令嬢と雑貨屋(1)
薄黄色のカーテンを透かして、朝の陽射しが白壁の室内をさらに明るく照らし出す。
姿見の前に立ちながらシャーロットはため息をついた。部屋の主が浮かない顔をしていると、さわやかな陽気も茶番めく。
聞きとめたメイドのエディスが、着付け途中の衣装から顔を上げた。
「どうかなさいましたか、シャーロット様?」
「え? ああ、いいえ。ちょっとぼんやりしていただけよ」
「そうですか。日頃の疲れが出たんでしょうかねえ。昨日も家庭教師の先生がいらしてましたし」
「そうかもね……」
令嬢の衣服を整えながら口を忙しなく動かすメイドとは、もう生まれた頃からの長い付き合いである。実の母親よりも近しいくらいの間柄で、シャーロットの感情の機微をよく悟る。
シャーロットは否定とも肯定ともつかぬ返事でごまかした。
疲れている、というのは正しい。しかし原因は勉強などではなく、近頃シャーロットが腐心しているまったく別のことによるものなのである。
(人の恋路に首を突っ込んでいるなんて知ったら、エディスといえどもひっくり返るわ)
あの後も数日の間、シャーロットはエミリとロバートのイベントに見張りの目を向け続けていた。
それというのも、前回エミリが正答選択肢に沿わなかったためである。たった一度のフラグクラッシュ、なれどのっけから転んでいては先行きは怪しい。今後もイベントを失敗する可能性が生じたのだ。
そして懸念は当たっていた。
ある時シャーロットは、ライバルイベントの一つとしてエミリの礼儀作法に難癖をつけに行った。本来シャーロットに言い返すべきエミリは馬鹿正直にはきはきと指導の礼を言い、シャーロットを面食らわせた。
またある時は二人のイベントの進展を確認するため、茂みに身を隠して盗み聞きに身をやつしたこともあった。ここでも選択肢を外したエミリに撤回させんとして草陰から飛び出し、二者からいぶかしげな視線を向けられる憂き目にあった。
シャーロットの体を張った介入のかいあってか、メインルートのシナリオ通りのイベントは進行し続けている。
し続けてはいるが、シャーロットにはいまいち手応えが感じられない。
無理矢理口を挟んでは軌道修正して、結果的には「外れではない」方のルート分岐を選ばせるようにはしているものの、それで本当に正しいことになっているかがわからないのだ。ゲームの中なら好感度やパラメーターがあっても、シャーロットには確認しようがない。
確たる手応えのないまま、イベントだけが起こる日々である。
シャーロットは何度目かのため息をついた。
エディスが気づかわしげに主人を見上げる。
「本当にお疲れのようですねえ。今日は一日お部屋で休まれますか?」
「……いいえ。ちょっと気疲れしていただけよ。大丈夫」
実際、精神的にくたびれていた。
シャーロットは本来あまり一人で悩む性質ではない。家庭教師が厳しいだとか雨が続いて退屈だとか、何か嫌なことや困りごとがあればエディスをはじめとした親しいメイドを愚痴につき合わせてストレス発散するのが常だ。
しかし今抱えている秘密の計画はおいそれと人に明かせるものではない。前世の記憶を基にエミリをロバートとくっつけて、想い人に近づけさせないようにする。立案の経緯から内容まで不審もいいところだ。父の耳に入ったら精神病院に放り込まれかねない。
部屋に籠ってあれこれ考えているのがいい加減辛くなる。
やがて声をかけられて、着付けの完了を知る。
来客の予定のない今日の衣装は装飾を抑えた日常着だ。胸元を覆い隠すクリーム色の生地。腰から下にすとんと落ちるシルエットの、長い深緑のスカート。格式よりも快適さを重視してはいるが、品位を欠かすこともなければ、町に降りても浮くことのない恰好だ。
姿見の前で一つ頷いて、シャーロットはエディスへと振り返った。
「気晴らしがてら散歩に出てくることにするわ」
気心の知れたメイドは笑って、お気をつけて行ってらっしゃいませ、と答えた。
シャーロットの住まい、フォーダム邸は町のやや外れにある白亜の洋館だ。
住宅地との間には芝生の敷かれた広い空き地が横たわっており、往来にはまっすぐ通った並木道を長々と歩いて行く必要がある。
近くの農道と行き来する人影も今はなく、シャーロットは一人ゆったりと並木道を行く。
本来であれば貴族の娘が供もつけずに歩くにはいささか心細い距離だ。
それでもシャーロットが一人でも平気で出歩ける理由の一つは、生まれ育った田舎町であり、庭の延長上のような感覚でいること。住民のほとんどが顔見知りといえるほどの小さな町で、身元の知れないものが入り込みづらい。このかた事件らしい事件も起こったことのない平和な土地である。だからシャーロットも不要に警戒することなく散歩できているし、メイドも令嬢が一人で出歩くことに目を瞑る。
