本当は(2)
住宅地から都の中心に向かって黙々と足を進め、人通りのある繁華街まで来たころには、もうあの記者は見えなくなっていた。人ごみの中に入ってしまえば各段に見つけづらくなるし、仮に見つけたとしてもうかつにちょっかいはかけられないだろう。
似たようなレンガ造りの建物が所狭しと並ぶ大通りには、周囲をぐるりと歩道に囲まれた小さな広場がある。
マシューはシャーロットをベンチに座らせ、自身も間を開けて腰を下ろした。
そしてようやく手を握ったままであることに気づいたらしく、反射的に手を引っ込める。
「す、すみませ……どうしたんです、これ」
「え、ああ、これね」
そして一点に目を止めた。
マシューが凝視するのは左手の指先に巻かれた包帯だ。厨房にもほとんど入らないシャーロットは包丁を持ったのはこれが初めてで、料理を手伝う際誤って包丁で切ってしまったのだ。
「エミリの家に無理言って泊まってるから、手伝わないと」
「そんな無茶をして……」
「無茶ってなによ」
シャーロットは文句を言いつつ礼を言う。
「とにかく助けてくれてありがとう。ねえ、どうしてここにいるの?」
あの時マシューが来ていなかったら、あることないこと騒ぎ立てられて大変なことになっていた。
どうしてあの家にたどり着くことができたのだろう。
「ロバートに聞いたんです。いるとしたら彼女の家だろうって。そうしたらちょうどお嬢さんの名前が聞こえたから、裏に回ってみてよかった」
「ロバートが?」
「お父上に捜索を依頼されたそうで」
シャーロットはたちまち顔をしかめた。
そんなことだろうとは分かっていた。
「心配されてましたよ」
「私、帰るつもりはないわよ」
マシューは「お嬢さん」と苦い声で呼ぶ。その声がシャーロットのわがままを無理なことだと語っている。そんなこと、言われなくとも分かっている。
「なんで、あなたが迎えに来るのよ」
「それは、ロバートが」
ロバートは突然雑貨屋に押しかけるなり事情を説明し、マシューを強く説き伏せたという。
――シャーリーに言うことを聞かせられるのなんて、君くらいしかいないぞ!
「真に受けたわけじゃないですけど」
言い訳めいたマシューの言葉を聞くシャーロットの機嫌は直らない。
どうして、よりにもよってマシューなのだ。
最後に雑貨屋で別れた時、扉の中に消えて行ったマシューは、一度そこでシャーロットの手の届かぬ所へ遠ざかってしまった。だというのに、頼まれたからといって、こうも簡単に現れる。そこにシャーロットの気持ちが介しているわけではない。彼が気持ちを汲んでくれることはありえない。
淡々とした語調に我慢がならなくなって、シャーロットは顔を背けて言った。
「本気にしてないのなら、別に来ることないじゃない。その気がないのなら断ればよかったのよ」
「だけど」
「大体ね」
ひときわ大きな声を上げてマシューの言葉を制する。
「あの町を出ていくって言ったじゃない。町を離れて都に住むって言ったじゃない。なんでそんな人が、町に帰ろうだなんていうのよ」
すねた声が、だんだんと震えだす。
マシューは父の要求を受けて訪れただけ。分かっている。自ら探しに来たわけではない。
シャーロットのためではない。
それでも彼が来たことがうれしくて、それだけに悲しかった。
「お嬢さん」
マシューの声に遠慮がちな色が宿る。気遣われているのがわかり、ますます気持ちは強張る。そうしなければ張りつめていたものがすべて切れてしまいそうだった。
分かっていた。
衝動的に屋敷を飛び出したことも、躍起になって家事を覚えようとしたのも、マシューの存在がどこかにあったからだった。
もう離れていくという彼が、それでも心を占めていることを、シャーロットは思い知らされた。
すっかり涙で横顔を濡らしきったシャーロットに、マシューは声をかける。
「……すみませんでした」
「謝らないでよ」
「あの時突き放すようなこと言って」
「……なんであなたが謝るの」
むしろ周りを見ずにわがままを言ったシャーロットにこそ非はあるというのに。ただ、謝ろうにも意地が勝って、シャーロットはそこで口をつぐんでしまう。よけいみじめになるばかりだ。
「聞いてください」
マシューはいくぶんか声の調子を強める。
「そりゃ、虫がいいと思われるかもしれませんけど。だけど、お嬢さんが飛び出したって聞いたら、他人事みたいな顔でいられませんよ」
彼は言いづらそうにしながらも、嘘のない口調で言う。
シャーロットはいつかの月の綺麗な夜を思い出す。それに今までのことを。
いつでもシャーロットの手を取るのはマシューだった。
「頼まれたのは本当ですけど、来ると決めたのは俺です。……出て行く男の言うことなんて、説得力がないのは百も承知ですけど」
「そんなことない」
最後が小声になるマシューに、シャーロットは反射的に言い返した。
これまでの積み重ねがそう言っていた。シャーロットが気まぐれに訪問すれば迎え入れてくれたし、一人でいれば迎えに来てくれた。彼はシャーロットにとって心地の良い居場所だった。
だけど彼はシャーロットの前から去って行こうとしている。
今言わなければ伝えられないと、強く思った。焦がれた相手が目の前にいる、今。彼が去ることを惜しむのならば。
貴族として生まれ育ったあの土地を離れた今、初めて気持ちが素直な言葉になった。
「マシュー、私あなたのことが好き」
濡れた頬を拭って、シャーロットは想いを口にした。
「昔からずっと。ねえ、今さら離れないでよ。遠くになんか行かないでよ」
うるんで格好のつかない声で、まっすぐにマシューを見つめて、心からの気持ちを訴える。
返事はなかった。しばらく行き交う人々の声が混ざっては広場を取り巻く高層建築の壁に当たって響くばかりだった。
マシューの表情は今までに見たことのないものだった。これ以上ないくらいに両眼を見開き、口元は呆けたように緩んでいる。
彼がいつもの落ち着き払った様子を取り戻すまでに、たっぷり十数秒を要した。
彼はベンチから立ち上がり、シャーロットに向き直る。
「お嬢さん……お屋敷に行きましょう、とりあえず。お父上もそろそろお着きのはずですから」
彼の言う屋敷とはこの都にあるフォーダム家別邸のことだ。
肝心の返答をスルーされたことにショックを受けながら、シャーロットは抗弁する。
「……帰るつもりはないって言ったじゃない」
「いいですから、大丈夫ですからとにかく行きましょう。話があるそうです」
マシューは珍しく強い口調で言う。
「それに今彼女の家に戻るわけにはいかないでしょう。お屋敷から連絡してもらったほうがいいと思いませんか」
エミリの家の裏手には記者がうろついていた。かといっていつまでも戻らなければ心配させる。マシューが正しかった。
シャーロットはふてくされたまましぶしぶと彼に従う。
マシューは人ごみの中を行くため、ためらいがちに片手を差し出した。紳士的なしぐさにあたふたとしつつ、気取られぬよう取りすましてその手を取った。




