虜』の引き取りにきた一人にこう言った。捕虜の解放と引換えに、次の公休日にオートバイとと騎馬との競争を実施する、もし、ありえないことだが機械が勝ったら、俺たちは騎兵連隊旗を君達に渡そう。そのかわり、騎馬が勝ったら君達はそのばちあたりな機械をその場で騎兵に引き渡せ、と。
季節は雪を見ていた。どうみても騎馬に有利だった。もし彼女が騎兵の手に渡ったらどうなるか? それは彼女の死を意味した。きっと騎兵はためらうことなく、おおよろこびで彼女を都の石畳の上でひきずりまわし、どれかの橋の上から大河に放りこむことだろう。
騎兵たちはもう勝ったつもりで、『刑場』の選定にとりかかった。だが彼女とその一党も、当直懈怠、営内での暴走行為、服飾規定無視、果ては外国人との無届けの接触等々と、あらゆる軍規違反の記録を更新しながら敢然とこの挑戦をうけてたつ構えだった。
その日までに噂は聖都全体にひろまっていた。当日沿道をうめつくした群衆のほとんどは『罰当たりな機械』が川に放りこまれるのを楽しみにやってきていた。なんにせよ誰かの破滅はいつもおもしろい物だし、冬がこれから長いこと続く都では、誰もがそう言った楽しみに飢えていた。賭けの対象は勝ち負けではなく『どこで刑が執行されるか』だった。
いい馬はこの寒い国では《帝国》産か《共和国》産のどちらかとされていて、《教国》にいる馬の実に一割が『インピリアル』か、でなかったら『リパブリ』と命名されていた。そして今日、帝国製の機械じかけの馬にいどむのも、やはり多くのリパブリの内の一頭だった。一方のオートバイは、彼女の数すくない味方だった帝国人枢機卿がおくった新品の軍用タイヤをはき、《共和国》大使館の武官がおくった、宝石のように貴重な鉛剤でもって燃焼率を引き上げた燃料を腹に収め、この試練の場にのぞんでいた。
この競争は、《帝国》や《共和国》《同君連合》にまでなりひびくような激戦となった。予想どおり郊外の雪泥道では馬が快調にとばし、オートバイははたしてタイヤで走っているのか、ライダーに押されているのかよくわからない姿で、はうように進んでいた。が、雪のふみならされた街道にさしかかった時、彼女はみんなの愛に報いた。そして、新しい時代が到来する瞬間にたちあったことにようやく気づいた人々の叫びの中、彼女はまったく『矢のように』疾走し、最後の最後に教会前広場で騎兵をぬきさり、そのまま終着点の聖都騎兵司令部の営門をくぐった。美しい馬と騎兵でなく、醜い泥まみれの機械がつっこんでくるのをまのあたりにした騎兵総監がこの時しめした醜態は、後にながく小歌や詩になって皆のうさ晴らしに歌われるほど、この勝利は誰もにとって愉快極まる出来事だった。
騎兵から約束どおりまきあげた軍旗をうちふって『彼女と仲間たち』が聖都鎖台歩兵連隊にもどってきてそのまま営倉に放りこまれた翌日、ヴェルゼンもふくめた歩兵連隊の幹部連はこの複雑な事態の解決について紛糾したあげく、とりあえずまずはこの事件に連座した『若いの』を全員、一発づつ張り飛ばすことにした。ところがその後、『若いの』が抵触したもろもろの小さな軍規違反をさばく簡易軍法会議を開くか否かでもめてる席上「レノルト総主卿が大変おもしろがった(レノルトが倒れたのはおそらくこの直後である)」との“お言葉”が彼らの耳にはいる。また帝国人枢機卿からの山のような贈り物と《共和国》大使館から送られた大使の署名の入りの祝辞と共和金貨の盛られた大皿が、事態を厳しい形で決着させることをより難しくさせてしまった。そしてなによりも歩兵連隊の食堂につるされたやつら騎兵の旗は、なんといっても歩兵にとって気持ちがいいことには変わりなかった。ので、結局、懲罰は各将校個人の権限にゆだねられることとなった。
そこでヴェルゼンは、該当する彼の部下を呼びつけると、その彼が『彼女に会える日』を一日めしあげ、かわりにそのオートバイに乗ってみることにしたのだった。
一方、旗を喪失した聖都騎兵司令に対しては、正規の軍法会議が招集されることとなりかけた。もし本当にそれが招集されたら、判決は死刑以外にはありえない。しかしこれは帝国人枢機卿の仲介によって、旗の騎兵への『美しき名誉ある返還』といった形でうやむやにされ、軍法会議も結局、開廷されずに終わった。だから騎兵の『軍旗奪還歩兵兵營襲撃計画』も、まあ雲散霧消することとなった。
7
「根拠にする事実が、これではすこし身近すぎはしないか?」
「ヴェルゼン、小さな事実は時として大きな事実の前ぶれだよ。それより、どうだった」
「?」
「発動自転車だよ。乗ったんだろ? おもしろかったか? 僕にも乗れそうか? いくらぐらいで買えるか聞いたか? 時々《共和国》や《帝国》の新聞にも広告がのっているんで一度実物を見てみたいんだ。《同君連合》の人達もこれが大好きらしい。われらが《教国》では作れないものかな。そうだ。部品はどうするんだろう? 町中の鍛冶屋で作れるのかな? それとも馬車屋の仕事かな? なあどうだい、いっぺん僕にもそれを……」
修道服をヒラヒラさせ一人でしゃべり続けるキュンナンを制し、ヴェルゼンは言った。
「ちがう、自動二輪車。オートバイシクル、略してオートバイだ。でも、まあ、」
ヴェルゼンはここで言葉を区切るとちょっと考え、キュンナンに揚げ足を取られないように言葉を選んでから、彼は続けた。
「なかなかいいものだったぜ」
「馬、とくらべたら?」
「その手にはのらんさ」
「ふむ」
キュンナンは座り直すと、金縁眼鏡のブリッジを人指し指で押し上げながら、言った。
「まあいいさ。でも僕が好きなこの言葉、確か君も知っていたと思うが? 聖典の『疑いもちたる者は、目の前の真を信ぜよ』の段。そして今、疑いを持っている君は、目の前の真を信じることが、できそうかい?」
軍人は答えなかった。でも、信じることができればいい、と言った表情を浮かべた。露骨に。そしてやせっぽちで眼鏡をかけた彼の友人は、聖典を都合よく解釈するのが商売の修道士である。
「どちらが勝つか君も分かっているはずだ。『目の前の真』を見たまえ、ヴェルゼン。今は多分もう新しい時代なんだよ」
キュンナンはそう言葉を結ぶと、軍人に昼飯に行こうとさそった。
書庫の扉に『閉館中』の札をかけると、キュンナンとヴェルゼンは足早に食堂へむかった。早めにあの熱いシチューにありつきたかった。それと、昨今は食事を早く行って早くすませるが吉、というのが流行だった。迷惑なことに皆と一緒の食堂で、総主卿選挙の疲れをありありとさせた枢機卿たちも厨房シチューを定時にここで口にするのだったから。皆が平等のこの教会では。