かといってシャーロットは周りが甘いから気安く一人歩きしているわけではない。
もう一つの理由はやはり、多少の冒険を試みてでも会いたい相手がいるからだろう。
シャーロットは雑貨屋のドアを押し開けて店内をのぞき込んだ。今日もカウンターの内側に座っていたマシューが、その姿に気づいてほんのわずかに目を丸くする。
「シャーロットお嬢さん。また一人でここまで来たんですか」
「どうも。別にいいじゃない。メイドまで来たら息苦しいでしょ」
「そういう問題じゃないんですけど……わざわざこんな店で暇つぶしすることもないでしょうに」
話しながら戸を閉め、シャーロットはいつものように隅の小椅子に腰かけた。店に入り浸るようになってからというもの、すっかりシャーロットの指定席だ。
マシューはしばらく呆れたようにシャーロットを見ていたが、諦めたように立ち上がって棚の整頓を始めた。
その後ろ姿はいつもと何も変わらない。何も語らない。
シャーロットは唐突に問いたくなった。
「……お邪魔かしら?」
これまでもシャーロットは雑貨屋に来ると店番中のマシューにあれこれ話しかけていた。
いくら友人宅であっても、顔見知りしか訪れない田舎町の商店であっても、ここが雑貨店の店舗であることは確かだ。営業妨害と言われたって仕方ない。
返答を待つ身体はこわばる。
マシューは手を止め、無言のまま振り返った。
「別にそういうんじゃないですよ。もういつものことですし」
それだけ言ってマシューはくるりと背を向けると作業に戻ってしまった。
シャーロットはそう、と答えてそれ以上は何も言わなかった。喉の奥に温かいものを感じた。
マシューはシャーロットが買い物に来た時でなくても、こうして店に居座るのを許してくれる。突き放すでもなく、かといってへつらうでもない、その距離感が心地よかった。
こうして雑貨屋に入り浸るようになったのはもう六、七年は前のことだった。
それ以前からシャーロットとマシューは知り合い同士ではあった。だがその頃はあくまで芝地を隔てた道の向こうの雑貨屋の子として、時々使用人と出かけたとき顔を合わせれば挨拶を交わす程度の間柄だった。
関係に変化が生じたのは、ロバートが都の寄宿学校に入学してからだ。
同年代の友人であるロバートは、それまではシャーロットの良い遊び相手だった。しかし彼が町からいなくなると、とたんシャーロットは退屈を持て余すようになった。
何しろ一歩外に出れば地平線まで街道と畑が続くだけの町である。美点である景観の良さも長年暮らして見慣れればただの景色。特に面白いものではない。
加えて幼いころは今のように好き勝手に町を歩き回ることもままならなかったから知り合いもうんと少なかった。気安く付き合うのが許される同年代の相手なぞこのあたりにはロバートくらいしかいなかったのである。
使用人たちとてシャーロットにかまってばかりいるわけにはいかないし、貴族の勤めに忙しい家族とは顔を合わせない日さえ少なくない。
退屈しのぎを強請れば、メイドは弱った末に幼いシャーロットを散歩に連れ出した。そして、令嬢と顔見知りの少年がいる雑貨店に白羽の矢を立てた。
貴族の令嬢の相手にと差し出されたまだ幼い少年がどんな気持ちでシャーロットの話し相手をしていたのかはわからない。彼は至極面倒くさそうな態度をとりながらも、不平を漏らすことなくずっとシャーロットの言葉に耳を傾けていた。
それからだ。シャーロットが雑貨屋に自分の意思で足を運ぶようになったのは。
息が詰まりそうな倦怠の中に居場所をくれたのが、マシューだったのだ。
これからもこの場を訪れるのをやめようとは思わない。
今までと変わらずにいられるかどうかが、強いての懸念である。
(それこそ、恋仲になったり、とか)
シャーロットは熱をもつ頬を両手で押さえた。
こうして長い間親しく付き合ってはいるが、シャーロットとマシューはせいぜいが友人、はっきり言えばシャーロットが一方的に遊びに来ている間柄である。貴族同士であったならばまだ噂の一つも立とうものの、今の自分たちはあくまで貴族の娘と雑貨屋の息子というだけでしかない。
きっとマシューも意識してはいないだろう。
それを恋仲うんぬんなど、現実から離れすぎていて想像するのも難しかった。
「どうかしたんですか、お嬢さん」
「なんでも!!」
マシューは一人で百面相を繰り広げるシャーロットを訝しんで問う。シャーロットはぶんぶんと首を振って見せた。
贅沢は言わない。
今はただ彼のいるところにいられるだけで、気持ちがほぐれるというものだ。